第29話 砦の輪舞曲 - 後編 -
【前回のあらすじ】
ジークヴァルトとともに辺境の砦にやってきたリーゼロッテ。二度目の義実家訪問に力が入るも、妻ディートリンデを溺愛するジークフリートに迎えられ、呆気に取られてしまいます。
翌日、リーゼロッテを連れて馬で出かけたジークヴァルトは、アデライーデと大公バルバナスに再会。ハインリヒとの間で起きた悲劇を思い起こしつつ、すべては終わったことだと笑顔を見せるアデライーデ。弟として、ジークヴァルトはその思いを受け止めます。
一方、ニコラウスと下町の調査に出たカイは、そこで隣国オーランウヴスの人間が潜り込んでいることを突き止めるのでした。
カイから届いた報告書を前に、ハインリヒは無意識のまま眉間を指で押さえた。
(……思った以上に事態は深刻だな)
オーランウヴスの手の者は、すでに国内に入り込んでいるようだ。できるだけ小さいうちに芽を摘んでおかないと、国を巻き込んでの騒ぎになりかねない。
アデライーデの件もあり、辺境の砦へ伯父バルバナスを送り込むことに一度は躊躇いもした。だが今となっては英断だったと言えるだろう。
二十年ほど前、オーランウヴスはブラオエルシュタインへと攻め入ってきた。その戦でいちばんの武勲を上げた者こそが、当時騎士団長の地位に就いたばかりのバルバナスだ。
迎え撃つ敵が厳しい山脈を越えてきた少数部隊だったこともあり、被害少なく戦いはすぐさま終結したと聞いている。
(前の侵略は、功を焦った者による杜撰な計画だったらしいが……)
隣国はそのときの失敗を踏まえ、今回は用意周到に攻め込むつもりでいるのかもしれない。雪解けの春を迎える前に、潜伏組織の実態調査を終えることが急務と言えた。
――なぁに、放っておいても青龍が良きように収めるわい
――そうじゃ、すべては龍の思し召しじゃ
楽観的な声が頭の中で木霊する。
「わたしは傀儡の王になるつもりはない」
顔をしかめ独り言ちた。無駄なあがきと笑われようと、言いなりの操り人形でいるのは願い下げだ。
ましてや戦争となると民の命に関わる最大の有事だ。思い過ごしの徒労に終わったとしても、指を咥えて龍の助けを待つなど、ハインリヒには到底受け入れることはできなかった。
――そんなにも青龍の加護が信じられんか
――今代の王は龍への不信感が根深いのう
(そんなもの当然の結果だろう)
そうさせたのは青龍自身だ。心の中で毒づきながら、ハインリヒはさらにしかめ面となった。
王太子時代に隠され続けた託宣の相手。そのせいでアデライーデは未だ癒えぬ傷を負わされた。生まれながらに星に堕ちることを定められたカイは、やがて国の礎となり果てる。
カイが禁忌の異形になるためには、龍の託宣を阻む必要がある。龍に逆らうことが龍の意思であるのも、皮肉な話としか言いようがなかった。
青龍は一体何を考えているのか。不信に思うなと言う方が土台無理な注文だった。
――青龍の御許で、今代の王もすべてを見てきたであろうに
「それは……」
――全体像を見渡せば、行き過ぎた悲劇も必然と納得できよう
――未来もまたそう在るのだ
――心配せずとも龍に委ねれば何もかもが上手くいく
歴代の王たちの記憶の数々は、王位継承の儀でハインリヒの脳裏に焼き付けられた。
だがどの記憶を辿っても、そこには深い葛藤が垣間見えた。苦悩しなかった者などいなかったはずだ。そんな王たちの助言に説得力などありはしない。
――それを踏まえて手放せと言うておるのだがのう
――良いではないか。あがくのもまた人の性分よ
穏やかに言われ、血が上りかけた頭が冷静さを取り戻す。
ハインリヒにも王たちの言いたいことは十分解る。しかし自分は今を生きる人間なのだ。
あの日、深い瞑想の果てで得た感覚は、日常の中で随分と薄らいでしまっている。一度は全てを悟ったように思えたが、やはり人としての何かを捨て去ることは不可能だった。
――心行くまであがけあがけ!
――そうして思う存分龍を振り回すといい!
どっと耳障りな笑い声をたて、口々に囃し立ててくる。
笑いどころが理解できなくて、ハインリヒはいっそうしかめっ面で眉根を寄せた。
「ハインリヒ王!」
半ば転がり込むようにやって来たのは、近衛第一隊隊長のキュプカー侯爵だった。彼らしからぬ慌てた様子に、ハインリヒはすっと王の顔になる。
「何ごとだ」
「流刑の地より早馬が。ツェーザル・ザイデルが脱獄したとの知らせにございます」
「脱獄……? あの監獄からか?」
ツェーザルはイジドーラの兄にあたる人物だ。謀反を企てた罪で貴族籍を剝奪され、長きに渡り流刑の地に幽閉されていた。
しかし監獄は断崖を抉って絶壁半ばに建てられており、そう簡単に逃げ出せる環境ではない。周辺は人里遠い何もない荒野で、脱出できたところで生き延びるのも困難な場所だった。
「してツェーザルの行方は?」
「現在追跡中とのことですが、身柄を拘束するには至っておりません。何者かが手引きをした模様で、状況から見て用意周到に計画されたものかと……」
「手引き? そのような馬鹿な真似をするなど、一体どの一派だ」
ツェーザルへの処遇はまさに反逆者としての見せしめだ。社交界ではその名を出すことすら未だに憚られている。
王家に反感を持つ貴族がいたとして、そんな彼を支持する者が存在するなど俄かには信じ難い話だった。
「それが……手引きした者の中に異国の言葉を話す人間がいたとの報告が」
「異国の言葉……オーランウヴスか?」
「恐らくは」
渋面で頷いたキュプカーに、ハインリヒも同様の顔を返した。流刑の地は国境を守るヴォルンアルバの外れに位置している。
(そんな奥地にまで隣国の手の者が……)
侵略が目的でツェーザルの脱獄手引きをしたのだとしたら、オーランウヴスは国の内情を相当調べ上げていることになる。
貴族籍を剥奪したとは言え、ツェーザルは公爵の地位に就いていた人物だ。地理や貴族の力関係など、この国を落とすための情報を得るにはもってこいの人材だろう。
その上王家に恨みを抱き、謀反を企むほどの野心家と来ている。隣国にとっては利用価値があり過ぎだ。
「辺境の砦にこの情報は?」
「いえ、まずは王にご報告をと真っ先に城へ馬を走らせたようです」
「事態は急を要する。急ぎ辺境伯にも知らせを送れ」
「御意に」
もしハインリヒがオーランウヴスの人間だったなら、侵略の足掛かりとしてまずは辺境の砦を攻め落とす。それほどまでに危険と言える状況だ。
(本来ならわたしよりも真っ先に辺境伯に知らせるべきだったろうに……)
情報の遅れは命取りとなりかねない。
こうなれば、春を待たずして国内から戦を仕掛けてくる可能性も出てくる。虚を突かれれば、砦陥落を許す事態もあり得ただろう。
雪解け前に、しかも内側から戦を仕掛けられるなど、ハインリヒとて夢にも思わぬことだった。
(騎士団を行かせてあったことが唯一の僥倖だが……)
何の根拠もなく、嫌な胸騒ぎがこみ上げてくる。
それでも今は願うしかなかった。
辺境の砦へ知らせが届くよりも早く、オーランウヴスが動き出さないことを。
◇
迎えた舞踏会当日。
辺境伯夫人の誕生日の祝いで招待されたが、思っていたよりもアットホームな雰囲気だ。見知った者も多くいて、ルチアはほっと胸をなでおろした。
広間には騎士が幾人もいて、その中にカイの姿もあった。
怪しまれるような態度をとってはいけないと、ルチアは努めてカイのいる方を見ないようにしていた。
「どうかしたか? ブルーメ嬢」
「い、いえ、なんでもないです」
横に立つエーミールに慌てて首を振る。騎士服姿の端正な顔と目が合って、居心地悪くなったルチアは思わず顔を逸らした。
「すみません、今日はわたくしなんかの相手をさせてしまって」
「そんなことは気にしなくていい」
「でも……」
社交界に疎いルチアでさえ、彼の気を引きたい女性が山ほどいることくらいは知っている。
それでなくともエーミールは侯爵家の人間だ。子爵令嬢のルチアなど、本来なら相手にもされないことだろう。
「安心してくれ、ジークヴァルト様の仰せだ。今日は責任をもってブルーメ嬢をエスコートしよう」
「さすが社交界きってのモテ男っすね」
「ニコラウスか……こんな席でくだらないことを言うな」
突然話しかけてきたたれ目の騎士を、エーミールは心底嫌そうに睨みつけた。対するニコラウスは人の良さそうな笑顔を浮かべている。
ニコラウスは暴言令嬢イザベラの兄だ。彼女そっくりな目元を見れば、名乗られずとも血のつながりがあるのは分かってしまう。
「エーミール様、そちらのご令嬢をオレにも紹介してくださいよ」
ニコラウスにじっと見つめられ、ルチアはとっさに顔を俯かせた。
この声はなんだか聞き覚えがある。嫌な予感がして、ルチアの視線が不自然に床の上をさまよった。
「ああ、ブルーメ嬢。この男はニコラウス・ブラル、伯爵家の人間だ」
「はじめまして、ブラル様。ルチアと申します。イザベラ様にはいつもよくしていただいております」
「イザベラが?」
礼を取ったルチアを不思議そうにまじまじと見やってくる。
イザベラと知り合いで何がおかしいというのか。逃げるようにさらに礼を深くしたルチアの顔を、ニコラウスは間近から覗き込んできた。
「ん? オレたち、どこかで会ったことないか……?」
至近距離の声に、はっとルチアの記憶が蘇る。
(どうしよう……この人、貴族街でわたしを追いかけてきた人だわ)
王都の貴族街で逃げ出したときに、占いの館まで執拗に追ってきた男がいた。必死に逃げる背後から叫ばれた声は、確かにニコラウスのものだった。
あの日は三階の窓から脱出したあとで、ボロボロな姿だったところを見られてしまっている。なんと言い逃れしようかと、青ざめたルチアはきつく唇をかみしめた。
「あ、あの、以前大きな夜会でブラル様をお見かけしたことがございます。わたくしからお声がけするわけにもいかず、ご挨拶が遅れてしまいました。誠に申し訳ありません」
「え? いや、そんなことは謝らんでも」
「いいえ、イザベラ様にお世話になっているのに、至らなかったわたくしが悪いです」
どうにか話を逸らそうと、焦って声が震えてしまう。
そこをさっと手を取られて、ルチアはエーミールの腕に引き寄せられた。
「ニコラウス、つまらない手管で女性を口説こうとするな」
「うわっ、勘弁してください、口説くつもりで言ったわけじゃないっすよ! 彼女とは本当にどこかで会った気がして」
「どうだかな」
「さすがのオレもこんな陳腐な口説き文句使いませんって!」
「見苦しいぞ、ニコラウス。ブルーメ嬢を怯えさせておいて、口にするのは言い訳だけか」
冷たく言い放たれた言葉に、ニコラウスがぐっと喉を詰まらせる。蔑む視線を保ちながらも、エーミールは呆れたように語調を緩めた。
「ニコラウス、お前は騎士団に在籍期間も長い。ブルーメ嬢の容姿に親近感を覚えるのはそのためだろう」
エーミールが見やった先、そこには騎士団長のバルバナスがいた。大柄な赤毛の男だ。威圧感と言うべきか、遠目に見てもバルバナスは周囲に異様な存在感を放っている。
「ああ、まぁ、それはそうっすね……」
歯切れ悪く答えたニコラウスは、すまなそうに頭をかいた。
エーミールが言っているのは、ルチアがバルバナスと似た瞳と髪色をしているということだ。
ルチアは王族の落とし胤ではないのかと、そんな噂が社交界で流れている。そのことにルチア自身も気づき始めていた。
自分が王族の血を引いているなど、すんなりと受け入れられるはずもない。だが後宮で会った王妹ピッパが、ルチアと似ていたこともまた事実だった。
――バルバナスが自分の父親であるのかもしれない。
一時はその考えがよぎったが、当のバルバナスはルチアを気に掛ける様子もない。リーゼロッテの結婚式で初めて会ったときにも、まるで興味を示されなかった。
(あの怖そうなひとがわたしの父さんの筈はないわ)
なによりも母アニサが愛した人間が、あんな男だとは思いたくなかった。
「その、ブルーメ嬢……なんて言うか、困らせて悪かった」
「いえ、わたくしは別に」
「迷惑ついでと言ったらなんなんだが、イザベラのこと、これからもよろしく頼むな?」
「それはもちろん。お世話になってるのはむしろわたくしの方ですし」
「そう言ってもらえるとオレも助かるよ。懇意にしてた令嬢が次々と嫁ぎ先を決めてくもんだから、イザベラやつ会うと当たりがきつくってな。おっと、これは聞かなかったことにしといてくれ」
おどけて言うニコラウスに、ルチアは素直に頷き返した。婚約者に裏切られたイザベラは、今社交界で嘲笑の的になっている。
一度立った噂は電光石火で広がっていく。それもあることないことが、面白おかしく盛り付けにされて。
(わたしたちも気をつけなくちゃ)
カイとの秘密がバレでもしたら、きっと二度と会わせてもらえなくなる。
醜聞の立った令嬢の末路をこれまでいくつも耳にした。大概は屋敷に閉じ込められた末に、家の体裁を保つため望まぬ結婚を強いられる。
「あちらにジークヴァルト様がいらっしゃる。ブルーメ嬢、挨拶に行こう」
「はい、グレーデン様」
ニコラウスを置いて、エーミールとともに公爵夫妻の元に向かった。
相変わらず目立つ夫婦だ。着飾った貴族だらけの広間でも、自然と周囲の視線をくぎ付けにしている。
「ルチア様、ごきげんよう。こちらに来て顔を合わせるのは初めてね。ここ数日退屈にさせてしまったかしら」
「いえ、ベッティもいますから……」
「ならよかったわ。今日の舞踏会は気楽に楽しんでらしてね。主催のディートリンデ様もそれをお望みだから」
お手本のような淑女の笑みを浮かべたリーゼロッテを、公爵が無表情のまま半ば強引に引き寄せた。
「もう、ヴァルト様。今はルチア様とお話をしておりますのに」
可愛らしく唇を尖らせたリーゼロッテを、公爵はやはり無表情で見下ろしている。
最愛の妻の注意が余所に行くことがどうも面白くないらしい。鉄面皮で表情の読めない彼は、裏腹に嫉妬の塊であるようだ。
無言で延ばされた指先がリーゼロッテの頬に這わされていく。壊れ物に触れるようなやさしい手つきは、公爵がどれだけを彼女を大切にしているかを物語っていた。
人目を憚ることなく愛されるリーゼロッテを前に、ルチアの胸がちくりと痛んだ。いつか呼ばれた彼女の結婚式が思い出されて、心の奥に更なる影が広がっていく。
どんなに愛し合っていたとしても、ルチアがカイと並び立つことはない。誰からも祝福を受けることのない、永遠に後ろ暗い関係だ。
(それでも会えなくなるよりはマシだもの……)
懸命にそう言い聞かせた。
もうカイなしでは生きていけない。それを自覚してしまったルチアは、進むべき道を自ら決めたのだから。
無意識に視線を向けた先には、恋焦がれるカイがいた。見知らぬ夫人と談笑する姿に、思わず唇を噛みしめる。
「ルチア様?」
気づかわしげな声にはっと意識を戻した。リーゼロッテにはこの思いを知られてしまっている。
もう煩わしくカイとのことを聞かれたくはない。非難めいた視線で遠くのカイを見やっているリーゼロッテに、何かお節介をされても厄介だ。
何としてもふたりの世界を守りたくて、ルチアは静かな笑みを口元に乗せた。
「リーゼロッテ様。あの方のことは……わたくし、もう大丈夫です」
「ルチア様……」
カイといるために、ルチアは貴族でいることを心に決めた。リーゼロッテに向けた淑女の笑みは、彼女に引けを取らないほど完璧なまでに貴族としての仮面だった。
「そう……分かったわ」
それだけ言ってリーゼロッテはふわりと笑った。少しほっとした表情で、ルチアの言葉通りに受け取ったのが見て取れる。
「リーゼロッテ」
「もう、ヴァルト様! ルチア様と大事なお話をしておりましたのに」
細い腰を引き寄せられて、リーゼロッテが頬をふくらませた。
「そろそろダンスが始まる。踊りたいんだろう?」
「それはそうですが……」
「こちらのことはお気遣いなく。ブルーメ嬢はわたしが責任をもってエスコートさせていただきます」
「ああ、エーミール、よろしく頼む」
仲睦まじくダンスフロアに向かう背を見送って、自然体で愛されるリーゼロッテに再び胸の奥がざわついた。
しかしルチアはそれに気づかない振りをする。自分はカイの訪れをおとなしく待つと決めたのだ。
「ブルーメ嬢、せっかくの舞踏会だ。わたしと一曲踊ってもらっても?」
「はい、よろこんで」
差し出された手を取って、エーミールとフロアへ向かう。その途中、年配の夫人と連れ添うカイのすぐ脇を通り過ぎた。
カイのことだ。ルチアがいることなど当に気づいているだろう。夫人と親しげに会話するカイは、それでもこちらをちらりとも見ようとして来ない。
(そうよ。わたしたちはこれでいいんだわ)
辺境の砦に来るほんの少し前まで、ルチアはカイとふたりで濃密な日を過ごしていた。誰も知らない隠れ家で、裸のまま暖炉の炎に照らされながら、何度も何度も愛し合った。
敏感な場所に触れる指。こすれ合う肌。余裕のない息遣い。
ルチアはあのカイを知っている。
言いようのない優越感がこみ上げる中、カイにしなだれかる夫人を冷めた視線でチラ見した。
カイの遊び相手は既婚者ばかりだ。でもルチアは違う。だからこそ大っぴらに会えないのだと、もう一度自分に言い聞かせた。
(カイはきっと、結婚って形に縛られたくないのよ)
嫉妬に狂ってカイを失うくらいなら、夫人との火遊びなど寛容な心で許さなくては。
(いつかカイ以外の誰かに嫁ぐことになったとしても……)
数いるカイの遊び相手のひとりに、ルチアが加わると言うだけの話だ。
ダンスフロアに軽快なワルツの調べが流れ始める。
これ以上黒い感情が育たないようにと、思考を停止したまま、ルチアはエーミールのリードに身を任せた。
◇
「今日は最愛の妻、ディートリンデのために集まってくれたこと、感謝する! 飲んで踊って、存分に楽しんでいってくれ!」
ジークフリートのよく通る声に、広間がさらに活気づく。
身内で集まる舞踏会だけあって、すでになんとなく始まっていて、相当出来上がっている者もいた。
(みんな泊りがけで来てるから、きっと羽目を外しやすいのね……)
とは言えリーゼロッテはジークヴァルトから禁酒令を言い渡されている。ひとダンス終えて喉を潤したいと思っていたら、目の前にすっと果実水のグラスが差し出された。
「酒は駄目だぞ」
ほろ酔いで談笑する姿を眺めていたからだろうか。ジークヴァルトがくぎを刺すように言ってきた。
「心得ておりますわ」
アルコールが入ると、どうも自分は周囲に迷惑をかけまくるらしい。
どんな粗相を働いているのか、誰に尋ねても答えてくれない。酔いが回ると記憶を失ってしまうので、真実は未だ闇の中だ。
「そう言えばヴァルト様、約束してくださいましたわよね? わたくしが酔ったときにどんな言動をするのか、婚姻を果たしたあとにきちんと教えてくださるって」
それにジークヴァルトとふたりきりのときなら、酒を飲んでもいいと言われた気がする。
期待と不安が入り混じった瞳で見上げたら、無言ですいと顔を逸らされてしまった。
(な、なんで顔を逸らすのっ。やっぱりとんでもない酒乱女になってるんじゃ……)
絶望の顔で固まっていると、しばし考え込んでいたジークヴァルトが耳元に口を寄せてきた。
リーゼロッテも聞きやすいようにと、反射的に差し出すように頭を傾ける。
「あれだ」
「あれ?」
「ああ、いつだか媚薬を飲んだだろう?」
「び、びやくっ!?」
思わず声が上ずった。
真っ昼間、しかもこんな公衆の面前だ。内緒話の近さとは言え、思い出されたあの日のあられもない醜態にリーゼロッテの頬が真っ赤に染まった。
「ど、どうして今そのような話をっ」
「酔ったお前はあのときと同じ感じだ」
「え……?」
フリーズした頭のまま、ジークヴァルトと見つめあう。
きっと聞き間違いだと思い直し、リーゼロッテは恐る恐る口を開いた。
「酔ったわたくしが? 媚薬を飲んだときと同じになると? ヴァルト様はそうおっしゃっているのですか?」
「ああ、そうだ」
にべもなく返されて、あまりことにリーゼロッテは涙目で両頬を覆った。令嬢時代、ドロデロの異形に転ばされていた事実を知った以来の衝撃度だ。
世の中には知らない方が幸せなこともある。改めてそれを思い知らされたリーゼロッテだった。
「どうした? ずっと聞きたかったのだろう?」
耳元で意地悪く囁かれ、悔し紛れに頬をふくらました。そこを大きな手で挟まれて、唇の隙間をぷすと空気が漏れて出る。
「そんなに飲みたいのなら、今夜にでも飲ませてやる」
「け、結構ですっ。わたくしの記憶がないからって面白がるなんて酷いですわ」
「安心しろ。酒が入るとお前はすぐに寝てしまうからな」
ふっと笑われて、それ以上文句が言えなくなった。
どのみち粗相を働くのはリーゼロッテ自身だ。またもやジークヴァルトに完全敗北を喫し、絶対に酒は口にすまいとぐっと涙をのみ込んだ。
「姉上!」
「リーゼロッテお姉様!」
同時に声をかけてきたのは弟のルカとツェツィーリアだった。
婚約中のふたりの装いを見て、リーゼロッテはほっこりと微笑んだ。
「ルカ、ツェツィーリア。今日はお揃いの衣装なのね」
「はい! 今日の日のために、わたしからツェツィー様に贈らせていただきました!」
「べ、別にわたくしは着たくて着ているわけではないわ。ルカがどうしてもって言うから、仕方なく着てあげただけよ」
つんと顔を逸らしたツェツィーリアの手を、ルカは愛おしそうに握っている。
「ツェツィー様がわたしの婚約者だとどうしても知らしめておきたいのです。お美しい貴女が誰にも取られないように」
「ななななに馬鹿なこと言ってるのよっ」
「わたしは至って真剣です」
きりっと返されて、ツェツィーリアは真っ赤になったあと、くやしそうに再びつんと顔を逸らした。
ルカの好き好き攻撃は、会うたびに威力が増している。ツェツィーリアには悪いが、それがとても微笑ましかった。
「あら? ルカあなた、こんな席なのに帯剣をしているの?」
腰に下げられたひと振りの剣は、立派な鞘に収められていた。しかも大人が振るうような長剣だ。
「はい、こちらの砦は国境を守る城塞と伺いました。有事の際にはツェツィー様をわたしがお守りしなくてはと、辺境伯様から帯剣の許可をいただいたのです!」
「お姉様、この剣はレルナー家に代々伝わる宝刀なのよ」
「レルナー公爵家の? そんな大事なものをどうしてルカが……」
リーゼロッテが首をかしげると、ツェツィーリアが自分のことのように誇らしげな顔をした。
「何百年も誰も鞘から抜くことができなかったのに、ルカったらあっさりと抜いてしまったの。そうしたら、お義父様がこの剣をルカにあげてもいいって言い出して」
「レルナー公爵様はツェツィー様をお守りするためならばと、家宝の剣をわたしに授けてくださったのです。その思いにわたしは報いねばなりません!」
ダーミッシュ家でリーゼロッテを守っていた小さな騎士は、もう立派な殿方になったようだ。
姉として寂しくも感じるが、うれしさの方が大きかった。
「それにしても抜けない剣を抜くだなんて、RPGの勇者の剣のエピソードみたいね」
「勇者の剣?」
「いいえ、なんでないの。ただの独り言よ」
脳内突っ込みをうっかり口に出してしまい、リーゼロッテは慌ててかぶりを振った。
「違うわ。この剣は退魔の剣と言うのよ、お姉様」
「退魔の剣……またも中二病全開ね」
「ちゅうにびょう?」
「い、いいえ、ただの独り言よ。そんなことよりもふたりはダンスは踊った? まだなら行ってきてはどうかしら?」
話題を変えるために、ダンスフロアに視線をやった。
格式ばった王城の夜会に比べて、みな気楽に楽しんで踊っているのが見て取れる。
そんな中、エーミールと踊るルチアの姿が見えた。イケメン貴公子のリードに引けを取らない存在感が、今日のルチアからは感じられた。
――あの方のことは、もう大丈夫です
先ほどのルチアの言葉が残像のように耳に響いた。
(今日もカイ様のお姿をさびしげに見てたけど……)
愁いを帯びた金の瞳を思い浮かべる。年下のルチアが、色香漂う大人の女性のように見えて仕方がなかった。
恐らくルチアはカイとのことを吹っ切ったのだろう。もしくは吹っ切ろうと努力しているところなのか。
(いつかルチア様に新しい恋が訪れますように……)
祈るように瞳を伏せる。
そのときダンスフロアからいっそう楽しげな歓声が広がった。
パートナーと踊っていた貴族たちが、男女に分かれて二重の円を組んだ。向かい合わせで手を取り合って、流れ出した音楽とともに軽快なステップを踊り始める。
演奏は同じ節が繰り返されて、踊りの輪もまたパートナーを順にずらしながら同じステップが繰り返される。
まるで上品なフォークダンスのようだ。見たことのない踊りに、リーゼロッテは隣のジークヴァルトを仰ぎ見た。
「ヴァルト様、あちらは……?」
「あの輪舞曲はヴォルンアルバに昔から伝わる踊りだ」
「みな様たのしそうですわね」
「お前は駄目だ」
「どうしてですの?」
食い気味に止めてきたジークヴァルトに不満顔を向ける。
「オレ以外と踊るのは、一回につきひとりまでだと言っただろう」
「あ……」
確かにパートナーを変えてグルグル踊り続けると、何人もの人間と踊ることになる。
「でも踊り自体は短いですし、ちょこっとくらいなら」
「駄目だ」
「そうです、姉上。君子危うきに近寄らずですよ」
「だけどルカ、わたくし最近では異形の対策は万全なのよ?」
「いえ、そうではなくて、余計な虫がつくのはよろしくないと言う話です」
まさかルカがジークヴァルトを擁護してくるとは。驚いたリーゼロッテの横でツェツィーリアが不満げに言い返した。
「そんなつまらない理由で、ルカはわたくしにも躍らせないでいたのね。誰とでも美しく踊れることの方が貴族にとって大事じゃない」
「まぁ本当! ツェツィーリアの言う通りですわ」
ツェツィーリアを抱きしめたリーゼロッテが便乗すると、ジークヴァルトとルカの口が同じ動きを取った。
「絶対に駄目だ」
「絶対に駄目です」
あまりのシンクロ率に、リーゼロッテとツェツィーリアが顔を見合わせる。
すると背後からくすくすと笑い声が聞こえてきた。
「あなたたちの騎士は相変わらずのようね」
「アデライーデお姉様……」
優雅に騎士服を着込むアデライーデは理想の男装の麗人だ。右目にはめられた眼帯は、舞踏会仕様で真っ赤な薔薇の刺繍が施されている。
うっとりとなっていると、ジークヴァルトが嫌そうに呟いた。
「何しに来た」
「何しにって、リーゼロッテと踊る約束をしたでしょう?」
有無を言わさずリーゼロッテをジークヴァルトから奪い取る。
「さ、行きましょうリーゼロッテ。ツェツィーリアもルカと一緒にいらっしゃい」
「ですがお姉様、このままでは他の方とも踊ることに……」
「いいでしょ、別に。ヴァルトはリーゼロッテを縛り過ぎよ」
そうなってしまったのも、これまでリーゼロッテが不用意に襲われたりダイブしたり攫われたりしてきたからだ。
振り向くと、ジークヴァルトは黙って送り出していた。
(見守ってくれてるみたいし、少しくらいはいいってことかしら?)
無限ダンス解禁だ。こうなれば楽しく踊り倒そうと、リーゼロッテは曲の切れ目でアデライーデとともに輪に加わった。
見よう見まねでステップを踏む。貴族人生もそれなりに長くなってきたので、根が生粋の庶民のリーゼロッテでも簡単に踊ることができた。
「楽しい? リーゼロッテ」
「はい、お姉様! 連れ出してくださってありがとうございます」
「時には適度にはめを外すのも大事なのよ?」
ジークヴァルトが聞いたら眉間のしわが深まりそうだ。
それでも満面の笑みで頷き返して、隣のパートナーと手を取り合った。
「姉上と踊るのは随分と久振りですね!」
「そうね。ふふ、ルカも随分と背が高くなったわね」
ダーミッシュ家の屋敷でのダンスの練習相手は、もっぱら義父のフーゴかルカだった。
それが今ではジークヴァルト意外と踊ることは滅多にない。
「ねぇルカ、あまり束縛し過ぎるとツェツィーリアに嫌わてしまうわよ?」
「大丈夫です、姉上。そこら辺のさじ加減は心得ていますので」
きりっとした顔でルカは即答した。そこに一切の迷いはない。
(そう言えばルカってば、絶対に逃がさないマンだったわ……)
昔から欲しいものはなんとしてでも手にしてきた弟だ。
ツェツィーリアの行く末に、ちょっぴり同情してしまったリーゼロッテだった。
「これはリーゼロッテ様」
「カイ様……」
次のパートナーはカイだった。
思わず顔から笑顔が消えそうになる。
「はは、今日がオレの命日かな? ジークヴァルト様が睨んでる」
踊りながら軽口を叩くカイは普段と変わらない。
ルチアとのあんな場面を見せられて、リーゼロッテの方はうまく言葉を返せなかった。
「何かご不満がありそうですね?」
「いいえ、わたくしは何も……」
ルチアはカイを忘れようとしている。そう思い直してリーゼロッテは淑女の笑みをカイに向けた。
「だったらオレからひとこといいですか?」
「ええ」
「何かあったとき、ベッティのことお願いします」
「それは……もちろんですわ」
リーゼロッテは戸惑い気味に頷いた。少し身構えたところ、カイは全く想像してなかったことを言ってきた。
真意を問えないまま、次のパートナーへと手を差し伸べる。
その先にいたのはイザベラの兄、ニコラウスだった。
「ひょっ、やっべ! どうしよう妖精姫だっ」
リーゼロッテに聞こえるほどの大声に、テンションが上がりまくっているのが伺える。
顔はそっくりでも、ニコラウスはイザベラとまったく違う性格のようだ。
微笑ましく思っていると、リーゼロッテを横からジークヴァルトがかっさらっていった。
「ジークヴァルト様!」
「もう終いだ」
横抱きに抱え上げられて、踊りの輪から引き離される。
遠ざかるニコラウスが、パートナー不在のままぽつりと独り取り残されていた。
周囲にいた貴族たちが、物珍しげにそのやり取りを眺めやっている。これは社交界で面白おかしく噂されるに違いない。
しばらくは笑いものの種になるのだと、リーゼロッテは若干涙目になった。
「もう、ヴァルト様、あんな急に失礼ですわ」
「問題ない」
会場の隅まで運ぶと、ジークヴァルトはようやくリーゼロッテを下に降ろした。
果実水を手渡され、うやむやのまま甘い液体とともに言葉を飲み込んだ。
(ああ、あのままもっと踊ってたかったな)
フォークダンスのようでなんだかすごく楽しかったのだ。
日本にいたころの自由が急に思い出されて、リーゼロッテはうらやましそうにじっとダンスの輪を眺め続けた。
「リーゼロッテ」
「え……?」
ふいに腕を引かれ、柱の陰に押し込まれる。
エスコートには程遠い動きに驚いて、顔を上げた先でいきなりジークヴァルトに唇をふさがれた。
ねっとりと舌が入り込んでくる。
貴族たちの談笑がすぐ近くで聞こえるそんな距離だ。柱があると言っても、覗こうと思えば覗きこめてしまうだろう。
こんな場所でキスをしている後ろめたさと恥ずかしさで、リーゼロッテはジークヴァルトの胸を必死にぽこぽこと叩いた。
「んん……ヴぁるとさま……誰かに見られたら……」
「まだ駄目だ」
かえって口づけを深められ、リーゼロッテの体から次第に力が抜けていく。
盛り上がる会場をよそに、秘密の口づけは短くない時間続けられたのだった。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。舞踏会中、お母様の形見を失くしてしまったルチア様。それを拾ったカイ様はベッティにある伝言を頼みます。それぞれの思いが交錯する中、とうとう隣国の襲撃が始まって……!
次回、6章第30話「宵闇の急襲」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!




