表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ふたつ名の令嬢と龍の託宣【なろう版】  作者: 古堂素央
第6章 嘘つきな騎士と破られた託宣

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

462/494

第9話 星に堕ちる者 - 前編 -

【前回のあらすじ】

 ティビシス神殿での婚儀を終えたあと、リーゼロッテの生家に向かったふたり。ジークハルトに見送られつつ、ラウエンシュタイン城に足を踏み入れます。

 出迎えた家令のルルに城の中を案内されるも、この家での思い出は皆無のリーゼロッテで。そんなときに突然既視感を覚え、リーゼロッテはひとり庭へと飛び出します。

 ジークヴァルトとの初対面の記憶が蘇り、そのときにファーストキスを済ませていたことに気づいたリーゼロッテ。動揺のあまり、思わず絶叫が口をついて。

 最後に通された子ども部屋で、リーゼロッテは母マルグリットの思い出に郷愁を誘われます。その後ジークヴァルトを探す廊下で、かつて自分を誘拐した盲目の神官レミュリオと、期せずして相まみえるのでした。

 瞳を閉じたまま薄く笑みを()く神官を前に、全身から血の気が引くのが自分でも分かった。嫌な汗が背中を伝う。


「どうしてあなたがここに……」

「わたしも同じ言葉で問いたいところですが……思えばここは貴女の家でしたね、リーゼロッテ・ラウエンシュタイン」

「わたくしはリーゼロッテ・フーゲンベルクです」


 精一杯(にら)みながら言う。そうでもしないと、恐怖で体がすくんでしまいそうだった。


「ああ、託宣の婚姻を前倒しされたのでしたね。龍の(たて)の彼も、ハインリヒ王を上手(うま)く使ったものだ」


 軽く鼻で笑った美貌の神官に、リーゼロッテは震える唇をかみしめた。自分を誘拐した犯人が、いまだ野放しにされている。そのことに驚きを隠せない。

 それでも己を奮い立たせた。いつでも逃げ出せるよう、心づもりをしながら。


「わたくしの質問に答えてください。誰の許しを得てこの城に入ったのですか」

「許しも何も、ここへは正式な神官の務めで参ったのですよ。神殿代表として月に一度はお伺いしているのですがね」

「そんな……」


 神官が半歩()み出し、少しずれていた体を真正面に向けてきた。そのわずかな動きに、リーゼロッテは思わず大きく後退(あとずさ)る。


「それ以上は近づかないで」

「そのように(おび)えないでください。いきなり貴女を取って食ったりはしませんよ」

「分かるものですか。犯罪者のあなたの言うことなど、信用できるはずもないでしょう?」


 恐れを悟られたくはないが、どうしても声が震えてしまう。


「これはまた心外な。わたしは罪人(つみびと)などではありません。今こうして自由でいるのが何よりの証拠。王家も騎士団も、誰ひとりとしてわたしに手出しなどできないのですよ」


 向けられる余裕の笑みに、得体の知れない恐怖が膨らんだ。常識の通じる相手ではないことを、否応(いやおう)なしに再認識させられる。


「以前も申し上げましたが、わたしは青龍そのもの。彼らは(さば)く立場ではなく、むしろわたしに裁かれる側の取るに足りない存在だ」

「何を馬鹿げたことを……やっぱりあなたは狂っているわ」


 耳の守り石に触れながら、懸命に声を絞り出した。ジークヴァルトはすぐ近くにいる。そう自分に言い聞かせて。


「強情な方だ。貴女がどう思おうと事実は事実。(よこしま)な存在が神域であるこの城に入れないことは、貴女もよくお分かりでしょうに」


 愚者を憐れむような表情は、慈愛に満ちていると言うに相応(ふさわ)しい。それなのに寒気で(あわ)立つ肌を、リーゼロッテはどうにも抑えることはできなかった。


「星読みを継ぐ者でありながら、何も真実を知らされていないとは……。貴女も哀れな方だ」

「真実?」

「ええ、この国の闇ですよ。遅かれ早かれ貴女は国の犠牲となる。王家にいいように利用されたくなかったら、貴女はわたしの言葉に素直に耳を傾けるべきだ。貴女を救えるのは、このわたしだけなのですから」

「勝手なこと言わないで……! 不安を(あお)ってわたくしを言いなりにできると思ったら大間違いよ」

「そんなつもりは毛頭(もうとう)ないのですがね。いずれ貴女にも、わたしの言っている意味が分かるときが来るでしょう。そのとき貴女は自らわたしの手を取ることになる」


 ゆるぎない自信に、さらに恐怖をかき立てられる。


「さて。この邂逅(かいこう)をもっとたのしみたいところですが、あいにくわたしも忙しい身。今日はこれで失礼させていただきます」


 廊下の先を一瞥(いちべつ)すると、神官は気負いなくリーゼロッテの脇を通り抜けた。身構えるも、あっさり去っていく背に拍子抜けをする。

 神官の歩く先に、こちらに向かってくるルルの姿が見えた。ふたりは軽く会釈(えしゃく)をし合い、言葉を交わすことなくすれ違った。


「リーゼロッテ様、お探ししておりました」

「ルル……」


 安堵でへたり込みそうになりながら、震える言葉を紡ぎだす。


「彼はどうしてここにいたの?」

「この城では定期的に神官による儀式が行われております。訪問する神官は、必ずしもあの方とは限りませんが」

「儀式……? 一体何の?」

「遺憾ながら、わたしには何が行われているのか知らされておりません。唯一申し上げられるのは、ラウエンシュタイン家当主にかかわる大切な儀式ということです」

「当主にかかわる……? ねぇ、ルル。マルグリット母様は今どこでどうされているの? それにわたくしはどうして養子に出されたの?」


 父イグナーツはベトゥ・ミーレ山脈にいるマルグリットを、毎年探しに行っていると言っていた。その言葉を疑うつもりはないが、ラウエンシュタイン公爵家は代々女性が爵位を継いでいる。現当主である母が行方知れずな上、本来なら跡継ぎになるはずのリーゼロッテは伯爵家の養子となった。貴族として家の存続を考えると、不可解に思えることばかりだ。


「リーゼロッテ様の養子縁組に関しましては、イグナーツ様がディートリヒ王に上申なさいました」

「父様が……?」

「はい。そしてもうひとつのご質問ですが、わたしはそれに対する答えを持ち合わせておりません。わたしはマルグリット様がお戻りになる日まで、家令としてラウエンシュタイン家を守るように仰せつかっているのみでございます」


 淡々と答えるルルは、仕える(あるじ)(めい)には疑問も疑念も差し挟まない主義のようだ。こうなればイグナーツに真実を聞くしかない。しかし以前問いかけようとしたとき、龍に目隠しをされたことを思い出した。


「そろそろ参りましょう。公爵様がお待ちです」


 すぐそこにジークヴァルトの気配を感じ、リーゼロッテはルルを置いて駆けだした。


「ジークヴァルト様!」


 胸に勢いよく飛び込んだ。力強く受け止められて、あたたかな青の波動に包まれる。


「どうした? 何かあったのか?」

「わたくし先ほどそこで……」


 自分を(さら)った神官と出くわしたことを訴えようとするも、喉が詰まったように声が出せなくなった。龍が目隠しをしてきたのだ。それが分かるとリーゼロッテに絶望が押し寄せた。あの男の言うことに嘘偽りはないのだと、まるで龍が証明しているようではないか。


 ただならないリーゼロッテの様子に、ジークヴァルトの眉根が寄せられた。


「何があった?」

「ぎゅっと……ぎゅっとしてくださいませ、ヴァルト様」


 不安をすべて消してほしくて、広い背に回した手に力を入れる。応えるようにジークヴァルトも、強く抱きしめ返してきた。


「もっと、もっと……」


 ねだるように顔をうずめても、漏れる嗚咽(おえつ)を隠すことはできなかった。それ以上何も聞かずに、ジークヴァルトはやさしく髪をなでてくる。自分が思うよりもずっと、あの神官が怖かったのだ。そう思い当たると、余計に涙が止められなくなった。


「ヴァルト様……」

「大丈夫だ。オレがいる」


 子どものようにしがみついたまま、リーゼロッテは生家をあとにした。沈んだ気持ちを引きずって、馬車は暮れかかった街道を静かに走る。


 膝の上、耳を押し当て、リーゼロッテはずっと規則正しい鼓動を聞いていた。黙って髪を梳いていた手がふと止まる。


「離れて悪かった」

「いえ、ヴァルト様のせいでは……!」


 慌てて顔を上げると、背中に回っていた手が強められた。密着するように抱き寄せられて、ジークヴァルトのシャツをぎゅっとつかみ取る。

 あの神官と遭遇したことを、どうしても話せない。龍が目隠ししていることも、喉が詰まって言葉にできなかった。


「いい、分かっている。言えないのなら無理はしなくて大丈夫だ」


 やさしく頭を撫でられる。再び胸に顔をうずめ、髪を絡めとるジークヴァルトの指の動きを、しばらく黙って見つめていた。


「夜は長い。今のうちに少しでも眠っておけ」

「……はい、ヴァルト様」


 頬に熱が集まるのを感じながらも、素直に頷き返す。ジークヴァルトのこの言葉は、今夜リーゼロッテを抱くという意思表示だ。いつもなら疲れているから休ませてほしいと思うところだが、今日に限っては早くひとつに繋がりたかった。


 身も心も、ジークヴァルトで満たされる。


 閉じた(まぶた)の奥にその瞬間を思い描き、揺れる馬車の中、リーゼロッテは束の間の眠りに落ちた。


     ◇

 王都の外れ街にある一軒家を目指し、早朝の雪道を進む。ここら一帯の土地はカイが保有しているため、人気(ひとけ)はほぼないと言っていい。フードを目深(まぶか)にかぶったベッティは、それでも用心深く周囲を伺った。

 ほどなくしてこじんまりした家が見えてくる。平民にしてみれば立派なものかもしれないが、貴族の別荘と思うと粗末と嘲笑(ちょうしょう)される程度の建物だ。


 たどり着いた家の前で、もう一度辺りを伺った。誰もいないことを確認し、(きし)む扉を押し開く。待ち構えていたように骨太で短足な大型犬が、勢いよくのしかかってきた。激しく尾を振りながら、垂れ下がった長い耳を揺らし、ベッティの顔をべろんべろんに舐め回してくる。


「わっぷぅっ! リープリングぅ、分かったから歓迎はその辺でぇ」


 リープリングはカイの犬だ。元々は王城で第二王女に飼われていたが、隣国の王子に輿入(こしい)れする際に、カイへと託していったらしい。だるだるの皮膚の愛嬌ある顔は、とてもではないがそんな高貴な犬とは思えない。押し倒す勢いで、リープリングは尚もベッティに甘えにかかってきた。


 こうなることは見越していたので、手土産にと持ってきた犬のおやつを遠くに放り投げる。転がるそれを追いかけて、リープリングは夢中になって食べだした。そのすきに手際よく部屋の掃除をし始める。


 窓を開け、まずは部屋に風を通した。室内の(ほこり)が、差し込む陽光の(おび)に舞い踊る。カイはこの家を王都の隠れ家として使っている。老夫婦に管理を任せ、普段は人が訪ねてくることもない。

 ベッティはカイとここで落ち合う約束をしていた。こんなときは早めに来て、掃除を済ませて待つことにしている。カイの居場所は少しでも快適にしておきたい。


 (せわ)しなく動き回るベッティのあとを、リープリングが尾を振りながら追いかけ回してくる。間もなくやってくるカイのために、ちょっとつまめる軽食も用意した。


「さてとぉ。まだ時間はありそうですしぃ、仕上げはリープリングのお洗濯とまいりましょうかぁ」


 ベッティの瞳がキランと光る。ロックオンされたリープリングが、きゅうんと(おび)えるように後退(あとずさ)った。


「くふふぅ、逃がしませんよぅ。カイ坊ちゃまに会うんですからぁ、綺麗に身づくろいするのがレディのたしなみってもんですよぉ」


 素早く羽交(はが)()めをして、リープリングを(なか)ば引きずり湯屋へと連れていく。大きなたらいに湯を張って、自分もあわあわになりながら、ベッティはリープリングを念入りに三度洗いした。


「ふぅ、なかなか手ごわい汚れ具合でしたぁ」


 リープリングがぶるぶると大きく体を震わせ、水しぶきが四方八方飛んでいく。びしょびしょになった床をふいてから、ベッティ自身もこぎれいに身支度しなおした。


「さぁさ、次は御髪(おぐし)をつやっつやに整えましょうねぇ」


 暖炉の前で丸くなっていたリープリングを丹念にブラッシングしていく。炎に照らされる毛並みが光沢を放つさまを眺め、ベッティは満足そうにうなずいた。


「わぁ、リープリングぅ、とっても美人になりましたねぇ。きっとカイ坊ちゃまも褒めてくださいますよぉ」


 わふっとうれしそうにひと鳴きしてから、リープリングは大口を開けて長いあくびをした。はしゃぎすぎて疲れたのか、すぐにうとうととまどろみ始める。

 (くすぶ)りかけている暖炉を覗き込み、火かき棒で(まき)の位置を微妙にずらす。いい感じで炎の勢いが戻ったのを確認すると、ベッティはリープリングの大きな体にもたれかかった。


 本格的な冬には少し早いが、雪の降る日も増えてきている。正午を過ぎて、見上げる窓枠の形の空は、見惚(みほ)れるほどに真っ青だ。カイがここまで来るのに、難儀することもないだろう。


 こぎれいになった部屋を見回して、充足感に息をつく。汚れたものが自分の手でピカピカになっていくさまは、見ていてとても気持ちがいい。難しい任務をこなした時とはまた違った爽快感があって、ベッティは(こと)のほか掃除が好きだった。


 薪がばちりと()ぜて、細かい火の()が跳ね踊る。燃え尽きかけた(すみ)に宿る琥珀の色が、カイの瞳に似て見えて、ベッティは小さくため息を落とした。こじんまりしたこの家は、どんなに(みが)いてもカイには到底そぐわない。満たされた心とは裏腹に、そんな思いが頭をもたげてくる。


(本当ならカイ坊ちゃまは、もっと優遇されるべき立場なのにぃ……)


 甘んじてそれを受け入れているカイに、どうしても歯がゆさを感じてしまう。


 カイとベッティを含め、デルプフェルト侯爵には子供が九人いる。全員が腹違いと言うのだから、侯爵の酔狂(すいきょう)ぶりも極まっているとしか思えない。


 市井(しせい)生まれのベッティ以外、子の母はみな貴族の出だ。正妻であるカイの母親を除き、すべて愛人の立場となっている。デルプフェルト家の屋敷には近づくことは許されず、それぞれがそれなりの住まいを与えられて、互いが干渉しあうこともない。


 子供たちだけが本家に集められ、次期侯爵の座を競わされている。(しのぎ)を削る子らの様子を、侯爵は日々楽しんでいるようだ。ベッティから見たデルプフェルト侯爵家は、どの貴族よりも異様さが群を抜いていた。


 そんな状況で、兄弟の中でも五男と言えどカイは別格だ。諜報活動に特化したデルプフェルト家の人間として、カイの優秀さは抜きん出ている。母親の生まれは公爵家であるし、血筋から見てもカイが当主を継ぐに相応(ふさわ)しい。


 なのに託宣を受けたという理由で、それは叶わないのだと言う。自分はいずれ星に堕ちるから。そうつぶやいて、カイはいつか小さな笑みを刻んだ。


 その言葉がどんな意味を持つのかは、正直ベッティには分からない。知る必要はないとカイが判断するのなら、無理に聞こうとも思わない。

 ただ、ベッティは約束をさせられた。ベッティがずっと安心して生きていける、そんな居場所を見つけるようにと。やがていなくなる、誰よりも大切なカイのために――


 リープリングの寝息に合わせて、ベッティも浅いまどろみに誘われていく。カイはベッティに世界をくれた。これまでいた真っ暗で先の見えない世界ではなく、まぶしすぎて先が見えない、どこまでも広がるまっさらな世界だ。


 ベッティの母親はどうしようもない人間だった。酒と煙草と男に溺れ、ろくに面倒を見てもらった覚えもない。日々の(かて)は自分で調達し、盗みや人をだますことも(いと)わなかった。幼いベッティは、そうしないと生きていけなかったから。


 そんなある日、母親は流行(はや)(やまい)であっさり死んだ。その後は教会と里親をたらいまわしだ。自分の歳すらも言えず、学もマナーもないベッティはどこに行っても厄介者扱いだった。最後に行きついた養父にこき使われて、挙句の果ては身売りをされそうになった。

 逃げ出して、ひとりで生きることを決めた。教会を頼ると、またあの狡賢(ずるがしこ)い養父につかまりかねない。街を流れては悪さを働き、時には心無い奴らに騙されて、ベッティはその日暮らしを死に物狂いで続けた。


 あの女のようにはなりたくなくて、体を売ることだけはしなかった。酔っぱらっていないときはなく、常に男に依存し目先の快楽だけに執着する。怠惰(たいだ)寝穢(いぎたな)かった母親を思い出すたび、安い香水とごみ(くず)に埋もれた薄暗い部屋の()えた臭気が、今になっても鼻をつく。


『あんたの父親は偉いお貴族サマなんだよ』


 ことあるごとに、得意げに言われた台詞だ。男をとっかえひっかえする毎日に、ベッティの父親が誰かなど分かるはずもない。第一そんな金ずるがいたのなら、離さずしがみついていればよかったものを。大方、酩酊(めいてい)状態で知り合って、行きずりで捨てられたという程度のオチだろう。


 すり減っていく放浪の日々に疲れ切っていたある日、盗みがバレてベッティは袋叩きにあってしまった。雪降る外に放り出され、痛みと空腹と寒さの中で、握りしめていたのはひとつのカフスボタンだった。

 とても作りがよく、(へび)(ふくろう)が掘られたちょっと気味の悪いものだ。父親の手がかりだと、唯一あの女が(のこ)したものだった。その言葉を信じたわけではなかったが、ベッティはずっとそれを手放せないでいた。


 持ち主が見つかれば金を巻き上げられるかもしれないし、いざとなれば売り払うこともできる。そんな思いで持ち続けていた。今これを金に換えれば、しばらくは飢えをしのげるだろう。うす汚い子どもだと思って足元を見られないよう、できるだけ高く売りつけなくては。


 ベッティに情けをかける人間など、この世には誰ひとりとして存在しない。信じられるのは自分だけだ。今日をやり過ごせたとしても、盗みとだまし合いの日々は延々と続いていく。それがベッティの生きる世界のすべてだった。


 痛む体を引きずって、いよいよカフスボタンを売りに行こうとした時のことだ。道行く雑踏の中で、身なりの良い子供を見つけた。背丈も自分とそう変わらなさそうな少年だ。供の者もつけずにこんな貧民街にやってくるなど、よほどの世間知らずに違いない。


(アイツを狙えばコレを売り払わなくても済む……)


 いいカモを見つけてベッティはよろこんだ。空腹な上、手傷を追った状態でのスリは、普段なら捕まるリスクを伴う。だがあんな子供相手に、ヘマをやらかすこともないだろう。


 人の流れに(まぎ)れて少年とすれ違った。()った革袋の財布は思った以上の重さがあって、含み笑いを懸命にこらえる。その瞬間、ベッティはその手首をきつくねじり上げられた。


「いってぇっ!」

「腕は悪くないようだけど。残念、相手が悪かったね」


 掴む手に容赦なく力を入れると、少年はいつの間にか取り戻した革袋を軽く掲げ持った。


「これは返してもらったから」

「あたいが何したってんだ! いい加減に手を離せ、このクソ野郎っ」


 涙目で睨みつける。琥珀の瞳が見つめ返してきて、その冷たさにベッティは一瞬で(ひる)んでしまった。


「カイ様、自警団に引き渡しますか?」


 どこからともなく現れた男が、少年に耳打ちをする。離れて警護をしていたのだろう。こんな育ちのよさそうな坊ちゃんが、治安の悪い下町で独り歩きをするはずもない。とんだ失態を犯したことを、ベッティは瞬時に悟った。


 この街の自警団の奴らには痛い目にあわされたばかりだ。ベッティは自分の腕を取り戻そうと、必死になって身をよじった。それでも外れない手に恐怖が募る。もう大勢の大人に囲まれて、殴り蹴られるのは御免だった。


「いい、面倒だ」


 しかし掴んだ手をあっさり(ゆる)めると、少年はあっという間に雑踏に埋もれて見えなくなった。その背を従者の男が追っていく。


 命拾いしたと息をつき、ベッティは目的の場所へ向かおうとした。振り向きざまに誰かとぶつかる。ベッティは腹いせのようにその男から財布を抜き取った。


「ちっ、シミったれてんな」


 素早く逃げ込んだ裏路地で布袋の中身を確かめる。ここ数年は農作物が不作続きで、どこへ行っても不景気だ。こんな下町はいっそうギスギスした雰囲気で包まれていた。


「おい、ガキ。懲りずにこんなところをまだうろちょろしやがって。もう一度痛い目にあいてぇようだな」


 はっと振り向くと、夕べシメられた自警団の人間に囲まれていた。逃げ出そうにも襟首(えりくび)を乱暴に持ち上げられる。昨日の恐怖が蘇って、ベッティはじたばたと暴れまくった。


「あ、あたいの父ちゃんはえらい貴族なんだ! 今なら許してやるから今すぐこの手を離せ!」

「こいつが貴族のお嬢サマだとよ」


 どっと笑いが起きる。


「嘘じゃない! 証拠だってあるんだっ」


 見せつけるように掲げたカフスボタンは、無理やりに男に取り上げられてしまった。


「か、返せ! それはあたいんだっ」

「こんな上等な物、どこで盗みやがった」

「盗んでなんかない!」


 それを奪われてしまったら、自分はもう飢え死にするしかない。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、ベッティは死に物狂いで男に掴みかかった。


 体当たりの反動で、カフスボタンが男の手を離れる。ベッティと男は、裏路地を跳ねていくそれを同時に追いかけた。

 手を伸ばし掴みかけたところを、脇から強く蹴り跳ばされる。地面に打ち付けられて、それでもベッティはボタンの行方を必死に目で追った。


 転がるカフスボタンは誰かの足元で動きを止めた。それをひょいとつまみ上げたのは、先ほど出会った少年だった。


「坊ちゃん……それはあっし達のものでして。拾ってくださってありがとうございます」


 その身なりを見て、男はへこへこと頭を下げた。少年はカフスボタンを見つめ、次いで男の顔を冷めた瞳のままじっと見上げた。


「違う! それはあたいんだ!」

「うるせぇっ、盗人(ぬすっと)は黙ってろ!」


 這いつくばるベッティの腹めがけて、別の男が足を大きく振りかぶった。衝撃に耐えようと、とっさに歯を食いしばる。

 しかし一向にやって来ない痛みを不思議に思って、ベッティは恐る恐る顔を上げた。かばうように少年が、男の足を二の腕で受け止めている。


「な、何を……」

「これは君の?」


 突然の問いかけに、ベッティは呆然とただ頷き返した。


「ち、違います、それはそのガキがオレたちから盗んだものでして」

「でたらめ言うな! それは貴族の父ちゃんがあの女、母ちゃんにくれたんだ! 盗人はお前らの方だっ」

「こんのガキが……! その減らず口、今すぐ叩けなくしてやる!」


 気色(けしき)ばんだ男がベッティに向けて拳を振り上げる。間にいた少年が、無駄のない動きで男の腕を背中にねじり上げた。

 大の大人が子供に動きを封じられている。その姿がどうにも滑稽(こっけい)に映った。曲がらない方向に腕を曲げられ、絶叫を上げる男をよそに、少年はベッティを静かに見下ろしてくる。


「じゃあ、これは君に返すよ」


 差し出されたカフスボタンは、ベッティの手のひらにぽとんと落とされた。放心状態で受け取ったあと、ベッティは慌ててそれを(ふところ)にしまい込んだ。


 いまだ拘束していた男を地面に転がすと、少年はベッティの手を引き立ち上がらせた。どよめいた仲間たちが、さすがに少年に敵意のまなざしを向けてくる。


「どこの坊ちゃんか知りませんが、オレたちのシマで好き勝手されちゃあ困りますぜ」


 屈強な男どもに凄まれるも、少年はまったく意に介した様子もなかった。無防備に背中をさらし、ベッティを(かば)うような位置に移動する。


「すこし社会勉強を教えてやりましょうか?」

「おい、やめとけよ」

「軽く痛めつけるだけだ」


 少年の肩に手を伸ばした男は、次の瞬間、泡を吹いて地べたに転がっていた。冷めたまなざしで、少年は男を見下ろしている。


「な……っ!」

「同じ目に合いたくなかったら、そいつを連れて今すぐ立ち去れ。目障りだ」


 躊躇(ちゅうちょ)するように、男たちが顔を見合わせた。そこに先ほどの従者が、剣を片手に駆け込んでくる。青ざめた男たちは失神した仲間を担ぎあげ、慌てて逃げ去っていった。


「カイ様! ご無事ですか!?」

「愚問だよ」


 それ以上は従者を無視して、カイと呼ばれた少年は改めてベッティの手を取った。


「じゃあ行こうか」

「行くって……あたいをどこに連れてく気だ」

「どこって君の父親のところ」

「誰がそんな話、信じるかよ。それにどうしてお前があたいの父ちゃんを知ってんだ」

「だって君はオレの妹みたいだから」

「は……?」


 ぽかんと大口を開けたベッティに、少年は蓋をされたままの懐中時計を掲げて見せた。そこにはベッティのカフスボタンと同じ、蛇と梟の紋章が刻まれている。


「これは正真正銘デルプフェルト侯爵家の家紋だ。おめでとう。あのカフスボタンを持っていた君は、そこの当主の娘だと証明された」


 冷めた瞳のまま、カイは当然のように言い切った。


「あ、あんた、なにとち狂ったこと言ってんだよ?」

「君の父親は貴族だって、さっき自分でそう言ったんだろう?」

「それはそうだけど……」


 さすがのベッティも次の言葉を失った。そんなうまい話があってたまるかとも思ったが、こんな自分を相手に、カイがそこまでの嘘をつく真意が掴めない。


「子供の戯言(たわごと)です、カイ様」

「そうでもないんじゃない? だってコレ、あの(ヒト)がいかにも好きそうでしょ?」


 (たしな)める従者に向けて、少年はベッティの髪をひと(ふさ)持ち上げた。ベッティは母親譲りの真っ白い髪をしている。里親だった男の家族に、老婆のようだとよく嘲笑されたものだ。


「そ、それは……。しかし、ですが……」


 口ごもる従者を無視して、少年がベッティに向き直る。


「君、名前は?」

「……ベッティ、でいい」


 ベッティの本当の名前はエリザベスだ。自分でつけたろうに、あんたには過ぎた名だと母親にはいつもベッティと呼ばれていた。今さらエリザベスだと気取る気にもなれなくて、ベッティはぶっきら棒にカイに返した。


「でいい? じゃあ本当はエリザベスってとこか」


 はっと顔を上げ、ベッティはすぐしまったという顔になった。こんな反応をしたら、図星を刺されたことがもろバレだ。


「カイ様……本気で旦那様に会わせるおつもりですか?」

「オレに口答えするつもり? 邪魔だ、去れ」


 子供とは思えない冷ややかな声だった。さっと顔を青ざめさせた男は、頭を下げすぐにカイの元を離れた。その背は気配を消すように、あっという間に人の波に紛れていく。


 そのときベッティの腹の虫がぎゅるぎゅると鳴り出した。ここ数日ろくな食べ物にありつけず、空腹を紛らわせるために、寒空の下で雪をかじるくらいしかできなかった。


「とりあえず腹ごしらえでもしようか。どのみち多少のマナーを覚えてもらわないことには、さすがにすぐには会わせられないしね」


 そのあとベッティは王都のはずれ街にあるこんがり亭に連れていかれた。殺人鬼のような見てくれの店主、ダンが驚いた顔で出迎える。


「これはカイ坊ちゃん、おひとりでいらっしゃるなんて珍しいでやすな。そのズタボロは一体どうなさったんで?」

「この()はオレの妹」

「妹?」

「偶然そこで拾ったんだ。お腹空いてるみたいだから、何でもいいから食べさせてやって」


 何かを言いかけて、ダンは厨房に引っ込んだ。ほどなくして、こんがり焼けた肉の(かたまり)が運ばれてくる。今まで見たこともないご馳走を前に、ベッティは目を見開いた。とびかかる勢いでダンから皿を奪い取り、手づかみで無我夢中で(むさぼ)った。


 あの姿は飢えた(けもの)のようだったと、今でも時々カイに笑われる。きっとベッティは確かに獣だったのだろう。カイに出会ったあの日までは――。


 きちんとマナーを身につければ、貴族として生活できる。カイの言葉をとりあえず信じて、次に連れていかれたのは人里離れた屋敷だった。老人ばかりが使用人として住んでおり、そこでベッティは淑女教育を学ばされた。

 いざとなれば金目の物を盗んで逃げだせばいい。あの時はそう思っていたものの、老人と言えどデルプフェルト家に雇われる者たちだ。みな諜報活動に()けていて、ベッティが悪さをしようと思ってもすべて未遂(みすい)に終わっていたに違いない。


 スラム街育ちのベッティに対して、根気よく対応がなされていった。意外にもベッティは物覚えがすこぶる良く、マナー教師も(いた)く驚いていたほどだ。自分にこんな才能があったとはうれしい誤算だった。

 努力の甲斐あって、父親だという貴族に会わせてくれることになったのは、それからわずか数か月後のことだ。


「へぇ、案外(サマ)になったね」


 レッスンを受けている間、一度も姿を現さなかったカイは、第一声でそんなことを言った。出来すぎた話をどこか信じ切れていなかったベッティは、出会った日と同じ冷めた瞳のカイを見て、ひどく安堵したのを覚えている。


 令嬢仕様に着飾って、カイに連れられデルプフェルト侯爵に引き合わされた。行った先の屋敷には、自分の兄姉(きょうだい)だと言う人間がカイ以外にも何人もいた。もの珍しげにこちらを見やっては、ひそひそと小声で囁き合う。それが何とも居心地悪く感じられた。


 それでも完璧な身のこなしで、侯爵の前で淑女の礼を取った。ここでヘマをやらかしてはいけない。この男にうまく取り入れば、屋敷(ここ)で遊んで暮らせるようになる。なんとしても本当の娘だと認めさせようと、初めはそんなことばかりを考えていた。


「名は?」

「エリザベスにございます」

「よい、近くへ」


 顔を上げ、いそいそと侯爵の元へと進む。身に覚えがないと突っぱねられても、カフスボタンを盾に、どうあっても言いくるめなくては。

 半ば進みかけ、ベッティは侯爵と目が合った。獲物を見定めた蛇のような瞳に、つんのめるように歩みが止まる。


「その髪の色……確かに覚えがある。我が娘よ、もっと近くへ」


 目を細め、侯爵はゆっくりと手招きをしてきた。あっさり認知をされて、本来なら小躍りしてよろこぶところだ。しかしベッティは本能的な恐怖を感じ、どうにも足がすくんでしまっていた。

 固まったまま動かなくなったベッティをしばし眺め、侯爵は可笑しそうに唇の片側を吊り上げた。次いで豪華な上座の椅子から立ち上がる。緩慢な動きで近づくと、侯爵はベッティを舐めるように上から下まで見回した。


「良い色だ。気に入った」


 真っ白い髪をひと房持ち上げ、侯爵は満足げな笑みを()いた。そこに狂気の影を見て、気づけばベッティは脱兎(だっと)のごとく、カイの背後に逃げ込んでいた。


「あたい、あいつ、むりむりむりぃ」


 震えながらカイのジャケットを握りしめる。ざわつく場に、カイだけがぷっと小さくふき出した。


「いいよ、大丈夫。なんとかしてあげるから」


 ぽんとベッティの頭に手を置くと、カイは綺麗に結われた髪を、乱すようにいい子いい子と何度か撫でた。


「父上。彼女をここに住まわせるのはまだ早いかと。貴族社会に馴染(なじ)めるまで、しばらくはオレ預かりということでよろしいですか?」

「……よかろう。ただし、時々は顔を見せよ。カイ、お前もだ」


 しばらくと言わず、ずっと預かっていてほしい。この男の元で暮らすなど、とてもではないができそうもなかった。


 その後ベッティは人里離れた屋敷に戻され、再び淑女教育をやり直すことになった。マナー教師に合格をもらったら、今度こそ侯爵の元に置いていかれてしまう。贅沢な暮らしはここでも十分できる。そう納得し、ベッティは身に着けた作法や言葉遣いを、覚えられないと(かたく)なに(いつわ)ることにした。


 そんなベッティを追い出すでもなく、時間を作ってはカイはよく会いに来てくれた。侯爵の元に呼ばれるたびに、置き去りにされる恐怖がやってくる。させてなるものかと、カイの後ろを絶対に離れずにいた。警戒心の強かったベッティは、そんなふうにしてカイにだけは次第に心を開いていった。


 その日々の中で、デルプフェルト家の者たちが諜報活動をしていることを、ベッティは(おの)ずと知ることになる。その方面での技術を身に着け、カイの下で働きたい。使用人としてデルプフェルト家に籍を置くことを、ベッティは強く望むようになった。


「本当にそれでいいの? 貴族の立場の方がいろいろと贅沢できるでしょ?」

「今の待遇もわたしにとっては十分贅沢ですのでぇ。言葉遣いもここどまりですしぃ、貴族稼業よりもお家の仕事の方がわたしの(しょう)に合ってますぅ。わたしきっと役に立ちますよぉ。カイ坊ちゃまの元で使ってほしいんですぅ」


 できないフリをしていることに、もちろんカイも気づいているはずだ。少し考えるそぶりをしてから、カイはベッティの目を真っすぐに見た。


「分かった。ただしひとつだけ、して欲しいことがある」


 真剣なまなざしを向けられる。どんな無理難題を出されるのかと、ベッティは神妙に頷いた。


「ベッティが安心して生きていける、そんな場所を探すんだ」

「わたしが安心して生きていける場所ぉ……?」

「そう。約束できる?」


 戸惑ってカイを見た。ベッティにしてみれば、ここがもうそんな所になっていたから。


「いつかオレはこの世から消える。このままデルプフェルト家にいてもいいけど、オレがいなくなったら父上(あのひと)にいいように使われるよ?」

「カイ坊ちゃまが消えていなくなる……? そりゃ誰でもひとはいつかは死にますけどぉ」

「そういうことじゃないんだ」


 小さく笑みを浮かべると、カイはどこか遠くを見やった。


「オレはいずれ星に堕ちるから」


 まったく意味が分からなかった。だがカイのただならない様子に、それ以上何も問えなくなる。


「……分かりましたぁ。それに期限はありますかぁ?」

「オレが消えるのは明日かもしれないし、十年後かもしれない。それまでに行き先を決めてくれると、オレも安心できるかな?」

「安心、ですかぁ?」

「そう、可愛い妹の()(すえ)だからね」


 ふっとやさしい笑顔になって、カイは頭をいい子いい子と撫でてくる。ベッティのほっぺたが、驚きでぷっと大きく膨らんだ。()れたビョウのように、そこは真っ赤に染まっている。


「はは、ベッティ、すごく変な顔になってるよ」


 出会った当初、カイは全く笑わない少年だった。誰に対しても冷めた視線を向けていて、ベッティに会う時も、琥珀の瞳は変わらず冷たい色を放っていた。


 それがいつからだろうか? 処世術(しょせいじゅつ)のように、カイは頻繁に笑うようになった。その笑顔が偽りの仮面であることを、ベッティはよく知っている。

 そんな中ベッティにだけ、カイは()の笑顔を時折くれた。そのことがどうにもうれしくて仕方がない。


 正直言って、本当にカイと血のつながりがあるのか、ベッティはちっとも自信はなかった。あのあばずれだった母親を思うと、本当の父親はどこかのつまらない馬の骨ということもあり得るだろう。


 それでもカイはベッティの世界そのものだ。兄妹(きょうだい)でも、赤の他人でも、そんなことはどうでもいい。

 本当なら今頃ベッティは、とうに野垂(のた)れ死んでいたはずだ。あのときカイが見つけてくれたから、ベッティは今ここで生きている。


(わたしのすべてを、このひとに(ささ)げよう……)


 カイが死ねと言うなら、迷いなく命を()てる。しあわせに生きろと言うのなら、どうあってもそうなろうとこころに決めた。


 それからすぐに始まった訓練に、ベッティは懸命に取り組んだ。諜報活動に役立つ技術から、潜入捜査で使える侍女のスキルまで、幅広くかつ最短で習得していく。令嬢の作法を習うよりもずっと性に合っていて、ベッティがデルプフェルト家の戦力になるまでに、そう長い時間はかからなかった。


 多くの捜査をこなす中で、ベッティはカイの立場の危うさを知った。本家にいる人間たちは、みなカイに対しておかしな態度を取り続けている。

 ある者は(さげす)み見下して、ある者は過剰なまでに恐怖し、ある者は腫れ物を扱うように振る舞った。まるで()むべき怪物がやってきたような、そんな異様な反応ばかりだ。


 それは兄姉(きょうだい)でも、使用人でも、同じようなものだった。ただカイの元で動く使用人たちだけは、恐れを持ちつつも絶対的な信頼を寄せている。

 ほかの兄姉たちは現場を知らない作戦を立て、安全な屋敷の豪華な椅子の上から、ふんぞり返ってとんちんかんな命令を下す。それがまかり通っているのは、下で動く者たちの優秀さゆえだ。供に最前線に立ち、常に的確な指示を出すカイが、慕われるのは当然のことだろう。


 カイに命を捧げられる人間は、多分ベッティだけではないはずだ。そのことが、ただひたすら誇らしい。


 ふとカイの気配を感じて、ベッティは浅いまどろみから浮上した。ぐっすりと眠っていたリープリングも飛び起きて、一目散(いちもくさん)に玄関へと駆けていく。

 カイは完璧に気配を消せる。なのにこういうときはいつでも、わざと分かるように姿を現すカイだ。それもひとえに、ベッティを驚かせないための気遣いからだった。


「お帰りなさいませ、カイ坊ちゃまぁ」

「ごめん、待たせたかな。ああ、分かったから、今日も可愛いよ、リープリング」


 熱烈なラブコールに出迎えられて、ひとしきり体を撫でくり回す。終わりを見せない求愛に、カイは持参したおやつを慣れた手つきで遠くに放り投げた。

 よろこび勇んで追いかけるリープリングを目で追ってから、カイは毛のついた上着を軽くはたいた。


「リープリング、洗ってくれたんだ? 汚れるの覚悟してたから助かったよ」

「カイ坊ちゃまのためならお安い御用ですよぅ。国の外れからお戻りになってお疲れでしょう? 今あったかいもの()れますねぇ」


 手際よく紅茶と軽食を用意する。忙しいカイと一緒にいられるのは、いつも僅かな時間だった。


「それで次のお仕事は何でしょう?」

「またブルーメ子爵家に行ってくれる?」

「ルチア様のもとにですかぁ?」

「そう、もうすぐ白の夜会でしょ。ベッティにはルチアのデビューのサポートをしてほしいんだ」

「かしこまりましたぁ。準備ができ次第、ブルーメ家に向かいますぅ」


 別にベッティでなくともこなせる話だ。そう思っても、不服を言うつもりはなかった。カイの望みはベッティの望みなのだから。


「カイ坊ちゃまはこれからどうなさいますかぁ? お時間あるなら夕食もご用意いたしますがぁ」

「ああ、うん、それはいいや。今からこんがり亭に行こうと思ってたから」

「……イグナーツ様に会いに行かれるのですかぁ?」

「そろそろ戻ってきてる頃合いだしね」


 ベッティはイグナーツが大嫌いだ。ある意味カイは、イグナーツには心を開いている。カイがそれを望むなら、それはそれで別にいい。だが、よくないのはイグナーツの方だ。


 昔のことだが、カイがイグナーツと連れ立って出かけたときは、大概、女のにおいを(まと)わせて帰ってきていた。高級な香水の残り()だったとしても、その何とも言えない臭気はどうしてもあの女を彷彿(ほうふつ)とさせた。ベッティはそれがたまらなく嫌だった。


 カイも男だ。そういうことに興味があるというのは、もちろん理解はしている。だが情報取集と称して、誰彼なくそういう関係に(おちい)るのはいかがなものかと思ってしまう。


 カイがこうなってしまったのは、イグナーツに女遊びを教え込まれたからだ。それは疑いようのない事実だろう。


「あれ? ベッティ、おかしな顔になってるよ?」


 知らず頬をふくらませていたベッティの頭を、カイは可笑(おか)しそうにいい子いい子と何度も撫でた。


     ◇

 今回の旅はこれといって収穫がなかった。自分と対の託宣を受けた人間は、いまだ行方知れずのままだ。

 こんがり亭に着くと、雇われ店主のダンがにたりと笑顔を向けてきた。スキンヘッドに体のいたるところに走る刀傷、年中タンクトップ姿のダンは、相変わらずの殺し屋フェイスだ。


「これはカイ坊ちゃん。随分と久しぶりでやすな」

「イグナーツ様、戻ってない?」

「まだでさぁ。今年も山あいでは雪が多いって話ですから、そろそろ戻ってきそうに思いますがね」

「あらん、カイ坊ちゃん! ますますいいオトコになったんじゃあない? こんな美味しそうになってぇ」


 厨房の奥の階段から降りてきた角刈りマッチョは、ダンの恋人フィンだ。濃いめメイクに透けフリキャミソール姿が標準だ。


「フィンも相変わらず綺麗だね」

「もぉ、そんなうまいこと言ってぇ。誘惑したって、わたしにはダンがいるんだからぁ」


 キャミソールの裾を弾ませて、フィンはダンの胸にダイブした。それを受け止めると、ダンは愛おしそうに抱きしめる。


「カイ坊ちゃん、フィンはあっしのもんでやす」

「はは、大丈夫。ちゃんと分かってるよ」


 この三人の間では、ここまでが割とお約束の流れだ。


「それにしてもカイ坊ちゃん、久しぶりねぇ。もう二年ぶりくらいかしらん?」

「ああ、そのくらい経つかもね。前に来たときは、まだルチアがここにいたころだったし」

「ルチア……」


 その名をつぶやいて、突然フィンが滝のような涙を流し出した。


「あの()、いきなりいなくなっちゃってぇ。今頃どこでどうしているのかしらん……」

「ルチアなら元気にしているよ?」

「ぬぁんですってぇえっ!? それはホントなの、カイ坊ちゃん!」


 がしっと肩を掴まれて、前後に大きく揺さぶられる。


「あれ? 言ってなかったっけ。あのあとルチアのこと、ちゃんと見つけたんだ」

「聞いてないわよぉう! そんな大事なこと今まで黙ってたなんて、カイ坊ちゃんの人でなしぃっ」

「ごめんごめん、オレもいろいろと忙しくてさ」


 おいおいと泣き出したフィンを、ダンがやさしく抱き寄せる。


 二年前、ルチアはまだ市井(しせい)の少女で、そのとき唯一と言えるハインリヒの託宣の相手候補だった。


(今思えば笑い話だな)


 あのルチアが王妃としてハインリヒと並び立つ姿など、どうして想像できようか。


「フィンはずっとルチア殿を心配してやしたからね」

「でも元気にしてるならよかったわん。もちろんアニサも一緒なのよねん?」

「いや、ルチアの母親は亡くなったんだ。今、彼女は里親の元で暮らしてる」

「そう……だったのん……」


 再びフィンは涙ぐんだ。


「ああ、ルチアに会いたいわん。あの娘、慌てて出ていったみたいで、いっぱい忘れ物してったのよん。母さんとの思い出の品もあるみたいだから、捨てるに捨てられなくってぇ」

「ルチア殿が使っていた屋根裏部屋は、そのままにしてあるんでさぁ。カイ坊ちゃん、フィンのためにも、一度ルチア殿をここに連れてきてくだせぇ」

「ルチアが今いるところって、王都から離れてるからなぁ。うん、まぁ、里親先がOK出したらそのうち連れてくるよ」


 白の夜会前には、ブルーメ子爵も余裕をもって王都に移動するだろう。そのときにでも連れ出せるかもしれない。


「にしてもよく見つかりやしたな。ルチア殿を国中探し回ったんで?」

「まぁそんなとこ」


 イグナーツの手引きで、ルチアは忽然(こつぜん)といなくなった。当時ようやく見つかった有力候補を奪われて、さすがのカイも(いきどお)ったのを覚えている。結局ルチアはダーミッシュ領に隠されていた。リーゼロッテとつながりがなかったら、カイはいまだにルチアのことを探し回っていたかもしれない。


「まぁあ! 愛のチカラねん!」

「そういえばルチア殿は、カイ坊ちゃんの運命の幼女でやしたね」

「ん? 何の話?」


 キョトンとすると、フィンが不満げな顔になる。


「カイ坊ちゃんがそう言ってルチアを連れてきたんじゃないのん! 忘れたなんて言わせないわんっ」


 そんなこと言ったっけ?

 口まで出かかった言葉を、カイは笑顔で飲み込んだ。下町で出会ったルチアをこんがり亭に連れてくるのに、何か調子のいいことを言ったのかもしれない。


(はは、オレならそれくらいのこと言いそうだ)


 その言葉もまた、カイはしれっと飲み込んだ。


【次回予告】

 はーい、わたしリーゼロッテ。白の夜会が迫る中、不安に揺れ動くルチア様。一方、カイ様は王城へと旅の報告に向かいます。無事に戻ってきたカイ様を安堵と共に迎えたイジドーラ様は、幼かったカイ様の過去に思いを馳せて……。

 次回、6章第10話「星に堕ちる者 - 中編 -」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ