第17話 甘やかな沈黙
【前回のあらすじ】
逃げ出したルチアを必死に探すベッティ。一方、妹イザベラと共に貴族街に来ていたニコラウスは、見かけた不審な赤毛の令嬢のあとを追いかけます。
そんな中、アルベルトに呆れられつつも、久々に貴族街の聖女に扮したクリスティーナは、突然過去の記憶を呼び起こされて。ルチアに降りた託宣の秘密を垣間見た直後、追われたルチアが占いの店に飛び込んできます。
クリスティーナの助けで貴族街から抜け出したルチアは、なんとか逃亡に見合った服を手に入れて。しかし目的の場所とは違う辻馬車に乗る羽目になり、見知らぬ街に降り立ちます。
そこがカイの隠れ家に近い場所と分かり、日が沈みかける中ひとり向かうルチア。リープリングに襲われそうになり、必死に二階の部屋へと駆け込みます。
ルチア脱走の報告を受けたカイはベッティをこんがり亭へと向かわせ、自らはいったん隠れ家へと立ち寄ります。そこで眠るルチアを見つけ、驚くカイ。傷の手当てをするうちに、ルチアのふたつめの龍のあざを目にしてしまい……。
ついに託宣の相手を見つけたカイはすぐさまルチアを押し倒し、ふたりは初めて熱を分け合うのでした。
「カイ……坊ちゃま……?」
ルチア発見の知らせに足取り軽くやってきた隠れ家で、呆然と立ち尽くす。
気だるげに壁に背を預け、それでいて高揚感を隠せないでいる。着乱れた姿で現れたカイに、ベッティは絶句した。
カイの向こう、いつも仮眠で使う部屋のドアが開いている。その隙間から見えた寝台で、ルチアが背を向け横たわっていた。深い眠りについているのか、ゆっくりと肩が上下する。
床に脱ぎ捨てられた衣服。リネンに流れる艶やかな赤毛。上かけの毛布からのびる足の内側に刻まれた龍のあざが目に飛び込んでくる。
この光景を前にして、何があったかは一目瞭然だ。それなのにベッティは、どうしても我が目を疑わずにはいられなかった。
今まで遊び慣れた既婚者にしか手を出してこなかったカイだ。初心な令嬢に対しては、興味を持つどころかむしろ避けている状態だった。もし仮に素っ裸のルチアが迫ってきたとしても、ベッティの知るカイならば絶対に相手になどしないはずだ。
それなのに今、目の前にある現実は一体なんだというのか。不具合が生じたように、うまく思考が働かない。どうしてぇ、と掠れ声が小さく漏れる。無意識に込めた批難に気がつくも、それ以上の言葉は見つからなかった。
「聞いてベッティ! あったんだよ、ふたつ目の龍のあざが!」
カイはベッティの両腕を掴んで強く揺さぶった。琥珀の瞳は興奮を孕んでいて、その異様さはどこかデルプフェルト侯爵を思わせる。
こんな様子のカイは、これまで一度も見たことがない。放心したまま反応を返さないベッティに、カイはさらに狂気じみた笑いを向けた。
「ルチアにふたつ目のあざが! あったんだ! あったんだよ、ベッティ!」
「え、それはぁ……カイ坊ちゃま、ご存じなかったんですかぁ?」
ようやくの思いで答えると、信じられないと言う顔でカイは大きく目を見開いた。
「なに? ベッティはずっと知ってたの? どうして今まで黙ってた? もっと早く言ってくれればこんな苦労はしなかったのに」
「だってぇ……坊ちゃまはとっくに知ってるものだと思っててぇ」
カイらしくない問い詰めに、困惑しか返せない。
「はは、まぁいいや。もう見つかったんだ。ずっと、ずっと探していた対の託宣が……!」
弾む声でカイはルチアの眠る寝台を振り返った。漏れる笑いを必死に堪え、いつも通りベッティに指示を出す。
「数日はここにいる。とりあえずルチアに必要そうなもの用意して。あとはこの紙の通りに動いてくれればそれでいいから」
「……承知いたしましたぁ」
どんなに信じ難くとも、ベッティはカイの言葉を受け入れるしかない。彼の駒になることを誓ったからには、これ以上の疑問は捨て去るべきだ。
感情をすべて消すために、ベッティは眠るルチアから目を背けた。
◇
夢見る瞳のルチアから、切なげなため息がこぼれた。手にしたクッキーを食べるでもなく、心ここにあらずに虚空を見つめ続けている。
貴族街で逃げ出したルチアは、結局ブルーメ家のタウンハウスに戻ってきた。あの日の脱走劇はなかったことになり、気分の悪くなったルチアが転んで大怪我を負ったという筋書きになり替わっている。
そんな状況でフーベンベルク家に世話になるわけにはいかないと、今は王都のタウンハウスで療養中だ。それを聞いたブルーメ子爵が、領地から急ぎ様子を見に来ると数日前に手紙が届いた。子爵到着の知らせを受けて、ルチアは出迎えるため立ち上がろうとした。
「いたた……」
「ああっルチア! 無理をしてはいかんのだなっ!」
子爵の声が大きく響く。養子となってから、子爵が語気を荒げることなど一度もなかった。ちょっとびっくりして、ルチアは中腰のまま動きを止めた。
「わしがそちらに行くのでな、ルチアはそのまま座っているといい、うん」
普段通りの穏やかな声で言われ、ルチアは素直に腰を下ろした。
「雪でたいへんなのに来させちゃってごめんなさい」
「そのようなことは気にしなくて良いのだな。大事なルチアが怪我したとあっては、様子を見に来ないわけにはまいらんのだ、うん」
怪我と言っても、脛の擦り傷はほぼ治りかけている。痛むのはむしろ、ひとには言えないようなルチアの大事な体の中心部だ。
後ろめたく思うのと同時に、カイにされたことが頭の中でリプレイされる。瞬間、ルチアの顔がぼっと真っ赤になった。
「おお、ルチア! まだ熱があるのだな。これはいかん、つらいようなら無理せず横になりなさい」
「い、いえ、起きてた方がむしろ楽なので」
なにしろ全身が筋肉痛だ。背中や腰、股関節も痛くって、歩くにも不格好にがに股になってしまう。
「ならば良いが無理をしてはいかんぞ。で、食事はきちんととれておるのかな?」
「はい、いつも通り頂いてます」
「そうか、それはよかった。ルチアのために滋養のつくものを急ぎ取り寄せねばな」
そこまで言うと、ブルーメ子爵は深い息をついた。その様子にやはり怒っているのかと、ルチアは不安げな顔となる。
「いや、安心しただけであるな。ルチアの顔を見るまで、ずっと気が気でなかったものでな、うん」
微笑んで、子爵は少し複雑そうな顔をした。
「ルチアがいないとどうにも食事が味気なく感じてしまってな。温室のプリムラを見ては、毎日ルチアのことを思い出していたのだな、うん。実のところ、このまま領地に連れて帰りたいと思っていたくらいであるのだ」
「え……?」
子爵が慌ててやって来たのは、ルチアに何かがあったら援助金を打ち切られて困るからだと思っていた。そんな穿った見方をしていたことに、罪悪感がこみ上げてくる。
「だが引き続きここで療養し、ルチアはしっかり回復せねばな。また領地でともに過ごせる日を楽しみにしておるのでな、うん」
「はい、わたしも……たのしみにしています」
いつだって子爵はやさしく手を差し伸べてくれていた。それを見ようともせず、勝手に心を閉ざしていたのはルチアの方だ。
誰も自分を分かってくれないと、自ら歩み寄ることを一切してこなかった。そのことにようやくルチアは気づかされた。
「元気そうな顔も見られたことであるし、さて、次は公爵家に挨拶に行って来ねばな」
「……ごめんなさい、本当に迷惑をかけてしまって」
「いやなに、父らしきことをするのもなかなかに楽しいのであるからして、ルチアは案ぜずともよいのであるな」
「ありがとうございます、お義父様」
「うむ、すべてわしに任せておきなさい」
どこか頼りなく思えていた義父が、いつになく大きく見えた。なんだかくすぐったい気持ちになって、ルチアは子爵を送り出した。
再びひとり取り残された部屋で、飲みかけのカップに視線を落とす。あの夜、カイが淹れてくれた紅茶はとても温かかった。
ふいに体の中心が熱を持つ。何をしていても、繰り返しカイとの行為が思い起こされた。上気した頬を両手で包みこみ、うれしさと恥ずかしさでついつい口元が緩んでしまう。
どうしてカイとあんなことになったのか。信じられないという思いが、未だルチアの心を大きく占めていた。
(初めては痛いだけだって聞いてたのに……)
男女の夜の営みに関する話を、子供の頃からルチアは幾度も耳にしてきた。下町の女たちの言葉は明け透けで、ルチアは興味津々で聞いた覚えがある。
処女はとにかく痛くて血が出るだとか、回数を重ねるごとに気持ちよくなれるだとか、へたくそな相手ではいつまで経っても痛いだけだとか、相性が大事だとかそんな下世話な体験話だ。
特に初めての時はどうだったのかを、女たちは事細かに教えてくれた。それを聞いて怖くなってしまったが、気持ちよさを語る女のうっとりとした瞳が、同時にルチアの脳裏に焼き付いた。
自分はどんな相手とどんな初めてを迎えるのだろう。そんな妄想をしてみたりもした。いざそのときを迎えたものの、あまりにも事が突然過ぎて、恐怖など感じる暇もなかった。
唐突な口づけの後そのまま押し倒されて、何が起きたのか初めは理解できなかった。カイの手が服の中に入ってきたときは驚きしかなくて、さすがのルチアも抵抗しかかった。なのに触れられる場所すべてが熱くなり、すぐに何も考えられなくなってしまった。
「カイ……」
甘いため息が口をつく。カイが触れた場所が切なく疼いて、あの場面を思い出すたびに居ても立ってもいられなくなる。
とにかく信じられないくらいに気持ちがよかった。まるで天国に昇り詰めていくような感覚で、あの濃密な快楽を求め、夢想が際限なくエスカレートしていく。
『ルチア』
熱い吐息が耳元で囁く。薪の爆ぜる音。炎に照らされる汗ばんだカイ。されるがままルチアは必死にカイの首筋にしがみついた。
夜の営みは子をなす目的でするものだ。貴族の淑女教育で、ルチアはそんなふうに説明を受けた。
だが母は言っていた。それは心を通わせた者同士が、愛を確かめ合うためにするものなのだと。ルチアが初潮を迎えたときに、丁寧な言葉でアニサは男女のまぐわいについて包み隠さず教えてくれた。
(わたし、カイと愛しあったんだ……)
じわじわとよろこびが湧き上がる。うれしくて、でもなんだか気恥ずかしくて、クッションを胸にぎゅっと抱きしめた。堪らずに足をばたつかせ、長椅子の上を左右に転がり身悶える。
「きゃあっどうしようどうしよう、わたしカイと! カイと愛しあっ、ぁいったぁあいっ」
捩った腰に痛みが走る。クッションに顔をうずめ、悶絶しながら身を丸め込んだ。
「ルチア様ぁ、安静にしてないといつまで経っても回復しませんよぅ」
「ベッティ……」
「あ、お紅茶冷めてしまいましたねぇ。今すぐ淹れなおしますぅ」
手際よくカップが新しいものに差し替えられる。用済みの茶器を乗せたワゴンを押して、ベッティはすぐ部屋を出て行こうとした。
「ねぇ!」
「はい、何でしょうかぁ」
ベッティの態度は前と変わらず同じまんまだ。貴族街でルチアが逃げ出したことも、カイとそうなったことについても、詮索どころか言及ひとつしてこない。
ルチアはカイの別宅で三日間を過ごした。ふたりで愛し合ったあと、ベッティが湯あみや食事の世話をしてくれた。その間カイはどこかに出かけていたようで、疲れ果てて眠っていると、いつの間にか戻ったカイと再び夢のような時間を過ごした。
そんなことを繰り返した三日目の朝、向かい合わせに横たわった寝台で、カイは小さく笑んできた。
「ルチアはさ、もうブルーメ家に戻ろうか」
「え? いやよ、わたしずっとカイとここにいる」
「オレもそうしたいのは山々だけどさ。見つかったら連れ戻されて、二度と会えなくなるけどそれでもいいの?」
「そんなのいや!」
「だったら一度帰ろう? ね、ルチア」
すぐに返事ができなくて、ルチアは唇を噛みしめた。
「オレ、またすぐに会いに行くからさ」
「本当?」
「うん、約束する。それとルチア。オレとのことは、絶対に誰にも話しちゃ駄目だからね?」
「どうして?」
「ふたりでこうしていることが子爵に知れたら、やっぱり二度と会わせてもらえなくなるよ。だからさ、ちゃんと内緒にできる?」
小さく頷くと、カイはやさしく口づけてくれた。交差した素足を絡めあい、もう一度ふたりで愛を確かめ合った。
その日の午後にブルーメ家のタウンハウスに戻り、幾日も経過している。それなのにカイが会いに来る気配は一向になかった。
「ねぇベッティ、カイからは何も連絡はない?」
「特にないですねぇ」
「そう……」
誰にも話すなとは言われたが、唯一ベッティだけが自分たちのことを知っている。何かあった時は彼女を頼るよう、カイにそう言われていた。
「あの方は王城騎士としていつも忙しくされてますからぁ。ルチア様は養生がてら気長に待たれるとよろしいですよぅ」
気遣うように言われるも、ルチアは素直には頷けなかった。日中はカイとの時間を思い出し胸を高鳴らせる一方で、寝静まった深夜などは身も心もさびしくて、切なさが募るばかりだった。
「あ、明日はエマニュエル様が来られるのでぇ、ご承知おきくださいましねぇ」
「エマニュエル様が?」
その名を聞いて、ルチアは身を固くした。彼女には、カイと親しくしないよう苦言を呈されたばかりだ。
「リーゼロッテ様がルチア様のことをいたくご心配されてるとかでぇ、代わりにエマニュエル様がお見舞いの品を届けに来てくださるそうですぅ」
「分かったわ」
勘のよさそうなエマニュエルを思い浮かべる。カイとの約束を守るためにも、彼女には特に注意しなければ。
ベッティが出て行って、何をするでもなく再びルチアはぼんやりと虚空を見つめた。口元から、知らず切なげな息が漏れる。
「カイ……早く、会いに来て」
◇
大きなクマの縫いぐるみふたつに挟まれて、リーゼロッテは自室の居間のソファで安堵の息をついた。
「ルチア様のお加減、大丈夫そうでよかったわ」
エマニュエルの話では、転んで打ち付けた体が痛むだけで、それ以外は問題なく過ごせているとのことだった。お見舞いの品の中に傷薬と称して、リーゼロッテの涙入りスプレーも忍ばせておいた。あれを使ってもらえれば、さらに回復も早まるだろう。
「ヴァルト様とのお買い物に浮かれてる間に、ルチア様がそんな目に合っていたなんて。ね、アルフレートジュニア」
左隣に座る黄色いリボンのクマに話しかける。この新顔は、先日行った貴族街でジークヴァルトに買ってもらったものだ。
いや、正確に言うと、買ってくれと頼んだ覚えはひとつもない。令嬢時代にも連れて行かれた雑貨屋で、リーゼロッテは再びこのクマの縫いぐるみが売られているのを見つけた。囚われた神殿の部屋に置き去りにしてきた青いリボンのアルフレート二世が思い出されて、ちょっぴりアンニュイな気分でしばらく見つめ合ってみただけだ。
しかし貴族街から帰ってみると、赤いリボンのアルフレートの横にもう一体のアルフレートがいた。そんなことをするのはジークヴァルトしか考えられない。
驚きと呆れとうれしさが順番にやってきて、結局このクマには黄色いリボンをつけて、アルフレートジュニアと名付けることにした。
大きなクマの縫いぐるみはあの店の名物で、年に一度くらいは誰かに買われていくらしい。もっぱら幼い令嬢への贈り物とのことで、その話は聞かなかったことにしたリーゼロッテだ。
「最近ではわたくしが買い占め状態だわ。ね、アルフレート」
誰も見ていないのをいいことに、今度は右隣の赤いリボンの初代アルフレートに話しかける。公爵夫人となった身で、縫いぐるみとおしゃべりしているなどと知られたら激マズだ。
しかしリーゼロッテは知らなかった。大きな縫いぐるみに挟まれて座る自分の姿が、どれほどメルヘンチックな様相を呈しているのかを。アルフレートたちに埋もれるリーゼロッテを見るたびに、エラなどは心の中でカメラの連射ボタンを押しまくっている。
「なんにせよ、次に行くときはアルフレートを増やさないように気をつけなくちゃ」
夫婦となってからも、ジークヴァルトの破天荒ぶりには驚かされる。ふふと笑ってから、リーゼロッテは両隣のもふもふと腕を組んだ。そのままふたりに身を預ける。
日中ジークヴァルトは執務で忙しいし、侍女長となったエラもずっとリーゼロッテのそばにいるわけではない。暇を持て余しすぎて、結局は縫いぐるみ相手に独り事を言うしかない毎日だ。サロンで小鬼相手に戯れるのも自粛している。貞子の件があったので、とにかく今はジークヴァルトに心労をかけたくなかった。
「怪我が良くなったらルチア様も戻ってくるって言うし、それまでの辛抱ね。ベッティもいたら、あなたたちの腹話術をやってくれないか頼んでみようかしら」
毒舌だったアルフレート二世が懐かしい。囚われていた神殿でのことは、今では随分と遠い記憶となっている。あまり思い出したいものではなかったが、あの日々で得たものはリーゼロッテにとっては大きいものだった。
「感謝の気持ちを忘れてしまっては駄目ね……」
なんでもしてもらえる生活に戻って、その教訓が薄らいでしまっている。こうしてジークヴァルトとともに在れる奇跡を、これからも大事に噛みしめて生きていかなければ。
ふとアルフレート二世が言いそうなことがリーゼロッテの頭の中をよぎった。試しに唇を動かさず甲高い声を出してみる。
『もう、リーゼロッテってば真面目なんだから!』
言ってみて、ひとりぷっと噴きだした。本当にアルフレート二世なら言いそうだ。
「それにしても腹話術って案外難しいのね」
ベッティを真似てみたものの、ちっともそれらしくならない。唇は動いてしまうし、リーゼロッテがしゃべっているのが丸わかりだ。
その日は腹話術の練習に明け暮れて、戻ったジークヴァルトにじぃっと見られていたことに気づくまで、リーゼロッテは縫いぐるみ相手にひたすら甲高い声を出し続けた。
◇
明日はフーゲンベルク家に再び移動する日だ。結局カイが訪れないまま、タウンハウスでひと月近くを過ごしてしまった。
もぐりこんだ寝所で、乱暴な寝返りを打つ。それでも上質な寝台は、キシキシと小さな音を立てただけだった。
(カイの嘘つき)
寝ても覚めてもカイのことばかりが心を占める。あの日の肌の感覚は、日々薄れてきてしまっている。どうしようもなくさみしくなって、ルチアは自身の体をぎゅっと抱きしめた。
「こんなことならあのままカイの家にいればよかった……」
そうすれば自分からカイを探しに行けるのに。夜半になって吹雪いて来たのか、強い風がガタガタと窓を揺らす。それが煩くて、ルチアは上掛けの毛布を頭からかぶった。
しばらくするとコツコツとガラスを叩くような音が加わった。聞こえ続けるその音に、次第にイライラが募っていく。
「なんなのよっ、もう!」
勢いよく身を起こし寝台を降りる。窓の立て付けを確認しようと、ルチアは分厚いカーテンに手を掛けた。
「――……っ!」
ルチアは声にならない悲鳴を上げた。水滴で曇るガラスの向こうに、ぼうっと人影が立っている。何しろここは二階の部屋だ。雪風が吹き荒れる夜も遅い時間に、人間がいられるような場所ではなかった。
カーテンを握る手が震え、恐怖で動けなくなる。しかしその人物は窓ガラスに顔を寄せ、しぃっと人差し指を口元にあててきた。
「カ……!」
再びしぃっとされ、慌てて口を手で覆った。急いで窓を開けると、刺すような冷たい風が勢いよく吹き込んでくる。窓枠をひょいと乗り越えたカイは、すとんと床に着地した。
「今度から窓の鍵は開けといてよ」
「カイ……どうしてこんなところから……」
驚きすぎてリアクションが薄くなる。音を立てないように窓を閉めてから、カイは手首をつかんでルチアを腕に抱き込んだ。
「さすがに正面からは会いに来れないしさ。わ、ルチアの肌、熱っ」
「ひゃっ、ちょっ冷たっ」
いきなり夜着をまくられて、背中の素肌にカイの手が滑りこんだ。あまりの冷たさに、思わずカイを押し退ける。
「大声出しちゃ駄目だってば」
「だって心臓止まっちゃうじゃない!」
「はは、ルチアがすぐ気づいてくれないからさ、オレ凍え死ぬとこだったよ?」
「そんなこと言われたって……」
小声での応酬が続く中、再び腕に抱き寄せられた。凍てついたカイの指先が、性懲りもなく背中の上を這っていく。
「や、だからそれ冷たいんだってば! 触るなら、せめておしりにして!」
リクエスト通りにカイの手が移動した。冷たいことに変わりはないが、背中ほど我慢できないこともない。
「はールチアあったけー」
ぎゅっと腕に囲われて、カイの匂いに包まれた。こみ上げてくるうれしさに、つい口元が緩んでしまう。それを悟られるのも悔しくて、ルチアは裏腹に唇を尖らせた。
「どうしてもっと早く来てくれなかったの? わたしずっと待ってたのに」
「ごめんごめん、オレもそれなりに忙しくてさ」
ルチアの熱で暖が取れたのか、先ほどよりもカイの手に冷たさを感じなくなってきた。
「ねぇ、ルチア。あっちでもっとあっためてよ」
耳元で囁かれ、頬を朱に染め頷いた。くっついたままふたりで寝台に上がり、ヘッドボードに背を預けたカイは、ルチアの肩を抱き寄せ足の間に座らせた。
カイの胸にもたれ掛かり、琥珀の瞳をじっと見上げる。頬に触れた指先が、耳を越えうなじの方へと滑り込んできた。
「あっ、やだカイ、指まだ冷たい」
「うん、だからルチアであっためさせて」
髪の奥に差し込まれた手が、ルチアの頭を引き寄せた。そのまま唇を塞がれて、甘い口づけの中、抗議の言葉はうやむやに溶かされていく。
離れてしまった唇に、ルチアはねだるようにカイの首筋に手を掛けた。自ら顔を寄せ、積極的に口づけを求めていく。
「まだ冷たい?」
「ううん、も、だいじょうぶ」
夢にまで見たカイがいる。口づけだけでは物足りなくなって、ルチアはどんどん大胆になっていった。
「カイ、もっとして?」
ねだるようにカイを見上げた。一瞬目を丸くしたカイは、ふっといたずらな笑みを刷く。
「ほんと、ルチアはいやらしい娘だね」
「だって……」
「はは、ルチアはほんとに悪い娘だ。でも明日はフーゲンベルク家に移動でしょ? 今夜は無茶なことできないよ」
「でも」
「大丈夫。ちゃんと気持ち良くはしてあげるから。ね?」
頷いてルチアはおとなしく身を預けた。
ふと動きを止めたカイが顔を覗き込んでくる。
「ねぇ、ルチア。もう一度言うけど、オレとふたりで会ってるって誰にも言っちゃ駄目だからね?」
「どうしてもだめなの?」
「駄目だよ。でないとこんなふうに二度としてあげられないよ」
「そんなのいや!」
いやいやと首を振って、ルチアはカイの胸に顔をうずめた。
そのままふたりはひとつになって、明け方には抗えない重いまどろみへと沈んでいった。
◇
翌朝カイは、何食わぬ顔でブルーメ家タウンハウスの正面玄関に立った。
護衛を依頼された騎士として挨拶をし、ルチアとは顔見知り程度の言葉を交わす。ルチアを馬車に乗せると、自身は馬にまたがりフーゲンベルク領までの道のりを並走していった。
到着した公爵家のエントランスでは、ジークヴァルトとリーゼロッテがわざわざ出迎えに現れた。リーゼロッテの要望で、過保護なジークヴァルトが同席したと言うのが本当のところだろう。
(はは、夫婦になっても相変わらずだな)
ふたりの元へと歩を進めていくと、リーゼロッテの瞳がうれしそうに輝いた。
「ルチア様! お元気そうでよかった」
「この度はご心配をおかけしました、リーゼロッテ様」
心から身を案じていたのか、今度は緑の瞳が潤みはじめる。労わるように手を取られたルチアは、少し後ろめたそうな顔をした。
「久しぶりの馬車でお疲れよね。サロンに席を用意させたから、ひと息つきましょう? カイ様もぜひご一緒に」
「せっかくのお誘いですが、オレはご遠慮します。このあと他の任務がありますので」
「そうですの。それでは仕方ありませんわね」
残念そうに言ったリーゼロッテが、ちらっとルチアを伺った。そのルチアはリーゼロッテ以上に残念そうな表情をしている。
(ん? これは何か感づかれてる?)
激鈍なリーゼロッテが珍しい。とはいえ彼女の認識は、護衛騎士に恋心を抱く令嬢の片思い程度のものだろう。
「ではジークヴァルト様、オレはこれで失礼します」
「ああ」
公爵夫妻に騎士の礼を取る。ルチアの視線を感じたが、そのまま出口へと踵を返した。
「あのっデルプフェルト様……!」
とっさのように掛けられた声に、仕方なしに振り返る。
「何? ルチア嬢」
「あの、その……きょ、今日は護衛してくださってありがとうございました」
視線を彷徨わせたあと、ルチアはどうにか無難な言葉を選び出した。まぁまぁ許容できる範囲だが、ベッティに釘を刺すよう伝えておいた方がよさそうだ。
ルチアの後方で控えていたベッティに視線をやると、任せておけとばかりに僅かに頷き返してくる。ベッティ相手だとすべてが滞りなく進むので、本当に重宝しているカイだった。
「カイ様……?」
すぐに返事をしなかったカイに、リーゼロッテが不思議そうに小首をかしげた。ルチアを無視したと感じたのか、呼びかけには少し批難じみた声音が混じっていた。
「いえ、ちょっと驚いていただけです。任務に対して律儀に礼を言われたのは、今日でふたり目だったので」
悪戯に笑み、リーゼロッテの顔を意味深にじっと見やる。
「え……? そのひとり目って、もしかしてわたくしですか?」
「はは、そうですよ。王城でリーゼロッテ様はいつでも律儀に礼をくださいましたから」
恥ずかしげに頬を染めたリーゼロッテの横で、ジークヴァルトがものすごく嫌そうな顔をした。素早く腰をさらい、リーゼロッテを抱き寄せる。
「もう、ヴァルト様!」
「はは、夫婦円満のご様子。何よりです」
リーゼロッテの抗議にふいと顔を逸らしたジークヴァルトが、横目でカイを睨んでくる。これ以上やると身に危険が及びそうで、カイは大げさな身振りでルチアの片手を掬い上げた。
「ルチア嬢の護衛の大任につけたことに感謝して」
忠誠を誓うように、手の甲に恭しく口づける。ルチアは顔どころか触れた指先までも、見事なくらい真っ赤に染め上げた。
胡乱なベッティの視線を感じたが、リーゼロッテの目にはいつものおふざけに映ったことだろう。
ぽうっとなって見つめ続けるルチアに背を向けて、カイは今度こそ公爵家をあとにした。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。カイ様の訪れを待ちわびて、ルチア様の恋心は募っていくばかり。日増しに元気がなくなるルチア様のために、わたしはお茶会を催すことにして。ヴァルト様、おいたは絶対にさせませんわよ!
次回、6章第18話「想い、焦がれて」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!




