第31話 錯綜の砦
【前回のあらすじ】
砦の舞踏会で母親の形見のペンダントを失くしてしまったルチア。探しにいったベッティは、それをカイが拾ったことを知らされます。
自分以外の何かにルチアが心を揺らすことに不満を覚えたカイは、ペンダントをベッティに手渡すことをためらって。自身のルチアへの執着に呆れつつ、それでもルチアを縛り続けることにカイは至福を感じます。
そんな中いきなり敵襲が。リーゼロッテは居合わせたルカとツェツィーリアと共に、とっさに休憩室に避難します。
ジークヴァルトの到着を待つ間、今度は異形の者が騒ぎだして。ルカの活躍で危機を逃れるも、集まる異形の者たちの目当てはリーゼロッテの力。これ以上被害を広げないためにも、部屋にふたりを残してリーゼロッテはジークヴァルトの元を目指すことに。
弱い異形相手に無事乗り切れそうと安心した最中、禁忌の異形である紅の女が再びリーゼロッテの前に現れるのでした。
見やった先は禍々しい紅い靄が広がっていた。
瘴気が最も濃い中心に、紅の女が佇んでいる。目の覚めるような深紅のドレス、喉元には紅玉の輝き。あれは龍の烙印と呼ばれる罪の証だ。
青龍に鉄槌を受けし禁忌の異形を前に、リーゼロッテは涙の小瓶を握りしめた。
しかし最後に相まみえた夜会では、この涙はなんの効力も持たなかった。急速にあの日の恐怖が蘇り、知らず唇を戦慄かせた。
(大丈夫、わたしはもう以前のわたしじゃないわ。今なら少しの間くらい持ちこたえられるはずだもの)
ジークヴァルトはすぐ近くにいる。その確信がリーゼロッテを奮い立たせた。
何が起きようと落ち着いて対処をするだけだ。ジークヴァルトが来るまで頑張ればいいのだと、女の次の動きを静かに待った。
紅の女がゆっくりと歩を進めてくる。覚悟を決めるも、だが女が見据えていたのは廊下の先だった。
(わたしがいることに気づいていない……?)
紅の女はリーゼロッテの横を素通りしようとしている。その間にもジークヴァルトの気配がこちらに向かっているのが感じ取れた。
そのとき一匹の小鬼が錯乱した様子で、突然ふたりの前に躍り出た。
(いけない! 瘴気のせいで恐怖が増幅しているんだわ!)
あのままでは紅の女の力に飲み込まれてしまう。咄嗟にリーゼロッテは薄めた涙のスプレーを、小鬼の頭上に振り撒いた。
ぴぎゃっと鳴いて、小鬼は驚いたように動きを止めた。きゅるんとした目つきをリーゼロッテに向けてくる。
正気を取り戻した様子にほっとするも、どこか見覚えのある小鬼に思えた。
「あなた、もしかして……」
それはいつもルチアのそばで見かける小鬼だった。ルチアも近くにいるのでは。はっとして辺りを見回した。
その先で紅の女がこちらを見やっていた。今度こそ確実に目が合って、リーゼロッテと小鬼は同時に身を強張らせた。
しかしそれも一瞬のこと、すぐに女は興味なさげに視線を外した。リーゼロッテを放置して、再び歩を進め始める。
見逃されたのか、単に興味がないだけなのか。理由は見当もつかないが、これ幸いとばかりにリーゼロッテは小声で小鬼を促した。
「今のうちよ。ほら、あなたもわたくしについてきて」
背にした壁を伝い、女からそうっと遠ざかる。決して気を抜かないよう慎重にゆっくりと移動した。
(遠くから誰か来る……?)
慌ただしく近づいてくる足音に嫌な汗がにじみ出た。走り方からしてジークヴァルトではなさそうだ。
「あっ、リーゼロッテ様!」
「ルチア様!?」
息を切らしルチアが駆け寄ってくる。
小鬼がぴょんと飛び跳ねて、助けを求めるようにルチアの腕に飛び込んだ。
「よかった、こんなところにいたのね。もうあなた、いきなり部屋を飛び出すから驚いたじゃない」
「ルチア様、ここは危険なの。早くあちらへ」
事情を説明する時間も惜しく、リーゼロッテはルチアの腕を掴み取った。
普段と違った淑女らしからぬ動きに、ルチアが訝しげな顔になる。
「リーゼロッテ様? 一体何が」
「詳しくあとで。まずは安全な場所へいきましょう」
無理やりに連れて行こうとするも、戸惑ったようにルチアは後ろを振り返った。
「あれは何ですか……?」
立ち止まり、遠くにいる紅の女の背に目を凝らす。
「あそこら辺、真っ赤だわ……」
「あの女は本当に危険なの!」
「あのひと?」
「訳はあとで話すから今すぐここを離れるのよ」
ぐずぐずしていたら何が起こるか分からない。せっかく見逃してくれたのだ。ここは早急に去るのが吉だろう。
「さ、早く。あちらにいけばジークヴァルト様がいらっしゃるから」
「公爵様が?」
「ええ、ヴァルト様なら何があっても守ってくださるわ」
力強く言うと、なぜかルチアは唇を噛みしめた。焦るリーゼロッテとは裏腹に、頑なにルチアはこの場から動こうとしてくれない。
同時にルチアの腕を逃れた小鬼が、奇声を上げて再び騒ぎだした。殺気立った様子で落ち着きなくあちこちを跳ね回る。
そんなとき紅の女が歩みを止めた。ゆっくりと振り向いて、じっとこちらに注意を向ける。
途端に紅の瘴気が膨れ上がった。彩も粘度も質量も、何もかもが濃密となってリーゼロッテたちの周囲に絡みつく。
こうなればルチアだけでも先に逃がすしかない。圧倒的な邪気に包まれて、足がすくみそうな中リーゼロッテはルチアの背を強く押し出した。
「いいから早くっ」
突き飛ばす勢いに、つんのめったルチアが怒りの表情で振り返る。それに構っている余裕もなく、リーゼロッテは紅の女に自ら近づいた。
ゆっくりと掲げられた片手に、いつか受けた無数のかまいたちを覚悟する。しかし紅の女が捉えていたのは、明らかにリーゼロッテ以外の何かだった。
(どういうこと――?)
その疑問が浮かぶと同時に、女の唇がにぃっと形良く弧を描く。次の瞬間、灼熱の瘴気が迷いなくルチアに向かって放たれた。
「いけないっ、ルチア様……!」
咄嗟に前に飛び出して、リーゼロッテは穢れた紅に立ちはだかった。
◇
「あなたたちは鍵をかけて絶対に外に出ないこと。いいわね?」
強く言い含め、アデライーデはリーゼロッテたちを残し部屋を出た。
施錠音を確認し、すぐさま広間を目指す。大方の招待客は安全な場所へと誘導できたはずだ。残っているとすれば事態を把握できていない酔っぱらいくらいのものだろう。
(ったく、何だって言うのよ、もう!)
隣国の手の者がこの地に入り込んでいる話は聞いていた。しかし何も今日この日を選んで攻め込まなくてもいいではないか。母親の祝いの席に水を差され、抑えようのない苛立ちが湧き上がる。
「いいわよ、この砦に来たことを骨の髄まで後悔させてあげるわ」
「はは、これは心強いお言葉ですね」
出くわしたのはカイだった。軽口を叩いているが、アデライーデ同様周囲に隙なく警戒を向けている。
「戦況をお伺いしても?」
「お父様の指揮で敵陣は砦の西の一角に追い詰めたわ。招待客は安全な東側に。カイも誰か見つけたらそちらに誘導して」
「承知しました」
「あなたは酔ってないようね?」
「まぁ、言っても任務中でしたし」
「騎士の鑑ね。ニコなんか舞踏会に浮かれてへべれけよ」
使えないったらありゃしない。舌打ちと共にそう付け加えたとき、一気に全身が総毛立った。
「この気配は――」
覚えのある紅の瘴気に、アデライーデは来た廊下を振り返った。
そこかしこにいた弱い異形たちが一斉にざわつき始める。ある者は怯え、ある者は殺気立つ。伝播するようにその混乱がどんどん広がっていくのが感じ取れた。
「どうしてこんなときに」
「星を堕とす者……」
アデライーデの舌打ちと同時に、カイの口から呟きが漏れる。
この禍々しい気配を放つ禁忌の異形は、幾度もリーゼロッテを狙ってきた。今すぐ引き返すべきだろうか。
しかし自分が行くよりもジークヴァルトを向かわせた方が話が早い。リーゼロッテの安全確保ためにも、アデライーデは広間へ向かうことを瞬時に決めた。
バルバナスと早急に合流し、指示を仰がなくてはならない。紅の異形に対処するか、敵国との戦闘に加わるか。騎士団の一員として独断で行動するわけにはいかなかった。
「アデライーデ様、オレは招待客の様子を見てきます」
「そうしてもらえると助かるわ。わたしはバルバナス様のもとに戻るから」
招待客の対応には母ディートリンデが当たっている。大勢の砦の兵士が護衛についてはいるが、この異形の騒ぎにどうしても胸騒ぎ覚えた。
カイと別れ、アデライーデは広間へと駆け込んだ。あれほど賑やかだった舞踏会は見る影もない。
入るなり何やら口論が聞こえてくる。閑散としたフロアの片隅で、バルバナスがジークヴァルトの腕を半ばねじり上げて乱暴に掴んでいた。
無言で殺気を孕みつつ、それでもジークヴァルトはバルバナスの手を振り解くことができないでいる様子だ。
そんなジークヴァルトをバルバナスはどこにも行かせまいとしている。それを父ジークフリートが見咎めているようだった。
「駄目だ、ジークヴァルト、お前も騎士団とともに戦闘に加われ」
「いや、いい。ヴァルトはすぐにリーゼロッテの元に向かうんだ」
「ああん? オレの命令に逆らおうってのか?」
「お言葉ですが、ここで全ての権限を委ねられているのは辺境伯であるこのわたしです。いかに大公の命令だとしても、我々に従う義務はありません」
「なんだと?」
「バルバナス様、落ち着いて!」
不穏な空気を察知して、アデライーデはすぐさまふたりの間に割って入った。
バルバナスも舞踏会に顔を出していた。酒が入っていたら状況を見誤る。
「今日は一滴も飲んでねぇ。オレは至って冷静だ。戦況を見て最善の判断を下しているまでだ」
さりげなく酒のにおいを確かめているのが伝わったのだろう。先回りしてバルバナスが答えた。
騎士団長としての采配の腕は、アデライーデが一番によく分かっている。戦神と謳われるバルバナスだ。これまでも戦いが混乱を極めれば極めるほどに、その真価は如何なく発揮されてきた。
だが今は父の主張を支持するよりほかはない。紅の異形の件もある。何よりリーゼロッテが心配だった。
「敵陣は包囲済みなんだし、ジークヴァルトがいなくても砦と騎士団の兵力で十分対処できるはずだわ」
「だとしても国の有事だ。貴族なら身内よりも優先すべきことがあるだろう」
「国のことを言うならリーゼロッテの安全の確保も大事じゃない。バルバナス様だって異形の騒ぎに気付いてないわけじゃないでしょう? 今すぐジークヴァルトを行かせるべきよ」
「アデライーデの言う通りです。ジークヴァルトとリーゼロッテは龍から託宣を授かった身。この場で誰よりも最優先されるべき存在と言えましょう」
「ちっ、龍付きはいいご身分だな」
毒づいてバルバナスはジークヴァルトから手を離した。
礼もとらずにあっという間に駆け去ったジークヴァルトを、バルバナスは忌々しげに見送っている。無礼を咎めると言うよりも、託宣を受けた者に対するいつもの苛立ちなのだろう。
託宣を受けなかったバルバナスは、王の長子でありながら騎士団長の身に甘んじた。王位は龍に選ばれた弟のものとなり、託宣の存在を知らない貴族たちから馬鹿にされ続けていることをアデライーデは知っている。
しかしそんな王族のプライドも、龍の意思の前では塵ほどの意味も持ちはしない。
憎しみに震えるバルバナスの横顔を見上げ、現実はいつでも残酷だと、アデライーデはそんなことを思った。
◇
(形勢は不利としか言いようがないな)
異国の言葉が飛び交う中、ツェーザルは冷静に戦況を見極めていた。
どう考えても分が悪すぎだ。オーランウヴスのナラン皇子の後方に控えながら、ここを抜け出す算段を早々に模索し始める。
長きに渡り流刑の地に囚われていたツェーザルは、数年前からオーランウヴスからの接触を受けていた。牢から助け出すことを条件に、ナラン皇子に国の機密情報を差し出した。
秘密裏に計画が立てられて、隣国の手引きのもと晴れて自由を取り戻すことができた。ここまでは何もかもが順調に思えていた。
オーランウヴスの皇帝の座を得るために、ナラン皇子はハインリヒ王の首を欲している。その手助けをする対価として、ナランがブラオエルシュタインを掌握した暁には、ツェーザルが新しい王となる密約を取り付けた。
だが蓋を開けてみるとどうだろう。
ナラン皇子は国境を守るヴォルンアルバを強襲し、砦の一角を占拠した。そう言えば聞こえはいいが、辺境伯であるジークフリート・フーゲンベルクに瞬く間に包囲され、今こうしてあっさり窮地に陥っている。
話を整理すると、何年もかけてようやく潜入した敵国で、オーランウヴス勢はここに来て騎士団に尻尾を掴まれてしまった。そこでナランは考えた。このまま手をこまねいていると、これまでの努力が全て無駄になってしまう。ならば一か八かで砦を占拠しようと、強引な手段に出たというわけだ。
舞踏会が開かれる今日が最善の機会と捉えたらしい。砦の兵も王城騎士も、皆酔いが回って使い物にならないはずだ。その目論見は当てが外れてしまったようだ。
(ヴォルンアルバは難攻不落の砦。そう簡単に落とせる訳はあるまい)
その上騎士団長バルバナスは、兵の駒使いに秀でている。それはツェーザルも認めるところだ。
険しい山脈を越え、ここまで下の者を従えてきたナランもなかなかのものと言えなくもない。これがまったくの不意打ちだったなら結果もまた違ったのだろう。だが時はナランに味方してくれなかった。
(助け出してもらった対価はもう十分に払ったはずだ)
ならばこれ以上義理立ては不要のこと。混乱に乗じてツェーザルはオーランウヴスの陣から抜け出した。
「ここは危険です! 早く東側に避難を!」
途中若い騎士に呼び止められるも、舞踏会の招待客に間違われたのをいいことにツェーザルは堂々と安全な場所に移動した。
人気のない区画で、背後からその騎士に襲い掛かった。不意打ちに昏倒した騎士から剣を奪い去り、迷わず砦の出口に向かう。
(馬さえ手に入ればこっちのものだ)
多少の雪には慣れたものだ。たどり着いた先で誰かしら貴族を見つければ、その先はどうにでもできる。何しろこの頭の中には、各家の弱みが山ほど記憶されているのだから。
「ようやく、ようやくだ……」
取り戻した自由もあって、抑えきれない高揚感が止めどなく湧き上がる。
あの日潰えた大望を叶える時が来たのだ。ツェーザルは己の栄光ある未来を確信した。
同時にこれまで耐え忍んできた屈辱の数々が思い起こされる。ツェーザルの瞳に復讐の炎が燃え盛った。
「まずはディートリヒ……そしてイジドーラ、お前もだ」
手塩にかけて可愛がってきた妹だ。その裏切りは誰よりも罪が重い。
恐怖に打ち震えながら断頭台に昇るイジドーラの姿を思い描き、ツェーザルは至福の笑みをその口元に浮かべた。
◇
いきなり部屋から飛び出した小鬼を追いかけて、ルチアは武骨な石造りの廊下を息を切らし駆けていた。
奇声を上げながら、小鬼は何かに怯えるように闇雲に走り回っている。
「もう、一体どうしちゃったって言うのよ!」
早くしないとベッティが戻ってきてしまう。ちゃんと休憩室で待っていると約束した手前、間に合わなかったらカイに何か報告されてしまうかもしれない。
しかし何もせず放っておくには、小鬼の錯乱ぶりがひど過ぎた。尋常ではないその様子に見捨てることもできないルチアだった。
そうこうしているうちに小鬼を見失う。慌てて進んだ先に見知った者の姿を見つけた。
「あっ、リーゼロッテ様!」
駆け寄ると、リーゼロッテの影から小鬼が跳ねて腕に飛び込んできた。
「よかった、こんなところにいたのね」
「ルチア様、ここは危険なの。早くあちらへ」
性急にリーゼロッテが腕を掴み取ってくる。らしからぬ乱暴な手つきに、ルチアは思わず眉根を寄せた。
「リーゼロッテ様? 一体何が」
「詳しくあとで。まずは安全な場所へいきましょう」
強引に引っ張られるも、何か熱を感じた気がしてルチアはなんとなく後ろを振り返った。
遠くが赤く輝いている。眩しくて奥が見通せないほどだ。
「あれは何ですか……?」
その輝きはどんどんと増していくようだった。
「あそこら辺、真っ赤だわ……」
炎が踊るかように、中心部が激しく揺らめいている。あまりの美しさにルチアは釘付けとなった。
「あの女は本当に危険なの!」
「あのひと?」
どこに人がいると言うのだろうか。どんなに目を凝らしてみても、ルチアには赤い輝きにしか見えなかった。
それなのに焦れたようにリーゼロッテが手を引っ張ってくる。
「あちらにいけばジークヴァルト様がいらっしゃるから」
その瞬間、ルチアの心のどこか奥がチリチリとした不快な熱を持った。と同時に舞踏会で公爵と仲睦まじげに寄り添っていたリーゼロッテの姿が脳裏に浮かぶ。
「ヴァルト様なら何があっても守ってくださるわ」
自信満々に放たれた言葉に、ルチアは口元が歪んだのが自分でも分かった。
――どうせルチアはリーゼロッテのように愛されることはない
そんな優越感をリーゼロッテから向けられた気がして、言いようのない苛立ちが腹の底から湧いてくる。
その黒い感情は蟲のごとく蠢いて、ルチアの心を怒り一色に染め上げていく。
知らず胸に抱く小鬼を抱きつぶしそうになる。奇声を上げた小鬼は、逃げるようにルチアから離れていった。
「いいから早くっ」
いきなり強く突き飛ばされて、ルチアはリーゼロッテを睨みつけた。
人目を憚らず、公爵に愛されるリーゼロッテが憎い。
あんなふうに、自分もカイに愛されてみたいのに――
リーゼロッテが何かを叫んでいる。
嫉妬と猜疑が膨れ上がって、この心が焼き切れてしまいそうだ。
激しく揺らめく紅蓮の輝きが、唯一心地よく目に映った。
あの深紅こそ、今のルチアに相応しい。
飲まれるように、ルチアの意識が真っ赤に染まろうとした。
◇
「ルチア様! その女に同調しては駄目――……!」
紅の女の力に魅入られたかのように、ルチアが心のすべてを明け渡そうとしている。そこを引きはがすため、リーゼロッテはルチアの盾となり女の力を押し返そうとした。
清廉な緑の輝きと毒々しい紅がせめぎ合う。流れ出る溶岩さながらに、女の力が重く執拗に絡みついてきた。
持久力を試されて、徐々にリーゼロッテの緑が浸食を許していく。かざす手のひらが悲鳴を上げ、そのあまりの熱量にリーゼロッテの額に玉の汗が浮かび上がった。
余裕の表情のまま、紅の女は尚もルチアに照準を合わせようとする。させるものかと、渾身の力でリーゼロッテは浄化の緑を流し続けた。
「ふっ、くぅっ」
歯を食いしばるも、限界はすぐそこにまで来ている。自分の力量のなさを悔やんでも、何の足しにもなりはしなかった。
「ああ……っ!」
緑の防壁が決壊し、崩れ去るそのときを感じ取る。だがその一瞬手前で、リーゼロッテの負担が嘘のように軽くなった。
目の前で緑のカーテンが揺らめいている。リーゼロッテを守るように。そして、諦めるなと励ますように。
「マルグリット母様……」
これはジークヴァルトが膜と呼んでいた、実母がくれた贈り物だ。この力には幾度となく助けられてきた。あたたかな波動に包まれて、リーゼロッテは再び気力を取り戻した。
マルグリットの力の上に自身のそれを重ね合わせる。ふたつの緑は溶け合って、よりいっそう強い輝きを放った。
「ふああっ、リーゼロッテ様ぁ!?」
駆け込んできたベッティがまだ遠い場所で急ブレーキをかけた。来たのはいいが、この惨状に驚いている様子だ。
「ぁあぅあうあぅぁ」
リーゼロッテを助けたいがどうにもならない。紅の邪気に近づくこともままならず、オロオロしているベッティに向かってリーゼロッテは余裕なく声を張り上げた。
「ベッティ! ルチア様をあの女から遠ざけて!」
「で、ですがぁ」
「すぐにジークヴァルト様が来てくださるから!」
先ほどよりもずっと近くジークヴァルトの気配を感じる。それはリーゼロッテの確かな拠りどころとなっていた。
「ううっ、分っかりましたぁ」
リーゼロッテが防御壁となっているが、辺りに充満している瘴気は相当なものだ。覚悟を決めたようにベッティは突進する勢いでルチアの元に駆け寄った。
ルチアは未だ異形の意識に同調しかかっている。虚ろな瞳で立つルチアの腕を掴むと、ベッティは脱兎のごとくリーゼロッテの背から離れていった。
しかしすぐにルチアがへたり込む。仕方なくベッティはそこで結界を張ったようで、仄かな光がふたりを包み込んだ。
(ありがとう、ベッティ)
あれだけ遠くにいてくれれば、とりあえずのところは安心だ。ルチアを庇わなくて済む分だけ女に専念できる。臆することなく顔を上げ、リーゼロッテは紅の女を真っすぐ見やった。
獲物を奪われたとでも思ったのか、紅の女は憎々しげな波動をリーゼロッテに返してくる。怯みそうになる心を奮い立たせ、いっそう力の制御に集中した。
(弱すぎず、でも力み過ぎず……)
女の瘴気に負けない絶妙な力加減を、マルグリットの緑の膜が教えてくれている。随分と無駄が減り、この調子ならジークヴァルトが来るまでなんとか持ちこたえられそうだ。
しかし紅の女の力は弱まることを知らず、マルグリットの力と拮抗し続けている。一瞬でも気を緩めれば、あっという間に押し潰されるに違いない。
そんな中、マルグリットの力が徐々に弱まってきているのをリーゼロッテは感じていた。その不足を埋めるように自身の力を強めていく。
(お願い母様、もう少しだけ力を貸して)
せめてジークヴァルトが到着するまでは。
こめかみを伝う汗が目に入りそうになる。拭うこともできず、ぎゅっと瞼を閉じてリーゼロッテは歯を食いしばった。
「リーゼロッテ!」
「ジークヴァルト様……!」
遠くらか待ち望んだ声が聞こえた。リーゼロッテの瞳に希望が宿り、最後の力を振り絞る。
そのとき紅の女がにぃっと笑った。一気に瘴気が膨張し、リーゼロッテの緑を力技で抉りにかかる。
「なっ――……!」
ぱんっとマルグリットの膜が弾けた。均衡を失って、リーゼロッテの力が乱れ波打った。
「いやぁあ……!」
濃密な紅がヘドロのように両腕に絡みつく。体表を這い、穢れた瘴気はリーゼロッテを覆いつくした。
(気持ち悪い……!)
閉じ込められ圧縮される。目から口から耳から、ありとあらゆる場所から女の毒が侵入してくる。毛穴のひとつひとつにまで塗り込められて、リーゼロッテは息すらできなくなった。
詰め込まれた喉奥の異物がどんどん質量を増していく。それなのに吐きたいのに吐き出せない。
限界を超え意識が朦朧となった。目を閉じているのに視界は紅一色だ。紅蓮に燃え盛る炎のように、穢れはリーゼロッテを焼き尽くす。
いよいよ怨嗟の焔に沈もうとしたとき、この紅だけの世界に青が一瞬、ほんのひとつ瞬いた。
ガラスが砕け散るように、リーゼロッテを閉じこめていた空間が一気に崩れ落ち、肺に新鮮な空気が流れ込む。
大きく息を吸うのと同時に、リーゼロッテは清浄な青の力に包まれた。
「ジーク……ヴァルト様……」
「すまない、来るのが遅くなった」
ぎゅっと抱きしめられて、安堵の涙が頬を伝う。
そのまま気絶しそうになったが、肌を刺す瘴気を感じリーゼロッテは自分の足で体を支えた。
紅の女はまだそこにいる。憎しみも顕わな表情で、これまで以上の邪気を放っていた。
「リーゼロッテ、下がっていろ」
後ろ手に庇われて、リーゼロッテは頷いた。誰かを守りながらの戦いは不利になる。先ほどそれを教えられたばかりだ。
全身に青の力をみなぎらせ、ジークヴァルトは紅の女をじっと見据えた。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。紅の女と対峙するジークヴァルト様。ふたりの戦いをわたしは見守るしかできなくて。激しい攻防のさなか、女の執着が再びルチア様に向けられて……?
次回、6章第32話「思慕の残像」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!




