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ふたつ名の令嬢と龍の託宣【なろう版】  作者: 古堂素央
第6章 嘘つきな騎士と破られた託宣

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第27話 夜のしじま

【前回のあらすじ】

 密かに続けられるカイとルチアの逢瀬。それを黙って見守るベッティは、カイがいなくなったあともルチアの元に残ることを決意します。

 そんな中、イジドーラの兄ツェーザルの慰問のために流刑の地へと向かったレミュリオ。そのツェーザルはいまだ胸に野心を秘めていて。

 戻った神殿でマルコの成長に笑みを()くレミュリオは、現れた紅の女に不穏な言葉を放ちます。

 一方、騎士団を辺境の地に向かわせる進言をカイから受けたハインリヒ。過去の過ちに思いを馳せるも、王としての立場を(さと)されて。

 歴代の王たちの不自然な沈黙に戸惑ったハインリヒは、そこでカイとの最後を悟ります。それを肌で感じたアンネマリーもまた、カイとの思い出を胸に蘇らせて。

 任務遂行の算段を立てる道中、カイの想いはルチアへと向かうのでした。

「ロミルダもわたくしたちと一緒に辺境の砦に戻るの?」

「もちろんでございます」

「でもエラが……」


 エラが臨月に入ったこともあり、少し前から元侍女長のロミルダが穴埋めのため遥々(はるばる)ヴォルンアルバから応援に来ていた。

 そのエラが先日無事に男の子を出産し、マテアスの母親である彼女は孫の世話も大喜びで買って出ている。そんな矢先にリーゼロッテがヴォルンアルバに行くことになった。もちろんエラは留守番だ。


(今侍女長の代役を務めるロミルダがいなくなったら、エラの気苦労が増えやしないかしら)


 産休をもらっていることに、それでなくともエラは罪悪感を抱いているようだ。どうしたものかとリーゼロッテは不安げに小首をかしげた。


「大奥様の誕生日のお祝いを控えておりますからね。長年ディートリンデ様の侍女を務めてきたわたしが戻らないことには参りません」

「そう……そうよね」


 こんなふうに返されては、公爵家に留まってくれとは言い出しづらい。しゅんと俯くリーゼロッテを前に、ロミルダは恰幅のいい体を自信ありげに反らしてみせた。


「なぁに、心配はいりませんよ。フーゲンベルク家は古くからいる者ばかりです。マテアスもついておりますし、侍女長のエラがしばらく休んだところで何も問題はありません」

「でもわたくし赤ちゃんのお世話が心配で。エラもロミルダがいた方が心強いんじゃないかしら」

「侍女たちは子育てに慣れておりますから。わたしがいなくとも、みなエラの良い手本になってくれることでしょう」


 フーゲンベルク公爵家では広大な敷地内に使用人専用の居住区を設けている。そこを(つい)住処(すみか)とし、親子代々で仕える者がほとんどだ。

 私生活においても、使用人たちは持ちつ持たれつ協力し合うのが当たり前となっていた。子育てもその一環で、公爵家で生まれた子供はみなで育てるという認識だった。

 それにエラの助けになりたいと手を上げる者はあとを絶たない。ロミルダの言うように、リーゼロッテの心配は杞憂に終わることだろう。


「旅路の準備はわたしが取り仕切ります。リーゼロッテ様は安心して旦那様とのご旅行を満喫なさってください」

「そうね。わたくしが気兼ねしていては、余計エラの負担になってしまうものね」


 納得して頷いた。むしろ自分がいない方が、エラも育児に専念できるに違いない。産気づく直前まで、リーゼロッテの身の回りの世話をすると言って聞かなかったエラだった。


「出立までまだ間がありますし、それまでは孫の世話はしっかりやらせてもらいます。次はいつ顔が見れるかも分かりませんからね」

「エッカルトも会いたがっているんじゃないかしら?」

「それはもう。わたしの自慢話を聞いたら、きっと悔しがることでしょう」


 エッカルトとロミルダの初孫は、子爵家に嫁いだエマニュエルが生んだランドルフだ。だがランドルフはブシュケッター家の跡取りのため、孫として接することは叶わない。

 例え血のつながりがあろうとも、貴族社会では身分の壁を越えることは許されなかった。そういった意味では、マテアスとエラの間にできた子がふたりの初孫と言えるのかもしれない。


「もう少し落ち着いたら画家を呼んではどうかしら? せめて絵姿だけでもエッカルトに届けてあげたいわ」

「ですが画家に頼むとなるとそれなりの費用が掛かりますし……」

「お祝いごとだもの、それくらいはさせてちょうだい。何なら毎年描いてもらおうかしら。そうしたら離れていても可愛い孫の成長を見守れるでしょう?」

「エッカルトもよろこぶと思いますが……エリアスはマテアスの赤ん坊のころにそっくりですからねぇ。毎年肖像画を残すのは、少々やり過ぎかと」


 生まれた子はエリアスと名付けられた。マテアスに似た糸目の男の子で、うっすら生えてきた髪はエラと同じ茶色がかった赤毛のようだ。


(ハの字の困り眉もマテアスそっくりなのよね。髪の毛が伸びてきたら、やっぱり天然パーマになるのかしら)


 エラの髪色をした小さなマテアスを想像して、リーゼロッテはふふと笑みをこぼした。

 ジークヴァルトと自分の子供はどんな子になるのだろう。ふとそんなことを考える。


(これから授かる託宣の子は女の子って話だけれど……ヴァルト様に似た青い瞳だといいな)


 あれこれと妄想が膨らんで、口元がゆるむリーゼロッテだ。


「そうそう、お伝えするのを忘れるところでした。リーゼロッテ様、明日にでもルチア・ブルーメ子爵令嬢様が公爵家にお越しになられるそうです」

「まぁ、ルチア様が? 会えるのはうれしいけれど、この雪の中をどうしてわざわざ……?」


 昨年の秋口からフーゲンベルク家に滞在していたルチアは、新年を祝う夜会を終えたあとブルーメ家に帰って行った。

 子爵領は雪深い土地なため、冬の間は出るも戻るも苦労すると聞いている。そんな中再びやってくるなど、よほどの理由があるのだろうか。


「ディートリンデ大奥様がぜひ一度会いたいと、ルチア様をご招待されたんですよ。それでまず公爵家にお招きして、わたしどもと一緒にヴォルンアルバに移動することとなりました」

「じゃあルチア様もディートリンデ様の舞踏会に出られるのね」


 微笑みかけたリーゼロッテの脳裏に、ルチアの泣き顔が(よぎ)った。あれは新年を祝う夜会での出来事だ。ルチアへのカイの不実な態度が思い出されて、腹の奥に重いもやもやが湧き上がる。


「リーゼロッテ様? どうかなさいましたか?」

「いいえ、なんでもないの」


 あのあと会話を交わすこともなく、ルチアはブルーメ家に帰ってしまった。


(ルチア様、まだ落ち込んでいるかしら……)


 会ったとき、なんと言葉をかければいいのだろうか。


 気の利いた台詞のひとつも思い浮かばなくて、リーゼロッテは知らず小さなため息をついた。


     ◇

 公爵家に到着して、ベッティは真っ先にエラの元に向かった。世話になる側として、その家の侍女長に挨拶するのは基本中の基本のことだ。もちろん出産の祝いの品も忘れない。

 生まれる子の性別はどちらかというネタで、フーゲンベルク家では賭け事が行われていた。それに一口乗っていたベッティは、今回も上手いこと小銭を増やすことができてほくほく顔だ。ベッティにとって、エラはまさに幸運の女神のような存在だった。


「わぁ、これはまたマテアスさんそっくりでぇ」

「名前はエリアスよ。この子も優秀な家令になってくれるといいんだけれど」


 アーベントロート家は代々フーゲンベルク公爵家の家令を務めている。無事跡取りを産めたことに、エラも肩の荷が下りたような表情だ。

 それにしても、ほかの使用人たちの反応が見ていて面白すぎる。迷惑が掛からないよう順番に会いに来ている様子だが、赤子の顔を見たときの態度がみな一様なのだ。


(現実を突きつけられて、絶句してるってとこですかねぇ)


 侍女長になったエラは結婚後も日々忙しくしていた。家令のマテアスも似たようなもので、ふたりが夫婦らしく過ごす姿など目にする機会は皆無だった。

 ふたりの会話を耳にしても、事務的なことを伝え合うのみだ。そんな日常の中で多くの者が、実はエラはまだ結婚していないのではないかというおかしな幻想を抱くようになった。日増しに大きくなるエラのお腹を見ても、父親はマテアスなどではないと言い張る者すらいたらしい。


 そこにきてこのエリアス爆誕だ。どこからどう見ても父親はマテアス以外にあり得ない。祝いを伝えに来た使用人は、ぐうの()も出ない現実に打ちひしがれながら、ひとりまたひとりと肩を落として去っていく。


「エラさんは相変わらず人気者ですねぇ」

「何と言ってもマテアスの子供だもの。みながよろこんでくれて本当にうれしいわ」


 祝いの品々に囲まれて、エラはしあわせそうに微笑んだ。腕に抱かれたエリアスも、ご機嫌な様子で小さな手をにぎにぎしている。その指先から仄かな光がチラついた。


「あ、この子、ちゃあんとマテアスさんの力を受け継いでるんですねぇ」

「力って、異形の者を祓うっていう?」

「はいぃ、今青い光が見えましたからぁ。って言うことはぁ、この子の目は青色ですかぁ?」


 顔を近づけてまじまじと見るも、糸目過ぎて良く分からない。さすがマテアスの息子と言ったところか。


「確かにマテアスと同じ青い目よ。そう言えば、浄化の力は瞳の色に宿るって話だったわね」

「えぇっ!? エラさんはマテアスさんの目を目視したことあるんですかぁ?」

「それはもちろん」

「ほえぇ、さすがはご夫婦ですねぇ」

「え? そんなもの、結婚する前から何度も見てたけど……?」


 あの隙のない糸目をこじ開けられるとは。

 どんな手を使ったのだろうかと、ちょっと興味が湧いて来る。


「一体どうやって確認をぉ?」

「どうって……マテアスが自分で目を(ひら)けば、誰にだって見えるでしょう?」

「自分で目を開けばぁ?」


 ベッティがあんぐりと口を開けると、何かを思い出すようにエラは首をひねった。


「以前リーゼロッテ奥様もそんなことをおっしゃってたわね。一度マテアスのまぶたを押し開いてみたいって……」

「ですよねぇ、激しく同意ですぅ! あ、コレ、マテアスさんにはご内密にぃ」


 敵に回すと厄介な人物だ。マテアスの青い目を見たが最後、その日が自分の命日になっては敵わない。


「それにしても、この子に浄化の力があってよかった……」


 ぽつりとつぶやいたエラに、ベッティは不思議そうな顔をした。それを察したエラが、自嘲気味な笑みを向けてくる。


「ほら、わたしって“無知なる者”でしょう? 異形の姿も見えないし祓う力もないから、この子がそうならなくてよかったなって」

「あぁそんなことぉ」

「そんなことって。異形に対してなんの役にも立てないのよ? それじゃこの先困るじゃない」


 エラにしては珍しくむっとした顔を返された。リーゼロッテが絡んだ途端、目の色が変わるのは相変わらずのようだ。


「エリアスが大きくなったら、リーゼロッテ奥様やこれからお生まれになる御子の役に立てるのかと思うと、わたしも今から誇らしいわ」

「エラさんだって立派にお役に立ってますよぅ。無知なる者ってぇ、そもそも異形自体を寄せ付けないんですからぁ」


 例え弱い異形だとしても、そこにいれば鬱陶しく感じられるものだ。見た目もドロデロしているし、そこはかとなく負の念が漂ってくる。

 エラが公爵家でモテモテなのも、エラ周辺は異形がまったくおらず空気が澄み切っているという理由が大きかった。


「そばにいるだけでいいんですからぁ、もっと自信持ってくださいよぅ」

「ベッティ、そのことなんだけど……」


 今度はすがるような目を向けられた。女神エラの頼みとあらば、大抵のことは請け負うつもりでいるベッティだ。


「ベッティは異形を祓う力を持ってるでしょう? だから辺境の砦に行っている間、ベッティにリーゼロッテ奥様のことをお願いしたいの」

「身のまわりのお世話って言うよりぃ、異形からお守りするって感じですかぁ?」

「ええ。ベッティがルチア様付きの侍女ってことは分かってるわ。だけどこんなことを頼めるのはあなたしかいなくって」


 公爵もついているというのに、リーゼロッテへの過保護ぶりはますます加速しているらしい。


「なんとか引き受けてくれないかしら? この大雪の中をわざわざ来させて申し訳なかったとは思ってるんだけど……」


 最後に付け足された言葉に、ベッティはなぜルチアが呼ばれたのかを理解した。

 恐らく旅路に同行できないエラが、リーゼロッテの身を案じてマテアスに泣きついたといったところだろう。公爵経由でディートリンデに打診し、ルチアを辺境の砦に招待する名目でベッティを呼び寄せたというのが真実のようだ。


(おかしいと思ってたんですよねぇ。滞在費用はすべて公爵家持ちですしぃ、迎えの馬車まで寄越してきましたからねぇ)


 ルチアのついでで付いて来たつもりだったが、よもやルチアの方がついでだったとは。余程ベッティに来て欲しかったということだろう。


 ルチアの旅行が決まったとき、カイには急ぎ手紙を送った。突然のことだったので、うまく伝達できたかそれだけが心配だ。

 カイも任務で各地を動き回っている。入れ違いでブルーメ領に向かっていたら、カイの時間を無駄にさせることになってしまう。


 そんなことを考えながら、ベッティは不安げに返答を待つエラに笑顔を向けた。


「このベッティでよろしければぁ、全力でリーゼロッテ様のお力にならせていただきますよぅ」


 力強く頷いたベッティに、エラは心よりほっとした顔をした。


     ◇

 逆さに手にした花束が地面すれすれを行き来する。そのたびに甘ったるい香りがカイの鼻腔をくすぐった。


 立ち並ぶ墓標をいくつも通り過ぎ、ようやく目当ての場所へと辿り着く。母の名が刻まれた白石をカイは表情なく見下ろした。

 ここに来たのは葬儀の日以来だ。母親など最早どうでもいい存在だった。ずっとそう思っていたが、これまで足が向かなかったのはむしろ(わだかま)りを抱え続けていたからなのだろう。


 ――ベアトリーセ・デルプフェルト ここに永遠の眠りにつく


 墓石に彫られた文字を視線でなぞっていった。いつもなら波立つ心も、些細な感情すら湧いてこない。


 死者に手向けるには少々派手過ぎる花束を、自身の影が差す足元へと横たえる。深紅の花びらが風に揺らされる様を見て、無意識にカイはルチアの顔を思い浮かべていた。


 今、本当の意味ですべてがどうでもよくなった気がした。

 もしもカイが愛されて育ったとして、課せられた宿命を受け止めきれたかは分からない。生ぬるい環境下では、ここに立つ自分は存在し得なかったはずだ。


 この世に偶然などありはしない。起こることはみな必然だと言うのなら、何もかもがルチアと出逢うためだったとさえ思えてくる。


 凪いだ瞳のまま、カイは母の墓標に背を向けた。


 来た道を戻りかけ、その先にいた人影に一瞬足を止める。向かってくるのは父親であるデルプフェルト侯爵だ。顔を合わせるつもりのなかったカイは、内心やれやれと再び歩き出した。


「随分と珍しい場所にいる」

「父上と違って、ただの気まぐれですよ」


 肩をすくませたカイに、侯爵は唇の片側だけを吊り上げた。

 この男はほぼ毎日墓地(ここ)を訪れているらしい。配下の者の言葉を疑うつもりはなかったが、(にわ)かには信じ難かった話はやはり事実のようだ。


「もういくのか? あれも喜んでおろう」

「ええ、あまり時間がないもので」


 軽い会釈のみで去ろうとするカイを、引き留めるでもなく侯爵はひとり奥へと進んでいった。墓地の入り口で振り向くと、色鮮やかな花が置かれた墓石の前に佇む父親が小さく目に入る。

 その姿はいつまでも妻の死を(いた)む健気な男そのものだ。あの両親の間に愛があったのかなど、しかしカイには知りようもない。


(時間がない、か……)


 侯爵が問うてきた通り、自分はもうじき()くだろう。立派に託宣を成し遂げたカイを、果たしてベアトリーセは喜び迎えるのだろうか。


 そこまで思って、カイは自嘲の笑みを口元に漏らした。

 誰かの称賛を得るために、命を懸けるなど馬鹿らし過ぎる。カイは自ら進んでルチアの託宣を阻み、カイの意思をもって星に堕ちるのみだ。


 次の目的地に向かうため、足早に厩舎(きゅうしゃ)へ向かう。大方の引継ぎを終えたとしても、まだここにいる以上任務で頼られるのは仕方のないことだった。

 幸いこれから行く先は王都とは逆方向だ。片付き次第、その足でブルーメ領へと向かえばいい。

 愛馬を引き、鞍に乗りかけたところで駆け寄ってきた男に引き留められる。


「カイ様! よかった、間に合って」


 息も絶え絶えに、男は一通の封書を差し出してきた。


「こちら、エリザベス様からの伝達です」

「ベッティから?」


 何かあったのかと、急ぎ中を確かめる。


(今ルチアはフーゲンベルク家に……?)


 北へ出発する前に知れて良かったと思いつつ、公爵家にいては夜這いのため忍び込むのは困難だ。

 どのみちカイは、ハインリヒの(めい)で辺境の砦に行かねばならない。このあとルチアもヴォルンアルバに向かうのであれば、隙を見てそこで会うことは可能だろう。


(いや待てよ……)


 ベッティの報告では、ルチアが移動するまでまだ間がありそうだ。あれこれと考えつつ、任務にかかるであろう日数と移動時間をはじき出す。しばらく思案していたカイは、手短に(ふみ)をしたためた。


「フーゲンベルク家のベッティに届けて。ああ、あとこれも一緒に渡しといてよ」


 手紙とともに、石をひとつ取り出した。軽く握り込むと、くすんだ石が琥珀の輝きを放ち始める。


「承知しました。急ぎ届けます」

「うん、よろしく」


 男を見送って、カイも馬にまたがった。

 こうなれば王都から離れるのは(かえ)ってあだとなってしまったようだ。


 考えても仕方がないと、無心でカイは馬を走らせた。


     ◇

 馬車を降り、どこかで見た風景に目を見張る。


「ここで待っていればカイに会えるの?」

「はいぃ、今の任務が終わり次第こちらへと向かうそうですぅ。早ければ明日にでもとのことですよぅ」


 ベッティとともにやってきたのは、王都の郊外にあるカイの隠れ家だった。森の一本道を進むとほどなくして一軒家が見えてくる。

 なんと言ってもカイと初めて結ばれた場所だ。まだ数か月前の話だが、懐かしさすら感じる雪の庭にルチアは夢見心地で踏み入れた。


「リーゼロッテ様が口裏を合わせてくださってますからぁ、ルチア様はずっとフーゲンベルク家にいたってことにしておいてくださいましねぇ」

「分かったわ。お義父様にバレないよう気をつける」


 ベッティに続いて家に入る。途端に低い唸り声が聞こえてきた。

 今にも飛びかかってきそうな体勢の犬が、薄暗い廊下の先で伏せている。長い耳が床まで垂れ下がった短足骨太の大きな犬だ。


「ぎゃっ、あのときのっ」

「リープリングぅ? ダメですよぅ、この方は大事なお客人なんですからぁ」


 ベッティが(たしな)めるように言うと、くぅんと鳴いた犬はすぐさま大人しくなった。


「今暖炉の火を大きくしますからぁ、ルチア様は中に入ってあったまってくださいませぇ」

「そ、その犬、大丈夫なの?」

「リープリングは賢い犬ですからぁ、なぁんにも心配いりませんよぅ」


 促されて廊下を進んだ。恐る恐る犬の脇を通り抜ける。唸り声はあげなかったものの、リープリングはこれ見よがしに鼻先にしわを寄せてきた。


「ベッティ! ちっとも大丈夫じゃないじゃないっ」

「えぇ?」


 ベッティが振り向くと、きゅぅんとリープリングはしおらしく体を丸めて見せた。


「どこも問題なさそうですがぁ?」

「ちょっと、あなた! なんなのよその変わり身は!」


 ベッティの後ろに隠れて抗議するも、リープリングはそ知らぬ顔でそっぽを向いた。


(もしかしたらこの前、不法侵入したことが尾を引いているのかしら……)


 貴族街から逃げ出した日、ルチアは茂みの奥にあった壁穴からこの家の中に入り込んだ。リープリングに追い立てられて、部屋中を駆けずり回ったことを思い出す。

 そう思うとそれ以上何も言えず、ルチアはリープリングを置いて暖炉のある居間へと移動した。


「いつまでここにいられるの?」

「リーゼロッテ様がヴォルンアルバに移動する日までには戻らないとですからぁ、いれて四、五日ってとこですかねぇ」

「そう」

「初めに言っておきますがぁ、カイ坊ちゃまが間に合わないってこともあり得ますからぁ。そこのところはご承知おきくださいませねぇ」

「ええ、分かってる」


 カイは任務で忙しい身だ。約束通りこうしてこまめに連絡も入れてくれている。我が儘は言わないとルチアも誓ったのだから、待つだけの日々にもう苦痛はなかった。


「ルチア様も移動続きでお疲れでしょうからぁ、今日のところは早く休みましょうかねぇ」


 どのみち今夜の訪れはないだろう。それなら体力回復に努めることに異論はないルチアだった。


「あ、そぅそぅ。こちらカイ坊ちゃまからですよぅ」

「これは?」


 差し出された琥珀に首をかしげる。受け取ると、手のひらがあたたかい感触に包まれた。


「こちらは守り石と言いましてぇ。カイ坊ちゃまのお力が込められてるようですよぅ」

「守り石? 力って何?」

「異形を祓う力ですねぇ。ご存じありませんかぁ? 浄化の光ですよぅ」

「あ、リーゼロッテ様が前に言っていた……」


 ルチアは思わず自分の手のひらをじっと見つめた。次いでスカートをめくって中を確かめる。


「いないわ……」


 ルチアの小鬼は、独りでいるときにしかその姿を現すことはなかった。特にカイの気配を感じると、一目散にどこかに隠れてしまう。


「ルチア様ぁ?」

「大丈夫、何でもないわ」


 そのうちまたひょっこり顔を出すだろう。そう思ってルチアは握る石に意識を戻した。


「これ、なんかあったかい」


 なんだかカイがそばにいるようだ。言ったら笑われるかもしれないと、ルチアはその言葉をそっと胸にしまった。


 琥珀の石の表面に、映り込んだ暖炉の炎が揺れている。それがまるであの日のカイの瞳に見えて、ここで初めてひとつになった日のことが、ルチアの胸を甘く焦がしていった。


(もうすぐカイに会えるんだ……)


 その夜はカイの琥珀を握りしめて眠りについた。ベッティの言った通り、疲れがたまっていたのかもしれない。寝台にもぐりこむなり強い睡魔に襲われた。


 夢も見ずに深くまどろんでいたルチアは、足の寒さにふと目を覚ました。まだ眠っていたいのにと、上かけ布団をかけなおそうと手を伸ばす。


「……カイ?」

「ごめん、起こしちゃった?」


 しょぼつく目を懸命にこすると、暗がりの足元にカイがいた。布団をまくり上げた状態で、ルチアの足を片方持ち上げようとしている。


「何してるの? 寒いんだけど」


 眠すぎて上手く頭が働かない。カイの肩を軽く蹴りつけると、ルチアは取り戻した足ごと布団の奥へもぐりこんだ。

 天国に舞い戻り、ルチアの意識が再び深く沈んでいく。

 それなのに、今度は頭から布団をはぎ取られた。刺すような冷気に、ルチアの眉間にしわが寄る。


「ルチア」

「なに?」


 不機嫌に返すと、鼻先に口づけられた。


「ちょっと、カイ。あなたなんか臭いわよ?」

「そういや三日は風呂入ってないかも。それに早くルチアに会いたくて、寝ずに一晩馬を走らせてきたからさ」


 カイが何かを言っているが、ルチアは既に夢の住人となっている。性懲(しょうこ)りもなくカイは、そんなルチアに更にぐいっと笑顔を近づけてきた。


「ねぇ、ルチア。このまま臭いオレに抱かれるのと、一緒に風呂入るの、どっちがいい?」

「なによソレ……どっちも嫌よ。わたしはこのあったかい布団で朝までぐっすり眠りたいわ」


 眠気も限界で、しょぼつく目はもう一ミリも開けることができない。それでもいくつも口づけを落としてくるカイに、仕方なくルチアは最後の力を振り絞った。


「お風呂で綺麗にしてきたら、カイもここに入れてあげるから……」


 掛け布団の(はし)を軽く持ち上げて、脇あたりに招き入れるための空間を示す。

 やっとの思いでそれだけ言うと、ゼンマイが切れた人形のようにことりとルチアは眠りに落ちた。


「りょうかい」


 もう一度頬に口づけて、カイは部屋を出ていった。しばらくののち、頭にタオルをかぶったカイがあくび交じりで戻って来る。


「ルチア、お待たせ」


 横にもぐりこんできたカイにぎゅっと抱きしめられる。啄んでくる唇の動きに、夢うつつでルチアもむにむに応えていった。


「はー、あったけー……」


 ルチアを腕に閉じ込めたまま、ゆっくりとカイの瞳も閉じていく。互いの素足を交差させると、内ももにある対のあざ同士がぴったりと模様が重なった。


 疲労と睡魔とあざの熱とが絡み合う。


 夜の(とばり)が降りた静寂の中、カイとルチアは言いようのない至福の世界へと(いざな)われた。


【次回予告】

 はーい、わたしリーゼロッテ。ヴォルンアルバにある辺境の砦に移動したわたしたち。ディートリンデ様の誕生日を祝う舞踏会の準備が進む中、なぜか騎士団の方たちもやってきて。カイ様は調査のために下町に出かけて行って……?

 次回、6章第28話「砦の輪舞曲(ロンド) - 前編 -」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!

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