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ふたつ名の令嬢と龍の託宣【なろう版】  作者: 古堂素央
第6章 嘘つきな騎士と破られた託宣

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第13話 疑いの夜会

【前回のあらすじ】

 白の夜会出席に向けて準備を進めるリーゼロッテ。公爵夫人となってからも、ジークヴァルトの甘やかしは相変わらずで。

 一方王都のタウンハウスへと移動したルチアは、カイに連れられお忍びで街中に向かいます。訪れたこんがり亭でダンとフィンに不義理を詫び、久々に自由な時間を満喫して。

 しかし帰路で異形に憑かれた人間に遭遇し、ルチアは期せずして浄化の力を放ちます。パニック状態になったルチアを落ち着かせるため、とっさにその唇を塞ぐカイ。

 ルチアを異形の者から守ろうとした自分自身に、カイは心の揺れを感じるのでした。

 真正面にいるベッティが、真剣な目つきで化粧を(ほどこ)していく。唇をなぞる紅筆(べにふで)の感触に、ルチアは思わず身じろいだ。


「くすぐったくても我慢してくださいましぃ。あと少しで終わりますからぁ」


 細かいしわの間まで、丹念に紅が塗り込まれてくる。その動きがまるで別の何かに思えて、深く考えないようにとぎゅっと(まぶた)を閉じた。


「そんなにきつくつむっては駄目ですよぅ。目周りがひどいことになりますのでぇ」


 ベッティの言葉に慌てて目を見開いた。引かれる紅は微妙に色を変え、今度は唇の先端ばかりを集中的になぞってくる。この落ち着かない感触はいつまで続くのだろうか。それでなくてもここ数日、あの出来事が頭から離れない。


 こんがり亭へ行った日の記憶は半端に途切れ、気づけばタウンハウスで翌朝を迎えていた。たまたま森にいた木こり達に驚いて、ルチアはその場で気を失ってしまったらしい。ベッティからそう説明を受け、そんな馬鹿なと驚いた。


「ねぇ。あの日、カイはほかに何か言ってなかった?」


 筆が離れたすきに問いかけた。一瞬だけ手を止めたベッティが、パレットから紅をつけなおして再びこの唇をなぞってくる。


「先日お話しした通りぃ、カイ様はルチア様をここまでお運びになっただけですぅ。着替えのお世話などはすべてベッティがさせていただきましたのでぇ、どうぞご安心くださいましねぇ」

「そう……」


 納得がいかないままで、仕方なくルチアは口をつぐんだ。


(あれはぜんぶ夢だったって言うの……?)


 ずっと市井(しせい)で育ってきたルチアだ。これまでも危険な目にはそれなりにあってきた。深窓の令嬢でもあるまいし、屈強な男どもに出くわしたくらいで気絶するなど、どう考えてもあり得ない。


 自分を取り囲んだ暗い影を背負った男たち。その腕が数本、うつろな瞳で延ばされた。乱暴に掴まれた肩の痛み。手首をきつくねじり上げられて、ルチアは思わず悲鳴を上げた。

 じっと手のひらを見やる。あの瞬間ここから溢れた金の輝き。大きさはまるで違ったが、それは小鬼に向けて放った火花と同じものだった。

 弾かれるように吹き飛んだ男たちは、雪積もる森の地面で死体のように横たわっていた。それを幻だったと片付けるには、あまりにも臨場感がありすぎる。


 噛みしめそうになった唇に、薄紙がそっと押し当てられた。余分な紅を移すため、紙越しにベッティの指が触れてくる。ゆっくりとずらされていく指先に、ルチアは再び身じろいだ。


(カイはなんであんなこと……)


 思い出すたび鼓動が跳ねる。なぜああなったのか、ルチアにはよく分からない。気づいたときにはもう、カイに口づけられていた。


 逃げ出せない背中に回った腕の力。髪の奥、もぐりこんだ手のひらと、耳に触れる指の感触。重ねた唇の弾力に、漏れるカイの吐息の熱さ。


 すべてがまだここに残っていて、あれが夢だったとはどうしても思えない。

 次に会ったとき、何を言えばいいのだろうか。今日の夜会にはカイも出るらしい。


「さぁ、これでお化粧は完了ですぅ」


 弾む声に我に返った。ベッティが()けた先、鏡に映った自分と目を合わせる。そこにはお人形のように綺麗な子がいて、ルチアは驚きで大きく目をしばたたかせた。


「では次は髪を結わせていただきますねぇ」


 せわしなく動くベッティの手つきを、ルチアは鏡越しにぼんやりと眺めていた。髪が結い上がっていく様子は魔法のようで、今の方がよほど現実感なく思えてしまう。


「うふふぅ、ルチア様の晴れの舞台ですからねぇ。編み込みには花をいっぱい飾ってぇ、さりげなく小さめの石も仕込んでおきましょうかぁ。あとは毛先をゆるぅく巻いて後ろに流せばぁ、ほぅら超絶完璧ですぅ!」


 歌うようにまくし立てた後、ベッティは休む間もなくコルセットを手に取った。


「さぁさ、仕上げはお着替えですよぅ」


 有無を言わさずガウンをはぎ取られ、コルセットで締めあげられる。夜会仕様の重いドレスを、ベッティは手際よくルチアに着せていった。


「やっぱりデビューのお衣装は格別ですねぇ。白のドレスにルチア様の赤毛が映えてぇ、超絶! お美しいですぅ!」


 ご機嫌な様子のベッティは、おべんちゃらで言っている感じはしない。自分で鏡をのぞいても、確かにそこには絵本から飛び出たようなお姫様が立っていた。

 ルチアが動くと、そのお姫様も同じ動作を真似(まね)てくる。ということは、やはりあれは本当に今の自分の姿なのだろう。


「ねぇ、もうちょっとコルセット、緩められないの? こんなに胸を盛り上げなくたっていいじゃない」

「ルチア様のお胸は詰め物なしでそのボリュームですからねぇ。できる限り緩めに締めてあるのでそれ以上はむつかしいですよぅ」


 げんなりとなってルチアはため息をついた。さっさと夜会を終わらせて、この重苦しいドレスを脱ぎ去ってしまいたい。厚化粧の目元が気になって、ルチアは無意識に指でこすろうとした。


「あっ化粧が崩れるのでむやみにお顔に触れてはいけませんよぅ。ルチア様はもっとお化粧なさってぇ、日ごろから慣れておいた方がよさそうですねぇ」

「別に慣れなくたって……夜会が終わるまではちゃんと我慢するわ」

「ですがぁ社交界デビューが済みますとぉ、茶会や舞踏会にあちこち呼ばれるようになりますよぅ」

「えっ、今日だけじゃないの!?」

「当たり前じゃないですかぁ。ルチア様は婚約者もいらっしゃいませんからぁ、これからいろんな方と引き合わされるでしょうねぇ。今夜もきっと殿方から超絶引っ張りだこになりますよぅ」



 山盛りの不安を抱えたまま、ルチアはブルーメ子爵と共に王城へと向かった。


     ◇

 壇上の豪奢(ごうしゃ)な椅子に座り、ハインリヒはデビュタントをひとりひとり迎え入れていた。王となって初めて開く白の夜会だ。王太子時代の自分であったなら、この重大な役目に意気込みもしたのかもしれない。だが(かんむり)を戴いた今となっては、そんな気概はとうに失せてしまった。

 ことさら今夜はそんな思いに拍車をかけていた。辛うじて王の威厳は保っているが、今この頭を占めるのはアンネマリーのことばかりだ。


(よりにもよって夜会の今日に出産の兆しがみられるなど……)


 これから本格的に陣痛が始まるだろう。主治医からそう言われ、夜会を取りやめにしようかと本気で考えてしまった。そこを笑顔のアンネマリーに(さと)されて、こうして王の責務を全うしているハインリヒだった。

 それでもデビュタントの挨拶など今すぐほっぽり出して、アンネマリーのそばにいたいというのが本当のところだ。


 ――無駄じゃ無駄じゃ、行ったところで扉の前で右往左往するのが関の山じゃ!


 脳内で騒ぐ歴代の王たちの(わずら)わしさは相変わらずだ。幾人目かの男爵が、息子を連れてお決まりの口上を述べている。何をどう挨拶されようが、王たちのおしゃべりのせいで会話などまるで聞こえはしない。あまりの馬鹿馬鹿しさに、今すぐこの席を立ち、出産の場に駆けつけるべきなのではと思ってしまう。


 ――いやいや、いつぞや王子の誕生に立ち会って、見事に卒倒した王がおるぞ!

 ――そうだ、あれはやめておけ! 男の立ち入れる場所ではない!


 すぐさま入る王たちの合いの手に、ハインリヒはぎゅっと眉根を寄せた。いつも議会でしているように、目を閉じて時が過ぎるのを待ちたくなる。だがデビュタントを前に、そんなことができるはずもなかった。


 新たにやってきた白の貴族が緊張の面持(おもも)ちで礼を取る。


 ――今宵のデビュタントは、どの令息令嬢も小粒ぞろいじゃな

 ――確かに、話題性に欠ける者ばかりでつまらぬのう!


(爵位の高い低いはあっても、デビューを迎える貴族たちに大粒も小粒もないだろう……)


 内心ため息をつきつつも、連れ立った父親の口が(せわ)しなく動く様子を、ハインリヒは遠い瞳で見守った。


 ――当代の王よ、今こそ常套句(じょうとうく)を述べるときぞ


 唯一まともな助言をくれる王の声がけに、ハインリヒはようやく口を開いた。相手の言っていることが分からずとも、これがあるから王としての体裁が保てている。


「よい、顔を上げよ。この日を迎え、わたしもよろこばしく思う」


 鷹揚(おうよう)に言うと、並び立つ貴族が感動したように目を潤ませた。思えば父ディートリヒも絶妙なタイミングで同じ台詞を発していた。あの裏で歴代の王たちが指示を出していたなどと、誰ひとりとして思うまい。


 掛ける言葉は似たり寄ったりなので、タイミングさえ外さなければ指示がなくとも乗り切れそうな状況だ。ハインリヒは近頃、読唇術(どくしんじゅつ)を試みている。ゆっくりとした口の動きなら、どうにか読み解けるようになってきた今日この頃だ。


 ――当代の王はほんに真面目な性格よのう!

 ――我らに任せておけば楽であろうに!

 ――先代王など王妃のことばかり考えておったぞ!


 王たちが一斉に笑い声をあげた。こう無秩序に騒がれると、とたんに集中力が()がれてしまう。そうなると読唇術もままならなくなって、結局は王たちに頼らざるを得ないハインリヒだ。


「インゴ・ブルーメ子爵、ルチア・ブルーメ子爵令嬢、ご登場!」


 そのとき次のデビュタントを呼ぶ声が、遠くまで高らかに響いた。広間中の貴族たちが、そびえ立つ二枚扉に視線を向ける。


 ――ようやく真打(しんうち)のお出ましじゃ!

 ――おお! 今日いちばんの目玉であるな!


 その言葉にハインリヒも登場口を注視した。ゆっくりと開け放たれた扉から、子爵に連れられた赤毛の令嬢が歩を進めてくる。玉座の壇上へと続く長い絨毯を渡り、ふたりはハインリヒの前で礼を取った。


(本当に似ているな……)


 ひときわ目を引く鮮やかな赤毛に、伏せた瞳は見まごうことなく金色だ。カイから報告は受けていたものの、実際に目にするとやはり動揺を隠せなくなる。

 色彩だけでなくルチア・ブルーメの顔立ちは、父ディートリヒにあまりにも似通っていた。妹のピッパと姉妹だと言われても、不思議ではないと思えるほどだ。

 これは面倒なことになりそうだ。彼女の容姿を見た貴族たちは、こぞって父親が誰なのかを噂して回るに違いない。


(やはり正直に父親を公表すべきか……? しかしウルリヒ大叔父の名を出せば、(かえ)って誤魔化しているように取られる可能性もある)


 ウルリヒは七十代で子をなした計算だ。何しろルチアは、ハインリヒにとって祖父の従妹(いとこ)にあたる。ハインリヒでさえ(にわ)かには信じ難かったというのに、貴族たちがそれを素直に受け入れるとは思えなかった。


(父上の隠し子と噂されるくらいなら、いっそバルバナス叔父上の子という事にしておくのも手か……)


 そう思った瞬間、頭に浮かんだバルバナスが鬼の形相で睨みつけてきた。そんな密命を強要したら、今後は会うたびにその顔を拝む羽目になるに違いない。

 だがほんの小さな(ほころ)びで王家の威信が揺らぐこともある。多くの貴族は龍の託宣の存在を知らないままだ。王家から離反し国家転覆を企もうとした人間は、歴史を遡るといないわけではなかった。


 ――心配いたすな、そのための根回しぞ!

 ――この国は忠臣ぞろい、王の意を汲み取る優秀な者ばかりじゃ!

 ――あとは龍に任せておけば良い、それで万事うまくいく!


 歴代の王たちの声にハインリヒも心を決めた。どんな噂が立とうとも、ルチアはブルーメ家の遠縁だと押し切るしかないだろう。


(どのみち隠し子の疑念が向けられるのは父上たちだしな)


 母セレスティーヌに似た自分には、降りかかりようもない火の()のことだ。そう思えば気も楽になる。


(それよりも……)


 眼下で礼を取るルチアを見やる。彼女は龍からリシルの名を受け、異形の者に(あや)められる定めの者だ。その無慈悲な託宣が、この国にどんな恩恵をもたらすと言うのか。


 過去起きたことは、王たちの記憶で何もかもを知らされた。しかし(きた)る未来は、ハインリヒには何ひとつ見通せない。


 すべては龍の思し召しだと言うのなら――


(託宣が果たされるその時まで、この者の日々の安寧を守ることが、せめてものわたしの務めだ)



 挨拶を終え王前を辞するルチアの背中を、ハインリヒは遠い瞳で見送った。


     ◇

 白の夜会は成人した貴族の令息・令嬢を、新たに社交界へと迎えるための舞踏会だ。デビュタントたちは白の貴族と呼ばれ、白を基調とした装いをするのが習わしとなっている。

 そんな彼らの初々(ういうい)しいファーストダンスを、リーゼロッテはジークヴァルトと共にダンスフロアの外から眺めていた。


(去年の今頃は東宮に連れて行かれてたっけ……)


 離れ離れだった日々の切ない記憶が蘇る。夫婦となって、今は当たり前に一緒にいる毎日だ。それが途轍(とてつ)もない奇跡に感じられて、言いようのない感謝とよろこびが、胸の内にこみ上げてきた。


「どうした?」

「わたくし、ヴァルト様の妻としてここに立てていることが……とても、とてもうれしくて……」


 打ち震える心が声までも震わせる。潤みかけた瞳をリーゼロッテはどうにか理性で落ち着かせた。


「ふっ、そうか」


 やさしく目を細め、長い指が頬をなぞってくる。思い返せばいつだってそうだった。夜会などそっちのけで、ジークヴァルトは自分のことしか見ていない。降りてきた唇の耳打ちに、リーゼロッテも差し出すように頭を傾けた。


「だがそんな可愛いことを言うな。今すぐ連れ帰って寝室に籠りたくなる」

「ひあっ」


 前触れなくピアスの守り石に青の力を吹き込まれる。飛び出た奇声に慌てて周囲を見回すも、オーケストラの演奏に上手くかき消されたようだ。ぷくと頬を膨らませ、リーゼロッテはジークヴァルトを仰ぎ見た。


「もう、夜会でこのような悪戯(いたずら)はなさらないでくださいませ」

「善処する」


 ふいと逸らされた顔に反省の色はない。再び抗議をしようとしたリーゼロッテの視界の(すみ)に、鮮やかな赤毛の令嬢が横切った。


「あ……ルチア様」


 ぎこちなく踊るデビュタントに(まぎ)れて、ブルーメ子爵と踊る姿を見つけた。ひと(きわ)優雅にステップを踏む様は、彼女が市井(しせい)生まれであることが信じられないほどだ。

 見物する貴族たちの視線も、ルチアへと多く注がれている。やはり今期のデビュタントの中で、彼女がいちばんに注目を集めているようだった。ひそひそとなされる内緒話は、ルチアの父親に関する話題ばかりだ。


「リーゼロッテ」


 いつになく硬い声で呼ばれ、ジークヴァルトへと視線を戻した。


「今日お前が踊るのは、オレとザイデル公爵とだけだ」

「ザイデル公爵様と?」

「ああ、それ以外は一切応じなくていい」


 ザイデル公爵はイジドーラ前王妃の兄だ。夜会ごとに申し込まれたダンスはひとりだけ。レルナー家の夜会でそう約束したことをリーゼロッテは思い出した。


「分かりましたわ。わたくし、ザイデル公爵様以外とは何方(どなた)とも踊りません」

「ああ……」


 安心させるため向けた笑顔に、再び硬い声が返された。まだ何かを言いたげな様子に、小さく首を傾ける。


「それに今夜オレは……」


 言いかけて、ジークヴァルトは口をつぐんだ。いつも以上に深く刻まれた眉間のしわに、不安の心が湧き上がる。


「ヴァルト様は……?」

「今夜、オレはお前意外とひとりだけダンスを踊る」

「わたくし以外の方と……?」

「ひとりだけだ」


 もう一度つけ加え、ジークヴァルトは口を引き結んだ。その様子に、自らが望んでのことでないのが見て取れる。

 言われてみれば、過去ジークヴァルトが自分以外の人間と踊ることは一度もなかった。だが社交の場である以上、ジークヴァルトにも()けられないお誘いがあるのは当然と思えた。


「ええ、分かりましたわ。その間、わたくしちゃんとおとなしくしております」


 心を乱したりしなければ、異形を騒がせることもない。ジークヴァルトと少しの間離れたところで、問題など起こらないだろう。

 いまだ不服そうなジークヴァルトに身を寄せる。リーゼロッテも表面上は納得したものの、心のどこかでは焼きもちが大きく膨らんでいた。こんな小さなことでと自分でも呆れるが、やはりジークヴァルトがほかの誰かに触れるのは嫌だった。


 ファーストダンスが終わりを迎え、あちこちで拍手喝さいが沸き起こる。


「白き貴族たちを心より歓迎する。さあ、みなの者、(うたげ)の始まりだ!」


 ハインリヒ王の重い声が響き渡った。高まった歓声と共に、貴族たちが各々動き始める。ここから先は自由行動だ。社交のおしゃべりに、飲食に、それぞれが興じていく中、ダンスフロアがいちばんの混雑ぶりとなるのは毎年のことだった。

 特に婚活中の貴族は、積極的にデビュタントをダンスに誘う。入り乱れる貴族たちの中でも、(まと)った白い衣装で誰がデビュタントであるかは一目瞭然だ。


「オレたちも行くぞ」

「はい、ヴァルト様」


 差し伸べられた手を取り、フロア中心へと向かう。ほどなくしてオーケストラの演奏が始まった。(おおやけ)の場でふたりして踊った機会は、すべて合わせても両手で数えられる程度だ。きっと覚えていられないくらいの思い出が、これからはもっと増えていくのだろう。そう思うとしあわせな気持ちでいっぱいになった。


「ヴァルト様……わたくしが年を取ってしわくちゃになっても、こうして一緒に踊っていただけますか?」


 緩やかなワルツが奏でられる中、腰に回った手に力が入る。


「だからそういう可愛いことは、帰ってからにしろと言っただろう」

「ふひぁっ」


 耳元で囁かれ、吐息のついでに青の力を吹き込まれた。周辺の異形がざわついたのが分かって、赤くなった顔のままリーゼロッテは唇を尖らせる。


「ヴァルト様こそ、こんな場所で呪いを発動させないでくださいませね」

「そう思うなら言動に気をつけることだ。次は休憩室に連れ込むからな」

「なっ」


 魔王の笑みを浮かべるジークヴァルトを前に、あうあうと口だけを動かした。とっさに言い返すことができない自分が、なんだか悔しくて仕方がない。


 こういった王家主催の大規模な夜会では、休憩室が開放されている。疲れた者や酔っぱらった者が宿泊できるようになっているが、一夜の火遊びで使用する貴族も少なからずいた。

 今ではふたりで泊ったとしても、見咎められることはないだろう。しかし中で起きていることを詮索されるのかと思うと、どうにも居たたまれなさすぎる。


(フーゴお義父様とクリスタお義母様が一緒の寝室に入るのなんて、前は当たり前に思っていたのに……)


 夫婦の契りを事細かに知った今では、余計な考えがもたげてしまう。

 それにフーゲンベルク家で何事も起きないのは、ジークヴァルトの寝室でまぐあうからだ。あの部屋は壁のいたるところに守り石が埋め込まれている。


(そうよ、お屋敷でもほかの場所だと、キスひとつで大騒ぎになりかねないもの)


 ようやく見つけた反撃に、踊りながらもリーゼロッテはつんと顔を逸らした。


「公爵家の呪いがあるのですから、王城でそんなことできるはずありませんわ」

「そこは何とか上手くやる」


 しれっと返されて、再び言葉を失うしかないリーゼロッテだった。


 そんなことを言っているうちに、二曲続けてのダンスが終わった。大事にエスコートされつつ、一度フロアの外に出る。


(ルチア様だわ)


 ダンス終えたルチアが、別の誰かに次の踊りを申し込まれている。婚約者のいない彼女は多くの声がけを受けていた。立て続けて踊るのは体力が必要なので、大変そうだと同情のまなざしを送った。


(あ、でもあの方はティール公爵様だわ。それにさっき一緒に踊ってらしたのはザイデル公爵様ね……)


 未婚の若い紳士ではなく、高い爵位を持つ既婚者ばかりにルチアは取り囲まれている。その輪には宰相のブラル伯爵もいるようだ。ピンときて、重ねた手にリーゼロッテは力を入れた。


「先ほどヴァルト様が踊るとおっしゃっていたお相手は……もしかしてルチア様なのですか?」

「ああ、そうだ」


 渋い顔になったジークヴァルトも、ルチアの動きを目で追っている。王族の血を引く彼女を心無い者から守るため、そんな王命が下ったのかもしれない。デビューしたての子爵令嬢が公爵からこぞってダンスを申し込まれるなど、通常ではあり得ないことだった。

 辺りにいる貴族たちも、好奇の目でその様子を見守っている。あれこれと囁き合ってはいるものの、この流れでルチアの出自を直接詮索しに行く強者(つわもの)は、きっと現れることはないだろう。


「フーゲンベルク公爵」


 フロアで始まったダンスを横目に、掛けられた声に礼を取る。やってきたのはザイデル公爵だ。イジドーラの兄だけあって、切れ長の瞳が少し強面(こわもて)の印象に思えた。


「夫人と直接お話しするのは初めてですな。お近づきのしるしに、次の曲でわたしと踊っていただけますかな?」

「もちろんですわ、ザイデル公爵様。よろこんでお受けいたします」


 渾身(こんしん)の淑女の笑みで答えると、反比例するようにジークヴァルトの口が思い切りへの字に曲げられた。


「ははは、フーゲンベルク公爵にこんな顔をさせられるのは貴女だけですな」

「そんな……」


 頬を染めつつ、一向に手を離そうとしないジークヴァルトを戸惑いながら仰ぎ見る。


「いいでしょう。フロアに入るまでは夫君(ふくん)にエスコートしてもらうといい」

「お、お心遣い感謝いたします……」


 むすっとしているだけのジークヴァルトの代わりに、そんな返事しか返せない。何とも言えない空気の中、三人はダンスの切れ目でフロアへと足を踏み入れた。


「では今宵、勝ち取った栄誉を満喫させていただこう」


 軽く腰を折ったザイデル公爵を前に、ジークヴァルトはようやくこの手を離した。渋々といった様子に呆れつつ、ザイデル公爵のエスコートにリーゼロッテは身を任せた。


 リーゼロッテから視線を外さないまま、ジークヴァルトが誰ともぶつからずにルチアの元まで進んで行く。上手いこと歩いたと言うよりも、あれは周囲の人間が()けてくれたと言うのが正解だろう。

 たどり着いたジークヴァルトがルチアにダンスを申し込むと、貴族たちが二度見する勢いでざわついた。次いでリーゼロッテにも視線を向けてきて、ザイデル公爵と組む様子に、さらにこちらも二度見される始末だ。


 そんなことをしているうちに次の曲が始まった。慣れない相手と踊るのは(こと)のほか緊張を強いられる。

 途中、ルチアと踊るジークヴァルトの姿が視界に入ったが、今は焼きもちを焼く余裕もない。異形の者にも気をつけなくてはならないので、リーゼロッテはいつも以上に慎重にステップを踏んだ。


「彼も器用なものだな」

「え?」

「貴女しか目に入らないようだ」


 ザイデル公爵の手慣れたリードもあって、リーゼロッテは広いダンスフロアでジークヴァルトの姿を探した。あっさりとすぐそこにいた青の瞳とぶつかって、ちょっとびっくりしてしまう。

 しかもザイデル公爵の言うように、ジークヴァルトはリーゼロッテをガン見していた。一緒に踊るルチアには目もくれていない。ルチアはルチアで心ここにあらずな状態で、ジークヴァルトとは明後日(あさって)の方を向いている。


(ふたりとも、あれでよく転ばないわね)


 無表情のまま踊るふたりは、まるで機械仕掛けで動いているかのように見えた。長いよそ見に、ザイデル公爵の足を踏みそうになる。リーゼロッテは慌てて自分の足元へと意識を戻した。


「くじで決めたのですよ」

「くじで……? 何をお決めになったのですか?」


 ふいに言われ、良く分からずに問い返す。くくっと思い出し笑いをされて、さらに小首をかしげた。


「いや、フーゲンベルク公爵が」


 そこまで言って、再び思い出し笑いを挟まれる。(こら)えるように奥歯を噛みしめ、ようやくザイデル公爵は続きを口にした。


「貴女をダンスに誘うのは、夜会ごとにひとりまでだと言い張るものですからね」


 何があったかを理解して、リーゼロッテの頬が朱に染まった。心配性のジークヴァルトが、前もって貴族たちに根回しをしたのだろう。


「いや、事情は聞いていますよ。夫人は体がお弱いとのこと。何しろ貴女と踊りたいと思っている男は山ほどいますからな。制限を設けなければ夜会に混乱をきたすでしょう」


 混乱するほどのことはないとは思うが、そういう話になっているのなら素直に頷かざるを得ない。


「それで今宵はこのわたしが貴女と踊る権利を得たという訳です」

「そ、そうでしたの」


 なんともリアクションしにくい話だ。どうしてそんなことまでして自分と踊りたいのかが理解できない。この世界で自分の容姿はイケてない部類に入るのだと、リーゼロッテはいまだにそう信じ込んでいた。


「ザイデル公爵様とこうして踊らせていただいて、わたくしもとても光栄ですわ」

「それはうれしい限り」


 微笑み合って、さらに踊り続けた。緊張が(ほぐ)れてきたのか、後半はステップも軽やかだ。


(あ、肩に黒いモヤが……)


 ザイデル公爵の背後に、異形の残り()のようなモヤが(まと)わりついている。さりげなく手をずらし、リーゼロッテはそのモヤをそっと(はら)った。


「おや……?」

「どうかなさいましたか?」


 ドキッとして手を元の位置に戻す。ザイデル公爵は異形が視えていない様子だったので、正直なところリーゼロッテは油断をしていた。


「いえ、今貴女が触れた肩にずっと痛みがあったのですがね……急にそれが引いたもので驚いたのですよ」

「そ、そうでしたの。痛みが引いたのなら何よりですが……知らなかったといえそんな場所に触れてしまうなんて、わたくしったらとんだ失礼を……」

「それは別段構いませんよ」


 上手く誤魔化せたようでほっと胸をなでおろす。今のことが知れたら、ジークヴァルトにダンス禁止令を出されてしまうかもしれなかった。


 リーゼロッテと踊った者は不思議と体の不調が軽くなる。のちにそんな噂が立つなど、現段階で想像できるはずもない。

 さらに言うと、リーゼロッテと踊れる権を巡って、ほとんどの紳士が長い順番待ちをすることになる。生きているうちに踊れるかどうかも危うい状況に、その権利が賭け事のネタになったり借金の担保になったり、果ては裏で売買されたりするなど、そんなこと予想だにしないリーゼロッテだった。


 曲が終わりを告げると、ザイデル公爵から一歩離れ、向かい合わせで互いに礼をする。顔を上げ切る前に、ジークヴァルトに手を取られ腰を強くホールドされた。


「もう、ジークヴァルト様……きちんとルチア様を最後までエスコートなさらないと」

「問題ない」


 言い切ったジークヴァルトの視線の先には、レルナー公爵と連れ立つルチアがいた。これでルチアは公爵四人と踊ったことになる。今期のデビュタントの中では群を抜いて注目を浴びており、(かえ)って悪目立ちしているようにも思えてしまう。


 ザイデル公爵と別れ、ダンスフロアを出たところで今度はティール公爵と出くわした。


「これはフーゲンベルク公爵夫人。ご結婚されてからはお初かな」

「ティール公爵様、ご挨拶が遅れ申し訳ございません」

「いや何、そんなことは気にせずとも」


 白髪交じりのティール公爵は、ザイデル公爵と違って柔和な雰囲気を持つ男だった。ちょっとふくよかな見た目が、余計そう思わせているのかもしれない。ジークヴァルトがいかに若くして公爵になったのかを再認識する。リーゼロッテの生家も含め、ほかの公爵たちはみな自分の親世代だ。


「夫人の次のダンスのお相手は、わたしに決まっていますのでな。今から楽しみで仕方がない」

「そ、そうでしたの。わたくしも心待ちにしておりますわ」


 淑女の笑みを張り付けたリーゼロッテとは対照的に、ジークヴァルトが眉間に大きくしわを寄せた。当たり(さわ)りのないように受け答えしているというのに、これではすべてが台無しだ。


「それはそうと、母が夫人を茶会に招待したいと申しておりましてな」

「ティール公爵様のご母堂様が?」

「よければお受けしていただけますかな?」

「もちろんですわ。構いませんわよね? ジークヴァルト様」

「……ああ」


 低い声で答えたジークヴァルトは、どう見ても不承不承の様子だ。


「ふむ。それならばフーゲンベルク公爵にも招待状を送るよう、母には伝えておきましょう」

「お、お気遣い痛み入ります」


 今日はジークヴァルトのせいで、頭を下げてばかりいるような気がする。こんなことで、今までどうやってジークヴァルトは社交を乗り切ってきたのだろうか。そう不思議に思えてくる。

 しかしなんてことはない。ジークヴァルトがポンコツになるのは、リーゼロッテが絡んだ時というだけの話だ。


 ふとどこからか視線を感じて、リーゼロッテは何とはなしに遠くを見やった。ダンスフロアを越えた向こう、壇上の玉座で悠然と頬杖をつくハインリヒが目に入る。

 小さく笑んでくれたような気がして、リーゼロッテは王に向けて美しい礼を取った。そこをすかさずジークヴァルトに腰をさらわれて、不格好な態勢でその胸へと倒れ込む。


「もう、ヴァルト様!」


 壇上を見やると、ハインリヒは口元に手を当て忍び笑いをしている。ジークヴァルトが笑われているのだと分かっているが、当の本人はどこ吹く風だ。リーゼロッテだけが羞恥で真っ赤になって、あまりの理不尽さに頬が大きく膨らんだ。


 そんなとき王族用の通用口から、城仕えの者が慌てたように駆け込んできた。早口な様子で何事かを王に耳打ちしている。真剣な顔つきのハインリヒは深く頷き、次いで玉座から立ち上がった。


「聞け、みなの者! たった今、双子の王子が誕生した。このめでたき日に居合わせた者たちで、盛大に祝うがいいぞ」


 王による宣言に広間から歓声が沸き起こる。豪華なマントを(ひるがえ)して、ハインリヒは壇上を降りた。どよめき続ける会場を背に、そのまま王族用の扉へと消えていく。


(アンネマリーが無事に出産したんだわ! しかも双子の男の子だなんて……!)


 王妃の離宮に行ったとき、アンネマリーのお腹ははちきれんばかりだった。中にふたりも入っていたのだ。それはあの大きさにもなるだろう。

 感動のあまりうまく息ができなくて、ジークヴァルトにしがみついた。駄目だと分かっていても、もりもりと涙がせり上がる。


「ヴァルト様……」

「ああ」


 溢れそうな涙をぬぐわれて、それ以上は泣かないようにと震える唇を噛みしめた。そんなリーゼロッテを腕に抱き寄せると、ジークヴァルトはあやすようにやさしく背中を叩いてきた。


「なんだか良いものを見せていただいた気分ですな」


 生温かい目のティール公爵が、すぐ横でうむうむと頷いている。慌てて腕から抜け出して、リーゼロッテは今さらのように居住まいを正した。


「わたくしこんなに取り乱したりして、お恥ずかしいですわ」

「いやいや、フーゲンベルク公爵は良き奥方を迎えられたようだ。(まこと)にうらやましい限り。おっとこれは我が妻には内緒ですぞ?」


 茶目っ気たっぷりにウィンクされて、リーゼロッテの涙も無事に引っ込んだ。そこをまたジークヴァルトが腰をさらってくる。


「もう、ヴァルト様ったら!」


 誰かと会話するたびにこれをやられては、恥ずかしすぎて夜会など出られなくなる。ふいと顔をそらされて、屋敷に帰ったら夫婦会議の議題に乗せて、絶対に夜会禁止事項に付け足そうと心に決めた。


「そろそろ帰るぞ」

「え、もうですか?」

「ああ、役割は十分果たした」


 そっけなく言ったジークヴァルトにエスコートされ、会場出口へ向かう。途中、見知った者たちと軽く挨拶を交わす。


(フーゴお義父様たちとも会いたかったけど……)


 これだけ人間が入り乱れていると、目当ての人物にたどり着くのは至難の業だ。アンネマリーのこともありもう少しこの場にいたかったが、従妹とは言え突然王妃に会いに行くことなどできはしない。それに出産直後のたいへんなときに、押しかけるのもハタ迷惑な話だろう。


(そういえば、今年は貞子紳士を見かけなかったわね……)


 思わずきょろきょろと辺りを見回した。


「どうした?」

「あ、いえ、黒髪の女性を背負った方がいらしたでしょう? 毎年白の夜会でお見かけするのに、今年はいらっしゃらないなって」


 肩にだれんと覆いかぶさる貞子は、いつも紳士の顔を愛おしそうに撫でさすっていた。ジークヴァルト曰く、異形の者ではなく貞子は生霊であるらしい。


「ああ……彼は最近、奥方を亡くされたそうだ」

「奥様を……?」


 一瞬、悲しみの感情に囚われるが、ちょっと待てよとリーゼロッテは眉根を寄せた。


(貞子紳士は妻帯者だったのに、令嬢たちをダンスに誘いまくっていたの……?)


 記憶の中の紳士はうら若き令嬢とよく踊っていた。しかも女の生霊が憑くような男だ。一気に貞子紳士の株がダダ下がりし、亡くなった奥さんへ同情心が湧いてきた。


 ふいに足を止めたジークヴァルトに気づき、リーゼロッテは慌てて淑女の笑みを作った。向こうからブルーメ子爵がルチアを連れて近づいてきている。


「フーゲンベルク公爵様、先ほどは義娘のお相手をしてくださりありがとうございました。ルチア、お前からも改めて感謝の言葉を」

「光栄な機会を与えてくださって、心よりお礼申し上げます」


 棒読みでルチアは淑女の礼を取った。続けざまのダンスのせいで疲労困憊の様子だ。


「ルチア様、社交界デビューおめでとうございます。今日の装い、ルチア様に似合っていてとてもお綺麗ですわ」

「ありがとうございます、リーゼロッテ様」


 リーゼロッテと目が合うと、ルチアは少しだけほっとした顔をした。慣れない夜会で気が張っているのだろう。そんな時に知り合いに会うと、ちょっと心強く感じるものだ。


「あの、リーゼロッテ様……」


 何かためらっているルチアに向けて、先を促すようにリーゼロッテは笑みを浮かべて小首をかしげた。


「カイを……いえ、その、デルプフェルト様をお見かけしませんでしたか……?」

「カイ様を?」


 思い返してみるが、広間では見かけなかったように思う。


(……去年の白の夜会では、カイ様、令嬢姿をしてたっけ)


 今日も何か捜査に当たっているのかもしれない。騎士として警護に回っている可能性もあるだろう。


「わたくしもお見かけしませんでしたわね。ジークヴァルト様はいかがですか?」

「オレも今日は見ていないな」

「そう、ですか……」


 落胆したようにルチアは瞳を伏せた。その様子はどこか物憂(ものう)げだ。


(もしかして、ルチア様はカイ様のことを……?)


 シネヴァの森の神事に向かう途中、立ち寄ったブルーメ家にはなぜかカイがいた。親しそうなふたりを見て、不思議に思ったことをリーゼロッテは思い出した。


「そろそろ行くぞ」


 促されて、ふたりに別れを告げる。


(帰ったらきっと、今夜も朝までコースね……)


 夜会帰りの夜は、ジークヴァルトは必ずリーゼロッテをしつこく抱いてくる。それを覚悟して、馬車の中でしっかり眠っておこうと、強く思ったリーゼロッテだった。


     ◇

 煌びやかな夜会は何もかもが現実離れしていて、緊張を通り越し、もはや神経が麻痺してしまっている。

 悠然と玉座に腰かけていたハインリヒ王は、驚くほど美しい顔立ちをしていた。


(子供のころ下町で見た肖像画も十分に綺麗だったけど、大げさに描かれているだけだってみんな笑ってたっけ)


 しかしあの迫力を絵に閉じ込めるのは、逆に不可能だろう。本物の王を目の前にして、ルチアはそんなことを思った。


 ブルーメ子爵とファーストダンスを終えた後、次から次にダンスを申し込まれた。全員に名乗られたが、すぐに誰が誰だか分からなくなる。かろうじてフーゲンベルク公爵だけは認識できたものの、立て続けに踊らされて、細かいことは何も考えられなくなった。


 ただ無意識にカイの姿を探す。貴族の数が多すぎて、どれだけ見回しても見つけ出すことはできなかった。息も絶え絶えになったころ、ようやくブルーメ子爵にダンスフロアから連れ出される。

 これで終わりかと思ったら、休む間もなく子爵とともに多くの貴族に声をかけて回った。その途中でリーゼロッテに会い、知り合いがいたことにルチアは小さく安堵した。


(それにしても相変わらず美しいひとだわ……)


 まぶしい笑顔でリーゼロッテはルチアのことをほめてきた。綺麗なひとに綺麗と言われても、素直には頷けないというものだ。リーゼロッテを前にしたら、どんなお姫様でも霞んで見えるに違いない。

 彼女は生まれながらの貴族だ。どんなに着飾ろうとも、自分など張りぼてに過ぎないと思い知った。


(リーゼロッテ様たちはもう帰るのね)


 自分も早く帰りたい。そうは思うものの挨拶回りはまだまだ続くようだ。


「ルチアはだいぶ疲れているようであるな。ここらで一度休憩を入れようか、うん」


 子爵の言葉にほっとするも、帰れるわけではないのだと落胆の息がついて出た。


「あら、ルチア様、ご機嫌よう。あなたも今日でようやく貴族の仲間入りね。一応おめでとうと言っておくわ」

「ありがとうございます、イザベラ様」


 やっと座れると思ったタイミングで、ブラル伯爵と連れ立ったイザベラに遭遇する。たれ目父娘(おやこ)の登場に内心むっとしつつも、ルチアは綺麗な所作で礼を取った。


「これ、イザベラ。もっと言いようがあるだろう」

「だってお父様」

「まあまあ、イザベラ様は伯爵家のご令嬢、ルチアと懇意にしてくださるだけでもありがたいことです」


 穏やかに間に入ったブルーメ子爵に、ブラル伯爵はやはり穏やかな笑顔を返した。


「いやはや、ブルーメ子爵はできたお方だ。おかげでわたしも安心できるというものです」


 これ以上ないほどたれた瞳でルチアを見やると、ブラル伯爵はニコニコ顔を向けてきた。縦ロール暴言令嬢の父親とは思えないほどのいい人ぶりだ。


「わたしも貴族の端くれ、父として最善を尽くす所存でありますな」

「それは心強い。益々安心してお任せできるというものです」


 紳士同士の話は良く分からない上、長ったらしくて辟易(へきえき)してしまう。やっと休めると思った矢先のことで、ルチアは余計にげんなりとしてしまった。


「ねぇ、お父様。わたくしルチア様とあちらでおしゃべりしてまいりますわ。お父様たちはそこでゆっくりお話しなさってて」


 ぐいと腕を引き、イザベラはルチアを広間の端に連れていこうとする。


「これ、イザベラ」

「ああ、わたしどもも丁度休憩しようと思っていたところでしたので。ルチア、イザベラ様に失礼のないようにするのだぞよ」


 休憩用のソファに浅く腰かけて、ルチアはようやくひと心地がついた。本当は寝そべりたいところだが、背もたれにもたれ掛かることすら令嬢として駄目らしい。


(ほんと貴族って面倒くさい)


 叫び声を上げ、今すぐここを飛び出したくなってくる。


「ルチア様は何を飲む? 成人したのだからお酒も飲めるわよ」

「あ、いえ、わたくしは……」

「そう、あなたもお父様に飲酒を止められてるのね。何かあったら危険だからって」


 つまらなそうに果実水を手渡され、ルチアはそれを素直に受け取った。イザベラのお陰でこうしてひと息つけている。いくら好きになれない相手でも、礼くらいは言うべきだろう。


「イザベラ様、ここに連れてきてくださってありがとうございました。わたくし、本当に疲れてしまって」

「わたくしも座る口実ができたから丁度よかったわ。それにルチア様には目をかけるよう、お父様に言われてるもの。仕方ないけれど、これからも面倒を見て差し上げてよ? ありがたくお思いになって」

「はい……ブラル伯爵様のお心遣いに感謝します。も、もちろんイザベラ様にも」


 片眉を吊り上げたイザベラを前にルチアは慌てて付け足した。


「そのお気持ち、これからもお忘れにならないでね」


 つんと顔を逸らしたイザベラの縦ロールが、ビヨンビヨンと跳ね踊る。それ以降は会話もないまま、ルチアは手持ち無沙汰にちびちびと果実水を口に含んだ。


「あ……っ!」


 ぼんやりと眺めていた貴族の群れの中に、カイの後ろ姿を見つけた。残り少なくなったグラスをこぼす勢いで、ルチアはとっさに立ち上がった。

 大声を出せば届きそうな距離に、声を張り上げそうになる。しかし自分のいる場所を思い出し、延ばした手を行き場なく彷徨わせた。


 ふいにカイが僅かに振り向いた。琥珀の瞳と一瞬視線が絡む。気づいたときにはもう、ルチアはそこから駆け出していた。


 かさばるスカートに苛立ちながら、着飾った紳士淑女の間を抜けていく。訝しげに囁きあう周囲に気づけないまま、無我夢中でカイを目指した。


「カイ!」


 小さくない声で呼ぶも、カイはさらに先へと進んでしまっている。誰か紳士とぶつかり、よろけた二の腕を掴まれた。


 そのときカイがもう一度こちらを振り返った。確実に目が合ったのに、冷たく視線を逸らされる。

 連れ立っていた夫人の細い腰を、カイは自身の体に引き寄せた。近すぎる距離で耳打ちし合い、親密そうにふたりは奥へと向かう。その先には休憩室が立ち並ぶ廊下に出る扉があった。


「カイ……」

「ちょっと! 急に飛び出したりして一体何をなさっているの!?」

「……イザベラ様」


 呆然となったままイザベラを見た。色を失くしたルチアを認め、さすがのイザベラも心配そうな顔になる。


 夜会での休憩室の使い道など、ルチアにも良く分かっていた。殿方に連れ込まれる危険もあるため、ひとりで近づかぬよう言い含められている。

 それに市井育ちのルチアだ。男女の営みの詳細を、下町の女たちの下世話な会話から事細かに学んでいた。


「ねぇ、あなた本当にどうなさったの?」

「カイが……」


 ルチアの視線の先を確認し、イザベラは嫌悪の表情であからさまに顔をゆがませた。


「あなた、あんな方が好みなの? やめておきなさい。あの方、ものすごく評判悪くてよ?」

「え……?」

「イジドーラ様の甥なのを(かさ)に着て、既婚の(かた)相手にやりたい放題なさってるって話よ。いやだ、口にするだけでも汚らわしい。名を出す価値もない低俗な方だわ」

「そんな……」


 イザベラの(あざけり)りの言葉が、鋭く耳を刺していく。

 奥に続く扉をもう一度見やる。そこにふたりの姿はすでになかった。


 (ぬぐ)うことのできない疑いの種が、心の奥で小さく芽吹く。見知らぬ誰かと消えたカイの背中が、ルチアの瞳に強く焼きついたのだった。


     ◇

「ねぇ、カイ……」


 短い情事を終えたあと、手早く衣服を整える背に呼びかけられる。

 今夜のお相手は古くから付き合いのある未亡人だ。互いの良いところは知り尽くし、それでいて完全に割り切った遊びの関係だった。


「わたくし、田舎領主と再婚することになったの。今までたのしかったわ。ありがとう」

「それはおめでとうございます。末永くおしあわせに」

「何? それだけなの?」


 くすくすと笑いながら、寝台の(ふち)に腰かけたカイの首筋に、後ろから両腕を絡ませてくる。むき出しの胸を強く押し当て、カイの耳を甘く()む。


「ねぇ最後に口づけて」

「駄目ですよ。その唇は運命の(ひと)のために大切に取っておかないと」

「もう、そればっかり」


 興味を失ったように、あっさりとカイから熱は離された。


「あなた、本当は女なんか好きじゃないし、女などひとつも信用していないでしょう?」

「……そのようなことは。確かに女性の心は気紛(きまぐ)れだとは思っていますが、それがまた男を魅了するというものです」


 軽く笑顔を作ると、カイは着替えを再開した。双子の王子の誕生に、イジドーラもよろこんでいることだろう。頃合いを見て自分も顔を出そうと、頭の中ではそんなことを考えていた。


「この後はどうされますか? 必要なら世話係の侍女を呼びますよ」

「いらないわ。今夜はもう疲れたし、朝までここで眠るから」


 気だるげにリネンに沈むと、寝返ってこちらに背を向ける。


「ではわたしはこれで。いつまでも貴女のしあわせを祈っています」


 見られてもいないのに、カイは(うやうや)しく騎士の礼を取った。



「ほんと、最後まで嘘ばっかり……」


 扉を閉める間際、たのしげなつぶやきが、カイの耳に小さく届いた。


【次回予告】

 はーい、わたしリーゼロッテ。ティール公爵家のお茶会に招待されたわたしとジークヴァルト様。桃色の衣装を指定され、華やいだお茶会になりそうな予感です! そんなとき貞子紳士の姿を見かけたわたしは、いなくなった貞子に驚いて!?

 次回、6章第14話「桃色の茶会」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!

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