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ふたつ名の令嬢と龍の託宣【なろう版】  作者: 古堂素央
第6章 嘘つきな騎士と破られた託宣

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第26話 だんまりの王

【前回のあらすじ】

 穏やかに過ぎる日々の中、ジークヴァルトの誕生日をふたりで迎えるリーゼロッテ。

 一方、王城ではハインリヒが月に一度の祈りの儀を行います。その間にも夢見の巫女となった王妹ピッパが、龍の神託を降ろし続けて。

 夢見の力を失ったマルコは神殿に戻され、レミュリオとともに巫女付きの神官の地位につきます。急変した立場に戸惑うマルコとピッパのやり取りを見て、笑みを浮かべるレミュリオ。

 そんな中リーゼロッテは、ジークヴァルトと辺境の砦に行く約束を取り付けるのでした。

 ブルーメ子爵領はブラオエルシュタインでも北方に位置している。一年の大半が雪に(うず)もれるこの土地は、それでも花の産地として有名だ。希少種の薔薇をはじめ、様々な花を王家に献上するのが昔からの習わしとなっていた。


 平たく言えば花と雪しかないド田舎で、街に出ても大した娯楽もなかった。王都で流行る話題が数年遅れでやって来る。そんな刺激のない場所に、ベッティは違和感なく溶け込んでいた。

 ブルーメ家の屋敷では、初めこそよそ者扱いであまりいい顔をされなかったが、使用人に取り入るなどベッティにとっては朝飯前だ。今ではルチアのお気に入りの侍女としてすっかり受け入れられている。


「ルチアお嬢様は少々頭痛がするとのことでぇ、朝食はお部屋で済まされたいとのことですぅ。わたしが運びますのでぇ、準備してもらってもよろしいですかぁ?」


 (せわ)しない朝の厨房を覗き、料理長を捕まえた。


「それはいかんな。すぐに用意しよう。今朝はお嬢様のお好きなプレッツェルが一等上手く焼けたんだが、消化の良さそうな料理も作った方がいいだろうか?」

「食欲はおありのようですからぁ、気分で選べるように種類多めで用意していただけると助かりますぅ」

「おお、それがいい。残しても気にしないようお嬢様に伝えてもらえるかい、ベッティ?」

「もちろんですぅ。料理長の気遣いにぃ、きっとルチアお嬢様もおよろこびになられますよぅ」


 恐らく全部平らげることになると思うが、そこはそれ言う必要などないだろう。そんなことを思いながら、ベッティは朝食を載せたワゴンを押していった。


「朝食をお持ちしましたよぅ」


 天蓋の降ろされた寝台へ声がけするも、ルチアはまだ寝入っているようだ。

 仮病も大げさになりすぎると医師を呼ばれかねない。部屋に誰も近づかないよう根回しはしてあるが、いい加減起きてもらわねば不審がられてしまうかもしれなかった。


「ルチア様ぁ?」

「ふぁ、おはようベッティ」

「カイ坊ちゃま……」


 天蓋のカーテンを割って、現れたのはあくび交じりのカイだった。辛うじて下は履いているが、シャツを羽織っただけな上、寝ぐせで頭がぼさぼさだ。


「まったくぅ、そんなお姿で出てきたりしてぇ。誰かに見られでもしたらどうなさるおつもりですかぁ?」

「はは、ベッティじゃなかったらちゃんと隠れてるって」


 悪びれもせず、カイは皿から料理をつまんで口に放り込んだ。ふたり分の料理を部屋に運ぶ理由(いいわけ)も、最近では慣れたものだった。


 ブルーメ領に戻ってからというもの、カイはそこそこ頻繁にルチアに会いに来ている。遠方の地からの連絡でタイムラグはあるものの、いつ頃来れそうかをこまめに伝えるようにもなっていた。

 ルチアはルチアで、カイの訪れが遅れたとしても一切文句を言うことがなくなった。ふたりして、どんな心境の変化があったのやらだ。


 ベッティにとってカイの意思は絶対だ。いろいろと思うところはあっても、繰り返されるふたりの逢瀬をベッティは黙って見守っていた。


「そうだ、ベッティ。オレが出した課題だけど。ベッティが前に言ってたように、リーゼロッテ様の元に行くってことでいい?」


 突然の問いかけに、ベッティはカイの顔をじっと見た。

 いつかいなくなるカイのために、ベッティは安寧の地を探すよう随分と前から言われていた。

 どんなに残酷に思える約束だとしても、カイの望みならベッティは守るしかない。すべてを覚悟したような、こんな目をしたカイを前にしては尚更だ。


「その件なんですがぁ、やっぱりわたしこのままルチア様のそばにいようかと思っててぇ」

「ルチアの? でもここじゃ退屈すぎるでしょ。オレに気を遣ってるなら必要ないよ?」

「いいえ、そう言うことではなくてぇ。市井(しせい)育ちのルチア様とは思いのほか気が合いましてねぇ、わたしも案外毎日たのしいんですよぅ」


 デルプフェルト家の任務はいつでもスリリングで、ベッティにしてみれば生き甲斐みたいなものだった。そういった意味ではリーゼロッテのところにいた方が、この先も波乱万丈な人生を送れそうだ。

 だがベッティはどうしても確かめたかった。ただひとり、カイが選んだのがなぜルチアだったのかを。


 冷たくカイに捨てられて必死に追いすがる女たちを、これまで山ほど目にしてきた。最期を迎えるその瞬間まで、カイは孤独のまま逝くのだろう。ずっとそう信じて疑わなかったベッティだ。


「ふうん? ベッティがそう言うなら、まぁいいけど」

「はいぃ、ぜひその線で進めてくださいましぃ」


 ルチアの元にいても、欲しい答えは得られないかもしれない。それならそれで構わなかった。

 カイがいなくなったそのあとも、カイのために生きていく。ベッティの中でそれはもう決定事項となっていた。


「さぁさ、食べたら身支度済ませてさっさと帰ってくださいましぃ」

「ルチアもまだ寝てるしさ、もうちょっとゆっくりさせてよ」

「もう、仕方ないですねぇ。誰かに見つかっても知りませんよぅ」

「ベッティがいるから大丈夫でしょ」

「まったくぅ。いざとなったら雪の外に放り出しますからねぇ」


 頬をふくらませながら、ワゴンを天蓋の中に押し込んだ。


「ありがとう、ベッティ。頼りにしてるよ」


 カイはいい子いい子と頭を何度も撫でて来る。ベッティがこの手に弱いことを、カイもよく知っているから始末に悪い。


「プレッツェルはルチア様の大好物ですからぁ、坊ちゃまひとりで食べちゃ駄目ですからねぇ」

「りょーかい」


 あふと大きくあくびをしながら、カイは天蓋の中に引っ込んだ。ぎしりと寝台が揺れる音がして、本気で二度寝を決め込むようだ。


「ゆっくりお休みくださいましねぇ」


 小声で言って、ベッティは天蓋のそばをそっと離れた。


      ◇

 石造りの寒々とした部屋。唯一ある窓は天井近く、僅かな陽の光を届けるのみだ。

 ツェーザルがこの流刑(るけい)の地に追いやられ、はや十八年が経とうとしている。本来ならばザイデル家当主として、今も豪華な暮らしをしていたはずだった。


(それどころか多くの者を従えて、一国の王として君臨していたかもしれぬのに……)


 家督は弟のゲルハルトに奪われて、ことさら可愛がっていた妹イジドーラにさえ裏切られた。貴族の地位を剥奪された苦き日が蘇り、ツェーザルの瞳に怒りの炎が燃え盛った。

 罪人の証として当てられた焼き(ごて)は、痛み以上の恥辱を与えた。生まれながらにして高貴なこの身が、これ以上ないがしろにされていいはずもない。


「ツェーザル・ザイデル様。半年ぶりに訪問させていただきました。お加減はいかがですか?」


 年に二度、決まり事として神官が事務的に訪れる。ここ数年は女のような顔をした盲目のレミュリオが来るようになった。


「答えるまでもない。こんなかび臭い場所で気分良く過ごせる訳はなかろう」

「それはいけませんね。人道的な待遇を施すのが神殿の意向です。早急に対処いたしましょう」

「そう思うなら今すぐ我が身を解放しろ」

「ツェーザル様が囚われの身となっているのは、貴族社会での決まり事。神殿に籍を置くわたしにはどうにもできかねますね」


 瞳を閉じた銀髪の神官は、感情を載せないまま形だけの笑みを作った。


「ツェーザル・ザイデル様に青龍の加護があらんことを。わたしにできるのはそう祈ることだけです」

「オレは神など認めない。そんな紛い物はねじ伏せて、いつかこの手に栄光を掴んでみせる」

「長期間の投獄生活にもかかわらず、不屈の心をお持ちのご様子。なんとも素晴らしい精神力ですね」


 感心したかのようにレミュリオは胡散臭い笑みを深めた。これまでやってきた神官ならば、気分を害して嫌な顔のひとつもしているところだ。


「その(たぐい)(まれ)なる力を別の方向にお使いになれば、王も快く恩赦を授けてくれましょうに」

「下賤の血を引く者の温情など受けてたまるものか」


 ここ何代も赤毛の王が続いていたのは、百年ほど前の時代に市井の女を王妃に迎えたからと聞く。その子孫である先王ディートリヒは、隣国の王女を妻として迎えた。ましてふたりの間に生まれたハインリヒが、正当な王家の血筋と認めることなどできようか。


「一週間ほどはこちらにいる予定です。その間は毎日お伺いしますので、ゆっくりと話をお聞かせください」


 去っていくレミュリオを嘲笑とともに見送った。


「罪人の戯言(たわごと)と、まともに取り合わぬつもりのようだ。ふん、今はそうやって侮っておればいい」


 正義がねじ曲げられたまま、屈辱の日々に甘んじてきた。だがそれも間もなく終わりを告げる。


「高貴な血を引く我が身こそが、この国を()べるに相応(ふさわ)しい」


 いずれ蛮族から取り戻して見せよう。地位も金も、煌びやかな暮らしも何もかも。そして裏切者どもをすべて地獄へ叩き落とすのだ。その瞬間を思っただけで、言い知れぬ高揚感に満たされた。


 この十八年、幾度も脱出を試みてきたが、すべて未遂に終わって今に至る。

 しかし今回は違う。時間をかけ綿密に計画を立ててきた。今こそ動くべき時なのだと、天がそう告げている。思いもよらない協力者が現れたのは、正にその現れだ。


 若かったあの頃も、ツェーザルは常に慎重だった。父親を事故に見せかけてこの世から葬り去り、公爵位に就いたあとも焦らずに事を進めるつもりだったのだ。

 過ぎ去りし日の憎しみが、昨日のことのように湧き上がった。


「あの女さえ余計なことをしなければ……」


 時間的にこれが最後の機会となるだろう。

 そう覚悟して、抑えきれない野心がいっそうツェーザルの胸を(くすぶ)った。


     ◇

「レミュリオ様! お役目からお戻りになられたんですね!」

「これはマルコさん。ええ、今しがた戻ったところです」


 駆け寄ってきたマルコを嫌な顔ひとつせずに振り返った。神殿内を歩けば誰かしらに呼び止められる。それはレミュリオにとって日常のことだった。


「長距離の移動でさぞお疲れになったでしょう」

「いえ、気分転換にはちょうど良い旅でしたよ。わたしのことはさておき、マルコさんはいかがでしたか?」

「はい、あのあとピッパ様がまた言霊を降ろされました」

「そうですか。マルコさんならそつなく神事を熟せると思っていましたよ」

「ですが……」


 床に視線を落としたマルコが、縋るように見上げてきた。


「ピッパ様は新月と満月に関係なく、気分で神事をやらせろと突然言ってくるんです」

「その件で神官長はなんと?」

「夢見の巫女の言う通りにしろと……」

「それならばマルコさんが気に病むことはありませんよ。巫女に振り回されるのは大変かと思いますが」

「はい……月の満ち欠けに関係なく、青龍はピッパ様を通じて託宣を授けています。だからこれまでの慣例は無視していいと、神官長はそうおっしゃっていました」


 そう言いながらも、いまだ自信なさげなマルコだ。その原因は察しがついた。大方ヨーゼフあたりが、やっかみでマルコにきつく当たっているといったところだろう。


「何を憂いているのです? 誰かに何かを言われましたか?」

「実はヨーゼフ様が……」


 人の心が見え透き過ぎて、その単純さが微笑ましく思えるほどだ。

 ヨーゼフは神官長の座に執心しており、レミュリオにも何かにつけて絡んでくる人物だ。年功序列で考えるならば、彼を次の神官長に推すのが妥当なところなのかもしれない。

 しかし人望という点では実に微妙な男だ。新米神官のマルコすら脅威に感じる小物ぶりを見る限り、神官長が後継者にヨーゼフを選ぶことはまずないだろう。


「実にくだらない」

「え?」

「いえ、ただの独り言です。お気になさらず」


 慈愛の笑みを向けると、マルコは逆に不安げな顔になった。


「あ……すみません。お疲れのところを引き留めてしまって」

「構いませんよ。数日休暇をもらっていますから、何かあれば部屋まで来ていただければ。いくらでも相談に乗りますので、どうぞご遠慮なく」


 マルコと別れ、レミュリオは再び私室へと足を向けた。誰にも呼び止められないようにと、すっと気配を消し去った。

 多くの神官の脇を過ぎ、声をかけられることもなく部屋の前にたどり着く。ノブに手をかけた状態で、思い出したように口元に小さく笑みを刻み込んだ。


「先ほども気配を消していたのですがね。()()()が落ちて、マルコさんの力がより一層研ぎ澄まされたと言ったところでしょうか」


 マルコの方がよほど神官としての資質を持っている。大事に育て上げれば、いずれ神官長となれるほどの逸材と言えるだろう。


「さすがに疲れましたね。今夜は早めに休むとしますか」


 部屋に入りふっと息をつく。

 その瞬間、歪んだ空間にゆらりと誰か輪郭が現れた。目の前に浮かぶその女は、禍々しい(あか)の揺らめきを纏っている。


「おや? 今、貴女を呼んだ覚えはありませんよ」


 物言いたげに(くれない)の女はこちらをじっと見つめてくる。かと思うと、確かめるようにレミュリオの周りをつかず離れず回ってみせた。


「ああ、そう言うことですか」


 星に堕ちたこの異形の女は、時が過ぎても未だあの男にご執心のようだ。


「いいでしょう。老いぼれ青龍も混乱を所望している様子です。貴女の(のぞ)み通り()の地へ向かうといい」


 レミュリオのその言葉に、女の紅い唇がにぃっと弧を描いた。次いでその場から掻き消える。


「こちらも面白いことになってきました」


 呟いて、レミュリオはたのしげにひとり笑みを()いた。


     ◇

 王印を押すだけの単調な作業を、ハインリヒは心を無にして続けていた。例のごとく頭の中では歴代の王たちがやかましくしゃべり続けている。一枚一枚目を通してはいるが、すべてが龍の(おぼ)し召しなのかと思うと、書類を確認することさえ馬鹿らしくなる今日この頃だ。


 そんなときカイが顔を出し、ハインリヒはこれ幸いと執務机から立ち上がった。


「カイ、ちょうどいいところにきてくれた」

「何かご入用でも?」

「ああ、至急調査してもらいたいことがある」


 勝手知ったる執務室で、カイは慣れた手つきで紅茶を淹れだした。当たり前のように自分の分も用意して、許可なく応接用のソファに腰かける。

 ハインリヒが王位に就いてからも、人目がない場面ではカイは未だにこんな調子だ。その気安さに呆れもするが、変わらない態度をうれしく思う自分もいた。


 そんなカイも出会った当初は、周囲にトゲを振りまくハリネズミのような少年だった。笑顔ひとつ見せなかったカイが次第に処世術を身に着けていく様を、ハインリヒは驚きとともに見守っていた。


「ん? オレの顔に何かついていますか?」

「いや、カイが初めてわたしの前に現れた日のことを少し思い出していただけだ」

「なんでまたそんなこと」

「お前も随分と変わったなと思ってな」

「あの頃のオレはまだ世間知らずの子供でしたから。恥ずかしい過去は忘れてください」


 肩を竦めたカイを見て、ハインリヒはふっと笑みを漏らした。


「それを言うなら、子供だったのはわたしもだ」

「そうですか? オレから見てハインリヒ様は随分と大人びて見えましたけど」

「まぁ、立場上、な」

「あの日ハインリヒ様がくれた言葉のお陰で、オレはようやく目が覚めたんです。本当に感謝していますよ」


 殊勝な態度のカイを珍しく思いながら、ハインリヒは紅茶を口に含んだ。と、そのとき、煩わしい王たちの声がやけに静まり返っていることに気がついた。

 アンネマリーに触れているとき以外では、これまで起き得なかった現象だ。戸惑いつつも、会話がしやすいに越したことはない。


 カップに口をつけたまま固まるハインリヒを見て、カイが不思議そうな顔をした。


「お口に合いませんでしたか?」

「……いや、お前が淹れる紅茶がいちばん美味いと思ってな」

「そう言っていただけるとオレの努力も報われます。何しろハインリヒ様のために、日夜試行錯誤を繰り返しましたから」


 おちゃらけた仮面をかぶりつつ、カイの行動は実に堅実だ。成果を得るためならどんな小さな努力も惜しまない。その優秀さはハインリヒの右腕として、ずっとそばに置いておきたいと思えるほどだ。


「そういやジークヴァルト様はどうされたんですか?」

「ヴァルトは出仕免除中だ。昨年の秋口からオーランウヴスに不穏な動きがあってな」

「オーランウヴスに? ヴォルンアルバの国境に問題でも?」


 一を言うだけで十理解するカイは、やはりハインリヒにとって貴重な存在だ。ジークヴァルトはこちらの要求には完璧に応えるが、逆に言うと求められた以上のことは指一本動かそうとしてこない。

 比べてカイは、常に言わずともかゆいところに手が届く対応を返してくる。人のあしらいにも長けているカイは、本来宰相のような地位に就けるべき逸材なのだろう。


 ――カイが龍から理不尽な託宣を受けさえしなければ。


 出かかった言葉を喉の奥に封じ込めた。こんな自分本位な考えなど、カイを冒涜(ぼうとく)するに等しいことだ。自身の運命を呪う気持ちは、ハインリヒには痛いほどよく分かっていた。


「頼みたい調査って、もしかしてそれ関係ですか?」

「そうだ。主にヴォルンアルバの下町で情報収集をして欲しい」

「下町で……? ああ、歴史は繰り返すってやつですね」


 得心が行ったようにカイは頷いた。

 遠い過去の話だが、国交のない隣国オーランウヴスが山脈を越え侵攻してきたことがある。その時に斥候(せっこう)部隊が偵察のため下町に入り込み、情報収集していた記録が残されていた。


侯爵家(うち)の手の者を動かしてもいいですけど、情報収集には不向きかと。ヴォルンアルバのような土地は余所(よそ)者に厳しいですからね」


 普段デルプフェルト家では町民として生活に溶け込み、細部に渡って情報を集めている。辺境の地は管轄外なため、土台作りから始める必要があるだろう。


「ここはいっそ、バルバナス様をヴォルンアルバにお送りになられては?」

「伯父上をか?」

「住民が騎士団の視察に気を取られている間なら、オレも町中で情報収集しやすいですし」

「余所者がいても不振に思われることはないというわけか」

「隣国への牽制にもなりますし、潜伏中の賊がおかしな動きをみせるかもしれません」


 カイの提案にハインリヒはすぐには頷けなかった。辺境伯であるジークフリートはバルバナスのことを快く思っていない。

 何しろ大事な娘を(かどわ)かされたのだ。バルバナスがアデライーデを無断で連れ去った日のことが、未だ禍根を残している。その上バルバナスはアデライーデの縁談話をことあるごとに妨害し、裏からすべて握り潰しているらしい。


 しかしこの一連の問題の大元と言えば、すべてハインリヒの愚行に集約される。自分がアデライーデに傷を負わせさえしなければ、こんな馬鹿げた騒ぎは起こらなかったはずなのだから。


「ハインリヒ様の御代(みよ)となり、無事にお世継ぎも誕生しました。そろそろ(わだかま)りを解消してもいい頃合いなのでは?」


 罪を犯した側が言い出すには、都合の良すぎる歩み寄りだ。


「お前がわたしに意見する時は、いつも甘言(かんげん)ばかりだな」

「ハインリヒ様がご自身に厳しすぎるだけですよ」

「そうやってまた甘やかす」


 ふっと笑みを漏らしたあと、ハインリヒは考え込んだ。

 辺境伯には有事の際に独断で武力をふるう裁量権を与えてある。悠長に王の命令を待っていては、他国の侵攻を許すことになるからだ。


 とは言えこの先、隣国が攻め入るような事態になれば、辺境の砦との連携は重要になってくる。王家と辺境伯とがぎくしゃくした関係のまま混乱が起きてしまったら、国全体に戦火が広がる可能性も出てくるかもしれない。それを考えるとカイの言うことは(もっと)もなのだろう。


 ハインリヒは無意識に耳を澄ました。こんなとき間髪入れずに助言を捲し立ててくる王たちの声は、今日に限って沈黙を保ったままだった。


(自分の頭で考えろと言うことか……)


 ハインリヒ自身がしでかしたことだ。落とし前をつけるのに、他人の意見を求めるなど情けないにもほどがある。


 ――そういうことではないのだがのう


 ぽつりと王のひとりが頭の中でつぶやいた。


 ――憂うべきは過去でも未来でもなかろうに

 ――かつての悲劇も、残された禍根も

 ――みなみな龍の思し召しじゃ


 次々にしゃべり出した王たちは、しかしそれだけ言うと尻(すぼ)みに再び押し黙ってしまった。


(そういうことではない? それにしてもこの沈黙は一体どういう了見なのだ……?)


 訝しげに眉根を寄せたハインリヒに、たった一言だけが小さく漏らされた。


 ――盟友との別れとあらば、邪魔をするのも無粋であろう?


 はっと顔を上げたハインリヒを、カイは黙って見つめている。いつまでも黙っているハインリヒに、カイは(さと)すように口を開いた。


「これからの治世にも係わりますし、ここらで本格的に関係の修復を試みられては?」


 そう駄目押ししてくるカイに、上手く言葉が返せない。


「ハインリヒ様?」

「ああ……そうだな。辺境の地へ騎士団を向かわせる(むね)、検討しよう」


 ようやくそれだけ言葉にした。頷いたカイがふっと遠くを見やる。


「では準備もありますので、オレはそろそろお(いとま)します」

「まだ間はあるが、雪解け前までにはオーランウヴスの動向を探っておきたい。大儀だがよろしく頼む」

「お任せを」


 そう言ってカイは恭しく腰を折った。


「そうだ、行く前にひとつお願いが。出来得れば、でいいんですけど」

「なんだ?」

「王妃殿下にご挨拶できないものかと思いまして」

「アンネマリーに?」

「ええ、王城を離れる前にぜひ一度」


 いつもと変わらない笑みを浮かべるカイに、それ以上理由を聞くこともなく、ハインリヒは承諾を返した。


     ◇

 護衛騎士を従え、戸惑いながらもアンネマリーは王の執務室へと急いだ。

 王妃の離宮を出ること自体、本当に久しぶりのことだ。それこそ子を宿した日から、今の今まで部屋に籠りきりだった。それがいきなりハインリヒに呼び出されたのだ。


 双子を乳母に託し、身支度もそこそこに飛び出してきた。どんな一大事が起きたのだろうか。それでも動揺を表に出してはならないと、アンネマリーは逸る気持ちを抑えて執務室の扉を叩いた。


「アンネマリー、急に呼び出してすまなかったね」

「ハインリヒ……」


 中に入るなりハインリヒに抱きしめられる。


「双子の様子はどうだい?」

「ふたりともちょうど眠ってくれていたわ」

「そうか、それはよかった」


 この様子だと緊急事態ではなさそうだ。頬にやさしい口づけを受けて、アンネマリーは知らず安堵の息を漏らした。


「いきなりのことで無用な心配をかけてしまったかな。カイが君に挨拶がしたいと言うものだから」

「わたくしに挨拶を……?」

「ああ、アンネマリーもいい気分転換になるかと思ってね」


 ハインリヒの腕の中、すぐそこにカイがいることにようやく気がついた。居住まいを正し、アンネマリーは王妃然としてカイに向き直った。


「アンネマリー様、呼び立てる形になり申し訳ありません。王妃の離宮にお伺いするのは手続きに時間がかかり過ぎるもので」

「いえ、問題ありません。王のおっしゃる通りわたくしも良い息抜きとなりました」

「ならばよかったです。ハインリヒ様から密命を受け、しばらく王城を離れることとなりました。その前に一度、王妃殿下にご挨拶をと」


 カイの言葉にアンネマリーは内心首をかしげた。イジドーラ相手ならともかくも、これまで彼から正面切って挨拶を求められたことはない。

 だとしても王城騎士と王妃のやりとりだ。何もおかしいことではないと思い直し、アンネマリーはカイに向けて笑みを浮かべた。


「そうでしたか。あなたの働きにはいつも感謝しております。今回も重要な任務の様子。どうぞ頼みます」

「ありがたきお言葉。アンネマリー様のご期待に沿えるよう最善を尽くして参ります」


 騎士の礼を取ったカイに対して、アンネマリーは鷹揚(おうよう)に頷いた。


「おふたりとも、本当にご立派になられましたね」


 ふっと笑みを漏らしたカイを前にして、アンネマリーの中で再び違和感が膨らんだ。彼はこんなふうに穏やかに笑う人物だったろうか。


 出会った当初、アンネマリーはどうにもカイの作り笑いが苦手だった。表面はいたずらな少年のようでいて、その中にある計算しつくされた胡散臭さを感じていたアンネマリーだ。

 それが今はどうだろう。彼も大人になったと言えばそれまでかもしれないが、記憶の中にあるカイとはまるで別人のようにしか思えない。


「もうこんな時間か」


 ハインリヒが癖のように開いた懐中時計を見て、アンネマリーの切ない記憶がふいに呼び起こされた。この国の秘密もハインリヒの苦悩も、何も知らなかった令嬢時代の思い出だ。


 今思えば、ハインリヒが受けた龍の託宣の悲劇を、あの頃もカイはすべて知っていたのだろう。その上でずっと味方でいてくれたのだ。ハインリヒを信じてほしい。そう言って、彼は揺らぐアンネマリーを何度もつなぎとめようとした。


「辺境伯には調査に協力する旨、よくよく伝えておく。ほかに必要なことがあれば何なりと言ってくれ」

「はい、その時は遠慮なく。準備が整い次第、ヴォルンアルバ入りいたします」


 ふたりのやり取りに、アンネマリーは国境付近の任務と悟った。確かに一度行ったら、気軽に戻って来れる距離ではなさそうだ。


「道中、気をつけて」


 とっさに言ったアンネマリーを一度見て、カイはその視線をハインリヒへと向けた。そして口元に再び柔らかな笑みが乗せられる。


「わたしも安心してここを離れられます。どうぞいつまでも仲睦まじくお過ごしください。最後にお時間を頂きましたこと、心より感謝いたします」

「……ああ」


 ほかに言葉が見つからなかったかのように、ハインリヒは短く返した。いつになく硬い声音の横顔を、アンネマリーは思わず伺った。


 笑顔のまま出ていくカイを、ハインリヒはやはり硬い表情で送り出している。クリスティーナ王女との最後の謁見で感じた空気が蘇り、まるで今生の別れのようだと、なぜかアンネマリーはそんなふうに思った。


「ハインリヒ……」

「今は何も聞かないでくれ。いずれ、すべて分かる時が来る」


 閉められた扉を遠い瞳で見つめるハインリヒに、ただ頷き返すしかできないアンネマリーだった。


     ◇

「ヴォルンアルバか……」


 かの地に行く前に、すべきことを整理する。王城を離れたカイは、馬上で今後の算段に考えを巡らせた。

 デルプフェルト家関連の引継ぎは大方終わったが、やらねばならないことがまだ多少なりとも残っている。辺境の地へと向かう準備とともに、ベッティの今後の処遇も早急に対処しなくては。


(ルチアともしばらく会えなくなるな)


 任務に赴く前に、一度顔を見に行くべきか。ブルーメ子爵領までの往復距離を考えると、行ったところで小一時間いられるかどうかというところだ。

 それでもあの肌に触れたい衝動に駆られた。無理をすれば何とかなるだろう。


 そうなれば一秒たりとも無駄にはできない。

 目まぐるしく動く思考のまま、操る手綱をカイはきつく握った。


【次回予告】

 はーい、わたしリーゼロッテ。辺境の砦への旅の準備に浮かれるわたし。そんなときルチア様が再び公爵家に招かれます。一方、雑事に追われるカイ様は、一度デルプフェルト家に立ち寄って……?

 次回、6章第27話「夜のしじま」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!

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