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ふたつ名の令嬢と龍の託宣【なろう版】  作者: 古堂素央
第6章 嘘つきな騎士と破られた託宣

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第32話 思慕の残像

【前回のあらすじ】

 紅の女に再び相まみえるも、女に見過ごされそのまま事なきを得ようとしたリーゼロッテ。しかしその場にルチアが駆け込んできて。

 女はなぜかルチアに執着を見せ、ルチアもまた女の意識に同調しかかります。

 一方、混乱が極まる砦の戦いで、祖国を裏切ったツェーザルは寝返った敵陣からひとり逃げ出して。

 ジークヴァルトが走る中、ルチアを守るため紅の女と対峙するリーゼロッテ。発動した母マルグリットの力も弾け、リーゼロッテはとうとう紅の女の力に飲まれます。

 万事休すとなったリーゼロッテを、危機一髪でジークヴァルトが助け出すのでした。

 大公バルバナスの腕を振り切り、ジークヴァルトはリーゼロッテを目指していた。

 夫婦の契りを交わしてから、遠隔でも彼女の気配を感じ取れるようになった。多少の緊張を孕んでいるものの、現在彼女は危険な状況にはいないようだ。

 それほど危機感もなく歩を進めていたとき、突然リーゼロッテの気が膨れ上がった。彼女の浄化の力は乱れながら増大し続けていく。


「ちぃっ」


 大公の制止など無視すればよかったのだ。リーゼロッテ以上に大切なものなどひとつも存在しない。それを日々実感しているはずなのに、父の立場を(おもんぱか)った自分が呪わしく思えてくる。

 守護者(ジークハルト)に意識を合わせると、(くれない)の異形と対峙するリーゼロッテが脳裏に浮かんだ。

 その矢先、ジークハルトがぱっと目の前に現れる。そこで視えていた映像もぷつりと途絶えてしまった。


『リーゼロッテなら大丈夫だよ。マルグリットの力が守ってる』 

「どうしてこっちに戻ってきた!」

紅の女(かのじょ)とはちょっと相性悪いんだ。どうにもあの怨嗟の波動が気持ち悪くって』


 肩をすくめたジークハルトを置いて、全速力で駆け抜けた。その間にもリーゼロッテの苦悶に満ちた感情が伝わってくる。

 姿が目視できたところで名を叫んだ。安堵の顔で振り向いたリーゼロッテが、直後悲鳴とともに紅蓮の炎に飲み込まれる。


「リーゼロッテ!!」


 穢れた瘴気に浄化の力を叩きつけた。分厚い層に阻まれてリーゼロッテへは届かない。

 舌打ちと共に一点に集中し、針先程度の(あな)をこじ開けていく。そこから一気に力を吹き込んで、内側から瘴気を粉砕させた。

 霧散する紅の中から、ふらつくリーゼロッテが現れる。素早く抱き留めるのと同時に、残る穢れを祓うため全身に隈なく青の力を流し込んだ。


「ジーク……ヴァルト様……」

「すまない、来るのが遅くなった」


 涙を浮かべ頷くと、気丈にもリーゼロッテは自ら立ち上がった。

 すぐにでも休ませたいが、未だ異形の悪意はこちらへと向けられている。


「リーゼロッテ、下がっていろ」


 後ろ手に庇い、紅の女に向き直った。にらみ合いながら慎重に腰を落としていく。下に片手をついて、ジークヴァルトはリーゼロッテの立つ床に青の守りを張り巡らせた。

 ジークヴァルトの力が天井高く立ち昇る。青の円柱に包まれて、リーゼロッテはその場でへたり込んだ。


 対峙するは星を堕とす者――龍から罪の烙印を受けし禁忌の異形だ。直接相まみえるのは幾度目だろうか。この異形には何度も辛酸を舐めさせられた。

 託宣を受けた人間を害する行為は青龍への反逆とみなされる。星を堕とす者とはそんな愚行を犯し、龍に鉄槌を受けた者の哀れな末路だ。

 その存在がなぜか執拗にリーゼロッテを狙ってくる。理由はどうあれ、これ以上危険な目に合わせるわけにはいかなかった。

 全てを終わらせるため、ジークヴァルトは女に本気の殺意を向けた。


「ここで決着をつけてやる」


 動きを見せない女に、先制で攻撃を仕掛けていく。

 容赦せず初めから全力で叩き込んだ。女は腕のみでそれを受け止め、斜め上へと弾き飛ばした。

 間髪置かずに二撃三撃と繰り出すと、軽くいなされていた青の力が女の片腕をもぐように切り離した。

 ゆらっと陽炎(かげろう)が立ち昇り、失われたはずの腕が瞬くうちに再生される。舌打ちとともに連続で斬撃を撃ち放った。衝撃で揺れる女の肢体に、無数の穴が穿たれていく。

 倒れそうで倒れない。不気味な様相のまま、女はゆらりゆらりと近づいてくる。

 いくら抉り取られようとも、女の肢体は再生を繰り返す。(いたち)ごっこの状態に、それでもジークヴァルトは決して手を緩めなかった。


『ねぇ、ヴァルト』


 横で浮いていたジークハルトが、のんびりと口を開いた。あぐらの体を揺らす様子は、緊張感のかけらもない。


『今更だけど、どれだけやっても彼女は祓えないからね?』

「だからなんだ!」

『なんだって言われても。彼女も龍に選ばれし者のひとりだし?』

「龍に選ばれし? 一体どういう……」

『言葉通りだよ。この世界にとって彼女は必要不可欠……とても貴重な存在だ』


 意味不明な謎かけに眉を顰めるも、ジークヴァルトに問い返す時間は与えられなかった。

 狂気に満ちた瞳で紅の女が手をかざしてくる。そうはさせじとジークヴァルトはその手元に向かって力を打ち放った。

 ほんの一瞬間に合わず、放たれた紅と青とがすれ違いざま交差する。

 直撃を受けた女の腕が、肩ごとごっそり抉り取られた。

 にぃっと紅い唇が弧を描き、ジークヴァルトを大きく逸れた瘴気の塊がリーゼロッテ目がけて回り込む。


「きゃぁあ!」

「リーゼロッテっ」


 しかしその軌道はさらに曲げられ、リーゼロッテの脇をすり抜けようとした。

 その先にはルチアがいる。はっとしたリーゼロッテが後方を振り返った。


「いけない……!」


 ジークヴァルトが制止する間もなく、リーゼロッテは青の守りの円陣から飛び出していた。瘴気の前に立ちはだかって、その前進を食い止める。

 助けに入ろうとしたジークヴァルトの行く手を、無数のかまいたちが乱舞した。

 その間にもリーゼロッテへの攻撃が激化していく。今にも押し潰されそうなリーゼロッテに苦悶の表情が浮かび上がった。

 虚ろな瞳のルチアはいまだ床にへたり込んでいる。そのそばでベッティが、紅い穢れの流れ弾を必死の形相で祓い退けていた。


「ベッティ! 今のうちにルチア様をもっと安全な場所に連れて行って……!」

「う、ぁ、でもぉ、逃げるならリーゼロッテ様もご一緒にぃ」


 殺気立つジークヴァルトを気にしてか、ベッティは躊躇したまま動かない。


「お願いだから、早くっ」


 切羽詰まった声に、意を決したようにベッティはルチアの腕を引っ張り上げた。


「公爵様ぁ、リーゼロッテ様のお達しですのでぇ、どうぞ恨まないでくださいましねぇぇぇえぇ……!」


 強引にルチアを担いだベッティが、ものすごい勢いで駆け去っていく。

 その背に向かって異形の女が瘴気のかまいたちを連打した。


「どうしてルチア様ばかりを……!」

「いいからお前はこれ以上そこから動くな!」


 華奢な体を青の円へと押し戻す。同時にジークヴァルトは力をぶつけ、かまいたちをすべて相殺させた。

 ルチアたちの姿が見えなくなると、ようやく女は攻撃の手を降ろした。かと思うと全身から瘴気を放ち出し、瞬く間に辺り一帯が紅の濃霧に包まれる。

 視界が遮られる中ジークヴァルトは女の気配を探ろうとした。とそのとき、目の前の(もや)からすぅっと女の顔が浮き出した。


「――……!」


 完全に不意をつかれ初動が遅れる。そんなジークヴァルトに向けて、女の唇がにぃっと笑みを刷いた。

 至近距離から容赦なく濃密な瘴気を叩き込まれる。吹き飛ばされた体が強く壁に打ちつけられた。


「ヴァルト様!? 今瘴気を晴らしますわ!」


 遠くでスプレーが吹かれる音がする。次いで清廉な緑の気が広がった。

 薄らいでいく紅の中、(おぼろ)げに女の動きを察知した。寸でのところで二撃目を回避する。

 転がるように逃げた先で、待ち構えたかまいたちが再びジークヴァルトに激しく襲い掛かった。


「くぅっ!」

「ジークヴァルト様!」


 庇いきれず頬に走った裂傷に、一瞬遅れて血しぶきが舞う。

 態勢を整えることもままならず、無防備なジークヴァルトに再度かまいたちが放たれた。


「だめぇっ」


 走り寄るリーゼロッテの手から小瓶の液体が振り撒かれた。涙に触れたかまいたちが、じゅうと水蒸気のごとく霧散する。

 尚も女はジークヴァルトに向けて手をかざす。片膝をついたジークヴァルトは未だ立ち上がれないでいた。

 半泣きになったリーゼロッテが闇雲に小瓶の中身をぶちまけた。次々かまいたちが消し飛ぶも、女はおかまいなしにジークヴァルトに向けて連撃を繰り返してくる。

 やがて尽きた涙にリーゼロッテは青ざめた。女の唇が妖艶に弧を描き、間を置かず無慈悲な斬撃が放たれる。


「ヴァルト様……!」


 深い傷がいくつも走ったジークヴァルトの前に、両手を広げたリーゼロッテが女に立ちはだかった。

 その瞬間、女の姿が掻き消える。


「きゃあぁっ」

「リーゼロッテ!」


 手の届かない先で女がリーゼロッテを抱き込んでいる。ふたり重なり合った状態でリーゼロッテはその場に崩れ落ちた。

 うずくまったリーゼロッテが胸元を押さえている。駆け寄ろうとしたジークヴァルトは半ばで足を止めた。あまりの違和感に息を飲む。


「く……くくくくくっ」


 苦しげに俯いたリーゼロッテから不自然な笑いが漏れて出た。

 かと思うと、何事もなかったようにすっとその場を立ち上がる。


「リーゼ……ロッテ……」


 息を詰め、信じたくない思いでその名を呼んだ。

 ゆっくりとリーゼロッテはこちらに顔を向けてくる。目が合った瞬間、桜色の唇がにぃっと(いびつ)な笑みを刻んだ。


「馬鹿な女だ……大人しくしていればいいものを」


 耳障りにも思える声が、リーゼロッテの口から紡がれる。

 見つめ返す緑の瞳にいつもの輝きは見られない。虚ろになった目の奥には、明らかに異質な光が宿されていた。

 紅の女に体を乗っ取られている。それは誰の目にも明らかだった。

 見る間に異形の浸食が深まっていく。一刻も早く引き剥がさなくては、リーゼロッテの精神(こころ)が壊れさかねない。そんな危険な状況にジークヴァルトは凍りついた。

 気づかれないよう後ろ手に力を籠める。すかさずリーゼロッテの唇がノイズ交じりの言葉を吐き出した。


「動くな。でないとこの女が死ぬことになる」


 リーゼロッテの手が自身の喉元に当てられる。その指先からは紅の瘴気がにじみ出していた。

 ぐっと奥歯を噛みしめ、言われた通りに動きを止めた。さらに目線で促され、ジークヴァルトは貯めかけていた力を大気に解いた。


「いい子ね、坊や」


 勝ち誇った笑みを浮かべつつ、指示するようにくいと顎を動かしてくる。


「剣を持っているわね? それをお出しなさい」


 護身用に忍ばせておいた短剣を、迷いなく石造りの廊下に投げ捨てた。

 ジークヴァルトと見つめ合ったまま、緩慢な動きでリーゼロッテがそれを拾い上げていく。


「両手を上げて。そう……そのまま頭の後ろで組むのよ」


 ジークヴァルトは黙って従うしかない。リーゼロッテを人質に取られては、下手に動くこともできなかった。

 それでも隙をつく瞬間を見極めるため、その一挙手一投足を冷静な目で追っていく。

 ゆったりとした足取りでリーゼロッテは真正面に立った。立ち尽くすジークヴァルトの頬に、リーゼロッテ手ずから鈍く光る短剣が当てられる。

 軽くスライドしただけで、皮膚に線状の傷が走った。一瞬遅れて血の滴りが流れ出す。


「どう? 愛する女の手で殺される気分は?」


 (いびつ)な笑みを浮かべ、耳障りな声が楽しげに問うてくる。

 上目遣いの瞳をぎらつかせ、リーゼロッテは剣の刃先をジークヴァルトの首筋に押し当てた。


「くくくっ、龍の盾ほどの男が(ざま)は無い。あの世でこの女を存分に呪うといい」


 短剣を握る手に力が入る。磨き上げられた切っ先が、喉元の皮膚を今まさに突き破ろうとした。


「や……めて……」


 か細い声が漏れて出る。耳慣れた声にジークヴァルトははっとなった。

 虚ろな瞳のままリーゼロッテは静かに涙を流していた。せめぎ合うように、(つか)を握る手がぶるぶると小刻みに震えている。


(うるさ)い! お前はおとなしく引っ込んでいろ!」


 短剣が横凪ぎに空を切った。

 体の自由を取り戻すと、リーゼロッテの唇が再び妖しげに弧を描く。


「そうだ……そこで指を(くわ)えて見ているといい。お前のこの手が、愛する男を死に至らしめる瞬間を」


 心底楽しげに言いながらリーゼロッテは短剣を構え直した。

 宿す魂の心根ひとつで、こんなにも器が変わるものなのか。悪鬼のごとく歪んだ顔はとてもリーゼロッテだとは思えない。


「さぁ悔やむがいい! こうなったのもすべてお前の愚かな行いのせいだ……!」


 らんらんと目を輝かせ、リーゼロッテはジークヴァルト目がけて両腕を振り上げた。


     ◇

 ほんの一瞬の油断からだった。禁忌の異形に乗っ取られ、体の内側から囚われる。

 自分の中のどこか奥に押し込められて、あまりの息苦しさにリーゼロッテは意識を手放しかけた。


(心の底まで明け渡したら駄目――!)


 本能が知らせる警鐘に、なんとか正気を保とうと必死になった。

 それなのに体がまったく言うことを聞いてくれない。女の意のままに操られ、剣を持つこの手がジークヴァルトの肌を傷つけていく。


「や……めて……」


 反撃はおろか、ジークヴァルトは微動だにせずただ耐えている。このままでは致命傷を与えるのも時間の問題だ。

 懸命に抗うも、どうあっても主導権を取り戻すことはできなかった。さらに皮膚に食い込もうとする短剣を、リーゼロッテは死に物狂いで押しとどめた。


(やめて、やめて、やめて!)


 いたずらに流れ出した涙が、女の一部を強酸のように爛れさせていく。

 その痛みをリーゼロッテも等しく受けながら、女の苛立ちが膨れ上がるのをつぶさに感じ取った。


「煩い! お前はおとなしく引っ込んでいろ!」


 やっとの思いで拘束していた腕が、怒声とともに振り解かれる。


「そこで指を咥えて見ているといい。お前のこの手が、愛する男を死に至らしめる瞬間を」


 柄を握り直した女から嬉々とした感情が伝わってきた。

 泣き叫ぶ心とは裏腹に、自分の腕が短剣を高々と持ち上げていく。自分の体だと言うのに、どうあってもその動きを止められない。


「さぁ、悔やむがいい! こうなったのもすべてお前の愚かな行いのせいだ……!」

(いやぁっ)


 鋭利な(やいば)が迷いなくジークヴァルトへと振り下ろされる。


(お願い! ジークヴァルト様、避けて、避けて、避けて……!)


 拒絶するように、リーゼロッテは声なき声で叫び続けた。しかしどれだけの思いで叫ぼうと、言葉のひとつ発することは叶わない。

 あわやと言う寸前、刃先は突然動きを止めた。

 短剣を握る手はそのままに、女の意識がジークヴァルト以外の何か――ここではないどこかに向けられる。

 状況が呑み込めない中、女の求めに従ってリーゼロッテは背後を振り返った。

 そこには見慣れない初老の男がいた。目が合って、大きな舌打ちを返される。


「貴様は……ジークフリート・フーゲンベルクか? いや、にしては若すぎる」


 ジークヴァルトを見やった男はそんなことを独り()ちた。

 知らない男にも拘らず、なぜか聞き覚えのある声だった。それを不思議に思う前に、リーゼロッテの唇が小さく戦慄(わなな)いた。


「ェ……ザ……ル……」


 その刹那、すべてが(あか)一色で染め上げられた。

 荒れ狂うはどろりと重い感情だ。なす(すべ)なく怨嗟の濁流に飲みこまれ、心ごとリーゼロッテは押し流されていく。


「ツェーザル――――っ!」


 我を忘れ、叫んでいた。

 一時も忘れることのなかった、憎く、そして誰よりも愛しい――あの男の名を。


 破裂音とともにいきなり空間が弾けた。次いで奇妙な浮遊感に包まれる。

 気づくとリーゼロッテは横顔を柔らかな枕に預けていた。誰かに腕枕をされていて、その人物をうっとりと見つめている。

 同じ枕に頭を沈めた男は、野心を秘めた瞳で高い天井を挑むように見上げていた。


「オレはここで終わるような男ではない」

「ええ、ツェーザル。あなたこそが王に相応しいわ」


 事後の心地よい疲労感に包まれて、同意以上の賛辞を返した。

 最愛の(ひと)との()も言われぬ至福の時だ。睦言を交わす僅かな時間は、短くとも心を満たしてくれる。

 夢を語る最中にも、腕枕の手がやさしくこの髪を撫でてくる。それがまたうれしくて、胸板にリーゼロッテは細い指先を滑らせた。


(これは紅の(この)(ひと)の記憶……?)


 幾度も覚えのある感覚だったが、しかしこれまでにないほどの臨場感だ。視えている光景が、今まさに自身に起きている出来事のようにしか思えない。

 そう考えるのも束の間、リーゼロッテの意識は更に深く女に溶け込んでいった。


「知っているか? ディートリヒの赤毛は数代前に市井育ちの下賤の女の血が混ざった証……そんな卑しい血筋をどうして王家と認められようか」

「まったくその通りね」

「だろう? しかもディートリヒが迎えた王妃は隣国の王女だ。その蛮族となした子が王位に就くなど全くもって笑止千万」


 さらに生まれた王子は父親とは似ても似つかないと、そんな噂話が貴族の間ではもちきりになっている。

 セレスティーヌ王妃の不義を疑う声すら上がっている現状に、ツェーザルは苛立ちの息を吐いた。


「口には出せないだけでハインリヒ王子の廃嫡を望む者は多いはずだ」


 ――ああ、なんと凛々しく愛しい(ひと)だろうか。

 狂おしいほどの思慕が高まって、知らず唇から甘美のため息が漏れて出る。

 憎々しげに歪められた横顔を、熱の籠った視線で見つめ続けた。


「このまま立太子させてなるものか。好都合にも、病弱なセレスティーヌ王妃の命はすでに風前の灯火。王子を亡き者にできさえすれば……」

「ハインリヒ王子が死ねばツェーザルが王になれるの?」


 ストレートな物言いに、ツェーザルはふっと笑みを浮かべた。

 止まっていた指の動きが、再びこの髪を愛撫する。


「そのために必要な一歩だ。噂がどうあれ、現時点で王子は正当な王位継承者。この邪魔な存在さえ排除できれば、偽りの王家を根絶やしにするのも容易(たやす)くなる」

「そうすれば新王ツェーザルが誕生するのね」

「ああ、そのときはお前を正妃として迎えよう」

「ツェーザル……!」


 歓喜のあまり声が詰まった。王となったツェーザルが選ぶのは、政略妻のあの女ではなく自分なのだ。

 王妃ともなれば、こんな寂れた館で隠れるように逢瀬を重ねる必要もない。愚鈍で醜悪な正妻に感じていた劣等感が、途端に優越感に様変わりした。


「オレを支えるため、ずっとそばにいてくれるな?」

「ええ……ええ、もちろんよ、ツェーザル」


 瞳を潤ませ、心から頷き返す。この(ひと)に相応しいのは、若さと美貌を兼ね備えた自分以外にあり得ない。

 冠を戴いたツェーザルと並び立ち、大勢の者にかしずかれる。その場面を想像するだけでどうしようもなく心が逸った。

 愛するツェーザルとなら、例え修羅の道であろうと天国に変わるだろう。勝ち誇った気分に浸っていると、流れるように場面が移ろった。


 期待とは裏腹に、無為に時間ばかりが過ぎていく。どんなに恋焦がれても、日陰者の身として最愛の(ひと)と会うのもままならない。

 日々は重ねられ、訪れを待つだけの毎日に苛立ちと猜疑が胸を大きく渦巻いた。

 王子を亡き者にできさえすれば――。

 あの日のツェーザルの言葉が繰り返し頭に木霊する。

 ハインリヒがいる限りツェーザルとの未来は永遠にやってこない。現実がままならないのはすべて王子のせいなのだ。

 邪魔な存在が未だのうのうと生き延びていることに、日増しに憎悪の念が募っていった。


 そんなある日、絶好の機会が訪れた。

 ツェーザルの妹イジドーラは、頻繁に王妃に目通りしている。そのお付きの侍女を装って、まんまと王妃の離宮に潜り込むことに成功した。

 歩を進めるたび、ガーターベルトに忍ばせた短剣の重みを感じた。

 冷ややかな刃を王子の心臓に突き立てる。その瞬間を思い描くと、ゾクゾクとした高揚感が湧き上がった。


 控えの間に残されて、ひとまずイジドーラの背を見送った。

 話し相手に呼ばれる令嬢の中で、イジドーラはことのほかセレスティーヌ王妃のお気に入りらしかった。ツェーザルの策略で懐に入り込ませていると言うのに、なんと馬鹿な王妃だろうか。

 間もなく自分がその座にとって代わるのだ。短剣を握りしめる手がどうしようもなく汗ばんだ。


 女官の目を盗み部屋を出る。気づかれないようイジドーラを追いかけ、上手いこと王妃のいる部屋に辿り着いた。

 無駄に豪華な衝立(ついたて)の影で、息を(ひそ)ませ好機を待った。

 片言のセレスティーヌ王妃は寝台で横たわっている。イジドーラとの会話の合間に、無邪気な赤子の笑い声が聞こえてきた。

 あれこそが忌々しきハインリヒ王子だ。憎しみが募るほど、手の震えが止められなくなる。張り詰める心をどうにかなだめ、浅い呼吸を繰り返した。


 しばし時が過ぎ、女官の声がけでイジドーラが立ち上がった。退出の挨拶ののちに、衣擦れの音が部屋を遠ざかる。

 最大の好機に迷わず奥に踏み込んだ。ゆりかごにいるハインリヒ王子目がけ短剣を振りかざす。


「死ねぇ、ハインリヒ王子ぃいっ」


 無防備な王子の胸に、渾身の力で短剣を突き立てた。

 しかし悲鳴とともに王妃が割り込んでくる。王妃の肩をかすめた短剣は、僅か王子には届かなかった。


「どけっ、心配せずともお前もすぐに後を追わせてやる!」


 王妃を押しのけ、今度こそ王子の心臓へ狙いを定める。

 尚も食い下がろうとする王妃ともみ合いながら、力づくで剣を振り下ろした。


「セレスティーヌ様……!」


 イジドーラの体当たりに、またもや狙いが大きく逸れる。

 苛立ちとともに大声を張り上げた。


「すべてはツェーザルのため! なぜそれが分からないっ」


 ザイデル家の駒であるならば、イジドーラは自分を幇助すべき立場だろうに。

 これさえ成し遂げれば、ツェーザルとの未来が待っている。イジドーラを振りきった反動で、短剣を大きく振りかぶった。

 またも体当たりを受け、切っ先は王子すれすれのリネンへ突き刺さった。執拗に邪魔をしてくるイジドーラに肘鉄を食らわせる。


「これで終わりだ!」


 目前の勝利に歓喜の雄叫びを上げた。

 大泣きする王子に刃が突き立てられる。その寸前、しかし握る短剣ごと腕が高く弾かれた。


「ぎゃぁああぁあっ」


 瞬間、耐え難い灼熱に包まれた。

 何が起きたのか分からなかった。逃げ出そうにも指先ひとつ動かせない。

 天井からひと筋の紅い光が差し込んだ。それは喉元へと狙いを定め、紅玉に輝く烙印を白い肌に刻みつけていく。

 途切れることを知らない激痛の中、最愛の(ひと)への想いだけがこの胸に渦巻いた。


 リーゼロッテの目にはその残像が世界でたったひとつの真実に映った。

 例えそれが、重苦しい執着だったとしても。


【次回予告】

 はーい、わたしリーゼロッテ。紅の女に取り憑かれてしまったわたし。禁忌の異形の哀しい過去は言いようのない痛みをもたらして。そして再びルチア様に迫る異形の魔の手。そのときカイ様が選んだ道は――。

 次回、6章第33話「破られた託宣」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!

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