第34話 永遠の楔
【前回のあらすじ】
体を乗っ取られてしまったリーゼロッテは、紅の女が禁忌の異形となった経緯を垣間見ます。その記憶の中で女の愛が憎しみに変わる瞬間を目の当たりにして。
追憶の続きのように、かつて愛したツェーザルに怨嗟の念を向ける紅の女。その思いに同調したまま、リーゼロッテはツェーザルに切りかかります。
そこをジークヴァルトの手で助け出されるリーゼロッテ。体から出て行った紅の女は、今度はツェーザルに取り憑いて。
一方ベッティは、ルチアとともに別の異形に操られた男たちに襲われます。先にルチアを逃がすもベッティは窮地に陥って。
カイに助けられたベッティは、早くルチアの元へ行くように伝えます。ルチアが異形に狙われていることを知ったカイは、運命の時が来たと予感して。
そんな中、紅の女に取り憑かれたツェーザルに襲われるルチア。執拗にルチアを取り込もうとして来る異形に、ルチアの小鬼も飲み込まれて。
怒りに震えるルチアの元に駆け付けたカイは、襲い来る異形の者から負傷しつつもルチアを無事に守り切ります。
ルチアが異形の者に殺されるという託宣を破ったカイは、星に堕ちることを喜びとともに受け入れて。ルチアに対する思いを胸に、龍から烙印を刻まれます。
目の前で消えたカイを探して、ルチアはただ泣き叫ぶのでした。
貴族院の会議が夕刻までもつれ込み、不毛なやりとりはまだまだ続きそうだ。
ひじ掛けに頬杖を突いて、例のごとくハインリヒはしかめ面で瞼を閉じていた。
頭に響く王たちのおしゃべりをBGMに思考が巡る。
自問自答するくらいしか暇をつぶす手立てがない。王たちの突っ込みに動じない程度には、このいかれた状況にも慣れてしまった。
(ヴァルトたちは辺境の地か……)
今頃はのんびり過ごしているに違いない。
ツェーザルの脱獄で隣国介入が疑われている現状だ。これから起こり得る有事を思うと、今のうちにゆっくりさせてやるのも悪くはないだろう。
だが本音は羨ましいの一言に尽きた。王の立場でなければ、自分もアンネマリーと双子たちと長い休暇を満喫してみたいものだ。
そんなことを考えながら、ハインリヒは頬杖の腕を無意識のまま入れ替えた。
――時が来た
そのとき王のひとりが重々しく言った。
退屈な会議が終わったのかと瞼を開く。しかし視線を向けた先では、未だ茶番劇が繰り広げられていた。
――とうとう来たか
別の誰かが言ったのを皮切りに、他の王たちも口々にしゃべりだす。
――いよいよその時が来た
――盟友に黙祷を
――黙祷を
――黙祷を……
ふいに映像が視えてくる。
石造りの武骨な城塞。床に倒れる灰色の髪の騎士。天から射す龍の烙印。
脳内で展開されるホログラムに、ハインリヒは弾かれるように立ち上がった。
「ここで閉会とする。宰相、あとは任せた」
貴族たちの注目を浴びるも、構わず評議場を出る。普段なら執務室に向かうところを、ハインリヒは王妃の離宮を迷わず目指した。
早すぎる王の戻りに慌てふためく女官の脇をすり抜け、子供部屋の扉を開く。ベビーベッドを見守っていたアンネマリーが、こちらに気づき笑顔で立ち上がった。
「今日は早かったのね。双子ならちょうど今……」
性急に細い腰を引き寄せ、腕に強くかき抱く。
やわらかな髪に顔をうずめ、ハインリヒはその耳に口元を寄せた。
「カイが、星に堕ちた」
絞り出すような低い声に、アンネマリーが息を飲む。
嗚咽を堪えようにも、どうしようもなく吐息が震えてしまった。呆然としたままアンネマリーが、そんなハインリヒの背中を言葉なく抱きしめる。
この数日後、辺境の地ヴォルンアルバからオーランウブス侵攻を知らせる早馬が訪れた。
その余波で、哀しみに暮れる余裕もないほどハインリヒは激務に見舞われることになるのだった。
◇
「ねぇ、エラ。ジークヴァルト様はまだお戻りになられないのかしら……?」
「辺境の砦からはまだ連絡はないようですね。マテアスには知らせが来たら真っ先に教えてもらえるよう言ってありますが」
「そう……」
大きなクマの縫いぐるみ、アルフレート二体のもふもふの間に挟まって、リーゼロッテはしゅんとうなだれた。
フーゲンベルク家に戻ってからは、ずっと部屋に引きこもって過ごしている。
隣国の兵が鎮圧されたあと、騎士たちに厳重に守られながらリーゼロッテはひとり公爵家に帰ってきた。
ジークヴァルトは異形の調査や戦いの後処理のため、未だヴォルンアルバの地に滞在している。
無意識に胸元に手をやった。今リーゼロッテは弁慶よろしく、特大の守り石がじゃらじゃら連なるネックレスを下げている。
これは辺境の砦を出るときにジークヴァルトから有無を言わさず渡されたものだ。
国の有事とあっては、さすがのジークヴァルトも一緒に帰るとは言えなかったようだ。
代わりにこの長すぎるネックレスに浄化の力を籠めまくり、リーゼロッテの首にぐるぐると巻き付けてきた。
(ヴァルト様の力に包まれてて安心できるけど……)
あまりの重みに肩が凝りそうな勢いだ。
リーゼロッテは肩を押さえて、こきこきと首を鳴らした。
これまで長期に渡って離れている間は、毎日のように手紙のやりとりをしていた。
だがヴォルンアルバは優れた早馬でも数日はかかる辺境の地。悠長に交換日記を送りつけている場合ではないだろう。
『ねぇ、リーゼロッテ。ヴァルトが問題ないかって聞いてるよ?』
「ヴァルト様! ええ、なんにも問題ありませんわ!」
そばであぐらをかくジークハルトに前のめりで答えた。週に一度くらいジークヴァルトはこうしてコンタクトを取ってくる。
この守護者の出張サービスがあるからこそ、ジークヴァルトはリーゼロッテを送り出すことを渋々承諾した。
辺境の砦と公爵領は相当距離がある。これだけ離れていても、気合を入れればまぁ大丈夫というのがジークハルト談だ。
『うーん。ヴァルトってば、それでも気が気じゃないみたいだよ?』
「わたくし、ちゃんと大人しくしております。心配なさらなくっても大丈夫ですわ」
それこそ部屋からは一歩も出ていない。
目の前で浮くジークハルトに顔を寄せ、安心させるために小さくガッツポーズしてみせた。
『なに、ヴァルト? え? 近すぎる? そんなふうに文句言うことないじゃない。リーゼロッテがよく見えるんだからさ』
リーゼロッテの鼻先すれすれで、ジークハルトがやれやれと肩をすくめた。
心が逸って少々前のめりになり過ぎたようだ。浮きかかったお尻を戻し、リーゼロッテはアルフレートたちの間で居住まいを正した。
「あの、それで……ヴァルト様はいつお戻りになられるのでしょうか?」
遊びで滞在しているわけではないのは分かっているが、もうひと月近く顔を見ていない。
せめて帰ってくる日のめどくらい、聞いたとしてもバチは当たらないはずだ。
『今ちょうど砦を出たってさ。王城に寄ってから帰るって言ってるよ』
「まぁ、よかったですわ! 慌てずお気をつけて帰ってきてくださいませね。わたくし本当に大人しく待っておりますから」
『え? 今すぐこっちに移動させろ? 嫌だよそんな重労働。それにこの距離じゃあ、ヴァルトを引っ張ってくる前にオレがそっちに飛んでっちゃうかもよ?』
体を左右に揺らしながら、ジークハルトが楽しそうに言った。
視線が斜め上を向き、何やらうんうんと頷いている。どういう原理なのかは良く分からないが、遠隔でジークヴァルトと会話をしているのだろう。
『なに? それは駄目だって? だったら急いで帰ってきなよ。じゃあ戻るまではもう繋がないから。え~、だって気が散って落馬しても困るじゃない。はいはい、だからヴァルトは頑張って帰ってきなって。はい、はい、はい、じゃあもう切るね~、は~い、は~い』
まるで長電話を無理やり終わらせるようなやり取りだ。
始めは物珍し気に眺めていたが、完全に通話を切った様子のジークハルトにリーゼロッテは曇った表情を向けた。
「ヴァルト様は馬車ではなく、馬に乗って帰って来られるのですか?」
『その方が早いからね。多分明日には帰ってくるんじゃないかな?』
「え、でも、数日はかかりますでしょう?」
『ヴァルトのことだから、リーゼロッテ会いたさに寝ないで馬を走らせてくると思うよ』
「そのような無茶をして大丈夫でしょうか……」
『ジークヴァルトにしてみれば、リーゼロッテに会えない方が大丈夫じゃないんだってば』
しかしいくらなんでもそんなに早くは戻って来られまい。
(期待して会えないのはさみしすぎるし……)
そう思ったリーゼロッテは、ジークハルトの言葉を話半分で受け取った。
翌日の夕刻、本当にジークヴァルトが帰ってくるとは、夢にも思わなかったリーゼロッテだった。
◇
王城を出て、急いた気持ちで馬を駆る。
辺境伯である父から託された書状を手に、渡したらさっさと城を出ようと初めはそんな軽い考えでいた。
ヴォルンアルバの地で、カイが星に堕ちた。淡々と言ったハインリヒに、ジークヴァルトは返す言葉を失った。
思えば戦禍の後処理の日々で、カイを見かけることは一度もなかった。
あれだけの数の騎士がいたのだ。ハインリヒ直属のカイが先に王都に戻っていても不思議はない。
そんな意識があってか、カイの存在を気にかけることもしなかった。
ジークヴァルトもカイの受けた託宣のことは知っていた。いつかその日が来るであろうことも。
あの笑顔はカイの仮面だ。そう気づいていても、何よりも同情を嫌うカイを尊重したジークヴァルトは、ずっと無関心を貫いてきた。
それなのに。
思っていた以上に動揺している自分がいる。
言葉にならなくて、無性にリーゼロッテの温もりが欲しくなった。カイのことを知ったなら、彼女はどれほどの哀しみに暮れるだろう。
そんなことを思いながら、ジークヴァルトはフーゲンベルク領をひたすら目指した。
戻った屋敷で、足早にリーゼロッテの部屋へと向かう。その先でカークを連れたリーゼロッテの姿が見えた。
こちらに気づいたリーゼロッテが、頬を上気させこの胸に飛び込んでくる。
「ヴァルト様、お帰りなさいませ……!」
思いきり抱き着かれ、閉じ込めた腕で強く抱き締め返す。甘えるように頬ずりしてくるリーゼロッテに、知らず腕の力が強まった。
苦しそうに見上げてくるも、満面の笑みを浮かべるリーゼロッテにどう伝えるべきかと躊躇した。
それでも言わないでいることもできなくて、ジークヴァルトはなんとか重い口を開きかけた。しかし喉が詰まって言葉のひとつも出てこない。
龍が目隠しをしている。それが分かると、唇を引き結んだジークヴァルトはぐっと奥歯を噛みしめた。
「ヴァルト様……?」
不思議そうに緑の瞳が覗き込んでくる。
そんなリーゼロッテの頭のてっぺんに顔をうずめ、ジークヴァルトは呻くように呟いた。
「何でもない……」
言いながら、強く強く抱きしめる。戸惑いながらもリーゼロッテは素直に身を預けてきた。
このまま何も知らせない方がいいのかもしれない。
龍を理由に、そんな考えが頭をもたげてくる。
「何もない……」
もう一度そう言って、リーゼロッテの華奢な体をジークヴァルトは腕に閉じ込め続けた。
◇
ジークヴァルトは帰ってきたものの、たまりにたまった領地の仕事を片付けるためふたりの時間はほとんど取れていなかった。
それでも夜は一緒に眠れている。そのことに感謝して、リーゼロッテは不平不満もなく日々を穏やかに過ごしていた。
砦の騒ぎが収束したあと、ツェーザルは瓦礫の下から遺体となって発見されたそうだ。
そこに紅の女の姿はなく、気配すら感知できなくなっていたとジークヴァルトが言葉少なく話してくれた。
あんな形でも愛する男を手に入れた彼女は、満足して天に昇って行ったのだろうか。
ツェーザルとともに安らかな光の道を辿ったのだと、そう信じたいリーゼロッテだった。
(そう言えば、そろそろ新しい貴族名鑑が届くころね)
ようやく春が訪れるという時期に、毎年新しい貴族名鑑が各家に配られる。昨年のデータに基づきまとめられた最新バージョンだ。
雪解けとともにお茶会の数も増えていく。これからの社交シーズンを乗り切るためにも、貴族関係をおさらいしておこうとリーゼロッテはカークを引き連れ書庫へと向かった。
古い貴族名鑑は奥書庫に保管されているが、最近の数年分はリーゼロッテがいつでも見られるようにとすぐ手に取れる棚に置いてもらっている。
「エマニュエル様、お忙しいところつき合わせてごめんなさい」
「とんでもございません。リーゼロッテ様のお力になれるのなら光栄ですわ」
マテアスの姉エマニュエルは妖艶な美女で、安定のわがままボディの持ち主だ。
彼女はいつもリーゼロッテの教師役を買って出てくれている。子爵夫人としてやらなくてはいけないことも多いだろうに、今年も快く引き受けてくれた。
「それにしても辺境の砦では大変な目に合われましたね……」
「ええ……でも本当に大変だったのはジークヴァルト様ですから」
「おふたりともご無事で本当によかったですわ。砦での敵襲はすんなり平定されたそうですし」
エマニュエルの話では、オーランウヴス侵攻の話はすぐさま貴族の間に広まったそうだ。
市街地では騎士団総出で残党の一斉検挙が行われ、かなりの規模で潜伏していたことが分かったらしい。
「下町では怪我人が多く出たという話ですが、シネヴァの森の巫女様が薬草などを多く届けてくださったとか」
「シンシア様が……」
ジークヴァルトもそんな危険な戦いに参加していたのか。
呑気に待っていた自分が恥ずかしくなってくる。
「事前に騎士団を送っていたことが大きかったと、ハインリヒ王の采配を称賛する声も上がっているようですわ」
「それは確かにそうですわね……」
あの場に騎士団がいてくれなかったら、ジークヴァルトが最前線で戦うことになっていたかもしれない。
そう思うとリーゼロッテは恐怖で小さく身震いをした。
「我が国は青龍に護られているという声もよく耳にしますわ。この話題で社交界はしばらくもちきりになるでしょうね」
過去に起きた他国の侵攻も、すべて無事に退けられて来た。その歴史を青龍の加護と信じる貴族は数多い。
実際にそれは真実なのだろう。託宣を降ろすことで、龍はこの国を長く導いてきたのだから。
(にしてもさすがはエマニュエル様ね。情報収集がお早いわ)
リーゼロッテも公爵夫人として、ひと通り旬の話題を頭に入れておきたいところだ。
日々執務に励むジークヴァルトのためにも、自分にできることをしなくては。
そんな思いに駆られ、エマニュエルとともに貴族名鑑を開いた。ページを広げたのは届いたばかりの最新版と昨年版の二冊だ。
代替わりや婚姻・出生、新たに社交界にデビューした者など、この一年で変わったことをチェックしていく。
もちろんリーゼロッテ自身もダーミッシュ伯爵令嬢からフーゲンベルク公爵夫人にジョブチェンジしていた。
(わたし、本当にジークヴァルト様の妻になったのね……)
今さらながらにそんなことを思って、にまにまと口元がゆるんでしまう。
「リーゼロッテ様? どうかなさいましたか?」
「い、いいえ、なんでもありませんわ」
首を振り、慌てて顔を引きしめた。
(いけない、いけない。ちゃんと真面目にやらなきゃだわ)
改めて貴族名鑑に目を落とす。
昨年に起きた大きな変化は、伯爵家のひとつが取り潰し寸前までいったことだ。領地経営で悪政を行い、裏金を誤魔化そうとして大問題となったらしい。
しかもフーゲンベルク家を巻き込もうと企んだと言うから驚きだ。悪事が明るみに出てすぐさま粛清された伯爵家は、当主を挿げ替えることで一件落着したという。
(ええと、この方は名前に二重線がついてるから貴族を除籍になって、こちらの親戚の方が新たに家督を継がれたのね。で、こちらの方は括弧がついているからお亡くなりになって、それでこの方は……)
そんなあれやこれやを確かめながら、更に紙をめくっていく。
子爵家が続くページで、ふとルチアの鮮やかな赤毛を見つけた。
(そう言えばルチア様、無事にブルーメ領に帰れたのかしら……)
騒ぎが大きすぎて、あのときは周囲を気に掛ける余裕もなかった。
だがそれも仕方のないことだ。ジークヴァルトに心配をかけたくなくて、何事もなく公爵領に戻るだけでリーゼロッテも精いっぱいだった。
砦の舞踏会で、最後に会ったときのルチアを思い出す。
さびしげに微笑む顔が印象的で、あの日のルチアはカイへの恋心を吹っ切ったかに見えた。
それでもルチアの視線は、無意識にカイの姿を追いかけていたようにも思う。
(そうよね……一度好きになったひとを、そう簡単に忘れるなんてできないもの)
ジークヴァルトに初恋の女がいることを知ったとき、リーゼロッテは計り知れない衝撃を受けた。
その初恋の相手が自分だったからよかったものの、あのときの胸の痛みは今でも忘れられないでいる。
最新版で侯爵家の並びを開き、なんとはなしにカイの姿を探した。
「あら……?」
「どうなさいましたか?」
「これおかしいわ。ほら、ここ。カイ様のお名前が書かれてないの」
デルプフェルト家の家系図にカイの名前が載っていない。
そこにあるのは不自然な空白だけだ。
「カイ様? デルプフェルト侯爵家にそのような名前の方はいらっしゃらないと思いましたが……」
「え? そ、そんなはずありませんわ!」
性急に昨年の貴族名鑑を引き寄せる。
そこでもデルプフェルト家のページを開いたリーゼロッテは、同じところを見て息を飲んだ。
「嘘……どうして……」
カイの名があったであろう箇所が、真っ黒く塗りつぶされていた。思わず他の場所を探すも、どこにもカイの名前は見つからない。
青ざめて、リーゼロッテはもう一年古い名鑑を本棚から取り出した。震える手つきで同じページを探す。
しかしそこも黒塗りがされていた。去年に見た時には、普通にカイの名が記されていたはずのその場所に。
「エマニュエル様……デルプフェルト侯爵には全部で九人のお子様がいらっしゃいましたわよね?」
「いえ、八人と記憶しておりますが」
「そんなはず! だってほら、亡くなられた正妻の唯一の子供がカイ様だって、エマニュエル様もそうおっしゃってたでしょう!?」
「ベアトリーセ様はお子を儲けることなく亡くなられたはずですが……」
食ってかかる勢いのリーゼロッテに、戸惑った顔でエマニュエルが答えた。
一体何が起きているのだろうか。
激しく動悸がする中、リーゼロッテは混乱した頭で必死に考えを巡らせた。
(名鑑で亡くなった人には括弧がついて、除籍になったら二重線が引かれて。じゃあ、黒塗りにされた人は――?)
いちばん初めに貴族名鑑の見方を教えてくれたのはカイだった。
今いる席のちょうど真向かいで、あの日カイは何冊もの貴族名鑑を広げていた。
そのときにカイはなんと教えてくれただろうか。不自然にある空白。黒塗りにされた人物。数年前にここでした会話を思い出そうと、リーゼロッテは記憶の引き出しを懸命に探っていった。
(あの日、カイ様は突然公爵家にいらして……そうよ、あれはちょうどデビューの白の夜会が終わったあとのことだったわ)
確かその日、カイは泣き虫ジョンの視察にやってきた。貴族名鑑を一緒に見たのは、調べ物を手伝ってほしいと言われたからだ。
あの頃のリーゼロッテはジョンが星を堕とす者だとはまだ知らなくて、グレーデン家で紅の女に遭遇したのはその少し後の話だったはずだ。
(星を堕とす者……?)
取り憑かれたときに視た紅の女の追憶が頭をよぎる。
彼女が星を堕とす者になったのは、当時赤ん坊だったハインリヒ王子の命を狙ったためだ。
初めて名鑑を広げた日、リーゼロッテはカイから教わった。龍の託宣を阻もうとした者の末路が、星を堕とす者だということを。
(青龍に逆らい鉄槌を受けた禁忌の異形……カイ様とどうしてそんな話になったのだっけ?)
無意識下で思い出すことを拒絶する自分がいる。それでも次第に掘り起こされていく記憶が、芋づる式で鮮明に蘇ってきた。
あのときリーゼロッテは今日と同じように黒塗りにされているページを見つけた。それについて、あの日カイは何と言っていただろうか。
(そう、確か――)
黒く塗り潰された貴族は、“いなかったこと“にされたのだと。
『――その人物は、星を堕とす者だから』
カイの声が頭に響く。
そこから導き出された答えに、リーゼロッテはひとり絶句した。
(カイ様が……星を堕とす者になったと言うの……?)
自分でも何を言っているのか分からない。
だが黒塗り部分は今も目の前に存在しており、その場所以外カイの居場所はあり得なかった。
「ヴァルト様……」
呟いて、リーゼロッテはいきなり書庫を飛び出した。
ジークヴァルトならこの事実を否定してくれるはず。そう信じ、真っ白になった頭のまま執務室の扉を誰何のやり取りもなしに開け放った。
「ジークヴァルト様!」
「リーゼロッテ? どうしたんだ」
突然やってきたリーゼロッテを、驚き顔で抱きとめる。
ジークヴァルトが仕事中なのも忘れ、リーゼロッテは泣きじゃくって胸にしがみついた。
「一体何があった?」
「見つから……いの……ぃかんに……の、名が……」
しゃくり上げるばかりのリーゼロッテにジークヴァルトは眉根を寄せる。
取り乱す肩を支え、リーゼロッテの顔を自分の方へと上向かせた。
「落ち着け。ちゃんと聞く。大丈夫だ、ゆっくり話せ」
「ないのです! 名鑑に、カイ様のお名前が……!」
懸命に張り上げられた声に、ジークヴァルトが息を飲んだのが分かった。
涙でぼやける視界の向こう、ジークヴァルトと目を見合わせる。
青い瞳の奥にある違和感――何か後ろめたさのようなものを、敏感にリーゼロッテは感じ取った。
「……もしかして、知ってらしたのですか? ヴァルト様はカイ様が星に堕ちたことを……」
すいと顔を逸らしたジークヴァルトは、それきりリーゼロッテを見ようとしない。
否定して欲しいという儚い願いは、あっけなく打ち砕かれてしまった。
「どうして!? どうして教えてくださらなかったのですか……!」
乱暴に胸元のシャツを引っ張って、無理やり顔を下げさせる。
苦しげに眉根を寄せたジークヴァルトに、それでもリーゼロッテは非難の声を上げずにはいられなかった。
「ひどい! ひど過ぎますわ!」
ジークヴァルトだとしても許せなかった。そんな大事なことを知っていて、そのまま黙ってやり過ごそうとしていたなどと。
胸を叩き攻め立て続ける中、ふいにルチアの泣き顔が脳裏を過った。
「ルチア様……」
それにベッティも。
今頃どうしているのだろう。
誰よりも大切なカイを失ってしまったあのふたりは――。
「ヴァルト様! ルチア様とベッティは今どこにいるのです!?」
食ってかかる勢いのリーゼロッテに、ジークヴァルトは静かな口調で返してきた。
「彼女たちは、今ラウエンシュタイン城にいる」
「ラウエンシュタイン城に……?」
戸惑いに、幾分か頭が冷えてくる。
しかし完全に冷静にもなれなくて、大粒の涙とともにリーゼロッテはジークヴァルトの胸を強く突っぱねた。
少し離れた距離から、ジークヴァルトを半ば睨み上げる。絶対に譲らない思いで、リーゼロッテは震える声を絞り出した。
「わたくしもラウエンシュタインに行ってまいります」
何が何でもルチアとベッティに会いにいかなくては。
会ったところで自分に何ができるというのか。
そんなことを考えつくことすら、その時のリーゼロッテにはできなかった。
◇
泣き腫らした目でリーゼロッテは流れる景色を見つめていた。
あのあとリーゼロッテのあまりに頑なな態度に、ジークヴァルトも駄目だとは言わなかった。ただ安全に移動する手配ができるまで待てと言われ、三日後の今日ひとりきりで馬車に乗り込んだ。
山積みの仕事を抱えているジークヴァルトは、どうしても領地を離れることはできなかったようだ。
表情では最後まで難色を示しながらも、守り石が連なる弁慶ネックレスを三重にしただけで、ジークヴァルトは何も言わずにリーゼロッテを送り出した。
(もう何が何だか分からないわ)
ようやく落ち着いた涙が再びせり上がってくる。
出発の準備が整うまでの間、リーゼロッテはエラにカイのことを確かめた。エマニュエルと同じ回答だったことに、ショックを受けたのは言うまでもない。
その上あのマテアスでさえ、そんな人物は知らないと困惑顔だった。
星に堕ちた者が“いなかったこと“にされるという意味は、人々の記憶からも消されてしまうということなのだろうか。
だがジークヴァルトやリーゼロッテのように覚えている者もいる。
つんと鼻の奥が痛くなって、リーゼロッテは握っていた小瓶のコルクの蓋を開けた。滑り落ちた涙をキャッチして、なみなみになったところでバスケットにしまいこむ。
新しい空の小瓶を取り出すと、揺れる水面はみるみるうちに上昇していった。こんなときに便乗するように、涙をためている自分が嫌になってくる。
しかしバスケットいっぱいに詰められた小瓶は、ジークヴァルトが用意してきたものだ。自衛するためにも涙の量は多い方がいい。それはリーゼロッテもよく分かっている。
『わ、この短時間で随分とたまったね』
すんと鼻をすすったところで、天井からジークハルトが顔だけをのぞかせた。
リーゼロッテがラウエンシュタイン城に着くまでは、ジークハルトがついて来ることになった。もちろんこれもジークヴァルトが望んだことだ。
『ねえ、リーゼロッテ』
言いながら、天井を抜けて降りてくる。
向かいの座席であぐらをかくと、ジークハルトはたのしげに体を左右に揺らし始めた。
『君の気持ちも分かるんだけどさ、ヴァルトも好きで黙ってたわけじゃないから。そこんとこは分かってあげてほしいかな?』
「龍が……目隠しをしてきたということですか?」
『そういうこと』
肩をすくめたジークハルトに目を見開いた。なぜその考えに至らなかったのだろうか。
ジークヴァルトはリーゼロッテよりもカイとの付き合いが長かった。
(ヴァルト様だってお辛くないはずはないのに――)
それなのに自分ときたら、あんなにもひどい態度を取ってしまった。
罪悪感に苛まれ、違う意味で涙が溢れ出した。
『大丈夫、ヴァルトもちゃんと分かってるよ』
「ですが……」
俯いた頬から雫が滑り落ちる。
向こうに到着したら、いち早くジークヴァルトに手紙を書こう。そう心に決めるも、未だ気持ちの整理がつけられない。
「ハルト様……カイ様はなぜ星に堕とす者になったのでしょう……」
こういった話をジークハルトはいつも訳知り顔ではぐらかす。返事を期待するでもなく、リーゼロッテはやり切れない思いを吐き出した。
しかしジークハルトは軽い感じで口を開いた。
『なぜってそりゃ、誰かの龍の託宣を阻もうとでもしたんじゃない?』
「ですがカイ様も託宣をお持ちでした……それなのに……」
カイの足に龍のあざがあるのを、いつかリーゼロッテはこの目で見た。
託宣の内容までは聞かなかったが、それを果たさずしてこの状況は一体何だというのか。
『それなら託宣はとっくに果たしてたんじゃない? もしくは自分の受けた託宣を拒んだとか?』
「自分の受けた託宣を……?」
リーゼロッテがジークヴァルトとの子作りを断固拒否するといった感じだろうか?
しかし龍の託宣は婚姻に関することだけではない。クリスティーナやヘッダのことを思うと、憶測の範囲を出ない話だった。
「ではエラ達がカイ様を覚えていないのはなぜなのですか?」
『さぁ? それはオレにも。ま、龍が介入してるってことは確かだよね』
軽く肩をすくめたジークハルトを前に、桜色の唇がふるふると震え出す。
(どうして……どうしてなの)
その思いだけがリーゼロッテの中を堂々巡りする。
涙の小瓶を量産しながら、リーゼロッテは数日かけてラウエンシュタイン城へとたどり着いた。
◇
閉じられっぱなしの天蓋のカーテンを割り、ベッティは薄暗い中を伺った。
規則正しい寝息が聞こえてくる。ようやくルチアは眠りについたようだ。起こさないよう気配を殺しながら、涙の残る横顔を覗き込む。
あれ以来、ルチアはろくに食事もせずに泣き暮れてばかりいる。その様子はまるで壊れてしまったからくり人形だ。
そう思わせるほど繰り返し繰り返し、ルチアはカイの名ばかりを口にしている。
「カイ……」
うなされたルチアが体をぎゅっと小さく丸め込んだ。祈るように握り込まれているのは、銀のロケットペンダントだ。
あの日、あれを持っていたのはカイだった。
それを今ルチアが手にしているということは、ベッティを置いて走り去ったカイは、確かにルチアの元に辿り着いたのだろう。
「どこにいるの……カ……イ……」
正気を失ったまま、あの日からずっとルチアはカイのことを探し回っている。
カイはいなくなったのだ。
うんと以前から、カイ自らがベッティにそう宣言していたように――。
ルチアのうわ言にすすり泣きが加わった。
夢の中でもなお、ルチアはカイの姿を求め続けている。
(きっとこれが……)
カイが欲しかったものなのだと。
すとんとベッティの中で腑に落ちた。
どうして自分では駄目だったのか。そう思わなくもなかったけれど。
ベッティはカイのために生きると決めた。だからカイが望んだ未来ならば、この生涯をかけて守り抜こう。
死を迎えるその日まで、ルチアが決して忘れることのないように。
カイという楔を、永遠にルチアに穿ち続けるために。
◇
馬車を降りて、曇天の下でそびえ立つラウエンシュタイン城を見上げた。
深い堀の向こうから長い跳ね橋が降ろされてくる。
『じゃあ、リーゼロッテが中に入ったらオレはヴァルトの元に帰るね』
「はい……ここまで一緒に来てくださって、本当にありがとうございました」
『どういたしまして』
これでしばらくジークヴァルトとすぐには連絡が取れなくなる。
自分が望んだこととはいえ、急に不安がこみ上げた。
『心配しないで。帰る時はヴァルトが迎えに来るよ』
やさしい笑顔にリーゼロッテは小さく頷き返した。
ジークハルトを残し、降り切った橋を渡っていく。途中で振り向くと、ジークハルトがひらひらと手を振り返してきた。
心を決め城門目指して進む。
既に開かれていた門の前で、老齢の女性が背筋を伸ばして待っていた。彼女はラウエンシュタイン家の家令のルルだ。
「お帰りなさいませ、リーゼロッテ様」
見知った人間がいると、やはり心がほっとする。
三角定規のようにぴしりと腰を折ったルルに、リーゼロッテは微笑みかけた。
「ルル、久しぶりね。ここまで出迎えてくれてありがとう」
「それは当然のことにございます。長旅でお疲れでしょう。すぐに暖かいお部屋にご案内いたします」
この石畳の上を、前回はジークヴァルトと並んで歩いた。
どうしてこんなことになってしまったのだろうか。進むごとに、そんな思いばかりが頭を巡る。
「ルチア様とベッティにはすぐ会えるかしら……?」
「おふたりにはすぐにお声がけいたします。ですがルチア様はずっと臥せっておいでのため、本日お会いできるかどうか」
「そう……だったら無理はして欲しくないわ」
どのみち当分の間はこの城に滞在する予定だ。
急いだところで何の意味もない。
(それに……)
最初にかける言葉を、リーゼロッテはいまだ探しあぐねていた。
込み上げそうな涙を必死に押しとどめる。ルチアとベッティに自分が泣いてすがってどうすると言うのだ。
(ふたりの方が辛いに決まっているもの)
通された部屋で、リーゼロッテは揺れる暖炉の炎を見つめていた。
ルルが用意してくれたのは熱いココアだ。甘ったるい香りに幾分か緊張が解けていくも、口を付ける気分にはなれなかった。
ほどなくして再びルルが顔をのぞかせた。
「リーゼロッテ様、エリザベス様をお連れしました」
「エリザベス様?」
こてんと首を傾けていると、後ろからベッティが現れる。弾かれるように立ち上がり、一目散に駆け寄った。
あれほど泣くまいと固く誓っていたはずなのに、緑の瞳から涙がせり上がる。
嗚咽を堪えベッティを強く抱きしめた。そんなリーゼロッテの背に、そっとベッティが手を添えてくる。
「お願いルル……ベッティとふたりにして……」
「かしこまりました」
退室したルルが音もなく扉を閉める。
ベティの顔を見た途端、用意していた言葉はどこかに飛んで行ってしまった。ふたりきりの部屋でリーゼロッテは声を詰まらせた。
「お疲れでしょうからぁ、ひとまずはお座りになってくださいましぃ」
普段と変わらない声音のベッティは、しかし随分と痩せてしまっている。
立っていようとするベッティの手を引いて、同じ長椅子に座らせた。
手をつないだまま言葉を探すも、開きかけては口をつぐむをただ繰り返す。声が形になる前に、いたずらに涙がこぼれ落ちてしまいそうだ。
「こちらにいらしたということはぁ、リーゼロッテ様は坊ちゃまのこと覚えていらっしゃるんですねぇ」
ベッティはぽつりと言った。
伏せられた睫毛の横顔は、どこか諦めの色を含んでいた。知らず握る指先に力が籠る。
応えるように泣き笑いを向けられて、リーゼロッテの瞳から本格的に涙が溢れ出た。
「カイ様に……何があったと言うの? お願いよベッティ……話せるのならわたくしにも教えて……」
震える唇でどうにか言葉を紡ぎ出す。
傷口を抉りにかかる要求に、承諾も拒絶も示さないままベッティは静かに瞳を伏せた。
「ヴォルンアルバの砦でリーゼロッテ様がルチア様を逃がしてくれたあとぉ、わたしたちは敵兵に襲われたんですぅ」
「敵襲があったあの日に?」
頷いたベッティはどこか遠くをぼんやり見やる。
「それでわたしはルチア様を先に安全な場所に行かせたんですがぁ……そのあとルチア様は錯乱状態で保護されたと聞きましたぁ」
「錯乱状態で……?」
「騎士団の話ではぁ、ルチア様は必死に誰かを探してたってぇ。なのにその場にそれらしい人物はいなかったそうなんですぅ」
「誰かって……もしかしてルチア様はカイ様を……?」
「はいぃ、でも騎士団の誰もがそんな人物は知らないって言い出してぇ」
エラも、マテアスも、エマニュエルも。みなカイを覚えていなかった。
龍に記憶を消されたのだ。その事実が確定となり、堪らずリーゼロッテはベッティを強く抱きしめた。
「実はわたしもぉ、坊ちゃまの名前をぉ……どぼじても口にでぎなぐってぇっ」
泣くまいとするベッティが、耳元で必死に歯を食いしばっている。
ずっとひとりきりで耐えていたのかもしれない。リーゼロッテの背に回された手に、痛いくらい力が籠められた。
「ジークヴァルト様も同じご様子だった……」
何の慰めにもならないと分かっていても、そう伝えずにはいられなかった。悲しみを分かち合える者がいる。それがせめてもの支えとなるように。
互いの肩口に顔をうずめ、しばらくふたり抱き締め合った。
長く息を吐いたあと、ようやくベッティは頭を上げた。目を真っ赤にしているリーゼロッテとは正反対に、ベッティの瞳は未だ平静を保ち続けている。
その姿が余計に痛ましく映った。泣けないでいるベッティの代わりのように、リーゼロッテから止めどなく涙がこぼれ落ちていく。
「ほんとはわたしぃ、うんと前から言われていたんですぅ。坊ちゃまはいつか消えていなくなるってぇ」
「消えて、いなくなる?」
「はいぃ、自分はいずれ星に堕ちるからとぉ」
「星に堕ちる? カイ様はご自分が星を堕とす者になると……初めからそれをご存じだったの……?」
リーゼロッテの疑問にベッティは少し困った顔をした。
「わたしはただ坊ちゃまがいなくなるとだけぇ。それ以上詳しいことは何も聞かされませんでしたぁ」
「そうだったの……」
「だからこんな日が来るってことはぁ、わたしずっと承知していたんですよぅ」
知っていたところで、悲しみが消えてなくなるはずもない。
達観した様子のベッティを前に、リーゼロッテはたまらず大きくしゃくり上げた。
(カイ様は本当に星に堕ちたんだわ……そしてそうなることを、カイ様は事前に知っていた……)
これは一体どういうことなのだろうか。
泣き暮れるしかできないリーゼロッテの頭では、いたずらに混乱が増すばかりだ。
「ねぇ、ベッティ。カイ様は託宣をお持ちだったわよね?」
「坊ちゃまが……? ルチア様でしたら龍のあざをふたつお持ちでしたがぁ」
「ルチア様が?」
しかもふたつもとは驚きだ。
「でも砦でのことが起きたあとぉ、そのあざが消えてしまっていたんですぅ」
「あざが?」
「はいぃ、ふたつとも綺麗さっぱりぃ。舞踏会の支度をしてたときはぁ、確かにまだあったんですけどねぇ」
「龍のあざって消えるものなの……?」
「あるぇ? 託宣を果たすと消えるってぇ、わたしはそう推測してたんですがぁ……違うんですかぁ?」
逆に問い返されて、リーゼロッテは返事に困ってしまった。
「龍のあざってぇ、龍から託宣を受けた者の証なんですよねぇ?」
「ええ、そうよ」
「ああ、やっぱりそうでしたかぁ」
「ベッティは何も知らないでハインリヒ様のお相手を探していたの?」
「わたしはあざを持つ者を探すように言われただけですのでぇ。坊ちゃまから詳しいことはなぁんも聞かされていないんですよぅ」
どこなく寂しげなベッティに、知らず顔を曇らせる。
そんなリーゼロッテに気づくと、ベッティはくすっと小さな笑みを漏らした。
「お気遣いはいりませんよぅ。諜報員なんてものはぁ、いちいち理由なんか聞かされないものですからぁ。それはさておきぃ……」
再び真顔になったベッティは、独り言のように呟いた。
「ってことはぁ、持っていた託宣をルチア様はふたつ同時に果たされたってことですよねぇ」
「ベッティは託宣の内容を知っているの?」
「わたしは何もぉ。ルチア様自身は託宣の存在すらご存じないはずですぅ。坊ちゃまは全部知っていたようでしたがぁ」
そこでベッティは言葉を切った。
すぐに何かを思い出した様子で、リーゼロッテに視線を向けてくる。
「そう言えば坊ちゃまが言ってましたぁ。ルチア様にふたつ目のあざがあるって知った日にぃ、ずっと探していた“対の託宣“が見つかったってぇ」
「対の託宣が……? カイ様とルチア様は対になる託宣をお持ちだったの……?」
「それはわたしには分かりませんがぁ……おふたりが惹かれ合っていたことだけは確かだと思いますぅ」
いちばんふたりの近くにいたベッティだ。
その彼女が言うのなら、きっと間違いはないのだろう。
(だけどカイ様は……)
ルチアを弄んで楽しんでいるようにしか見えなかった。
対の託宣とは、もしかしたら婚姻以外の形もあるのかもしれない。
クリスティーナが受けた身代わりの託宣も、リーゼロッテと対になっていると言われればそう思えなくもなかった。
だがどれも憶測に過ぎないことだ。
カイがいなくなった今、真相を確かめる術は何もない。
「カイ様のこと、ルチア様は何と言っているの? カイ様を探していたのなら、そこにカイ様がいたってことでしょう?」
「ルチア様はただ坊ちゃまがいないと繰り返すばかりでぇ……でも確かにあのときルチア様は坊ちゃまに会っていたはずなんですぅ。それだけは絶対にそうって言い切れますぅ」
悔しそうにベッティは唇を噛みしめた。
誰もがカイを覚えていない状況で、ルチアを支えこれまでひとりつき添って来たのだ。
どれだけ心細い思いをしてきたのかと思うとリーゼロッテの胸も痛んだ。
「そう言えば……ベッティたちはどうしてこの城に来ることになったの?」
「それはわたしにもぉ。迎えの馬車に乗ったときはぁ、てっきりわたしも王都経由でブルーメ領に帰るもんだと思っていたんですよぅ」
「それが着いたらラウエンシュタインだったの?」
困惑顔のままベッティは頷いた。
本当に何から何まで分からないことだらけだ。
一度会話が途切れたそのときに、ふいに扉が開かれた。
「ルル、ごめんなさい、まだもう少し……」
長いこと話し込んでいたため、てっきり家令のルルが様子を見に来たのだと思った。
しかしそこにいたのは虚ろな瞳のルチアだった。幽霊のように生気のない顔で、裸足のままふらりと中に入ってくる。
「ルチア様……」
「お目覚めになったのですねぇ。おそばにいなくってご不安になられましたかぁ?」
ソファにあったブランケットを手に、ベッティがすぐさまルチアに駆け寄った。細い肩の夜着の上から厚手のブランケットがかけられる。
その様子にリーゼロッテは息を飲んだ。この世の者ではない儚さを醸し出し、ルチアは今にも消え去ってしまいそうだ。
「カイはどこ……?」
ぼんやりと宙を見つめルチアは掠れ声で呟いた。
落ちかけのブランケットを引きずりながら、何かを探すようにふらふらと歩き回る。途中ソファのひじ掛けにぶつかって、ルチアはふらつきながらその場にしゃがみ込んだ。
「ルチア様ぁ、お怪我はございませんかぁ」
無感情に言ったベッティは、こんな状況は慣れっこに見える。
思っていたよりもルチアの酷い有様に、リーゼロッテは何もできずにただ立ち尽くした。
「リーゼロッテ様……?」
焦点の合わない瞳がリーゼロッテに向けられる。
絨毯に座り込んだまま、ルチアは苦しげに唇を震わせた。
「カイがどこにいるか知りませんか? ベッティが何も教えてくれないから、リーゼロッテ様なら知ってるかなって思って」
「カイ様は……」
言いかけるも、口をつぐむしかなかった。
カイが星に堕ちたと伝えたとして、今のルチアに理解できはしないだろう。
「何か、知ってるんですね」
弾かれるように立ち上がり、ルチアはリーゼロッテに詰め寄った。
「カイはどこにいるんです? また秘密の任務ですか? お願いです! 知っているなら今すぐ教えて!」
「そ、それは……」
勢いに押され、リーゼロッテは口ごもった。
先ほどの弱々しさが嘘のように、ルチアはものすごい力で掴みかかってくる。
「どうして! どうしてみんなしてわたしに嘘つくの!? 知ってるなら教えてくれたっていいじゃないっ」
そう叫んだ瞬間、ルチアの意識がふっと途絶えた。
リーゼロッテが手を伸ばすまでもなく、背後からベッティが体を支え込む。
「眠り針を使いましたぁ。リーゼロッテ様はご心配なさらずですよぅ」
一度ルチアを座らせて、ベッティは乱れた赤毛をそっと手櫛で整えた。
ルチアは静かに寝息を立てている。涙で濡れるその頬に、新しい雫がひと筋滑り落ちていった。
「ルチア様はずっとこの様子なの……?」
「波はありますがぁ、時折こんなふうに癇癪を起こされますねぇ」
ありのままの真実を伝えるべきなのだろうか。
だがそんな残酷な宣告をしてしまったら。
(ルチア様は自ら命を絶ってしまうのでは……)
そんな不安がよぎり、リーゼロッテは唇を戦慄かせた。
「あとはわたしにお任せをぉ」
「でも……」
「リーゼロッテ様は着いたばかりでお疲れでしょうからぁ。あ、ルルさんリーゼロッテ様をお願いいたしますねぇ」
「かしこまりました」
タイミングよくやってきたルルに連れられて、リーゼロッテは豪華な部屋に案内された。
ふかふかのソファに沈み込むと、どっと疲れが押し寄せる。
(わたしは一体何しにここまで来たって言うの……)
結局ルチアに掛ける言葉も見つからず、哀しみに寄り添うことすら難しく感じた。
ジークハルトがいない今、ひとりで帰ることはおろか、この城から出ることさえもままならない。
ジークヴァルトの心情も顧みず、勢いだけで公爵家を飛び出して来たことを思うと、さらに追い打ちをかけられた。
「とにかくまずはジークヴァルト様に文を書かなくちゃ……」
今さら謝ったところで、投げつけた言葉を取り消すことなどできはしない。
それでも急にあの温もりが恋しくなって、リーゼロッテはぎゅっと自分の体を抱きしめた。
(来たばっかりで何を甘えているのよ)
自分はいずれ必ずジークヴァルトの腕に帰れる。
だがルチアもベッティも、もう二度とカイの顔を見ることすら叶わないのだ。
どこまで行っても無力な自分に、リーゼロッテはひとりため息をこぼした。
◇
薄暗い中でルチアは瞼を開いた。
頭の芯がどんより重い。閉め切られた天蓋の中はどこか知らない匂いに感じられた。
自分はここで何をしていたのだろうか。
そんなことを思いながら、気だるげな体を起こした。
「そうだわ……カイを探しに行かなくちゃ……」
天蓋を割り寝台を降りると、素足のまま部屋を出る。急な眩しさに眩暈がするも、お構いなしにルチアは壁を支えにして歩いていった。
どれだけ行けども誰ひとりとして見当たらない。
あの寒々しい石造りの廊下もそうだった。
目を奪う紅の光。支えたカイの重み。流れ続ける真っ赤な血。
いきなりフラッシュバックした記憶に、ルチアはぶるりと身を震わせた。
カイは怪我が酷くて動けないのかもしれない。あれだけの出血だ。今もどこかで動けなくなっていても不思議ではなかった。
だからルチアの元に来られないのだと。
無意識に、その先に起きた恐怖を見ないよう蓋をした。
「すぐ行かなきゃ……」
今も苦しんでいるカイの元へ。
しばらく廊下を彷徨って、外の風に誘われるようにルチアは早春の庭に出た。
あてどもなく歩き出すも、ここはどこなのだろうとぼんやり思う。見覚えのない風景に、ルチアは一度立ち止まった。
「そっか……きっとカイは、わたしがここにいることを知らないんだ……」
石畳が敷かれた小路の先のなだらかな丘に目が留まる。
その向こう側には、敷地を囲うように高い塀が続いていた。壁沿いに歩いて行けば、ここから出られる門があるに違いない。
(こんがり亭に行ってみよう)
そうすればダンたちに、カイの居場所を教えてもらえるかもしれない。
駄目ならばあの秘密の隠れ家で待っていよう。あそこにいれば、カイは必ずルチアに会いに来てくれるはずだから。
丘に入る手前で石畳は途切れ、踏み均されただけの土の小路にルチアは素足で踏み入れた。
風にさざめく草原の合間で鮮やかな赤毛が弄ばれる。近づかない塀を目指し、おぼつかない足取りでルチアは丘を登って行った。
「ルチア様……!」
後ろから誰かに手首を掴まれる。
それでもお構いなしにルチアは進もうとした。回り込んできたリーゼロッテが、薄い夜着の肩をショールで包み込んでくる。
「いけませんわ。ルチア様、もうあちらに戻りましょう?」
幾分か寒さが和らぐも、カイでない温もりなど欲しくない。
どう言えば分かってもらえるだろうか。
霞がかる頭でなんとか答えを探そうと、ルチアは遠く視線を彷徨わせた。
「カイが……」
「え?」
「カイがいないの」
戸惑った様子のリーゼロッテは、未だこの手を掴んだままだ。
「離して。わたし、カイを探さなきゃ」
「ルチア様……」
「ねぇカイ、どこにいるの? 意地悪しないで早く出てきて」
振り解こうとするほどに、リーゼロッテが囲い込んでくる。
強引と思えるほどの引き止めに、力尽きたルチアは草むらに埋もれるように膝から崩れ落ちた。
なぜ誰も分かってくれないのか。
さみしくて、苦しくて、顔が見たいだけなのに。
リーゼロッテに縋りながら、止めどなく涙が溢れ出る。
「カイ、どうして……どうして会いに来てくれないの?」
しゃくり上げると苦しいくらいに抱きしめられた。
カイのいない世界はぐちゃぐちゃで、何を信じたらいいのかも分からない。
リーゼロッテを突っぱねて、幼な子のようにいやいやと首を振る。
傾く夕日があの日の紅を思わせた。その輝きを遮って、ふいにルチアに人影が落とされる。
息を飲んだリーゼロッテにつられるように、ルチアもその人物をぼんやり仰ぎ見た。
「なんだ、ロッテ。お困りごとか?」
そこに立っていた銀髪の男は、くたびれた布袋を肩にひっかけこちらを見下ろしている。
「イグナーツ……父様……?」
「おう、久しぶりだな、リーゼロッテ」
茜色を背に、イグナーツはつり気味の瞳を愉快そうに細めた。
はーい、わたしリーゼロッテ。こんな場面でありますが第6章はここで終了、恒例の登場人物紹介と番外編・小話をいくつか挟んで、次のフェーズ第7章へと進みます!
龍の託宣も残すところあと2章の予定です。残った伏線を回収しつつ、ここからは物語を閉じる方向に舵を切ります!
それでは第7章「裏切りの神官と託宣の呪い」でお会いできること、楽しみにしておりますわ!




