第23話 愛の檻 - 前編 -
【前回のあらすじ】
定期的に訪れる後宮で、ピッパにルチアを連れて来るように言われたツェツィーリア。いきなり後宮に連れていかれたルチアは、事情も分からず戸惑うばかり。そんな中でもカイのことが頭を離れてくれなくて。
一方、閉じ込められた箱庭で不思議な夢を見るマルコ。夢の中で女性として振る舞うマルコは、赤毛の壮年の美丈夫に女性として触れられたことに衝撃を受けて。
ピッパに引き合わされたルチアは、抜け出したピッパを追って雪の庭に出ます。そこでマルコと出会ったルチア。衝動に任せマルコを誘惑するも、怖くなったルチアは結局マルコから逃げ出して。
泣きながら走る庭で、自分にはカイしかいないのだと、思い知らされるルチア。
そんな中、王城へと向かう街道で亡くなったはずのクリスティーナと出会うカイ。そこでルチアが受けた託宣の秘密を知らされて。
星に堕ちた後もルチアを永遠に自分のものにできると知り、笑いが抑えられなくなるカイなのでした。
「イジドーラ様、ご挨拶に上がりました」
定期連絡に現れたカイをひと目見て、イジドーラは小首をかしげた。
今日はやけに機嫌がいいように思える。上機嫌、と言ってもいいかもしれない。
「何か良いことでもあったのかしら?」
「はは、少しばかり」
はぐらかしたかったのか、挨拶もそこそこにカイは報告を始めた。
言えないことなのか、言いたくないことなのか。後者ならば、子が手を離れていくような寂しさを感じてしまうイジドーラだ。
「そう言えばイジドーラ様、フーゲンベルク家と正式に提携したそうですね」
「ええ、少しは国庫の足しになるでしょう?」
「ああ……この冬もやはり備蓄が?」
アンネマリーに贈られた整髪料が思いのほか良い品だった。開発したのはダーミッシュ伯爵家との話だが、発案者はフーゲンベルク公爵夫人だったらしい。
リーゼロッテはあまり見ないタイプの貴族だ。王族として多くの人間と謁見してきたイジドーラでも、特に印象深い者のひとりだった。
(マルグリットの娘ということもあるけれど……)
母娘でも性格は似ても似つかない。最後まで相いれなかったマルグリットは、遠い日に龍の元へといってしまった。
彼女が背負わされた運命は、そっくりそのままリーゼロッテにも課せられている。
「年々冬の寒さが厳しくなってるのは何なんでしょうね。雪解けの時期もどんどん遅くなってきてますし」
「そうね。この国も昔は今ほど雪深くなかったと聞くわ」
貴族だろうと平民だろうと、生産性の落ちる極寒の時期に備えて蓄えをするのが常識だ。だがここのところ長引く冬に、備蓄が間に合わなくなる地域が出始めている。
昔から王家では有事の際に国民の糧を賄える程度の備蓄を行っている。それがここ数年、春を迎える前に切り崩されることが多くなった。
――龍の花嫁の力が尽きかけているのかもしれない
不吉な予感が胸をよぎった。
今あるこの国の平穏は、マルグリットのおかげと言っても過言ではない。龍の命を繋げられるのは、星読みの血を継ぐ者以外に存在し得ないのだから。
この事実を知る者はごく僅かだ。長期に渡り龍の託宣を調べ上げてきたカイですら、情報の切れ端にさえたどり着きはしないだろう。
そのカイもやがて国の礎となる。王族となった身では黙ってそれを受け入れるしかなかった。肉親としてこの心が、どれだけ血の涙を流そうとも。
「また近いうちに顔を出します。冬の間は王都周辺にいると思うので」
「ではしばらくはゆっくりできるのね?」
「おそらくは。長年の任務は無事に片付きましたから」
曖昧な返事とその理由に、イジドーラははっとカイを見やった。
自身に降りた託宣の真実を、カイは長きに渡って求め続けてきた。そのカイの言う“長年の任務”が、イジドーラの思うそれならば。
カイの時間はもう、さほど残されていないということだ。
「カイ……」
「次は何かたのしい土産話でも持ってきますよ」
明るい笑顔を向けられて、それ以上は何も言えなくなった。いつものカイのようでいて、どこか達観しているような。そんな様子にイジドーラの胸が押しつぶされる。
今度こそ最後なのかもしれない。
だが別れの言葉など、どうあっても口にしたくはなかった。
カイにしても同じはず。自分たちは次を約束し続けてきた。終わりまで笑みを浮かべて見送らねばならない。それがカイの望みであるのなら。
「必要なことがあったらいつでもお言いなさい」
「そのときは遠慮なく」
儀式のようなやりとりが今日もまた繰り返される。イジドーラにできるのは、これまで通り次の訪れを信じるのみだ。
「カイ、こちらにいらっしゃい」
琥珀の瞳を見上げ、姉譲りの灰色の髪に手を伸ばす。
この背を越されたのはいつのことだったろうか。幼かった時分と変わることなく、イジドーラは愛しくカイを抱きしめた。
「そろそろ失礼します。ディートリヒ様もしびれを切らしているようですから」
「まぁ、ディートリヒ様。いらしていたのならお声がけくださればよかったのに」
夫たるディートリヒが仏頂面で壁にもたれ掛かっていた。ディートリヒはカイが来るといつもあんなふうになる。冠を降ろしてからの彼は、まるで駄々をこねる子供のようだ。
「では、御前失礼させていただきます」
いつものように丁寧な動きで礼を取ったカイに向けて、ディートリヒが自ら扉を開けた。
「オレがそこまで見送ろう」
「光栄です」
滅多にない光景に驚きを隠せなかった。いつものディートリヒなら、カイを追い出したあとすぐに扉を閉めているところだ。
しかし今日のカイを見て、ディートリヒにも思うところがあったのかもしれない。やりきれない思いばかりがこみ上げる。
それでも悔いを残さないために、イジドーラはカイの後ろ姿を目に焼きつけた。
◇
先を歩くディートリヒはどう見ても不機嫌だ。
にもかかわらず、今日は本気でそこまで見送るつもりでいるらしい。
「イジィの前でオレを狭量な男みたいに言うな」
「決してそのようなつもりは」
軽く肩を竦めると、面白くなさそうに睨みつけられた。ここまであからさまだと、いっそ清々しく思えてくる。
「そんな顔をしないでくださいよ。イジドーラ様を任せられるのは、ディートリヒ様以外おられないと思っているんですから」
カイの言葉にディートリヒは足を止めた。
一瞬で様変わりした顔つきは、かつて彼が玉座で見せていたものだ。
「……時は近いのか?」
「それほど遠い話ではないかと」
「そうか」
低い声で返すと、ディートリヒはどこか遥かを見やった。
「カイ・デルプフェルト。オレが言うまでもないことだが――最期までお前らしく在れ」
「確とこの胸に刻みつけておきましょう」
前の王に向け、深々と礼を取る。
だが内心では笑いが漏れた。言い回しは違えどクリスティーナに言われた言葉と大差ない。これを似た者親子と言うのだろう。
「ディートリヒ様。オレが言うまでもないことですが、イジドーラ様のこと、どうぞこれからもよろしくお願い申し上げます」
「ふっ、本当に言うまでもないな。だがその願い、この命に代えても叶え続けると誓おう」
「ありがたきお言葉」
今度は心からの礼を取った。
(これで思い残すことは何もない)
カイにとってイジドーラは唯一のよりどころだった。イジドーラなくして今の自分はあり得ない。呪われた身でなかったならば、イジドーラのために生涯この身を捧げたことだろう。
だがカイは出会ってしまった。ルチアという抗えない運命に。
ディートリヒと別れ、後宮の廊下を進む。出口付近に近づくにつれ、慌ただしく駆け回る女官が目についた。
「わたくしは知らないわ。連れてきたのはツェツィーリアだもの」
「ではこの文字は誰が書いたというのですか!? 知らないなどとそのような見え透いた言い訳を」
遠くからそんな会話が耳に届く。あの声はピッパと女官のルイーズだ。
いつもの小言にしてはルイーズの語調が強めに思えた。ピッパがとんでもないことでもやらかしたのだろうか。
「ルイーズ殿? 何かあったのですか?」
「これはカイ様、いらしていたのですね」
「カイ! 聞いて、ルイーズったらひどいのよ!」
飛びつくように抱き着くと、ピッパはそのままカイの後ろへと回り込んだ。カイを盾にして、ルイーズから距離を取る。
「ピッパ様、今日はどんな悪戯をなさったのですか?」
「失礼ね。誰も悪戯なんかしていないわ。わたくしはツェツィーリアが連れてきた令嬢にあれをするよう命じただけよ」
「十分、悪質な悪戯でございます。真面目に手習いをしていらっしゃると思えば、こんなことになっていようとは……」
眉間に手を当てルイーズがため息をつく。ピッパの奔放さは母親のイジドーラ譲りのようだ。
「何よ、ルイーズだってわたくしと見分けがつかなかったくせに」
「ピッパ様と見分けが?」
「そうなの! 驚くほどわたくしにそっくりな令嬢なのよ! 名は……なんて言ったかしら? とにかく髪も目も、わたくしとまるで同じ色をしていたの!」
興奮気味にピッパはまくし立ててくる。まさかとは思いつつ、確認のためカイはルイーズを窺った。
「ツェツィーリア・レルナー様が、お付きの者として令嬢をひとりお連れになったのです。準女官の資格を持つとのことで、下の者が独断で後宮に入る許可を出してしまったようで……」
「その令嬢とはもしや、ルチア・ブルーメ子爵令嬢ですか?」
「ルチア! そうよ、確かにそんな名だったわ!」
声を弾ませるピッパに、ルイーズが片眉をくいと上げた。
「それで、ピッパ様。そのブルーメ子爵令嬢をどこにお隠しになったのですか?」
「だから知らないと言ってるでしょう? わたくしが戻ったら、ここにはもういなかったんだもの」
ふたりの話をよくよく聞くと、ピッパの身代わりをしていたルチアが忽然と姿を消してしまったらしい。ツェツィーリアは控えの部屋にずっといて、ルチアは戻ってきていないとのことだった。
(それで慌てた女官たちが総出で探し回ってるってわけか)
よほどルチアは脱走が好きなようだ。
「わたしも手伝いますよ。後宮は広いですから」
忙しなく行き来する女官を横目に、カイは王妃の離宮に向かう廊下を進んでいった。離宮周辺は王子が誕生したばかりで警備体制が厳重となっている。万が一ルチアがそちらへ向かったとしたらやっかいだ。
案の定、雪の庭を誰かが歩いた形跡があった。後宮と離宮をつなぐ渡り廊下は屋根付きの石畳が敷かれており、庭を突っ切るように長く伸びている。しかし残された足跡は、その方面とは逆側に続いているようだった。
女官が外までルチアを探しに行った様子はない。この雪の中を令嬢がひとりで出て行くなどと、夢にも思わなかったのだろう。
(だとしたら、この足跡はルチアがつけた可能性大だな)
痕跡をたどっていくと、途中から道なき道を進んでいる。挙句の果てには、生垣を無理やり通った様子が見て取れた。
いくらルチアでもそんな無茶はすまいと思いつつ、実際に植木が荒らされている。この先は後宮のさらに奥まった場所だ。別の不審者の存在を疑うべきかと、カイの表情が険しくなりかけた。
「へくしっ」
遠くから聞こえた間の抜けたくしゃみに、緊張は苦笑いに早変わりした。離れた茂みの中で、鮮やかな赤毛が見え隠れしている。
気配を殺して近づいた。植木の影を覗き込むと、濡れ鼠の状態のルチアが小さくうずくまっている。
「ねぇ、ルチア。こんなとこいて寒くない?」
「きゃあっ」
背後から声をかけると、ルチアは飛び上がらんばかりに驚いた。髪が張りつく頬は青白く、先ほどからずっとかちかちと歯を鳴らしている。
「か、カイ!? なんでここに……」
「立てる?」
手を取って茂みから引っ張り上げた。握る指先も氷のような冷たさだ。見ているこちらまで寒くなりそうだと、脱いだジャケットでルチアの肩を包み込んだ。
「で、今度はどこに逃げようとしてたの?」
「ちがっ、わたしは王妹殿下を探してただけよ!」
「ピッパ様を?」
それがどうして庭で震える事態に陥るというのだろうか。呆れ半分に思うも、泣きはらした様子のルチアにカイは人好きのする笑顔を向けた。
「ま、いいや。詳しい話はあとで聞くよ」
「えっ、ちょっとっ」
有無を言わさず横抱きに抱えあげる。勝手知ったる敷地内だ。人目につかない最短ルートをたどり、自分にあてがわれている部屋へと連れて行った。
「ここは?」
「オレの私室。とりあえず風呂入って体温めて。着替えは適当に出しておくから」
手早く暖炉に火を起こし、あまり使ったことのない小さめのバスタブに湯を張った。
「オレちょっと出るけど、ルチアはゆっくりしてて」
「どこ行くの?」
「野暮用。大丈夫、すぐ戻るから」
不安げなルチアを残し、カイはひとまず女官のルイーズの元に向かった。ルチア保護の報告と、今日起きた大方のことを改めて把握する。
(次はルチアを連れ出すための根回しだな)
必要なすべてを片付けると、浮かれ気分でルチアの待つ部屋へと歩を進めた。自分でも笑えるくらい足取りは軽やかだ。
今や、来るべき日を待つだけの状態となった。最後くらい好き勝手やっても許されるというものだろう。
「ルチア、馬には乗れる? 今すぐ出られそう?」
「馬? 相乗りならお義父様にしてもらったことあるけど……」
「そっか、体きついなら馬車も出せるし。馬で行った方が早く着くけどどうする?」
「どうするって、一体どこに行くつもりなの?」
「ふたりきりになれるトコ」
にっこり告げると、ルチアはぽかんと大口を開けた。
「馬! 馬で行く……!」
前のめりに答えたルチアを乗せて、カイは馬を駆り王都を離れた。
◇
たどり着いた場所で早々に寝所にもつれ込んだ。
ここはどこなのかとか、カイは何を思っているのかだとか。
すべてどうでもよくなって、ルチアはただこの瞬間の愉悦に溺れていた。
続く触れるだけの口づけに、物足りなくなってルチアは涙目で身をよじらせた。
「カイ……お願い、もっと……」
「ルチアはほんといけない子だね」
「駄目……?」
「ううん、素直で可愛いよ」
ふっと笑ったカイが舌で唇をなぞってくる。
受け入れるようにルチアは唇を薄く開いた。
「ん……カイ……きもちい……」
口づけをやめてほしくなくて、息継ぎの合間に言葉が漏れる。
隙間ひとつ開けないように、ルチアはカイの頭を抱え込んだ。
「声、我慢しなくていいよ。ここはオレとルチア以外誰もいないから」
溢れ出るまま意味をなさない声を紡ぎ、両手がカイの髪をかき回す。
ふたりは互いの衝動を感じ取り、もう抑えが利かなくなった。ルチアの快感をカイが拾い上げ、カイの欲望に再びルチアが深く飲まれていく。
触れる場所、触れられる場所、何もかもが気持ちいい。
ふたりの境目が溶け合って、高みへとどんどん上り詰めていった。
体力尽きて、いつの間にかまどろみに落ちる。ふと目覚めては、言葉もないまま当たり前のように身を繋げた。
それを幾度繰り返しても、求める熱は際限なく高まり続ける。
止めるものは何もなく、昼も夜も無視して、カイとルチアは互いの体をいじり続けた。
どれほどの間、快楽の海に溺れていたのか。まるで思考が働かない中、ルチアは重いまぶたを開いた。
すぐ目の前でカイの琥珀の瞳が見つめ返している。
「……カイ、わたし、お腹空いた」
「はは、さすがにそろそろ起きなきゃまずいか」
勢いよく跳ね起きると、カイは大きく伸びをした。ぼさぼさの髪のまま、ルチアもなんとか体を起こす。眠い目をこすっていると、カイがそのまぶたに口づけてきた。
「なんか用意してくる。ルチアはもう少しゆっくりしてて」
ほどなくすると、卵が焼けるいい匂いがしてきた。嗅覚を刺激され、ようやく目が冴えてくる。
「お待たせ、ルチア。起きられそう?」
頷いて裸のまま寝台を降りた。脱いだ服が見当たらなくて、適当に上かけのリネンで体をくるむ。
「これ、全部カイが作ったの?」
「保存食使った簡単なものだけどね。どう? 口に合う?」
「うん、とっても美味しい」
「そっか、ならよかった」
なんだか懐かしい味がした。それだけでなく、母と旅して過ごした日々を、彷彿とさせるような温かさに包まれる。
食後、カイが洗った皿を拭きながら、ルチアは不思議に思って小首をかしげた。
「カイって貴族なのにこんなこともできるのね」
「まぁ、騎士なんかやってるとね。誰でも一通りのことはできるようになるんじゃない?」
「それっていろんな任務とかがあるから?」
「ま、そんな感じ」
「ふーん」
何気なくかわす会話に、うれしさがこみ上げる。と同時にカイのことを何も知らないでいたのだと、そんなことをルチアは思った。
「お茶はわたしが淹れるね。カイはそこで座ってて!」
淑女教育で習ったことを思い出しながら、茶葉を温めたポットに放り込んだ。お湯を入れしばらく待ってから、並べられたふたつのカップへと注ぎ入れる。
色も香りもなかなかよさそうだ。意気揚々とルチアはカイに差し出した。
「どう? 美味しい?」
「……ルチアさ、どうやったらこんな高級な紅茶、ここまで不味く淹れられるの?」
「うそっ、わたし教えられた通りに淹れたのに!」
慌てて自分の分を飲んでみる。その途端、口の中に広がった渋みに、ルチアはぎゅっと眉根を寄せた。
「まっず……!」
「はは、紅茶って抽出中に温度が下がると、渋みが出るって習わなかった?」
言いながら、慣れた手つきでカイは紅茶を淹れなおした。それをひと口含んでから、ルチアにも飲むよう促してくる。
「うそ、美味しい……」
とても同じ紅茶とは思えない。ほんのり甘味が感じられ、舌触りもまろやかだ。
「初めて淹れる茶葉にしては上出来かな? 茶器の形とか水の状態なんかを考えて、葉っぱの量とか蒸らし時間とか、いろいろ変えてみるともっと美味しくなるよ」
「カイってば、いつもそこまで考えて淹れてるの? 信じられない……」
「ルチアが大雑把過ぎるだけでしょ」
ははと笑うと、カイはルチアの手を取ってきた。
「腹も膨れたし、そろそろ向こうに戻ろっか」
目を向けた先は、ずっと籠っていた寝室だ。
頬を染めながら頷くと、ふたりして乱れたままのリネンに沈み込んだ。
◇
今日も今日とて、頭の中を王たちの会話が響き渡る。
最近では慣れてきたものの、うるさいことに変わりはなかった。早くアンネマリーの元に戻りたいと、ハインリヒは人知れず長く息を吐いた。
――これはこれは、随分と大きなため息だわい!
――悩み事なら遠慮などせず我らに申せ!
――言わずとも、すべて伝わってしまうがの!
どっと湧いた耳障りな笑いに、眉間のしわが深くなる。このままでは自分もジークヴァルトのようになりそうだ。しかめ面が当たり前になりつつある日常に、再び大きな息が漏れて出た。
二児の父となった今や、立場を投げ出すわけにはいくまいと、それだけを支えに単調な執務に取り組む毎日だ。それもアンネマリーの存在あってこそ、何とか折れずに済んでいるハインリヒだった。
そんな日々の合間に、急な知らせを告げる来訪があった。早馬でやってきた者は、辺境の地・ヴォルンアルバから遣わされた使者だ。
ヴォルンアルバを治めているのは、辺境伯であるジークフリート・フーゲンベルクだ。ジークヴァルトの父親である彼とは、数えるほどしか会ったことがない。そうなった理由はハインリヒにも分かっている。アデライーデに負わせた傷の件で、いまだ恨まれているのは重々承知のことだった。
脳裏に浮かぶアデライーデは、いつでも快活な笑顔を向けてくる。だがその右目にかかる傷はハインリヒの罪の証だ。
胸の内に生じた痛みは、永遠に癒えることはないのだろう。アデライーデへの仕打ちを思うと、むしろ忘れるなどもっての外だ。
――取り違いいたすな、お主が気に病むことではない!
――そうじゃ、あれは龍に逆らう者の因果の顕れじゃ!
――ひとえに、悪戯坊主の悪あがきじゃな!
(悪戯坊主の悪あがき……?)
歴代の王たちの言葉に気を取られていると、目の前に丸められた書状が差し出されてきた。赤い紐で結ばれているのは、優先度が高い内容であることを示している。
「確かに受け取った。早急に吟味し、返答の書をしたためる。それまでは別室で休むがよい」
使者を下がらせ、すぐさま書に目を通した。簡潔に書かれた文章は、不穏且つ見過ごすことはできない内容だった。
――オーランウヴスが揺れておる!
――かの国は、古より跡目争いが絶えぬゆえな!
――妾の数はほどほどにせねばならん!
再び沸いた不謹慎な笑いに、ハインリヒは不愉快そうに顔をしかめた。歴代の王たちの冗談は品性のないものが多すぎる。
オーランウヴスは東部の山脈を越えた先にある隣国だ。国交はなく、長い歴史の中でオーランウヴスからの侵略の試みが幾度もなされてきた。
その名残が辺境の砦であり、先々代王・フリードリヒの時代にも小さな侵攻を経験している。有事の際に機能できるよう、今でも必要な人員配備を続けさせていた。
(それがここに来て、新たな動きをみせているのか……)
険しい山脈を挟んでいるとはいえ、国に通ずるルートがないわけではない。雪解け以降にはさらなる監視が必要である旨が書状には綴られていた。
冬の間に山越えを企むのは自殺行為だ。さすがにこの時期を狙って攻め入られることはないだろう。こういったときは雪深い我が国に感謝するしかない。
しかし極寒の時期の備蓄の確保も頭が痛いところだ。ひと冬ごとに目減りする王城の備蓄は、このままでは近い将来、不足分を賄えなくなる事態に陥りかねない。
――なに、龍に任せれば問題ない!
――そうじゃ、すべては龍の思し召しじゃ!
おなじみの台詞で王たちが騒ぎ出す。だがその肝心の青龍は、ハインリヒの御代になってから沈黙を保ったままでいる。
(やはり夢見の巫女を失ったのは大きいな)
夢見の力を持つ神官に務めさせてはいるが、やはり男を選出したのは間違いだったのかもしれない。
王だなんだと祀り上げられようとも、その実態はお飾り以下の張りぼてに過ぎない。龍の意のままに動くしかできない自分に、どうしても歯がゆさを感じてしまう。
そんなときハインリヒは、いつも父の言葉を思い出していた。
(あがけ、か)
そしてディートリヒはこうも言っていた。
我らは龍の庇護のもとにある。だが、言いなりというわけではないのだと。
(そうだ、何もしないまま、指を咥えて龍の言葉を待つなどしたくない)
自分にはやるべきことが山ほどあるはずだ。
――今代の王は、ほんに真面目な性分よのう
呆れ気味の王たちの言葉に、惑わされることもなくなってきたハインリヒだった。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。引き続きふたりきりで過ごすカイ様とルチア様。その至福もやがては終わりの時が近づいて。カイ様のそばにいるために、ルチア様がした決意とは……?
次回、6章第24話「愛の檻 - 後編 -」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!




