番外編《小話》たまにはこんなひと時も
第6章 第12話 不確かな思い、冒頭場面のマテアス視点です。
マテアスが紅茶の準備をし始める。これが休憩に入るサインであるのは暗黙の了解だ。
フライング気味に書類を放り出した主を横目に、マテアスは手際よくティーポットを温めた。
ジークヴァルトが立ち上がるのと同時に、リーゼロッテとドレス選びをしていたエラがさっと部屋の隅に移動する。
ジークヴァルトがせっせと蜂蜜色の髪を梳き始め、されるがままのリーゼロッテも恥ずかしげに顔を綻ばせた。
「わたくしが早く決めないと、ヴァルト様のお衣装も困りますわよね」
「オレの準備など高が知れている。ゆっくり考えて好きな方を選ぶといい」
エラはふたりの会話を微笑ましそうに見守っている。
日々繰り広げられる甘いやり取りに、エラは至上の喜びを感じているようだ。
「ヴァルト様はどちらがいいとお思いになられますか?」
リーゼロッテが期待のこもった視線を向ける。
並ぶドレスというよりも、主はリーゼロッテの仕草を注視していた。
「オレが選ぶならこちらだな」
「どうしてこちらをお選びに?」
「これを眺めているときの方が、お前がうれしげに見えたからだ」
言いながら、ジークヴァルトは小さな唇に菓子をひとつ放り込んだ。
その一声のお陰で、選びかねていた夜会のドレスも無事に決定したらしい。
(随分と気の利いた受け答えができるようになったものですねぇ)
過去の朴念仁加減が頭を過ぎる。
苦節十年、散々かけられてきた苦労を思うと、嘘泣きのひとつもしたい気分のマテアスだ。
そんなふたりをエラは慈愛の瞳で見つめていた。
リーゼロッテへの奉仕ぶりは、マテアスの子を身に宿した今も全く変わることはない。
(そんなところがまったくエラらしいですが)
エラ用のハーブティーを用意しながら、マテアスは口元だけの笑みを浮かべた。
懐妊が分かってから睡眠時間を削りに削り、マテアスは妊婦に対して良いもの悪いものの知識を大幅にアップデートした。
ハーブティーひとつとっても妊婦に向かないものもある。これまでも一般的な常識は持ち合わせていたが、愛する妻のこととあっては自ずと真剣度レベルマックスにならざるを得ない。
準備ができたと目くばせで伝える。
それだけで通じてしまうエラは、マテアスの人生にとって得難く掛け替えのない宝物だ。
だいぶ目立ってきたお腹のエラの手を引いて、部屋の隅に置かれた小ぶりなティーテーブルまで誘った。
これはジークヴァルトの許可を取り、エラ用に特別に設えたものだ。
侍女たるもの立って主を見守るのが筋と、エラは初め難色を示した。
しかしお腹の子を守るのも母の務めとリーゼロッテに諫められ、それ以来ここで休憩するのがエラの習慣となっている。
貴婦人に対するように恭しく椅子を引く。
声を殺してくすくすと笑いながら、エラは令嬢の時代に培った美しい所作で優雅に腰かけた。
ハーブティーとともにナッツ入りのパウンドケーキをサーブする。これもエラ用に作らせた滋養たっぷりのスペシャルケーキだ。
エラは上品にフォークを口に運んだ。途端に瞳を輝かせ、満足そうな笑みを向けてくる。
つられたマテアスまでも気がついたらもうニコニコ顔だ。
ふいにリーゼロッテの楽しげな声がした。
見やるとジークヴァルトとともに大きな布に包まっている。あのブランケットはリーゼロッテのお手製で、ジークヴァルトの誕生日に贈られたものだ。
あれをジークヴァルトはそれはそれは大事に扱っており、マテアスにすら触らせない。
(先日などは激務の合間に匂いをかぎまくっていましたしねぇ……)
まるでリーゼロッテを補充しているかのようだった。それも無意識にやっているから始末に悪い。
さすがのマテアスも、そんな主の奇行をリーゼロッテには伝えられないでいた。世の中には知らない方が幸せなこともあるものだ。
ブランケットに隠れてふたりはこそこそ何かを言い合っている。
バレていないとでも思っているのだろうが、いちゃついているのが丸わかりだ。
あんな光景をこれまでは遠い目をしてやり過ごしてきた。
だが今はエラがいる。ダメージを負う理由は皆無。もはやマテアスに一切の死角なしだ。
最愛の妻に視線を戻すと、そのエラもリーゼロッテたちをじっと見つめていた。
しばらく黙って見下ろしていたが、いくら待てどもエラはいたずらに食べる手を止めたままでいる。
我がことのように幸せな表情をして、布越しにもぞもぞ動くふたりの動向を見守り続ける。このままでは折角のハーブティーが冷め切ってしまいそうだ。
何よりエラの意識がマテアスのもてなしから逸れてしまい、それが少しばかり面白くなく感じられた。
時計を見ると休憩時間も残り僅か。
そんなときふとマテアスにいたずら心が湧いてきた。
無防備な肩を指でとんとん叩く。
はっとしたエラがこちらを向いたところで、マテアスは素早く唇を奪い取った。
エラがぽかんとマテアスを見上げている。
してやったりと笑みを刷き、ついでにウィンクも飛ばしてみせた。この糸目でそれが伝わったかどうか少々怪しいところだが。
仕事とプライベートをきちんと分けることは、初めに決めたふたりの絶対ルールだ。だがたまにはこんな時間も許されたっていいだろう。
抗議の声を上げかけたエラに向け、マテアスはしっと人差し指を口元にあてた。遅れて頬を染めたエラが、不服そうに唇を尖らせる。
それがなんとも可愛らしく目に映るも、何食わぬ顔でマテアスは続きのケーキを促した。
仕方がないといったような笑顔になって、エラは再びフォークに手を伸ばす。
最後の一口のカップが皿に戻されたとき、ちょうど時計の針は休憩時間の終わりを告げた。
次回も番外編、エルヴィンとクラーラの婚約馴れ初めです!




