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ふたつ名の令嬢と龍の託宣【なろう版】  作者: 古堂素央
第6章 嘘つきな騎士と破られた託宣

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第33話 破られた託宣

【前回のあらすじ】

 紅の女の標的となったルチアを庇い、窮地に陥ったリーゼロッテ。あわやというところでジークヴァルトが駆け付けます。

 それでも執拗にルチアを狙う女。どうにかルチアを逃がすも、今度はジークヴァルトが追い詰められて。間に入ったリーゼロッテは紅の女に取り憑かれてしまいます。

 意のままに体を操られ、自らの手でジークヴァルトを傷つけていくリーゼロッテ。必死の抵抗も虚しく、短剣を握る手は止められなくて。

 そのとき現れた初老の男。それはかつて紅の女が愛したツェーザルその人で。

 激しい感情に飲み込まれ、女の記憶を辿るリーゼロッテ。そこで禁忌の異形になり果てた女の過去を垣間見るのでした。

 場面が暗転し、リーゼロッテは何もない空間を漂っていた。

 喉元がどくりどくりと脈打っている。まるでそこに心臓があるかのようだ。


(ここはどこ? 一体何がどうなったの……?)


 紅の女の記憶を垣間見ている自覚がありつつも、リーゼロッテは未だ女とシンクロしていた。

 そのこともまた理解して、なんとか同調を解こうと試みる。


(駄目だわ……この(ひと)の想いが強すぎて……)


 引きずられるように仄暗い意識の沼へと沈み込んだ。その先で待っていたのは愛を求める渇望の嵐だ。

 焼きつけられた罪の証が揺らめくたびに、切り離せない女の念がリーゼロッテの胸を撃つ。


 ツェーザル、ツェーザル、ツェーザル、ツェーザル、ツェーザル……!


 止むことのない慟哭が響く。


 会いに来て、そばにいて、その手で誰にも触れないで

 わたしだけを見て、わたしだけに笑って、わたしだけを愛して――!


 ありったけの思いで叫ぶほど、行き場なく渇きが悪化していく。

 愛しくて切なくて苦しくて。リーゼロッテの心まで張り裂けてしまいそうだ。


 ――美しき勇敢なる魂よ……ましいよ……いよ……


 遠くから言葉が木霊した。歌うような透き通った女性の声だ。


(だれ……?)


 見回すも何ひとつ目に映らない。人影はおろか、広がるは空虚ばかりだ。


 ――選びなさい……なさい……さい……

 ――己が行くべき道を……きみちを……ちを……


 反響を繰り返し、耳を澄ませても出所はつかめなかった。灰色だけの空間にその声は尚も響き続ける。


 ――悠久の守り手か……

 ――世の(いしずえ)と化すか……

 ――(いん)を背負いて闇に沈むか……


 螺旋を描くように。重なり合うように。言葉はどこからともなく降り注ぐ。


 ――選びなさい……

 ――選びなさい……

 ――選びなさい……


 意味を咀嚼する前に、再び場面が切り替わった。何もない空間から一転、眼下に会議場が現れる。

 そこには多くの貴族が集まっていた。円状に並べられた卓に座り、上座にいるのはディートリヒ王だ。

 その場面を見下ろしながら、自然と意識が一点に引き寄せられた。

 囲まれた中央でツェーザルが縄で縛られ拘束されている。背後には王城騎士が立ち、その様相はまるで罪人扱いに思えた。


「冤罪だ! わたしは何もしていない!!」


 愛しい人の声に心がざわついた。なぜツェーザルが攻め立てられているのか。

 助けに入ろうにも下に近づけない。歯噛みする思いで宙からやりとりを見守った。


「ザイデル公爵、いい加減罪を認めては如何かな?」

「ならば証拠を出せ。わたしがハインリヒ王子の命を狙ったという確かな証拠を!」

「イジドーラ嬢を使い、王妃の離宮に刺客を手引きさせたことは明らか。多くの女官の証言がありますぞ」

「そんなことを企んだ覚えはない! ディートリヒ王! 王は女官の戯言を信じ、公爵であるわたしを疑うのかっ」


 詰め寄ろうとしたところを騎士に抑え込まれる。屈辱の表情でツェーザルは片膝をつかされた。


「王に対してなんと不敬な! 証拠ならばここにございますぞ」


 貴族たちがどよめく中、重厚な木箱が運ばれてくる。後ろ手に拘束されているツェーザルの目の前で、その蓋がゆっくりと開けられた。

 箱の中には剝き出しの短剣と、大粒のルビーが輝く首飾りが鎮座している。それを見てツェーザルは訝しげに眉をひそめた。


「これが証拠だと……?」


 紅の女の視線が吸い寄せられる。

 あの首飾りは愛しい(ひと)から贈られた大切なものだ。愛されている証である輝きを、あの日も大事に下げて事に挑んだ。


「この短剣と宝飾は刺客の女が身に着けていたもの。(しら)を切ろうとしても無駄ですぞ」


 そう、確かに自分は王子の胸に剣を突き立てた。

 愛する男の夢を叶えるために――。


「そんな女など知らぬ!」


 ツェーザルの叫びが冷たく女に突き刺さった。悪い夢を見ているのだと、一度はそれを拒絶する。


「それは可笑しいですな。この宝飾はザイデル公爵が愛人に贈ったものと、そう宝石商から証言が取れておりますぞ」

「だとしてもわたしは王子暗殺の指示などしていない! あの女が独断でやったことだ!」

「これはまた見苦しい言い逃れを」

「知らぬと言ったら知らぬ! そんな愚かな女とわたしは無関係だ……!」


 騎士の手を振り切って、ツェーザルは木箱を乱暴に薙ぎ払った。衝撃で千切れた輝石が床を四方に散らばっていく。

 足元に転がったルビーに、ツェーザルの顔は憎々しげに歪んだ。その靴底が、無残にも紅い輝きを踏み潰す。


 リーゼロッテは愛が反転する瞬間を見た。


 罵詈雑言を吐きながら、ツェーザルが連行されていく。

 それを見送る女からは、もはや紅蓮の怒りしか伝わってこなかった。

 ユルセナイ。

 信じていたものが崩れ去り、裏切りへの復讐の炎が燃え盛る。


(それなのに――)

 女が求めるものは、何ひとつ変わらない。


 ただ愛を欲する慟哭がリーゼロッテの胸をどうしようもなく締め付ける。


 ツェーザル、ツェーザル、ツェーザル……!


 女の唇はその男の名を呼び続けた。

 いくら手を伸ばしても、その背はどんどんと遠ざかっていく。

 どんなに名を叫ぼうと、最後までツェーザルがこちらを振り返ることはなかった。


 場面が流れるように移ろった。女の思いが高速で巡る。

 かつて愛し合った日々。踏みにじられた紅玉(ルビー)の輝き。振り向くことのないツェーザルがやがて小さく消えていく。

 その場面が際限なく繰り返される。


 こんなにも愛しているのに。わたしを捨てるなど許されるはずがない。

 へばりつく怨嗟が(かさ)を増し、紅蓮の濁流からリーゼロッテは抜け出すことはできなかった。


 ――選びなさい、選びなさい、選びなさい


 遠くからあの声がする。

 それを認識したが最後、リーゼロッテの意識はいよいよ女の沼へと深く沈んでいった。


 そのとき求めてやまない男の気配を感じた。

 一瞬で何もかもが紅に染まり、この心を怨嗟の念が激しく渦巻いた。


「ツェーザル――――っ!」


 ありったけの声で叫んだのは、紅の女だったのか、リーゼロッテだったのか。

 目の前にあの男がいる。

 短剣を片手にリーゼロッテは迷わず駆け出した。


「な、なんだ、お前は……!」


 狼狽したツェーザルが剣を構えた。

 ただそうすることが当たり前に思えて、ためらうことなくリーゼロッテは握る短剣を振りかぶる。


「リーゼロッテ!」


 振り上げた手首をジークヴァルトに掴まれた。走る勢いは止められず、リーゼロッテは尚もツェーザルを目指そうとした。

 どうあってもあの男を許すわけにはいかない。

 ジークヴァルトの腕の中、リーゼロッテの体から紅の穢れが立ち昇った。

 誰よりも愛していた。この裏切りは八つ裂きにしても余りある。

 もう二度と逃がしはしない。ツェーザルは永遠に自分のものなのだから。


 愛しさと憎しみで逸る気持ちそのままに、瘴気の塊がツェーザルへと延ばされる。

 濃厚な瘴気に苦痛を浮かべたジークヴァルトは、それでもリーゼロッテを離さなかった。引き留められる体と裏腹に、女の怒りはひたすらツェーザルを求め行く。


 せめぎ合いの果てで、リーゼロッテは自分の中から何か大きな塊がすっぽ抜けるのを感じた。直後、全身に青の力が吹き込まれる。

 あれだけ感じていた愛憎が、今は嘘のように消え去っていた。震える指を見つめ、自分の意思で動かしてみる。


「ジーク……ヴァルト様……」

「リーゼロッテ……無事でよかった……」


 力強い青の奔流が、残る女の気配をことごとく洗い流していく。

 痛いくらいに抱きしめられて、リーゼロッテは耳に鼓動を聞いた。その速さにジークヴァルトの動揺を思い知る。


「なんだお前は! やめろ……やめてくれ!」


 叫び声にはっとした。後退るツェーザルが、今まさに紅蓮の瘴気に包まれた。


「ぐぁああぁあっ」


 女に浸食されたツェーザルは、雄たけびを上げ床をのたうち回る。その様相は狂人じみて、白目をむき口からは泡を吹く。

 ともすれば自分がああなっていた。ぞっとして、リーゼロッテはジークヴァルトの胸に縋りついた。


「ヴァルト様……あの方は……」

「完全に飲まれてしまっている。ああなったら手の施しようがない。もう手遅れだ」


 虚ろな瞳のツェーザルが、意味不明な言葉を吐きながらよろよろと立ち上がる。その姿に重なり合って、紅の女の輪郭が陽炎のごとく揺らめいた。

 深紅の唇が満足そうに弧を描く。うっとりとツェーザルを抱きしめる姿は、まるで最愛の人との至福の逢瀬に見えた。


 紅の女と一体になったまま、ツェーザルがふらりふらりと遠ざかる。

 殺気立つ異形の者が、通り過ぎ様、次から次に瘴気へと飲み込まれていく。


 進むほど、ツェーザルの纏う瘴気が肥大する。その後ろ姿を、リーゼロッテは呆然と見送った。



     ◇

 ルチアを担いだまま、汗だくでベッティは膝をついた。

 来た廊下を振り返る。上がる息をどうにか整えながら、禁忌の異形の気配を探った。

 なんとか遠くまで逃げて来られたようだ。しかし随分と砦の外れまで来てしまっている。


「……ベッティ?」

「ああ、よかったですぅ。ルチア様、正気に戻られましたかぁ?」

「ここは……?」


 ルチアは不思議そうに辺りを見回した。

 そのとき、きゅるるんおめめを潤ませた小鬼がルチアの腕に飛び込んでくる。


「なぁんにも覚えてらっしゃらないんですねぇ。相当ヤバめな状況でしたよぅ」

「や、ヤバめって何? わたしがあの部屋を出たのは仕方なくよ。だってこの子が急に飛び出してっちゃったんだもの」

「ああ、あの異形の毒気に()てられたんでしょうねぇ。リーゼロッテ様が逃がしてくれたからよかったものの、ルチア様、もう少しで取り憑かれるところでしたよぅ」

「でも異形の者なんていなかったわ。綺麗な紅い光なら見たけれど……」

「アレが綺麗に視えたんですかぁ? それは超絶ヤバめですねぇ」


 大仰に驚いたベッティにルチアはむっとした顔をした。


「だってすごく綺麗だったもの。まるで宝石みたいに輝いて、見ててすごくうっとりするくらい……」

「その光こそが異形の者の本体ですよぅ」


 異形の視え方は本人の力量によって千差万別だ。なんとなく気配を感じられるレベルから、くっきりはっきり見えるレベルまで様々だった。

 ベッティにはぼんやりと人型の異形が視えた。それも最凶ランクの悪意ある異形の者だ。それをルチアは光として視たのだろう。


(にしても綺麗だなんてぇ)


 あんな凶悪なモノが美しく感じるのは、それに共鳴する負の念をルチアが持ち合わせているからだ。

 悪意ある異形が好んで狙うのは、自分と同じ闇の要素を持つ人間と言われている。いわゆる類は友を呼ぶと言うやつで、似た者同士の方が取り憑きやすいと言うことだろう。


「ルチア様ぁ、よぉく聞いてくださいましねぇ。異形の者に惹かれるのはぁ、ルチア様が異形と同じ後ろ暗いお考えをお持ちってことなんですよぅ」

「何よそれ。わたしが駄目な人間だって言いたいの?」

「そういうわけではありませんがぁ……人間なら誰しも嫌な面のふたつやみっつや四つや五つぅ、そのくらいは軽く持ってますからねぇ」


 気分を害した様子のルチアだったが、なぜかじっとベッティの顔を伺ってくる。


「……リーゼロッテ様も?」


 しばしの躊躇のあと、ルチアが口にしたのはそんな言葉だった。少し考え込んでから、ベッティはにっこりと笑顔を作った。


「そりゃあもお、リーゼロッテ様だってそんな面はお持ちですよぅ。侍女としてお世話したこともあるベッティが言うから間違いないですぅ」


 言っても、胸が小さいことをコンプレックスに思っているとかそんな程度のことだ。彼女の人の良さは規格外だと何度も思い知らされているベッティだった。


「とにかくぅ、異形の者につけ入る隙を与えたら危険ってことですからぁ。あの方のためにもぉ、十分気をつけてくださいませねぇ」

「分かった、気をつける」


 ルチアは素直に頷いた。とりあえずカイの存在をちらつかせておけば、すぐに引き下がるので最近のルチアはとても扱いやすい。


「そんなことより急いで東側に避難しないとですぅ。異形だけじゃなく今、賊も侵入しててぇ……」


 はっと廊下の奥を見やると、ベッティは遠く耳をそばだてた。

 複数人の足音がする。あまりよろしくない気配とともに、それはこちらに近づきつつあった。


(これは鉢合わせしたら厄介ですねぇ……)


 しかしそちらへ行かないことには東の避難所にはたどり着けない。砦の間取りを完璧に頭に入れているベッティには、それが良く分かっていた。

 あとは西側に向かうかだ。戦いの最前線に行くことになるが、騎士団がいる分まだ安全と言えるかもしれない。

 幸い西方面に禍々しい気配はなかった。瞬時に判断すると、ベッティはルチアの手を取った。


「ここは危険ですのでぇ、さっさと行きますよぅ」

「ちょっ……ベッティっ」


 もつれる足のルチアを無理やりに引っ張っていく。

 思ったよりも気配が近づくのが早い。このままでは騎士団に保護される前に追いつかれてしまいそうだ。


「ねぇ、賊って何なの?」

「詳しいことは聞かされてませんがぁ、どうやら隣国からの侵入者のようですよぅ」


 そこまで言って、ベッティはちぃっと舌打ちをした。

 後ろ手にルチアを庇い、目視できる場所まで来ている男たちを振り返る。服装からして異国の人間のようだ。しかも全員が異形の気配を身に纏っていた。


「厄介この上ないですねぇ」

「な、何、ベッティ」

「ルチア様は下がっててくださいましぃ」


 突然立ち止まったベッティに戸惑うも、ルチアは青ざめて胸に強く小鬼を抱いた。

 男たちは剣を帯び、足取りは酔っているかのようにおぼつかない。近づくほどにその表情に息を飲んだ。虚ろな目は一様にどこか明後日を向いている。

 中には不気味に笑いを漏らしている者もいて、どの男も正気を保っているようには見えなかった。


「異形の者に取り憑かれるとぉ、ルチア様もああなるって覚えといてくださいませねぇ!」


 先手必勝とばかりに、男たちの元へ突っ込んだ。

 まずはひとり目。眠り針を吹きながら、短剣で手元を狙う。手落とされた男の剣を廊下の遠くに蹴り飛ばした。

 襲い来たふたり目の足をスライディングで引っかける。よろけた体にすかさず眠り針を打ち込んだ。


「きゃあぁっ」


 その隙に残りの男がルチアに迫ろうとする。素早く態勢を整え、ベッティは男の背に短剣を突き立てた。


「お前の相手はこっちですよぅ」


 振り返りざまの男が力任せにベッティを殴りにかかる。吹き飛ばされつつもなんとか急所は腕で庇った。

 すぐさま迎撃の姿勢を取り、眠り針を撃つ隙を伺った。短剣は男の背に刺さったままだ。

 屈強な戦士相手に肉弾戦は避けたいところだ。だが武器を失ったベッティに、それ以外取れる道はない。


(眠り針も残りわずかですしぃ)


 しかも催眠効果はそう長く続かない。全員一気に眠らせて、さっさとこの場を離れるのがいちばん賢いやり方だ。


「ベッティ……!」


 悲鳴交じりに呼ばれ、ベッティは再び舌打ちをした。

 先に眠らせた男が不自然な動きで立ち上がろうとしている。意識のない状態で、異形の者に操られているのが見て取れた。

 ああなってしまったら、例え男を殺したとしても死体が異形に操られるだけだ。


「万事休すってところですかねぇ」


 そう漏らしている間に、ほかの昏倒していた男もゆらりと立ち上がる。

 不幸中の幸いなのは、憑いている異形が紅の瘴気に感化され狂暴化した雑魚だと言うことだ。


(だとすればぁ、わたしが囮になればルチア様だけでも逃せるはずぅ)


 とり囲むように迫る男たちに向かって、ベッティは迷わず駆け出した。


「ルチア様は今のうちに行ってくださいましぃ!」

「で、でも」

「いいから早くぅ! 真っすぐ行けば騎士団がいると思うのでぇ、先に行って助けを呼んできてもらえるとベッティも助かりますよぅ」

「わ、分かったわ。すぐに呼んでくる!」


 小鬼を胸にルチアは駆けだした。無事遠ざかる気配に安堵する。


「何があってもここは通しませんよぅ」


 ルチアを追おうとする男たちに、ベッティは両手を広げ立ちはだかった。



     ◇

(おかしい……ルチアはどこにいるんだ?)


 東側の避難所に行ってみたが、そこにルチアの姿はなかった。

 舞踏会の会場を確認しようと、カイは来た道を戻って行った。

 その途中でエーミールの姿を認めた。カイと同様、取り残された者がいないか見回っているようだ。


「グレーデン殿! ルチア嬢は?」


 駆け寄り様で性急に声がけしたカイに、エーミールは驚きの表情を向けてくる。


「なんだ、忌み児か」

「なんだじゃないよ。グレーデン殿、今日ルチア嬢をエスコートしてたでしょ? 彼女は今どこにいるの?」

「ブルーメ嬢? いや、彼女は騒ぎの前に休憩室に行くと言ってそのときに別れたきりだ。東側にはいなかったのか?」

「いなかったからこうして探してるんだけど?」

「そうか……会場にはもう誰もいないはずだ。見に行くとしたら西側だな」


 状況が状況だけに、エーミールもいつものように突っかかってくることはなかった。

 なんとなくの流れで、ふたりでルチアを探して歩き出す。


(ベッティがついているだろうし大事にはなっていないと思うけど……)


 しかしやたらと異形が殺気立っている。嫌な胸騒ぎがしてカイは無意識に速足になった。


「敵陣は包囲済みってアデライーデ様に聞いたけど。例の異形の対処はどうなってるの?」

「ジークヴァルト様が向かわれたそうだ」

「ああ、それがいちばん確実だね」


 あの禁忌の異形は何度もリーゼロッテを狙って来た。力量からしても、迎え撃つのはジークヴァルト以上に適任者はいないだろう。

 とはいえ星を堕とす者とはいまだ未知なる存在だ。本来なら騎士団総出で対応すべき緊急事態と言えた。

 いずれカイが星に堕ちたら、自分もあんなふうに毒を吐いて回るのだろうか。今さらだがそんなバケモノになる自分が不憫に思えて、カイは他人事のように肩をすくめた。


(どうせ祓われるなら、ジークヴァルト様に痛めつけられるよりもリーゼロッテ様にやさしく浄化されたいかもな)


 そんな笑えないことを考えたカイは、ふと星読みの神殿でのことを思い出した。


「そういやおばばに、星読みに媚を売れって言われたっけか……」


 二輪の車に乗った、風変わりな老齢の女神官の言葉だ。あれは実はこのことだったのでは。

 自分の妙ちくりんな考えがやけに腑に落ちたカイだった。


「何か言ったか?」

「ううん、何でもないよ。ただの独り言。そんなことより早く行こう」

「ああ、異形もそうだが、まだ隣国の兵も潜んでいるかもしれない」


 エーミールは神妙に頷いた。

 しばらく会話もなく進んだが、見つかるのは怯え殺気立つ弱い異形の者ばかりだ。


「忌み児……ブルーメ嬢は本当に王族の落とし(だね)なのか?」

「それをオレに聞く? どうしても知りたかったらディートリヒ様あたりに直接聞いてみたら?」

「そ、そんなこと聞けるわけないだろう」


 ディートリヒが王位に就いている間にできた不義の子だと、貴族の間では噂されている。

 バルバナスの娘だと言う意見もあったが、女嫌いで有名なこともありその線は薄いというのが大多数の見方だった。


「聞けないってことは、グレーデン殿もディートリヒ様の子供って思ってるんだ?」

「違う、そういう訳じゃない」


 慌てた様子に、カイはふっと笑いをもらした。相変わらずエーミールは嘘がつけない性分のようだ。


「随分と余裕だな。ブルーメ嬢を心配してたんじゃないのか?」

「そりゃしてるけど。ま、ベッティもついてるしね」

「ベッティ……あのふざけた侍女か……」


 何かを思い出したように、エーミールは眉間にしわを寄せた。


「ああ見えてベッティは有能だよ?」

「それは知っている。神殿の件もあったからな」


 リーゼロッテ奪還の騒ぎが遠い昔のことのようだ。

 あのころはルチアもただの保護対象だったと、カイは知らず口元に笑みを浮かべた。


「ああ、そうだ、グレーデン殿」

「なんだ?」

「ベッティって実はオレの妹なんだよね」

「妹だと!? 何をふざけたことを」

「別にふざけてないって。腹違いだけど、本名エリザベスでデルプフェルト家の家系図にも載ってるし」


 これは裏社会に通じる人間には割と知られている情報だった。

 アデライーデも知っているし、エーミールの叔父ユリウスあたりも知っているはずだ。


「そんなわけだから、これからはあんま毛嫌いしないでやってよ」

「最初から毛嫌いなどしていない」

「そう? ならさ、ついでに何かあったときはベッティにやさしくしてくれると助かるんだけど」

「どんなついでだ。言われなくとも困った人間がいたら助けるのが騎士と言うものだろう」

「はは、さすがはグレーデン殿。頼りになるね」


 軽口を叩きながらも、それぞれ右と左に気を配り隅々まで隙なく見回っていく。

 ほどなくして、感じた異変にカイは廊下の先へと意識を向けた。

 人が争う気配、煽るような異形の悪意。そしてそこに時折混じる、弱々しい浄化の力。


「ベッティ……!」

「おい、忌み児!」


 駆け出したカイを、一瞬遅れてエーミールも追いかけてくる。

 ふたりの男にタコ殴りにされながら、向こうに進もうとしている別の男の足にベッティは行かせまいと必死にしがみついていた。


「ざっけんなっ」


 姿勢低く俊足で迫ったカイは、流れ技であっという間に男たちを昏倒させた。出遅れたエーミールがとどめの一撃を食らわせる。

 抱き起こし、怪我の具合を確かめた。どこも致命傷には至っていない。むしろ力を使い果たして脱力しているベッティに、カイは応急処置で自身の力を軽く吹き込んだ。


「ベッティ、しゃべれる?」

「坊ちゃま……は、やく、ルチア様をぉ……」

「ルチアはどこ?」

「西側にぃ」

「分かった」


 立ち上がろうとしたカイの袖を、ベッティが力なく掴んでくる。


「ルチア様、今日なぜか異形に狙われててぇ……あの、紅のいぎょ……う、にぃ」

「星を堕とす者に?」


 ベッティは小さく頷いた。

 息を飲み、カイは一瞬動きを止めた。


「忌み児、早く戻って手当を」

「グレーデン殿」


 抱き上げたベッティを、カイは無理やりエーミールに押しつけた。かと思うと、やさしくベッティの頭をいい子いい子となでつける。

 このいい子いい子は絶対に人目があるときにはしないものだ。不安そうなベッティがエーミールの腕から見上げてきた。


「カイ坊ちゃま……」

「よく頑張ったね、ベッティ。もう、何も心配いらないから」


 穏やかな瞳で微笑みかけて、カイはベッティから手を離す。はっとなったベッティは、それ以上の言葉を飲み込んだ。


「じゃあグレーデン殿、ベッティのことよろしく」


 先の廊下を鋭く見据え、カイはふたりに背を向ける。


「待て、忌み児! 貴様はどこへ行くんだ!」

「ちょっと宿命を果たしにね」


 その言葉を残し、カイはルチアを目指して駆け出した。



     ◇

 冷ややかな石造りの廊下を息を切らして走る。

 走りづらい靴はとうに脱ぎ捨てた。


(早くしないとベッティがあいつらに!)


 不安のあまり振り向くと、もうベッティの姿は見えなくなっていた。


「あっ!」


 長いドレスの裾に躓き膝をついた。

 手のひらを擦りむいたルチアを、心配そうに小鬼が覗き込んでくる。


「これくらい大丈夫よ。それよりも早く行かなくちゃ……」


 息が上がる中、顔を上げどうにか立ち上がった。

 ふらつく一歩を踏み出すと、すぐ先の壁がいきなり轟音を立てて崩れ落ちた。


「な、なにっ」


 恐怖で小鬼を強く抱きしめる。

 砂煙が舞う瓦礫の合間に人影が見えた。その人物はゆっくりと姿を現してくる。


「ひっ!」


 目の前に立ったのはひとりの男だった。虚ろな目は明後日の方を向き、泡を吹く口元からは不気味な笑い声を漏らしている。

 しかも男は先ほど見た紅い光を全身に纏っていた。あの光は異形の者の本体だ。ベッティの言葉が頭に響き、ルチアは恐怖で後退った。

 片手に長剣を引きずって、男はゆらりゆらりと歩を進めて来る。


「やだ、来ないで!」


 逃げ場を失い壁に追い詰められた。

 恐怖もあってか、煌々と輝く紅はさっきほどは美しく感じない。幻想的に揺らめく紅蓮に、それでもルチアは目を奪われた。


(駄目よ!)


 魅入られそうになり、慌てて視線を逸らした。取り憑かれるとこの男のようになってしまう。

 あんなひどい有様になってたまるものかと、ルチアは必死に自分を保とうとした。


「な、ゼ、目を背けル……? オ……マエに、は、コの輝きガふさわ、シい……」


 しゃがれ声で、男が一歩また一歩と近づいて来る。


「本当はオマ、エも分かっテい……るんダ、ろう? 幸セそうなヤつら、を妬む気、持ちヲ……押さエ、らレな、い自分に……」

「知らない! そんなことない……!」


 それ以上聞きたくなくて、ルチアは思わず耳を塞いだ。

 紅く光る男の手がこちらに向けて延ばされる。その輝きが美しいと思ってしまう自分に恐怖した。


「ひとツにな……れバ、楽にナる……早ク、我が力に……」

「触らないで!」


 首に触れそうになった手が、小鬼の叫びとともに弾かれる。

 男の前に躍り出た小鬼は、一瞬で紅の輝きに飲み込まれた。


「いやぁ! だめっ、やめて……!」


 輝きの中で、小鬼が苦しみ悶えている。そんな姿もすぐに溶けて視えなくなった。


「うそ、うそよ」


 呆然と唇が戦慄(わなな)いた。涙が溢れだした瞳はすぐに怒りの炎を灯す。

 その強い怨嗟を前に、皮肉にも紅の輝きは強さを増した。正気を手放したはずの男の唇が、にぃっと形よく弧を描く。


 湧き上がる怒りに任せ、ルチアは迫りくる男の顔を金の瞳で睨み上げた。



     ◇

「ったく、どんだけ広いんだよ!」


 駆ける廊下で毒づいた。かなり進んだが未だルチアは見つけられない。

 それでもここを通ったことは間違いなさそうだ。

 ルチアが脱いだであろう靴が無造作に転がっている。気配の残り香を辿って、カイはさらに走る速度を上げていった。


 胸騒ぎにどうしようもなく気が急いた。

 異形に襲われるルチアを助け出すとき、カイは星に堕ちる運命だ。

 今、その時が来た。

 そんな確信めいた予感を抱く。

 だがそれとともに、先にルチアが騎士団に保護されていればと、そんな笑い話になることもカイは同時に願っていた。


(なんだ……?)


 何かが崩れるような地響きがする。

 その直後、急激に紅の瘴気が広がるのが感じられた。


「ルチア……!」


 思うよりも早く駆け出した。

 すぐに取り憑かれた男の姿が目に映る。その背には膨大な数の異形の者が揺らめいていた。

 どの異形も苦悶の叫びを上げ、苦しみの中で身悶えている。


()()に飲まれたのか――)


 覆いかぶさるように、紅の女が男に絡みついている。男の自我などとっくに崩壊しているのだろう。

 ぶつぶつと何かを口にしながら、おぼつかない足取りで男は何かに手を伸ばした。


「やめて! 触らないでって言ってるでしょっ」


 半泣きのルチアが壁際に追い詰められている。

 今まさに届きそうな手の距離に、カイは思わずつぶやいた。


「オレのおもちゃに……」


 手の内に力をためて、迷わず走り寄る。


「汚い手で触んなよっ」


 拳とともに、浄化の力を容赦なく鳩尾に叩き込む。物理的な攻撃と相まって男は瓦礫の中へ吹き飛んだ。


「お待たせ、ルチア」

「カイ……」


 震える指がカイのシャツの背を掴んだ。大粒の涙がルチアの瞳にあふれ出す。

 そのとき男がゆらりと身を起こした。片腕が明後日の方向を向いている。それでも白目をむいた男は、マリオネットのような歪な動きでその場を立ち上がった。


「はは、目の前で見るとこりゃまた迫力だな」

「あの子もあいつに……わたしを庇ったばっかりに……」


 嗚咽交じりにルチアは唇を噛みしめた。

 近くで怯えていた弱い異形が引き寄せられて、見る間に紅の瘴気に飲み込まれていく。

 小さな断末魔の叫びはあっという間に怨嗟の呻きに変わった。肥大した負の集合体が蠢く様は、視る者の精神をも蝕んでいく。


「……ユルセナイ」

「ルチア!」


 闇に同調しかけたルチアの頭を引き寄せる。至近距離で上向かせ、カイはルチアの瞳を真っすぐに見た。


「ルチア、オレは誰?」

「……カイ」

「そう、その調子。ルチアはずっとオレだけを見て」

「うん……分かった」

「よし、いい子だね」


 口元に笑みを刻むと、触れていた鮮やかな赤毛から手を離した。

 振り返り、近づく男に対峙する。


「ルチアは下がってて」


 片腕をぶらぶらさせながら、男は剣を振り上げた。とっさに抜いた剣でそれを受けとめる。

 想像以上の重い斬撃に、カイは剣を取り落としそうになった。腰を落として衝撃を逃がす。なんとか間合いを取るも、男は折れた腕を伸ばして手のひらをこちらに向けてきた。

 男の腕と重なるように、紅の異形が手を伸ばしている。みるみるうちにその手の内に紅い瘴気が集まった。

 最大限に濃縮された穢れが放たれる。カイを狙ったかに見えたかまいたちは、わずかにその軌道がずれた。


「まずい……!」

「きゃあぁっ」


 咄嗟にルチアを抱え床の上を転がった。

 二撃目を感じて、不安定な体勢のルチアを庇ったまま柱の影に移動する。


「そこにいて!」

「カイ!」


 なおもルチアを狙う男の懐に飛び込んだ。瘴気で焼き付きそうな肺も厭わずに、カイは男の腹に拳を叩きこんだ。

 反動で倒れかけた体が起き上がりこぼしのようにゆらりと戻る。


「おとなしくっ、倒れてっ、くれよっ!」


 続けざまに攻撃を繰り出した。禁忌の異形を祓うことはカイの力では不可能だ。だったら操り人形を壊すしかない。

 踊るように弾かれて、男は一歩一歩と後退していく。瓦礫の手前まで追い詰めると、カイは最後の賭けに出た。


(こんくらいで倒壊すんなよ)


 動き回る合間に、穴が開いた壁の周囲に起爆剤を取りつけた。あとはこの男を押し込んで、スイッチオンで崩れる壁に埋もれてもらうだけだ。

 砦の強度を信じながら、カイは男の肩を押そうとした。


「なっ――……!」


 瞬間、腹部に衝撃を受ける。無意識に男との隙間に視線を落とした。

 脇腹に剣が刺さっている。それが分かっても、カイは男を渾身の力で突き飛ばした。

 すかさず起きた爆発に、轟音を立て壁が崩れ落ちていく。砂塵が巻きあがる中、男の姿は瓦礫に埋もれて見えなくなった。


(やったのか……?)


 腹に残された剣をカイは自ら引き抜いた。血しぶきを飛ばしながら、打ち捨てられた剣が床の上を滑っていく。

 傷口を強く押さえるも、指の隙間から血が滴り落ちる。


「ぐぅっ」

「カイ……!」


 ふらりとなったカイにルチアが駆け寄った。

 ルチアを支えにしながら、カイは細い手首を掴んでその右腕の袖をたくし上げた。

 二の腕にあったはずのルチアの龍のあざが消えている。


「はは、やった」


 痛みをこらえ、カイはかすれ声で笑った。

 ひとつ目の託宣は破られた。これでもうルチアが異形に命を狙われることはない。


「カイ、しっかりして……!」


 背に手を回してルチアがカイを抱きとめようとする。重みを支えきれず、ふたりは崩れ落ちるように座り込んだ。

 ルチアの膝に顔をうずめ、カイは震える手でスカートをまくり上げた。太ももの内側にあるあざを確かめる。

 そこには未だ龍のあざが残されていた。血のついた指であざをなぞってから、カイはそれにそっと口づけた。

 そうするだけで体が耐え難い熱を持つ。ルチアとつながった証が、今はただ愛おしくて仕方がなかった。


「うっ」


 呻き声を上げカイは体を仰向けた。ルチアの膝に頭を乗せた状態で激痛に思わず体を丸め込む。

 その間にも脇腹から流れる血が、カイの服を赤く染め上げていく。


「カイ……カイ……」


 震え声のルチアが傷に手を当ててきた。しかし一向に血が止まる様子はない。

 朦朧とする意識で見上げると、今にも泣きそうなルチアが覗き込んでいた。ルチアは確かに生きている。そう思うとじわじわと歓喜が湧き上がった。

 何百年と降ろされ続けた託宣が、今カイの手によって初めて違えられたのだ。


(ざまあみろ)


 これでルチアは龍の呪いから解き放たれる。あとはカイが星に堕ちるだけだ。

 それすらも龍の思惑通りなのか。そう思うと少々おもしろくはなかった。だがルチアの未来を守れたのだ。それだけでカイは満足だった。


 ただ、もうひとつのあざが消える瞬間をこの目で見ることは叶わない。そのことだけがカイは残念に思えた。


 ――星に堕ちるカイのためだけにある、カイを星に堕とす者


 ルチアのその証が消えるのは、カイが星に堕ちたあとだろう。


 ふとカイは弱々しい手つきで懐を探った。

 取り出した銀のペンダントをルチアに掲げてくる。


「忘れる前にこれ、返しとかなきゃ……ごめん、なんか汚しちゃ……って」


 血のついたペンダントがしゃらりとルチアの手のひらに落とされた。

 しっかりと受け取ったのを確認すると、カイは小さく息をつく。


「ルチア……」


 柔らかな頬に手を伸ばした。

 血のついた指が、ルチアの頬を赤く染めていく。


(ずっと……ずっと探していたんだ。オレが星に堕ちるための納得のいく理由を)


 カイと対をなす運命の相手――

(それがルチア……君でよかった)


「オレ、ルチアに会えて……本当に、うれしか……った」


 浅い呼吸の合間、切れ切れに言葉を紡ぐ。


「無理にしゃべらないで」


 ルチアの金色の瞳から大粒の涙が溢れ出す。

 その涙が滑り落ちては、カイの指を幾筋も伝っていった。まるで洗い流すかのようにカイの血を薄めていく。


(ああ、綺麗だ)


 この目に映るルチアの涙は、キラキラと輝く宝石のようだ。


(オレのためだけに流れる涙――なんて、なんて綺麗なんだ)


 カイは琥珀色の瞳を細め、しあわせそうに微笑んだ。


「ルチア、オレのルチア」


 大切なものに触れるように、カイは濡れるルチアの頬にその指を何度も何度も滑らせた。


「ルチア、ずっと、あ……」


 言いかけて、カイは言葉を止めた。もう(じき)に自分は星に堕ちるだろう。

 ルチアにはずっと笑っていてほしかった。その未来に、例え自分がいないのだとしても。

 これ以上苦しめたくない。あれほど消えない(くさび)を、ルチアの心に残していきたいと願っていたはずなのに――。


 矛盾するこの思いに、カイは自分でも可笑しくなってしまった。

 とろけるような笑顔を浮かべ、ルチアを縛る呪いの代わりにカイは別の言葉を選び取る。


「ルチア……今まで、本当にあ……りが、と……」


 その時、何もない空間からひと筋の光が真っすぐと()し込んだ。それはカイのわき腹目がけて、紅いしるしを刻みつけていく。


「ぐぁあっ!」

「な、なに、やだ、やめて! カイ……!」


 身をよじるカイにルチアは必死にしがみついた。不気味な光を遮るために、カイの傷に手を当てる。

 しかしルチアの手を通り過ぎ、光は尚もカイの体に刻印を穿ち続けた。

 苦悶の叫びがふいに途切れ、力なくカイの腕がぱたりと落ちた。ルチアを映していた琥珀の瞳が伏せられる。


「なに? いやよ、カイ、目を開けて」


 頬を軽く叩くも反応は返ってこない。その時ふっと腕の中の重みが不自然に軽くなった。

 カイの体が青銀の光に包まれる。かと思うと、その熱さえもあっけなく失われていった。

 目の前で、カイが幻のように薄れて消えていく。咄嗟にルチアはカイの体をかき抱こうとした。


「カイ……?」


 それは一瞬の出来事だった。空になった自分の腕に目を見張る。

 さっきまでこの腕の中にカイはいた。それなのに。

 周囲を見回しても、ルチア以外誰ひとりとして見当たらない。


「うそよ、カイ、どこにいるの? 返事をして! カイっ」


 残されたのは、自分の手につく血の跡だけだ。

 赤く染まった手のひらを呆然と見つめ、ルチアは何かを否定するように頭をふった。


「いやよカイ、お願い、いじわるしないで」


 わずかに残る熱の名残を守るように、震える腕でルチアは自身の体をきつく抱きしめた。


「カイ! カイ! カイ――っ」


 ルチアの悲痛の叫びだけが、その場に虚しく響き渡る。



 その日カイ・デルプフェルトは、託宣に従い星に堕ちた。

 同時に禁忌を犯した異形の者として、国の歴史から存在を抹殺されたのだった。



【次回予告】

 はーい、わたしリーゼロッテ。辺境の砦の急襲は被害少なく終わりを見せて。何も知らないわたしは、ただジークヴァルト様の帰りを待つ日々に戻って。そんなとき貴族名鑑を広げたわたしに突き付けられた真実は……。

 次回、第6章 嘘つきな騎士と破られた託宣 第34話「永遠の(くさび)」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!

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