第28話 砦の輪舞曲 - 前編 -
【前回のあらすじ】
エラの出産をよろこぶ傍ら、初の子育ての苦労を心配するリーゼロッテ。侍女長の仕事と孫の世話を手伝いに来ていたロミルダに励まされ、気兼ねなくリーゼロッテは辺境の砦に旅立つことにして。
そんなときルチアのお供で再びフーゲンベルク家を訪れたベッティは、わざわざ呼ばれた理由がリーゼロッテを守るためであることを察します。
一方、任務の合間を縫って亡き母の墓地へと向かったカイ。星に堕ちる覚悟が決まった今、過去に起きた何もかもを手放して。父親のデルプフェルト侯爵と遭遇するも、心が乱れることもなく次の任務の地に急ぎます。
ルチアが公爵家にいる連絡を受けたカイは、ベッティにルチアを隠れ家に連れて来るよう指示を出します。カイと結ばれた家で心を躍らせながら眠りにつくルチアは、真夜中にやってきたカイの腕の中で至福のまどろみへと落ちるのでした。
長旅の馬車から降り立って、リーゼロッテは堅牢な石造りの城を見上げた。
辺境の砦へ来たのはこれで二度目、シネヴァの森の神事から帰る途中に立ち寄って以来のことだ。前回はいきなりの義実家訪問だったため、緊張しまくりだった記憶しかない。
(今となっては笑い話だけど……)
ジークヴァルトとの婚姻でいっぱいいっぱいになっていたこともあり、あのときは随分と締まらない挨拶になってしまった。
何しろ結婚報告で義両親に会いに来たことを、ジークヴァルトはギリギリ直前に伝えてきたのだ。そのことを未だ根に持っているリーゼロッテだった。
(公爵夫人になってからあとちょっとで一年だもの。少しは落ち着いたところを見せなくちゃ)
名誉挽回のチャンスとばかりに意気込んでいると、すかさずジークヴァルトに抱き上げられる。
「疲れただろう。オレが運ぶ」
「ヴァルト様!」
抗議の声を上げるも、ジークヴァルトはさっさと歩きだしていた。
「疲れてなどおりません。今すぐ降ろしてくださいませ」
「ここは思った以上に敷地が広い。いいから黙ってオレに抱かれていろ」
(だから、言い方ぁ……!)
ジークヴァルトの母親ディートリンデは、怒らせると怖い人だと複数の証言が取れている。何と言ってもその正体は、マナー教師のロッテンマイヤーさんだ。
(あのスパルタ授業、今でも時々夢に見たりするのよね……)
そのシーンを想像するだけで、条件反射で背筋が伸びる。今あるリーゼロッテの淑女ぶりは、彼女の厳しい指導の賜物だ。
大きな吹き抜けの広間に出て、ジークヴァルトの歩みが止まる。一向に降ろしてくれる気配がなくて、リーゼロッテは必死に身をよじった。
「いい加減降ろしてくださいませ。こんな格好のままでご挨拶などできませんわ」
「問題ない。ここではむしろこれがしきたりだ」
「しきたりだなんてそんな……」
嘘を言うなと脳内で突っ込みを入れたとき、カツカツと靴音が近づいてきた。あの颯爽とした歩き方は、ジークヴァルトの父親であるジークフリートだ。
「はーっはっはっはっは、よく来たなジークヴァルト、リーゼロッテ!」
「ジークフリート様、ご無沙汰しております」
反射的に挨拶したものの、思わず我が目を疑った。
現れたジークフリートは腕に妻を抱え上げている。ディートリンデはまるで自分が鏡に映ったかのような体勢だ。
そんな彼女と視線を合わせたリーゼロッテは、固まりかけた脳みそでどうにかこうにか無難な言葉を絞り出した。
「ディートリンデ様……今回は舞踏会にお招きいただきありがとうございます」
「ええ、遠いところをよく来てくれたわね、リーゼロッテ……」
普通の挨拶のようでいて、ふたりともお姫様抱っこされている状況だ。諦めの境地で見つめ合い、互いを慰めるかのように深く同時に頷き合った。
「ゆっくりと話をしたいところなのだけど、あいにく舞踏会が終わるまでは時間が取れそうにないのよ」
出席者は遠方から招かれる者がほとんどだ。開催の数日前にやって来て、しばらく滞在するスタイルとなっている。舞踏会の準備もあるし、迎える側が忙しいのはもっともだろう。
「わたくしたちのことでしたらお気遣いはいりませんわ」
「そう言ってもらえると助かるわ。悪いけど、ヴァルトもお願いね」
「はい、問題ありません」
「ヴァルトたちもいずれここに住むことになるからな。自分の家だと思って寛ぐといい」
ジークヴァルトが公爵の地位から退くとき、次は辺境伯を受け継ぐことになる。フーゲンベルク家の当主は代々こうして世代交代を繰り返してきた。
とは言えジークヴァルトとの間には跡を継ぐ子供すらできていない。リーゼロッテにとってはまだまだ遠い話のことだ。
ふと広間の向こうから耳にざわめきが届いた。反響してよくは聞こえないが、少なくない人数のように感じられる。
(もしかしてルチア様一行かしら?)
しかしルチアは自分たちより数日遅れで出発している。さすがに先に着いたということはないはずだ。
(みんなより早めに来るよう言われてたのに……)
一番乗りだと思っていたリーゼロッテは、声の聞こえる方を見てこてんと首を傾けた。
「わたくしたちのほかに、もう来られている方がいらっしゃるのですか?」
「招待客はまだね。明日以降にも続々と到着すると思うけれど」
「招待客『は』?」
ディートリンデの言葉尻を捉えて、ジークヴァルトが僅かに眉根を寄せた。
「と言うと、母上。それとは別に客人が?」
「それは……」
「王が騎士団をよこしてな。今その対応にも追われているところだ」
「騎士団? 王城からですか?」
「ああ、大公閣下自らお出ましだ。まぁ、詳しいことは後で話そう。ふたりとも長旅で疲れているだろう? 今日のところはゆっくり休んでくれ」
切り替えるようにジークフリートは明るい声を出した。そんな夫を見て、ディートリンデも別の話題を投げかける。
「そうそうフリート。改めて言っておくけど、こんなふうに抱き上げていいのはヴァルトたちの前でだけよ?」
「はっはっは、相変わらずリンデは恥ずかしがりだなぁ」
「ふざけないで。いいこと? もしも招待客の前でやったりしたら、この先十年は絶対に口をきかないから。そう覚悟しておきなさい」
「十年も可愛いリンデの声が聞けないのは地獄だなぁ。な、ヴァルトもそう思うだろう?」
「確かに。十年はさすがに長いかと」
「あら、それくらい妥当よ。ね、リーゼロッテ」
「え、ええ、そう……と言えるような言えないような……」
「どっちなんだ? リーゼロッテ」
「ヴァルト様っ、そういった突っ込みはなさらないでくださいませっ」
「それくらいリンデは恥ずかしがりってことだな! 可愛いぞぉう、ディートリンデ!」
「ちょっ、フリートっ」
はーっはっはっ、と高らかに笑いながら、ジークフリートはディートリンデを抱えたまま広間をくるくると高速回転しはじめた。
(そう言えばジークフリート様ってこんな方だったわ)
目の前の光景に言葉を失った。何より公爵家での自分を見ているようで、ディートリンデに同情を禁じ得ない。
(うう、それにしてもわたしの初恋の思い出が……)
初恋の人であるジークフリートの王子様像が、どんどん脳筋野郎に置き換えられていく。それがなんともやるせなくなる。
「オレたちもするか?」
あまりにじっと見つめていたからだろうか。耳元でジークヴァルトが不穏な言葉を囁いてきた。
こちらの返答を待たずして、腕に力が入れられるのを感じ取る。
「い、いたしませんっ」
慌ててぶんぶんと首を振った。のんきに感傷に浸っている場合ではない。このままではディートリンデの二の舞だ。
「遠慮することは」
「遠慮など! これっぽっっっちも! わたくし、いたしておりませんわっ」
そんな小競り合いをしている間にも、ジークフリートは広間をフル活用して回転しまくっている。
「はーっはっはっはっはっはっ!」
「フリぃートぉっ、いい加減にしてぇ――――っ!」
この親にしてこの子あり。
そんな言葉がリーゼロッテの頭をよぎった。
(ヴァルト様の破天荒ぶりって、まさに父親譲りなんだわ……)
こんな両親を目にして育ったならば、自分への扱いが残念仕様になるのも無理からぬことだ。
これまでのジークヴァルトの奇行の数々も、妙に納得してしまったリーゼロッテだった。
◇
好きに過ごしていいと言われた通り、翌日はリーゼロッテを馬に乗せ、気ままに城下町へ駆って出た。
フーゲンベルク領と違って、整備が行き届いているとは言い難い町並みだ。それもそのはず、辺境の地で過ごす者の半数は、他領から流れてきた荒くれ者が占めていた。
ここは有事の際に戦場にもなり得る土地だ。しかし戦争など滅多には起こらない。騎士団を常在させるほどの話でもないため、いざと言う時とりあえずの戦力となる屈強な男たちを昔から募ってきたというわけだ。
ヴォルンアルバに行けばとりあえずの職にはつける。そんな噂を聞きつけてやって来る者は、一定数いるものだ。夏の間だけ力仕事に駆り出され、雪深い冬は酒を飲んで暮らす。それが集まった男たちの定番のライフスタイルとなっていた。
まだ治安の良さそうな大通りを行くと、町民たちの物珍し気な視線がこちらへ向けられた。自分ひとりなら気にも留めないが、その大半はリーゼロッテにくぎ付けになっている。
それがおもしろくなくて、ジークヴァルトは人気のない山あいへと馬を走らせた。
「寒くはないか?」
「はい、もこもこに着込んできましたから」
白い息を吐きながら、リーゼロッテは前のめりに瞳を輝かせている。どこを走ろうと、見えてくるのは雪と岩だけの味気ない景色だ。それでもたのしそうにしている様子に、知らずジークヴァルトの口元も綻んだ。
「あっ、ヴァルト様、あちらの山に大きな穴が!」
雪をかぶった山の一部が抉られて、赤茶けた岩肌をのぞかせている。下の方はトンネルになっていて、かなり深く掘られているようだ。
「あれは石の採掘場だ」
「石? 宝石が採れるのですか?」
「それもあるが、多くは守り石だな」
「まぁ、守り石が。こんな危険な場所で掘られていたなんて……」
「心配しなくとも今の時期は閉鎖されている。採掘するのは夏の間だけだ」
強くなってきた風に、ジークヴァルトは馬を反転させた。
「そろそろ戻るぞ」
引き返した街中では、噂を聞きつけでもしたのか道行く人間がやたらと増えていた。
老若男女の人だかりが、大口を開けてリーゼロッテに見とれている。中には不躾に指をさしながら、リーゼロッテについて大声で話し合っている者さえいた。
「先ほどは閑散としておりましたけれど、この時間は活気があるみたいですわね」
「……ああ、そうだな」
口をへの字に曲げて答えると、リーゼロッテが不思議そうに振り返った。
「ヴァルト様? どこかお加減でも悪いのですか?」
「いや、問題ない」
ふいと顔を逸らせつつ、馬を先へと歩かせる。
本当なら駆け足で通り過ぎたいところだが、リーゼロッテは街並みにいたく興味を示している。そんな様子を見て取って、本心とは裏腹に極力ゆったりとした速度で進んでいった。
それでもやはりリーゼロッテを見られたくない。ジークヴァルトは目が合った人間に向けて、片っ端から殺人光線を発射した。悲鳴を上げて逃げ出す者が続出したが、リーゼロッテを見物しに来る人間はあとからあとから湧いて出てくる。
これがきっかけで、次の辺境伯はとてつもない恐ろしい人物だと噂が流れるようになる。こんな辺境の地でも、魔王の名を欲しいままにするジークヴァルトだった。
「リーゼロッテぇ!」
「アデライーデお姉様!」
勢いよく近づいてきた馬影に、ジークヴァルトから小さく舌打ちが漏れた。
リーゼロッテの可愛らしい頬が、これまた可愛らしく桜色に色づいている。アデライーデが騎士服姿で現れるたびに、リーゼロッテはいつもこんな表情になる。
それが実におもしろくなくて、ジークヴァルトはリーゼロッテを隠すように抱き寄せた。
「何しに来た」
「何しにって、リーゼロッテの護衛に決まってるでしょう? まったく。それが久しぶりに会った姉に対する言葉なの?」
ふいと顔を逸らすと、リーゼロッテまで唇を尖らせ非難めいた上目遣いを向けてくる。その仕草も可愛らしすぎて、口付けようかと思ったくらいだ。
だがそれをやったら確実に怒られる。可愛らしく頬をふくらませているリーゼロッテを想像しながら、仕方なしにジークヴァルトは感情のこもらない平坦な声で口を開いた。
「姉上、元気そうで何より」
「取ってつけたように言うんじゃないわよ。もう、ここはフーゲンベルク領と違って治安がよくない場所も多いのよ? リーゼロッテを連れ回すならきちんと護衛をつけなさい」
「問題ない。もう戻るところだ」
再び顔をふいと逸らすと、その先からまたひとつの馬影が近づいて来た。
「おい、アデリー! 勝手に先行ってんじゃねぇ」
「大公閣下……!」
腕の中でリーゼロッテがぴゅっと背筋を伸ばした。やってきたのは大公にして騎士団長のバルバナスだ。王族に相応しく、雄々しい黒鹿毛の牡馬に堂々と跨っている。
「後れを取るバルバナス様が悪いんでしょ」
「あんだと? アデライーデ、もう一回言ってみろ」
「一介の騎士について来られないなんて、騎士団長の名が聞いて呆れるわ」
「ああ!?」
「何よ、本当のことじゃない。って、ヴァルト! 勝手に先行くんじゃないわよっ」
相変わらずのふたりを置いて、ジークヴァルトはさっさとその場を離れていった。遠ざかるバルバナスたちを、リーゼロッテが不安そうに振り返る。
「ヴァルト様、大公様の前でこのような……」
「問題ない。行くぞ」
これ以上リーゼロッテとの時間を邪魔されたくない。軽く鐙を蹴って、砦に向かって急ぎ馬を走らせた。
結局すぐに追いつかれてしまったが、アデライーデは付かず離れずの距離を保ってついて来る。護衛のためにやってきたというのは、あながち嘘ではないようだ。
ハインリヒがわざわざ騎士団を寄越してきたという父の言葉に、一度は眉をひそめたジークヴァルトだ。
国境の警備を一任されているジークフリートにしてみれば、王に面目を潰されたようなものだ。それでなくとも父親は、ハインリヒのこともバルバナスのことも未だ赦してなどいない。
(オーランウヴスの動きはそれほどに怪しいのか……?)
解消できずにいる禍根を無視してまでも、王としてハインリヒが命を下したのだ。そう思わざるを得ないだろう。
そんな微妙な時期にリーゼロッテを連れてきてしまったことを、ジークヴァルトは後悔し始めていた。
「ちょっと、ヴァルト。少しくらいリーゼロッテを貸してくれたっていいでしょう?」
戻った砦で呼び止められる。
「リーゼロッテは物ではない」
「まったく、相変わらず狭量なんだから」
呆れかえるアデライーデに、リーゼロッテがすまなそうな顔を向けた。
「アデライーデお姉様、申し訳ございません……」
「あら、いいのよ。リーゼロッテは何も悪くないわ」
「そうだ、なぜお前が謝る?」
「それはヴァルト様が……」
「そうよ、全部ヴァルトが悪いわ」
ふたりから同時に責められて、ジークヴァルトの眉間にしわが寄った。
「ぷっ、ヴァルトにそんな顔をさせられるのは、ほんとリーゼロッテだけね」
アデライーデの指先がリーゼロッテの頬をくすぐろうとする。それが届く一瞬手前で、ジークヴァルトはさっとリーゼロッテを抱え込んだ。
「おう、オレの存在を忘れてんじゃねぇよ」
「はいはい、騎士団長様は寂しがりでいらっしゃいますこと」
「あんだぁ? ひとを子供みたいに」
「これは失礼を言ってしまったわ。今日び子供の方が余程聞き分けがいいものね」
「あん? アデリー、お前このオレに喧嘩を売ってんのか?」
アデライーデとバルバナスが言い合うたびに、リーゼロッテのはらはら顔があっちにこっちに向けられる。
「問題ない。いつものことだ」
「ですがヴァルト様……」
「ほら、リーゼロッテが怖がってるじゃない」
「知るか。もう行くぞ、アデライーデ」
ついて来るのが当然とばかりに、バルバナスは背を向けた。ずかずかと去っていく後ろ姿に、大げさにアデライーデは肩をすくませる。
「じゃあ、わたしも行くわ。舞踏会のときにでもゆっくり話しましょう?」
「アデライーデお姉様もお出になられるのですね!」
「ええ、この騎士服で出るつもり。またリーゼロッテと踊れるわね」
「まぁ! うれしいですわ、お姉様」
「嫌とは言わせないわよ、ジークヴァルト?」
むっとしたのが伝わったのか、先制攻撃を受けてしまった。ジークヴァルトの口元がさらにへの字に曲げられる。
「一曲だけだ」
「ほんと、狭量な男だこと」
たのしそうに言う姉を前にして、ジークヴァルトはふと思った。
バルバナスとアデライーデの喧嘩腰のやりとりは、自分にしてみればいつものことだ。だがこれを目にした両親は、さぞや複雑な心境でいるに違いない。
ハインリヒの守護者に傷つけられたアデライーデは、貴族女性として華やかに生きる未来を無残に絶たれた。そして絶望の淵にいたアデライーデを拐かし、騎士の道へと誘ったのがバルバナスだ。
それが面白くないのなら、父ももっと強硬な手段に出ればよかったものを。正直そんなふうに思ったが、ジークフリートはアデライーデの意思を尊重することを選んだようだ。
両親にも思うところがあるのだろうと、ジークヴァルトはこれまで口を挟むようなことはしてこなかった。何より今、こうしてアデライーデも笑顔を見せている。
やはり自分がどうこう言うのは筋違いだと結論付けたジークヴァルトに、もうひとつの疑問が浮かんできた。
「姉上」
行きかけたアデライーデを呼び止める。改まった様子のジークヴァルトに、アデライーデは不思議そうに首を傾げた。
「何よ?」
「姉上はあいつを殴りに行ったのか?」
アデライーデが傷を負った直後、ハインリヒを殴って来ようかとジークヴァルトは一度尋ねたことがあった。そうすることで少しでも姉の気持ちが晴れるなら。そんな思いで聞いたことだ。
だがアデライーデはすぐさま首を横に振った。どうせ殴るなら自分の手で殴り飛ばしに行くと。あの日、鏡越しで見つめ合ったアデライーデは、気高く誇らしく目に映ったのをジークヴァルトはよく覚えている。
「ええ、もちろん。きっついのを一発お見舞いしておいたわ」
「だがあいつの顔に殴られた様子はなかったが……」
「ああ、腹パンよ、腹パン。いくら本人がいいって言ってたって、さすがに目立つ場所はまずいでしょう?」
「そうか」
心底可笑しそうに言うアデライーデと見つめ合い、つられるようにジークヴァルトもふっと笑った。
「ねぇ、ヴァルト……」
今度はアデライーデが改まった顔になる。
「あのことは、わたしはもう吹っ切れたから。騎士業も性に合ってるし、毎日それなりに楽しんでるわ。だからヴァルトからもお父様にそう言っておいて」
「……ああ、分かった。これ以上、オレもこの話は口にしない」
「そうしてちょうだい」
悪戯な笑みを残し、アデライーデはバルバナスのあとを追っていった。それを見送っていたリーゼロッテが、おずおずと話しかけてくる。
「あの、ヴァルト様」
「なんだ?」
「アデライーデ様が殴りに行ったお相手って……」
「ああ、ハインリヒのことだ」
やっぱり、と小さく呟いて、リーゼロッテは顔を青ざめさせている。そんな姿も可愛らしいが、リーゼロッテの頬はやはり紅い方がより似合う。
すぐにそうなる未来を思い描いて、ジークヴァルトはその場でさっとリーゼロッテの唇を奪い取った。
◇
「しっかし、本当になんもない場所っすね」
殺風景な街並みを見回しながら、隣を歩くニコラウス・ブラルが半ば感心したように漏らした。
ニコラウスは面白い男だ。どんなに難しい相手でもまったく物怖じをしないし、すっと自然にその懐に入り込んでしまう。
カイの目から見て、それは無意識に行われているようだ。計算づくで近づく自分とはまったくもって違うタイプと言えるだろう。
「はは、異論はないけど、それ聞かれるといい顔されないと思うよ?」
「はっ、そうっすよね! 以後気をつけますっ」
最下級の騎士服を着て、下町の路地を行く。住民にじろじろ見られてはいるが、思いのほか敵意は感じ取れなかった。
それもそのはず、王都からやってきた自分たちは格好の金ずるだ。今ヴォルンアルバはバルバナス率いる騎士団御一行様のお陰で、かつてない景気に沸いている。カイたちがどこをうろつこうが、不審がられることは特になかった。
物々しい騎士団の行列は、相当インパクトがあったようだ。その上、辺境伯の息子であるジークヴァルトが来ているとあって、町人はこぞって中心街へと見物に集まっている。
ジークヴァルトは未来の辺境伯であるし、一目みたいと思うのが人情だろう。今日も綺麗な奥方を連れて現れたという噂話で、街中が持ちきりとなっていた。
リーゼロッテに関しては、本人には聞かせられないような会話が特に男たちの間で飛び交っている。ジークヴァルトが耳にしたら、それこそ迷いなく斬りかかるレベルの内容だ。
(はは、殺傷沙汰にならないといいけど)
ひとりふたり被害を被れば、凝りてみな口を噤むに違いない。
「デルプフェルト様、ひとつ聞いてもいいっすか?」
「ん? なに?」
「なんでオレを指名したんすか? エーミール様だっていたってのに」
「こんなとこ連れて来れないでしょ。グレーデン殿じゃ目立ちすぎるって」
「ああ、まぁ、それはそうっすよね」
エーミールの洗練された身のこなしでは、平民出の下級騎士など演じられるはずもない。その点ニコラウスは、今回の任務にうってつけの人物だ。
親しみやすい容姿に腰の低い態度は、とても伯爵家子息とは思えない。剣の腕も立つし機転も利くとくれば、相棒として言うことはないだろう。
「というわけで、今オレたち下っ端騎士だから」
にっこり笑って、カイは呼び止めてきた女にひらひらと手を振った。
「そこの騎士の旦那たち、上手いもんあるからうちで食ってっておくれよ」
「悪いけど、さっき腹いっぱい食ったばっかでさ。次はここ来るよ。ね、ラル先輩?」
「へ? あ、ああ、そうだなっ。次はここで食うとしようっ」
いきなり振られたにもかかわらず、ニコラウスは上手いこと先輩風を吹かしてきた。エーミールだったらこうもすんなりは行かないはずだ。
「ちょっ、デルプフェルト様、勘弁してくださいっすよ」
「やだなぁ、ラル先輩。敬語だなんておかしいですよ? ほら、オレのことなんていつもみたく呼び捨ててくれないと」
小声で非難してくるニコラウスに、人好きのする笑みを返す。口を数回パクパクしたあと、ニコラウスはやけくそのように思い切りふんぞり返った。
「ああ、そうだったなっ。いいか、デ、デ、デ……デル、オレの言うことは絶対だからな? このオレ様についてくりゃ間違いなしだっ」
「さっすが、先輩! 頼りになるなぁ」
がさつな足取りで前を行くニコラウスに、へこへこしながらカイは小走りでついて行った。即席コンビにしてはなかなか息が合っている。どこから見ても、ふたりは平民出の下級騎士にしか見えないだろう。
目抜き通りを外れると、がらっと空気が様変わりした。人数がぐっと減り、寂れた裏道は殺伐とした空気で満ちている。
砦に近い中心街は昔からこの土地に住む者が暮らしているが、流れの余所者は治安の悪い区域に集まっているようだった。
「騎士の旦那方、ここいらはあんたたちが来るような場所じゃないですぜ」
「おっと、ちっと道に迷っちまったかな?」
来た道を振り返るニコラウスの背に、カイは怯えた様子で張り付いた。
「ラル先輩、猫なんてほっといてもう戻りましょうよ」
「馬鹿言ってんな。あの猫は親父の形見なんだよ。こんな場所に置いてくわけにはいかねぇんだ」
「猫? 旦那はそんなもん、騎士団の遠征に連れて来たんで?」
「世話する人間もいねぇんじゃ、連れて来るしかねぇだろ? さぁ、もっと奥に探しに行くぞ、デル」
よく分からない話をでっち上げ、ふたりしてさらに裏路地を進んだ。行くほどにガラの悪そうな野郎どもの視線がグサグサ刺さる。
時に舌打ちが聞こえ、どの男からも挑戦的な目つきを向けられた。下っ端とは言え、彼らにしてみれば王都から来た騎士は鼻持ちならないエリートに思えるのだろう。
「ナンで、こんなトコロにキシのヤツらガ……?」
「トリアえズ行コウ」
「だめダ、いま動クとふしんガられる」
ふいにそんな会話が耳に届いた。フードを目深にかぶった小柄なふたり組だ。
地方から来る人間は、訛りがあってもおかしくはない。それに後ろ暗い経歴を持つ人間はゴロゴロいる。騎士を見て逃げ出したくなる理由があったとしても、何も不思議はない話だった。
それでもカイはニコラウスと目くばせし合う。
「お~い、猫ぉどこ行ったぁ? おっかしいなぁ、確かこっちの方に逃げてったと思ったんだけど……」
「ラル先輩、あっちの方なんじゃ?」
演技を継続したまま、ニコラウスは男たちの横を通り過ぎた。後に続いたカイが遠ざかると、二人組は途端に奥へと身をひるがえす。
行き過ぎたふりをして、すぐさまカイはその背を追いかけた。ニコラウスも同様に、気づかれないよう慎重にふたりを尾行する。
「逃げられたか……」
足を止めたニコラウスが、入り組んだ路地を見回した。
土地に馴染めない新参者ほど、不便な区画に追いやられるものだ。にもかかわらずフードの男たちの足取りは、あまりにも迷いが見られなかった。
「なぁ、デル。あのしゃべり方、オレめっちゃ聞き覚えあるんだけど」
「奇遇ですね、先輩。実はオレもです」
男たちの会話はかなり独特のイントネーションがあった。あんな感じで話す人間を、カイはひとりだけ知っている。
(――ランプレヒト)
バルバナスの小姓であり、騎士団のお抱え薬師をしている人物だ。とても小柄で、いくつになっても少年のように見える不思議な容姿の男だった。
それもそのはず、ランプレヒトは元々隣国オーラウヴスの人間だ。先代の辺境伯の時代に、一度オーランウヴスから小さな侵攻を受けている。その際に捉えられた捕虜こそがランプレヒトだ。
今は騎士団内で割と自由に過ごしているが、バルバナスの気まぐれの結果でしかない。薬草の知識を持っていたのも大きかったが、捕虜への待遇としては破格の扱いと言えた。
フードの男たちは、そのランプレヒトとよく似たしゃべり方をしていた。すなわち、ハインリヒが危惧していたことが正に起きているということだ。
(これは慎重に調査する必要がありそうだな……)
隣国の手の者がすでにこの地に入り込んでいる。内側から手引きをされれば、容易に侵攻を許すことになりかねない。どれほどの規模で潜んでいるのか、それによっては雪解け後に起こる戦火は避け難くなるだろう。
これ以上深部を調査するとなると、騎士姿では無理がある。流れの労働者を装うにしても、彼らに近づくのは骨が折れるかもしれなかった。
それでなくともこういった場所に集まるごろつきは、特有の勘と鋭さを持っている。いかにカイと言えど、死線をかいくぐってきた者たちの中に違和感なく溶け込むのは難しそうだ。
(こんがり亭のダンあたりならイケそうだけど)
しかし堅気となったダンを巻き込むわけにもいかない。デルプフェルト家から適任者を選ぶのが妥当なところだ。
まずはハインリヒへの報告が優先だ。
その上でジークフリートとバルバナスにも、カイが単独で命を受けていた事実を話す必要があるだろう。
(まぁ、オレがあっさりたどり着いたくらいだし。辺境伯もこの程度の情報はすでに掴んでるんだろうな)
どこまで手を取り合って国境を守るかは、あとはジークフリートとバルバナスの問題だ。国の一大事を前にして、いがみ合いを続けるほどふたりが子供でないことを祈るばかりだ。
「とりあえず今日のところは戻ろうか、ブラル殿」
「あれ? 猫探しはもうお終いっすか?」
「どうやら猫は虎に育ったみたいだし。もっと作戦練らないと、ね?」
軽く肩をすくませたカイに、ニコラウスは神妙に頷き返した。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。カイ様から届いた報告と同時に、さらに不穏な知らせを受け取ったハインリヒ王。そんな中、辺境の砦ではディートリンデ様の誕生日を祝う舞踏会が始まって……?
次回、6章第29話「砦の輪舞曲- 後編 -」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!




