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ふたつ名の令嬢と龍の託宣【なろう版】  作者: 古堂素央
第6章 嘘つきな騎士と破られた託宣

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第20話 嘘つきな騎士 - 後編 -

【前回のあらすじ】

 新年を祝う夜会の前日、王城の客間にお呼ばれしたふたり。久々に過ごせるジークヴァルトとのゆったりした時間に、リーゼロッテは心を弾ませます。

 しかしジークヴァルトの暴走に翻弄(ほんろう)されてしまうリーゼロッテ。翌日少々ご機嫌斜めになりつつも、アデライーデに再会できたリーゼロッテは夜会を存分にたのしみます。そんなリーゼロッテに対して、ジークヴァルトは相変わらず独占欲丸出しで。

 一方、リーゼロッテとともにカイの素行の悪さを目撃したルチアは、不信を感じつつも騎士の職務と半分納得します。そんな中、婚約者と仲睦まじげにするヤスミンたちを羨ましく思うルチア。さらにイザベラの婚約者寝取られ事件を知り、自分とカイも上手くやる方法があるのではと思い始めます。

 その後、夜会の最中に思いがけず放置されてしまったルチアは、カイの姿を求めて独り会場の外へと向かうのでした。

 出た廊下には、誰でも使っていい休憩用の部屋がいくつも並んでいた。

 この休憩室は酔い潰れた者が宿泊したり、男女の一夜の逢瀬など、好きに使っていいことになっている。扉が閉まっている部屋は使用中のサインだ。夜会はまだ始まったばかりなので、ほとんどが空き部屋状態だった。

 会場の喧騒(けんそう)が遠くに響く中、カイの気配を探して奥へと進む。結局使われている部屋は一つもなくて、突き当りまでくるとルチアはほっと胸をなでおろした。


(カイはあの(ひと)とふたりで、部屋に(こも)ったりはしなかったんだ)


 胸のつかえが少しだけ取れて、会場に戻ろうとルチアは来た廊下を振り返った。


「おいお前、こんな場所で男(あさ)りか?」

「きゃっ」


 いきなり手首を掴まれる。驚いて見上げると、先ほどじろじろとルチアを見ていた酔っぱらいの紳士だった。


「あの、離してください」

「世間知らずの令嬢なのか? まぁいい、生娘(きむすめ)だとしてもわたしがひとつ手ほどきしてやろう」

「ちょっとやめて!」


 こういった場所には絶対ひとりで近づかないようにと、マナー教師に口うるさく言われていた。しまったと思っても、時すでに遅しのことだった。

 抵抗もむなしく近場の部屋に連れ込まれてしまう。大きな音を立てて鍵を閉めた男は、乱暴にルチアを寝台へと突き飛ばした。


「何するのよ!」

「うるさい! いいから大人しく言うことを聞け!」


 酔いが回った目で男はまじまじとルチアを見下ろしてくる。値踏みをするような視線に、ルチアの肌が全身(あわ)立った。


「お前ブルーメ子爵家の……。そうか、王家繋がりか。愛人にすればわたしもいい思いができる」

「何勝手なこと言ってるのよ。それ以上近づいたら、わたし大声で助けを呼ぶわ」

「いいだろう。そのときはわたしがきちんと責任を取ってやる」


 下卑(げび)(わら)いを向けられて、芯から心が冷えてくる。この状況を誰かに見られてしまったら、こんな男と一生()()げる破目(はめ)(おちい)ってしまうのだ。ぞっとしてルチアは唇をわななかせた。


「安心しろ。初めてでもよくなれる薬がある」


 男が(ふところ)から取り出したのは、ピンクの可愛らしい小瓶だった。香水でも入っていそうなそれを目の前に掲げられ、ルチアの顔が青ざめる。


「それは……」

「なぁに、ただの甘い水だ。さぁ一滴残さず飲み干すといい」


 顎を掴まれて、無理やり口に含ませようとして来た。やけに甘ったるい香りが鼻をつく。この中身は媚薬のはずだ。淑女教育の一環で、悪い男に騙されて飲まされないよう、ルチアはマナー教師から教えられていた。


「こんなもの、誰が飲むものですか!」

「ぐぇっ」


 男を勢いよく突き飛ばし、扉目がけて走りだす。かさばるドレスの(すそ)を掴まれ、ルチアは半ばの床で膝をついた。


「生意気な真似を。このわたしに逆らうなど愚かな娘だ」


 二の腕をつかまれて乱暴に立たされた。目が据わった状態で、男は酒臭い息を吐きかけてくる。


「痛い目に遭いたくなかったら、今すぐ自分で飲むことだ」

「やめてっ」


 瓶の口を押し付けられて、恐怖のあまりルチアはぎゅっと(まぶた)を閉じた。


「そこまでにしていただきましょうか? 同意のない行為は犯罪ですよ」

「……カイ」


 放心状態のまま、その名をつぶやいた。開いた扉から入ってきたのは、やけに冷めた瞳をした騎士服姿のカイだった。


      ◇

 泥酔したご夫人をお付きの侍女に引き渡すと、カイは元いた配置の場所に戻ろうと(きびす)を返した。

 首筋につけられた口紅をハンカチで無造作に(ぬぐ)い取る。赤く汚れた布切れは、通りすがりに置かれた痰壺に表情なく投げ入れた。

 酒臭い女には昔から嫌悪感しか持てないでいる。表情に出すことは決してしないが、酔った夫人に口づけを求められることがどうにも苦痛でならなかった。

 そう思う原因は子供じみた理由からだと、カイ自身も分かってはいる。夫人たちの口から吐き出される酒の臭気は、晩年の狂った母親(ベアトリーセ)を否応なしに思い出させた。

 戻る途中、まだ誰にも使われていない休憩室の並びで、赤ら顔の紳士が何かを窺うように歩く姿があった。その先の廊下で、ひとりの令嬢がきょろきょろと辺りを見回している。


(あの男……グレーデン家の縁故の者だな)


 以前も夜会で騒ぎを起こし、証拠不十分で無罪放免になった男だ。酒癖が悪く、騎士たちからマークされているような人物だった。

 案の定、男は令嬢の手首をつかみ、無理やり部屋の中へと引っ張り込んだ。やれやれと肩を(すく)め、カイは閉め切られた扉に耳を押し当てる。


「まったく、ブルーメ子爵も何やってんだか」


 連れ込まれた令嬢は明らかにルチアだった。目を離してこんな危険な場所にひとり来させるなど、誰かに襲ってくれと言っているようなものだ。

 中から激しい口論が聞こえてくる。そのあとガタガタと大きな物音がして、どうやらルチアも負けてはいないようだ。

 マスターキーを取り出して、カイは鍵穴に差し込んだ。こういう事態も起こり得るため、万が一用に持たされていたものだ。と言ってもカイにしてみれば、針金一本あればこんな扉は容易に開けられてしまうのだが。


「そこまでにしていただきましょうか? 同意のない行為は犯罪ですよ」

「なっ、貴様、どうやって入ってきたっ」


 突然現れたカイに、男は飛び上がらんばかりに驚いた。素早く近づき、手にした小瓶を取り上げる。

 この媚薬は、大公バルバナスの小姓であるランプレヒトが開発したものだ。異国人で捕虜だった彼は薬草の知識を多く持っていたため、今では薬師(くすし)として(とりで)の騎士団に重宝されている。

 ランプレヒトは製剤技術にも優れていて、液体を瓶から出すと媚薬の効力が失われるように作られていた。飲み物に入れられて、知らず飲まされる事故を防ぐためだ。

 その上ひと目でそれと分かるように、目立つピンクの瓶に入れられている。淑女教育で媚薬の存在は教えられるので、騙されて飲まされる心配もないという訳だ。


「この媚薬は合法の物ですが、相手の同意なき使用は重罪です。知らなかったなどと言うおつもりはないでしょう?」

「ど、同意など、そんなものあるに決まっているではないか! こんな場所をひとりでうろついていたんだ。この女の目的も男漁りに決まっているだろうっ」

「嘘言わないで! そっちが無理やり襲ってきたくせに!」

「小娘が! 口答えするなっ」


 ルチアに向かって振り上げられた腕を、無駄のない動きでカイはつかみ取った。背中側にねじり上げ、扉に向かって突き飛ばす。


「今ならまだ、未遂で無罪放免にできますが?」


 冷たく言い放つと、男は赤黒い顔を歪ませて悔しそうに部屋を出て行った。


(現行犯で捕まえたほうが、後々のためになったかもな)


 あの手の(やから)は懲りずに同じことを繰り返すものだ。もう少し登場を遅らせるべきだったかと、カイはそんなことを考えた。

 ぎゅっと騎士服の二の腕を掴まれて、カイはルチアを見下ろした。結い上げた髪が多少乱れているものの、決定的な乱暴は受けていない様子だ。


「ねぇ、ルチア。自分がどれだけ危険なことしたのか分かってる?」

「だ、だってなかなか会いに来てくれないから、それでわたしカイのこと探して……」

「しっ、黙って」


 誰かが近づく気配に、カイはルチアの唇に指を押し当てた。開け放たれた扉を注視する。次いで天蓋の掛かった寝台の裏手にルチアを導き、その場にしゃがみこませた。


「誰か来る。そこで見えないように隠れてて」


 ほどなくして線の細いひとりの夫人が現れた。カイの姿を認めると、その夫人はおずおずと部屋の中に入って来る。


「カイ・デルプフェルト様……」

「これはデーラー伯爵夫人。このような場所にどうされましたか? ご婦人向けの休憩室は別にありますよ」


 この並びの部屋は、(もっぱ)ら、いたしたい男女が籠るための休憩室だ。彼女は新婚で、夫であるデーラー伯爵は社交界でも堅物(かたぶつ)で知られている。そんなふたりがこの場を利用するとは思えなくて、カイは人好きのする笑顔で問いかけた。


「いえ、わたくしは迷ったのではなく、ここへはあなたを追って参りました」

「わざわざわたしを追って?」

「ええ、折り入ってデルプフェルト様にお頼みしたいことがございまして……」


 ためらいがちな顔つきで、それでも夫人は後ろ手に扉の鍵をかちゃりと閉めた。密室となった休憩室は、微妙に緊張をはらんだ空気に包まれる。

 積極的で貞操観念の低いご夫人ならば、こういった状況も予想の範疇(はんちゅう)と言えた。しかし彼女は恐らく、火遊びには向かないタイプの人間だ。

 堅実な人生を歩んできた者ほど、道を踏み外した際は深みに(はま)りやすいものだ。一度彼女に手を出したが最後、あと腐れなく別れるのに苦労するのは想像に難くない。

 これはイグナーツ直伝の男の勘だ。もし仮に彼女が捜査対象だったとしても、慎重に近づき方を考えることだろう。


「お願いです! デルプフェルト様、わたくしを抱いてくださいっ」


 ド直球に告げられて、思わず苦笑いしそうになった。彼女はやはり男女の駆け引きとは縁遠い人種のようだ。ルチアの身じろぐ気配がしたが、構わずカイは夫人の顔を無言でじっと見続けた。


「あ、あの、デルプフェルト様は女の扱いがお上手と伺っております。ですからわたくしにも女の(よろこ)びを教えていただきたくてっ。はしたないことを言っているのは重々承知しています。一度きりでもいいのです。どうかわたくしにデルプフェルト様の慈悲を与えてくださいませ!」


 夫人は早口でまくし立てた。やましい思いを抱える者は、やたらと饒舌(じょうぜつ)になるものだ。


「なぜわたしに? 夫人にはご立派な夫君がおられるでしょう?」

「その……わたくし、夫では物足りなくて……」

「物足りない?」


 デーラー伯爵は厳格に規律を守るような男で、真面目を絵にかいたような人物だ。だが爵位を継ぐ前は騎士団に所属しており、筋肉隆々のいい体つきをしている。夜の相手を務めるには、この線の細い夫人では逆に負担になるように思えた。よほどモノがお粗末と言うことか。


「あ、いえ、もっと激しくしてほしいのに、夫はいつでもやさしすぎて……」

「それなら話は簡単です。どうして欲しいのかを素直に伯爵に伝えてみるといいですよ」

「そんなことできません!」


 夫人は興奮気味に詰め寄ってくる。これ以上来られるとルチアに気づかれてしまいそうで、カイは自ら夫人に一歩近づいた。注意を逸らすため、わざと耳元に顔を近づける。


「なぜ? 言葉にするのは恥ずかしいですか?」

「は、はい……夫に(つつし)みのない女と思われることが怖くって……」


 カイに思われる分には何ともないらしい。ひいては、彼女は夫をきちんと愛しているという事だろう。


「なるほど。そういうことならこれを差し上げますよ」


 先ほどルチアを襲った男から取り上げた媚薬の瓶を取り出した。不思議そうに夫人は首を傾ける。


「これは……?」

「ご存知ありませんか? これは媚薬です」

「媚薬?」


 箱入り娘にはこういう情報を与えない貴族もたまにいる。よほどの温室育ちなのだろうと、カイは夫人の手を取り小瓶を握らせた。


「合法のものなので心配はいりません。飲めば恥ずかしさも消えて大胆に振る舞えますよ」

「で、でもこんなものを使ったら、ふしだらに思われてしまうわ」

「でしたら筋書きはこうです。まず、寝室の目立つ場所にこの瓶を置いてください。それを夫君が目に留める」

「そんなっ、驚かれて離縁になりそうだわ!」

「大丈夫ですよ。当然夫君はこれが媚薬だとすぐに気がつくでしょう。ですがあなたは何も知らないふりをしてください。これをどうしたのかと聞かれたら、今日の夜会で気分の悪くなった夫人を助けた際に、お礼で貰ったとでもするといいでしょう。中身は……そうですね。美容にいい飲み物と言って渡されたと説明してください」


 カイの言葉に、夫人は手にした媚薬をじっとみつめた。


「そ、それで続きはどうすればよろしいの?」

「あなたは夫君の目の前でそれを飲んで見せます。もし夫君が飲むのを止めてこなかったら……」

「止めてこなかったら……?」


 期待に満ちた瞳で見つめられ、夫人の喉がごくりと鳴った。これで面倒事はうまいこと回避ができそうだ。


「夫君は乱れるあなたをお望みという事です。そうなったら遠慮はいりません。思い切り大胆に振る舞ってください。何、心配はいりませんよ。なにせあなたは、それとは知らずに媚薬を飲んでしまったのだから」


 はしたないふるまいもすべて媚薬のせいにできるというわけだ。

 貞淑な妻のみだらな姿を悦ばない男はいないだろう。がっつく女を敬遠する男もいるが、たまのことなら興奮せずにはいられないはずだ。


「もしも飲むのを止められてしまったら、そのときはまたわたしにお声がけください。そうなれば、あなたのご期待にきちんと応えさせていただきますよ」


 にこやかな笑みとともに、夫人を扉の前までエスコートする。廊下に人気(ひとけ)がないのを察知すると、カイは外へ(いざな)うように扉を開けた。


「大丈夫、上手くいきますよ。どうぞ夫君と末永くおしあわせに」


 (うやうや)しく腰を折り、丁重に退出を促した。手に媚薬を握り締め、高揚した様子で夫人は部屋を出ていった。

 音を立てずに扉を閉めたあと、カイは背後の不穏な気配に振り返る。


「なんなの今の」


 不信に満ちた顔のルチアが、カイを睨みつけていた。きつく閉じた拳が小刻みに震えている。それを気に留めるでもなく、カイは(から)になった手を広げて見せた。


「何? ルチアも媚薬、使ってみたかった?」

「違うわよ! もし本当にまたあの(ひと)がやってきたらカイはどうするつもりなの!」

「うん? どうするも何も、さっき彼女に言った通りにするだけだけど?」


 絶句して、ルチアは目を見開いた。次の瞬間、金色の瞳に怒りの炎が燃え盛る。


「何よそれ、意味分かんない! さっきだって知らない女相手にみっともなくでれでれしちゃって……!」


 かっとなり声を荒げたルチアを、一瞬でカイは腕に閉じ込めた。強引に唇を塞ぎ、それ以上言葉を紡げなくする。


「ルチア、たのしいことしよ?」


 機嫌を損ねた女にはこうするのが手っ取り早い。

 抱き寄せて口づける。初めは抵抗してきたルチアはすぐにふにゃふにゃになった。


「ずっと欲求不満だった? もしかして自分で自分を慰めていたんじゃない?」


 吐息とともに耳元で囁くと、ルチアの頬が面白いほど真っ赤に染まった。


「図星だった? ねぇ、意外と自分でも気持ち良くなれたでしょ?」

「……カイじゃなきゃ満足できないもの」


 唇を噛みしめルチアはぽつりとつぶやいた。かと思うと、首筋にしがみついてカイに口づけをねだってくる。

 塗られた紅がはみ出すほどに、激しい口づけを交わし合う。


「上手だよ、ルチア」

「んっ、ふ、カイ……」


 呼吸も荒く互いの熱を分け合っていく。

 その合間にルチアが懇願するように聞いて来る。


「ね、カイ……さっき言ってたの、うそ、なんでしょう?」

「さっきって?」

「あ、あのひとがまた来たら……ってはなし」


 終わった話を蒸し返されて、カイは一度キスを止めた。

 ふっと意地悪い笑いを浮かべ、すぐに隙間なく口づける。


「それってさ、ルチアには関係ないことじゃない?」

「かんけ、なくなぃ……こんなこと、ほかのだれともしちゃいやっなのっ」


 唇を離してルチアは叫んだ。

 そんなルチアの髪に顔をうずめ、カイは耳裏に唇を寄せた。


「ねぇ、ルチア知ってる? 下の具合ってさ、女性(ひと)によって随分と違うんだ」


 わざとのように、膝をぐっとルチアの足の間に押し付ける。


「男の方もかなり違うから、ルチアもいろんな奴と試してみるといいよ」

「な……!」


 顔を上げたルチアと、至近距離で見つめ合う。見開かれた瞳には、先ほど以上に美しい怒りの炎が揺らめいていた。

 身をよじってルチアはカイを強く突き飛ばした。繋がりはあっさり解け、離れた分だけ互いの熱が消えていく。


「カイの馬鹿! カイなんて大っ嫌い……!」


 (にじ)む涙をそのままに、ルチアは部屋を飛び出していった。

 やれやれと肩を竦め、カイは(わら)いながらその背を黙って見送った。


      ◇

 夜会の会場を出て、王城の客間へと向かう。その途中、休憩用の一室からいきなり誰かが飛び出してきた。


「ルチア様……!?」


 ぶつかりそうになった令嬢は泣き腫らした目をしたルチアだった。色鮮やかな口紅が、唇からはみ出した様子にはっとなる。

 目が合ったにもかかわらず、唇を噛みしめルチアはそのまま走り去った。とっさに追おうとするも、ジークヴァルトにぐいと引き戻される。


「ヴァルト様……!」

「大丈夫だ。彼女に任せれば問題ない」


 ジークヴァルトの視線の先で、ベッティがルチアを追っていく後ろ姿が見えた。それを確かめたリーゼロッテは、不安に思いつつもジークヴァルトの腕に再びおとなしく収まった。

 ふいにジークヴァルトが振り返る。それにつられるように、リーゼロッテも顔をそちらへと向けた。ルチアが飛び出してきたのと同じ部屋から、ゆっくりとカイが現れる。

 彼らしからぬ高揚した様子に、一抹の違和感を覚えた。少し着乱れた騎士服を軽く整えながら、カイはこちらに近づいてくる。


「これはジークヴァルト様。もうお戻りですか?」


 張り付けた笑顔のカイを見て、リーゼロッテははっと息を飲んだ。その口元が異様に赤く染まっている。そう、それはまるで、色鮮やかな(べに)を塗り広げたかのように。


(ように、じゃない。あれはルチア様の――)


 どう見てもあの色はルチアがつけていた口紅だ。見間違うはずもない。彼女の赤毛に良く似合うと、先ほどそう思ったばかりだ。

 涙をにじませながら走り去ったルチアが頭をよぎり、ふたりの間で何が起きたのかを、正確にリーゼロッテは察知した。


「カイ様は……ルチア様をどうなさるおつもりなのですか?」

「どう、とは?」


 不思議そうに問い返された。遊び慣れた彼だと知ってはいるが、誰かを泣かせるような人間ではないはずだ。信じたい気持ちと信じられない気持ちが半々で、リーゼロッテの中をせめぎ合う。

 ルチアのためにも有耶無耶にしていい話ではなかった。カイの真意を確かめるため、リーゼロッテは意を決してその口を開いた。


「きちんと責任を取る気があるかということですわ。ルチア様とはもちろん結婚なさるおつもりなのでしょう?」


 未婚の彼女に手を出したのだ。ルチアの名誉を守るためにも、責任を取るのは貴族として当然の義務だろう。

 しかしカイは大げさに驚いて見せた。肩を竦め、小馬鹿にしたような嗤いを向けてくる。


「結婚? このわたしがルチア嬢と? はは、面白い冗談ですね。ご希望に沿えずに申し訳ありませんが、わたしにそんな気はさらさらありませんよ」

「そんな、それではあまりにも不実(ふじつ)すぎますわ!」

「不実も何も彼女とは遊びですよ。ルチア嬢も承知の上でしょう」


 心底可笑(おか)しそうにカイは再び嗤った。かっとなり頭が真っ白になった状態で、知らずリーゼロッテは片手を振り上げる。()けようともしないカイの頬がはたかれる寸前で、ジークヴァルトに手首を掴まれた。


「その辺にしておけ」

「ヴァルト様……」


 自ら犯した衝動的な行動に、今さらのように動揺が走った。怒りなのか後悔なのか。震える指をジークヴァルトにやさしく包まれて、リーゼロッテは余計に震えが止められなくなった。


「ははは、惜しいことをしました。慈悲深いリーゼロッテ様に、平手打ちをされた初めての男になれるところだったのに」


 そんな軽口にジークヴァルトが睨みを利かせてくる。それを見たカイは「ああ」と得心したように頷いた。


「もうすでにジークヴァルト様がその座を勝ち取っておられるのかもですね。はは、これ以上戯言(たわごと)(つつし)みます」


 益々不穏な空気を感じたカイは、すっと真面目な騎士の顔になった。


「職務中ですのでわたしはこれで」

「カイ、行くのならその口を何とかしてからにしろ」

「おっと、これは失礼を」


 唇についたルチアの(べに)を、カイは無造作に指の腹で(ぬぐ)い取った。


「ではリーゼロッテ様、今度こそ御前失礼させていただきます」


 恭しく腰を折ると、カイは警護に戻っていった。わななく唇のまま、その背を見送るしかないリーゼロッテだった。


【次回予告】

 はーい、わたしリーゼロッテ。新年を祝う夜会が終わり、そのまま王城に連泊したわたしとジークヴァルト様。王妃の離宮にお呼ばれして、双子の王子殿下に会いに行きます。そこでハインリヒ王から、王子ふたりに降りた不可解な託宣の話を聞かされて……?

 次回、6章第21話「双子の王子」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!

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