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ふたつ名の令嬢と龍の託宣【なろう版】  作者: 古堂素央
第6章 嘘つきな騎士と破られた託宣

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第8話 陸の孤城

【前回のあらすじ】

 アンネマリー王妃の計らいで、国のはずれにある女神神殿で結婚式を行うことになったリーゼロッテ。家族と友人たちに祝福されながら、満ち足りた思いでジークヴァルトと誓いの口づけを交わします。

 その様子を冷めた瞳で見つめるカイ。自身とルチアに降りた託宣の無慈悲さに思いを馳せつつ、リーゼロッテからあふれ出た力の後を追い、ティビシス神殿の奥へと進んでいって。

 そこで出会った老齢の女神官おばばの案内で、星読みの王女の壁画にたどり着きます。かつてあったというラウエンシュタイン国の存在を知らされるも、おばばに不可解な言葉を投げかけられて。

 結局、託宣の新たな情報は得られずに、カイは急ぎ式へと戻るのでした。

 ぼたん雪が舞う曇天(どんてん)の下、長い()(ばし)がゆっくりと降ろされてくる。ふたりの斜め後ろで浮きながら、ジークハルトは黙ってその様子を見上げていた。

 深い堀を隔てた向こうには、高い鉄門に守られたラウエンシュタイン城がそびえ立っている。来るものを拒むような物々しさは、さながら陸の孤城と言ったところだ。


(ここに来るのは二度目か……)


 だが守護者であるこの身では、あの日と同様、中に入ることは許されない。堀に流れる(みどり)の水から、清浄な気が立ち昇っている。城の結界を成すそれは、まるで風に揺らぐカーテンのようだ。

 痛いくらいに青龍の神気を感じつつ、ジークハルトはリーゼロッテへと目を向けた。


 鎖の(きし)む音が響き渡る中、大きな瞳が(せわ)しなくあちこちを見回している。久しぶりに帰る生家に、心を躍らせているのだろう。


 ジークヴァルトがあの城で、初めてリーゼロッテと会った日のことを思い出す。中に入れなくとも守護する者(ジークヴァルト)の意識が、あの瞬間、ジークハルトにはありありと伝わってきた。

 心を失ってしまったジークヴァルトの、それはもう鮮烈(せんれつ)な体験だった。何百年もの間、多くの託宣者に寄り添ってきたジークハルトですら、かつてない衝撃を受けたほどだ。


 ジークハルトは思う。ひとが持ち得る情動の中で、悲しみとはもっとも深い感情だ。その(ふち)を知った者が手にする愛は、世界の何よりも尊く映る。


 地響きを立て跳ね橋が降りきると、水のせせらぎが耳に届いた。橋へと踏み出すふたりの背に、ジークハルトはいつものように笑顔を向ける。


『いってらっしゃい。オレはここで待ってるよ』

「ハルト様は来られないのですか?」

『うん、あそこは神殿以上に青龍に守られた場所だから』


 リーゼロッテは一度城に目をやり、再びこちらを振り返った。


「そう言えばハルト様、ティビシス神殿には入っていらっしゃいましたわよね? あそこも清浄な神気に満ちておりましたのに」

『昔っから()()はオレにはやさしいんだ』

「姉上?」

『うん』


 ニコニコ顔で返事をすると、リーゼロッテは不思議そうに首を傾けた。


「行くぞ」


 促されて、戸惑いつつもリーゼロッテは歩き出す。城へと向かっていくふたりを、ジークハルトはひらひらと手を振り見送った。


『ありがとう、リーゼロッテ』


 届かない距離でそう告げる。きっと考えもよらないのだろう。その存在が、どれほどジークヴァルトを救っているのかを。そしてまたジークハルト自身をも。


 肉体を失って久しいこの身だが、未だひとの心が保てているのは、間違いなくフーゲンベルクの託宣者たちと繋がってきたからだ。


 ジークハルトはリーゼロッテが好きだ。ジークヴァルトと同じくらい、狂おしいほど愛しく大切にしたいと思っている。

 守護する者たちから伝わってくる想いそのままに、対となった託宣の相手にジークハルトも等しく恋をしてきた。同じ熱量で(つがい)を求め、ひとつになるよろこびを噛みしめる。


 それでもこの感情は錯覚だ。悠久の時の中で消えかけていた“自分”を、ジークハルトは思いがけずに取り戻した。


 これまでずっと、リーゼロッテを彼女に重ねていた。だがそれは似て非なるものだとようやく気づく。ティビシス神殿は懐かしいにおいに満ちていて、ジークハルトの記憶はあの時にひとっ飛びで巻き戻った。


『ありがとう……』


 もう一度つぶやいて、遥か過去に思いを寄せる。守護者となった日の誓いは、今も確かにこの胸に息づいていた。リーゼロッテがいなかったら、再びあの地に戻ることもなかっただろう。


 雪舞う天を仰ぎ、(まぶた)を閉じる。


『姉上……』


 ずいぶんと前に溶けてしまった彼女の気配は、限りなくうすく、それでもまだこの世界を包みこんでいた。


     ◇

 堀の水はとても透き通っていて、水底までくっきり見えた。光に揺らめく(みどり)を覗き込んでいると、うっかり流れに吸い込まれてしまいそうだ。

 渡る橋は歩くたびに小さく(きし)む。少し怖くなって、リーゼロッテはジークヴァルトに身を寄せた。そこを抱き上げられかけて、今度は慌てて距離を取る。


「離れるな。橋から落ちたらどうする」

「落ちたりなどいたしません。自分の足で歩かせてくださいませ」


 言い終わる前に手を引かれ、逃げ場なく腰をホールドされる。ジークヴァルトの過保護ぶりには、どうやらつける薬はないようだ。夜会に出る(ごと)(すき)のないエスコートに、リーゼロッテは諦めの境地で身を預けた。


 目の前に建つ城はリーゼロッテの生家、ラウエンシュタイン公爵家だ。ティビシス神殿からの帰路、遠回りしてふたりだけで立ち寄ることになった。あそこで過ごした記憶はないが、ダーミッシュ家に養子に入る以前はこの城で暮らしていたらしい。


 対岸まで渡り切ると、見計らったかのように再び跳ね橋が上がり始めた。同時にそびえ立つ鉄門が、無人のままゆっくりと開かれていく。


(歯車が回るような音がするから、どこかで操作してるのかしら……)


 跳ね橋の鎖が軋む音と門が開く音が重なって、会話をしても聞き取れなさそうだ。門が開ききるまでその様子を、ジークヴァルトとしばらく黙って見上げていた。


 鉄の扉が先に動きを止め、ジークヴァルトに促されて歩き出す。振り返ると、だいぶ切り立った跳ね橋の向こうから、あぐらをかいたジークハルトが小さく手を振っていた。


 門をくぐり城の敷地内へと入る。美しく整えられた庭には、やはり誰もいる様子はなかった。石畳に導かれてさらに進むと、背にした鉄門がひとりでに閉まり始める。やがて扉は完全に閉じ、辺りに静寂が訪れた。


(跳ね橋も上がり切ったのかしら)


 歯車の回る音はもうしない。水のせせらぎも耳には届かず、城壁の厚さが伺えた。かわりに小鳥たちのさえずりが、植えられた木々のあちこちから聞こえてくる。

 薄く雪化粧を施したこの庭は、本当にひとっ子ひとり見当たらない。手入れのいき届いた庭園を見回して、リーゼロッテはぽつりと呟いた。


「フーゲンベルクのお屋敷と違って、ここは随分と静かですのね……」

「ラウエンシュタイン城は許された人間しか入れないと聞いている。使用人も厳選されているんだろう」


 少数精鋭と言ったところだろうか。これだけ広い敷地を少人数で管理するのは、なかなかに大変そうに思えた。


「こっちだ」


 分かれ道があるにも関わらず、案内もなしにジークヴァルトは迷いなく進んでいく。


「ヴァルト様はここをよく知っていらっしゃるのですね」

「子どものころ、一度お前に会いに来ただろう?」

「あ……あれはここでの出来事だったのですね……」


 初めて会った日に、黒いモヤを(まと)うジークヴァルトが恐ろしすぎて、とにかく泣きまくったことを覚えている。そんなリーゼロッテを抱き上げて、慰めるように守り石をくれたのは、ジークヴァルトの父親ジークフリートだ。


(なんとなくダーミッシュ家にいたときだと思ってたわ)


 初恋の人にもらった守り石を、伯爵家の部屋で毎日のように陽にかざして眺めていた。月日とともに綺麗な青はくすんでしまったが、あの守り石は異形たちから幼いリーゼロッテを守ってくれていたのだろう。


(わたしがダーミッシュの屋敷で転びまくっていたのは、きっと守り石の力が無くなってしまったからね)


 ずっとジークフリートに貰ったと思っていたが、あのペンダントはジークヴァルトからの贈り物だった。自分のしていた勘違いに、なんだか笑いがこみ上げてくる。


「どうした?」

「いえ、わたくし初めてお会いしたとき、ヴァルト様が黒いモヤを纏っているように見えてしまって……それ以来ヴァルト様のこと、ずっと恐ろしい魔王のように思っておりました」


 でもあれは取り()いた異形たちの恐怖に、リーゼロッテがシンクロしてしまっていたからだ。理不尽(りふじん)にジークヴァルトを毛嫌いしたりして、今さらながら申し訳ない気分になった。


「ヴァルト様は何も悪くないのに、わたくしったらなんてひどいことを……」

「いい。あの頃お前は異形が視えなかったんだ。それにオレの不手際もあった」

「不手際だなんて……。そう言えばヴァルト様はどうして、子どものころはわたくしに会おうとなさらなかったのですか?」


 あの日、王妃の茶会で再会するまでは、ずっと手紙のやり取りだけが続いていた。初対面でリーゼロッテに恋をしたと言う割には、顔が見たいと思うこともなかったのだろうか。


(言っても、あの頃のわたしなら会いに来られても困ったでしょうけど)


 黒モヤ魔王との文通に、苦労していた日々が懐かしい。届く贈り物すら恐ろしすぎて、手にも取れない有様(ありさま)だった。


「お前が成人を迎えるまで、会いに行くのは止められていた」

「止められて? いったい誰に?」

「……ラウエンシュタイン家にだ」


 眉間のしわを深め、ジークヴァルトが歯切れ悪く答える。近づく城を見上げながら、リーゼロッテはこてんと首を傾けた。


「ラウエンシュタイン家に……? もしかして、ヴァルト様を見たわたくしがあまりにも大泣きしたせいで?」


 はっとしてジークヴァルトを見やる。あの日のギャン泣きぶりは、自分で思い返しても相当なものだった。それを見た両親が、何かいらぬ誤解をしたのかもしれない。

 理不尽(りふじん)に嫌われて遠ざけられたのだとしたら、幼いジークヴァルトはひどく傷ついたのではないだろうか。


「それはない。いや、理由はそれかもしれないが、恐らく原因はそれではない」


 やはり歯切れ悪く答えると、ジークヴァルトはふいと顔をそらした。言いたくないことを隠すそのサインに、リーゼロッテはますます困惑顔となる。


「だったら何が理由で……」

「お前は覚えていないんだろう? だったら今さら知る必要はない」


 なんだかどこかでしたことのあるやり取りだ。記憶を探り、思い当たることをジークヴァルトに問うてみる。


「もしかして……“ヴァルト様がずっとわたくしの名前を呼べなかった理由”と何か関係しているのですか?」


 ぐっと口をへの字に曲げて、ジークヴァルトはさらに顔をそらした。いつかジークハルトにそんなことを聞かされたが、結局その件は有耶無耶(うやむや)に誤魔化されたままになっている。


(言いたくないのに無理に聞き出すのもアレよね……こうなったら自力で思い出すしかないわ)


 元はと言えば自分の勘違いから起こったことだ。これ以上ジークヴァルトを問い詰めても仕方がない。いい機会だから、昔のことはすべて懺悔(ざんげ)してしまおう。そんな思いもあって、リーゼロッテは話題を変えた。


「わたくしたち、子どものころから(ふみ)のやりとりをしておりましたでしょう? 実はあれもジークフリート様(あて)に書いていると、わたくしずっと勘違いしてしまっていて……」

「いや、あれは確かに父上宛だった。お前は何も間違っていない」

「ですがお返事をくださっていたのはヴァルト様でしたわ」


 初恋の人(ジークフリート)との思い出にと大切にしまっておいた手紙の筆跡は、どれもジークヴァルトのものだった。初めてそれに気づいた時の衝撃は、今でも忘れられないでいる。


「あの頃、オレはフーゲンベルク公爵の代理として返事を書いていた」

「代理として……?」

「ああ。だからあれは確かに父上宛の手紙だった」


 むすっとした様子のジークヴァルトをぽかんと見上げる。


「もしかして、ヴァルト様宛で書かなかったこと、怒ってらっしゃるのですか?」

「怒ってなどいない。オレが爵位を継いだ後は、すべてオレ宛になった。だから返事ももう代理でなくなった」


 言い訳を並べたような言葉が、ジークヴァルトにしては珍しく感じた。やはりジークフリートとの文通を、快く思っていなかったのかもしれない。


 ジークヴァルトが爵位を継いだ後は、恐ろしくて手紙すら開けなくなったリーゼロッテだ。自分の思い込みのなせる(わざ)だったが、当時はエラに代わりに読んでもらっていたなどと言い出せない雰囲気だ。

 目を泳がせて、何かほかに話題を探す。手紙(つな)がりで不自然にならない、いい流れを思いついた。


「わたくしたち、これまでたくさん(ふみ)のやり取りをしてきましたものね」


 ダーミッシュ領に戻った時などは、それこそ交換日記のごとく毎日手紙を書いていた。ずっと一緒にいる今は、文をしたためることもない。ひと言ふた言だけ書かれたそっけない返事が懐かしく思えて、リーゼロッテの口元が知らず(ほころ)んだ。


「お前の手紙は今までの分、すべて保管してある」

「そういえば、ヴァルト様のお部屋の棚にしまってありましたわね……」


 過去書いた手紙のみならず、リーゼロッテが子どものころに贈ったガラクタまでも、いまだ居間の棚に宝物のごとく飾られている。


「もう片付けてもよろしいのでは?」

「いや、駄目だ」

「ですが、取っておいても場所ばかりとって、なんの役にも立ちませんでしょう?」

「そんなことはない。オレは今でも定期的にすべて読み返している」

「読み返し……手紙をですか?」

「ああ」

「なんのために?」

「子どものころからの習慣だ」

「習慣……? 子どものころからの?」

「ああ」


 唖然となって、オウム返ししかできなくなる。どうしてそんなことをするのかとも思ったが、理由と言ったらひとつしかないのだろう。


(ヴァルト様ってどんだけわたしのことが好きなのよ……!)


 エントランスの大きな扉の手前まで来て、思わず足が止まってしまった。赤くなったまま黙ったリーゼロッテに、ふっと魔王の笑みが向けられる。制止する暇もなく、素早く唇を奪われた。


「も、もうっ、時と場所をお考えくださいませ!」

「そんな顔をするお前が悪い」


 しれっと返ってきた言葉に頬を膨らませると、前触れなく中から扉が開かれた。驚きに慌てて居住まいを正す。


「お帰りなさいませ、リーゼロッテ様」


 広いエントランスには老齢の女性だけが立っていた。隙のない動作で腰を折り、リーゼロッテへと(こうべ)()れる。


「あなたは……?」

「わたしはルル・ドルン。ラウエンシュタイン家の家令を務めさせていただいております」

「名乗らせてごめんなさい。わたくし、ここでのことは何も覚えていなくて……」

「無理もございません。リーゼロッテ様はまだお小さくあらせられました。わたしへの気遣いは不要にございます」


 表情を変えずに答えた家令に、それでもリーゼロッテはすまなく思う気持ちを消せなかった。自分が覚えている相手に忘れ去られてしまうのは、とても悲しく寂しいことだ。


「ありがとう、ルル。でももう忘れたりしないわ」

「ありがたきお言葉、いたみいります」


 無表情のまま、ルルは再び静かに首を垂れた。そっけないが冷たい感じはしない。そんなルルが今度はジークヴァルトへ視線を向けた。


「不在の(あるじ)に変わり、フーゲンベルク公爵様に御礼申し上げます。リーゼロッテ様が昔と変わることなくおやさしい心根でおられるのも、公爵様の手厚き庇護があってのことでしょう。どうぞこれからも、リーゼロッテ様のことをよろしくお願い申し上げます」

「ああ」


 短く返したジークヴァルトも負けず劣らずそっけない。ルルに親近感を感じるのも、ジークヴァルトを見慣れているせいかもしれなかった。


「それでルル……イグナーツ父様はいらっしゃらないの?」

「イグナーツ様は春にお出かけになって以来、まだお戻りになられておりません。例年ですと、白の夜会が行われる前後でご帰還なさいます」

「そう……」


 また会えるかと思っていた実父の不在に、リーゼロッテはしょんぼりと肩を落とした。


「ねぇ、ルル。父様がお戻りになったら、連絡いただけるようお願いしてもらえないかしら。そうしたらわたくし、すぐにでも父様に会いに来るわ」

「承知いたしました」


 快い返事に笑顔になるも、リーゼロッテは伺うようにジークヴァルトを見た。勝手に決めてしまったが、果たして許してもらえるだろうか。


「ジークヴァルト様、構いませんわよね……?」

「ああ、問題ない。そのときはオレが連れていく」


 うれしくてリーゼロッテは瞳を輝かせた。ひとりで里帰りすらできない自分が情けなくもなるが、異形を騒がせる体質を思うと、ジークヴァルトに同伴をお願いするよりほかはない。


「わたくし、ヴァルト様のご負担にならないように、力の扱いがうまくなるようもっともっと励みますわ」

「そんなことは必要ないと言っただろう」

「ですが……」


 見上げるとやさしく頬を撫でられる。青の瞳が細められ、親指が下唇をゆっくりなぞってきた。いつもキスの前にされるその仕草に、リーゼロッテの頬が一瞬で桜色に色づいた。


 自然に口づけられそうな流れの中、視線を感じてはっと我に返る。すぐそこで、定規(じょうぎ)のようにぴしりと背筋を伸ばしたルルが、無表情のまま立っていた。動揺して、思わずジークヴァルトの胸を押しのける。


「ご、ごめんなさい、こんなところで」

「わたしのことはお気になさらず。どうぞお続けになってください」


 生まれた家と言えど、記憶も残っていない今や他人のお宅様(たくさま)だ。そんな玄関先でさぁどうぞと言われても、これ以上ふたりでイチャコラできるはずもない。


「ラウエンシュタイン家はリーゼロッテ様のお戻りを待ち()びておりました。遠慮することなどございません。どうぞ思うままにお過ごしください」

「それなら城の中を見て回ってもいいかしら……?」

「もちろんでございます。リーゼロッテ様のお部屋も以前のまま整えてあります。順にご案内いたしましょう」


 ルルの先導のもと、城の中をあちこち回る。生家と言っても、初めてに思える場所ばかりだった。やはり他人様のお宅のように感じて、リーゼロッテはルルの説明を物珍しく聞いていた。


(やっぱりここは静かだわ……)


 以前訪問したグレーデン侯爵家もそうだったが、自分たち以外、人の気配がまるでしない。だが息が詰まりそうな雰囲気だったグレーデン家とは違って、この城は空気の流れが感じられた。どこもかしこも清浄な気で満ちている。


「では最後にリーゼロッテ様のお部屋にご案内いたします」


 終わりが近づくのを知り落胆するも、滞在時間は限られている。案内が手短なのも仕方がないことだろう。


(あれ……?)


 渡る廊下でリーゼロッテはふと足を止めた。


(わたし、ここ知ってる)


 来た後ろを振り返り、再びルルが行く奥に目を向ける。


「どうした?」

「いえ、わたくし、なんだかここを……」


 ルルが進む先には、きっと子ども部屋がある。振り返った廊下の角を真っすぐ行くと、一年中花が咲く美しい庭に出るはずだ。


 衝動にかられて、リーゼロッテは駆けだした。ジークヴァルトの静止も耳に届かず、スカートをつまみ上げ、誰もいない廊下を息を切らしてひた走る。


 庭に出て、きょろきょろと辺りを見回した。茂みの向こうに見つけた小道を進み、幅広(はばひろ)の石の階段を駆け下りる。


「やっぱり、ここ知ってる……」


 そうだ。そこに見える生垣(いけがき)の奥に、いつも小鬼と遊んでいた花畑がある。大事なお客様が来るからと、()()()は妖精たちにお願いをして、いつもより多めに花を摘ませてもらった。

 両手いっぱいの花束を抱え、城へ戻ろうとうきうきで小道を進む。スカートにまとわりつく小鬼たちとじゃれ合いながら。


『ロッテ、お待ちかねのひとを連れてきたよ』


 父親の声が聞こえたような気がして、降りてきた石の階段をリーゼロッテははっと見上げた。


(そうよ、ここでジークヴァルト様と初めて会ったんだわ)


 ちょうどあの辺り、幅広の階段の上から、真っ黒いモヤを纏ったジークヴァルトが黙ってこちらを見下ろしていた。


 とそのとき、リーゼロッテを囲む庭が眩暈(めまい)のように揺らめいた。雪景色から一変、庭木の緑が視界に映る。急に目線が低くなり、世界がひとまわり大きく膨らんだ。


 抱える花々の、むせかえるあまい匂い。髪の毛をさらう秋の風。はためくスカートにしがみつく小鬼たち。


 いちばん上の段の(へり)に、黒髪の少年が立っている。前髪がさらりと風になびき、自分を見下ろす宝石のような青の瞳が目に飛び込んだ。


(あれ? わたし、ヴァルト様の顔、見えてる……?)


 目をそらすことなく、少年が階段を下りてくる。ゆっくりとゆっくりと時間をかけて。


 子どものジークヴァルトはそれでも自分よりも背が高くて、目の前まで来て立ち止まった青い瞳を、リーゼロッテは何もできずにじっと見上げていた。

 足元の小鬼たちから不安げな気配が伝わってくる。それが分かっても、瞳の青に魅入(みい)られて、(まばた)きすらできずにただ息をつめた。


 延ばされた手が髪の中に差し入れられる。引き寄せられるまま、ふたりの距離が近づいた。まるでそうすることが当然のように、ジークヴァルトの唇は躊躇(とまど)いなくリーゼロッテのそれに重ねられた。


 何が起きたのかすら分からなくて、リーゼロッテは胸の花束をぎゅっと抱きしめた。長く何度も(ついば)まれて、舌先がこの唇をなぞってくる。目を見開いたその瞬間、すべてが漆黒に塗りつぶされた。


 小鬼たちの叫びに引きずられ、リーゼロッテもあっという間に恐怖に飲まれていく。襲い来る黒い(けが)れは、肌の上を這い回る虫の群れのようだ。抱えた花を手落として、リーゼロッテは力の限りジークヴァルトを押しやった。


「リーゼロッテ!」


 肩をゆすぶられて、はっと意識が戻る。見下ろす青の瞳が目に飛び込んで、リーゼロッテは大きく息を吸った。


「ジーク、ヴァルトさま……」


 呆然と見やると、視界の高さも元に戻っている。今見ていた景色は、子どものころの記憶なのだと、リーゼロッテはそう気がついた。


「わたくし、ここでヴァルト様と初めてお会いして……」


 あの直後広がった黒モヤに驚いて、火がついたように泣き出した。それを見て慌てたジークフリートが、抱き上げて庭中を歩いてあやしてくれたのだ。


 どうして忘れていたのだろうと思うくらい、急速にあの日の出来事が蘇る。ペンダントを手渡され、守り石を陽にかざしながらご機嫌で部屋に戻った。ジークヴァルトのことなど、すっかり忘れたままで。


 無意識に指で唇をなぞる。初対面でした口づけの感触が、ここにまだ残っているような気がした。


「なんだ、思い出したのか?」


 ふっと笑って、ジークヴァルトはちゅっとキスをひとつ落としてきた。

 不意打ちに、フリーズしていた頭が動き始める。



「わ、わたくしのファーストキスぅう……っ!!」



 絶叫が木霊する。


「……ふぁあすときす?」


 思わず口をついた叫び声に、ジークヴァルトが軽く眉根を寄せた。



     ◇

 最後に通された子ども部屋も、なんとなく見覚えがあった。暖炉のある居間に寝室が別になっていて、乳母用と思われる小部屋も備えられている。


「お時間までここでおくつろぎください」


 (かぐわ)しい紅茶と焼き菓子を置いて、ルルはひとり下がっていった。


「疲れたか?」

「いえ、なんだか気持ちが高揚してしまって……」


 早朝に公爵家を出発し、午前中にはティビシス神殿で結婚式を終えた。大急ぎで着替えたあと、ジークヴァルトとふたりでこのラウエンシュタイン城に(おもむ)いたという強行軍ぶりだ。しかもこれから日が沈みかける中、フーゲンベルク領へと戻ることになっていた。


「わたくしは帰ってからゆっくりできますし、むしろヴァルト様の方が心配ですわ」

「いや、オレは何も問題ない」


 忙しい執務の合間を縫って、リーゼロッテのためにスケジュールを空けてくれた。そんなジークヴァルトは休む間もなく、明日から激務の日々が待っている。


(やっぱりわたしがもっと自立しないと……)


 力の制御は上手にはなったが、異形に対して無防備なのは変わらない。


「何を考えている?」

「いえ、わたくしも明日からなまけず頑張りますわ」


 神殿に(さら)われて以来、ジークヴァルトは片時もリーゼロッテを離そうとしなくなった。王城出仕で屋敷を空けるときなどは、必要以上に何度も様子をうかがってくる。リーゼロッテもその不安を()んで、留守番の日は極力部屋から出ないようにしていた。


「お前が頑張る必要など何もない」

「ですからそうやって甘やかさないでくださいませ」


 膝に乗せられあーんをされる。幼い自分が過ごしていた部屋で、ジークヴァルトとこうしていることが、何だか不思議な気分になった。


「ヴァルト様、すこし寝室を覗いてきてもよろしいですか?」

「ああ、ゆっくり見てくるといい。その間、オレは先ほどの家令と少し話をしてくる」


 膝を降り、ジークヴァルトを置いて寝室の扉を開ける。ずっと使われていなかったはずの部屋は、やはり清浄な空気に包まれていた。


「ベッドは子ども仕様ね……」


 小さめの寝台の(ふち)に腰かけると、スプリングが心地よく跳ねた。ダーミッシュ家に養子に入るまで、ここで毎日眠っていたのだろう。


 しんとした部屋を見回して、リーゼロッテは座った姿勢から行儀悪く体を横に倒した。頭をふかふかの枕に沈め、ふぅと(ひそ)やかに息をつく。


「やっぱりちょっと疲れたかも……」


 (まぶた)を閉じると心地よいまどろみが訪れる。このままでは本当に眠ってしまいそうで、リーゼロッテは無理やりに目を開けた。横たわったまま降ろした足をプラプラさせながら、横向きの部屋をぼんやり見やる。


(あ、この景色も知ってる……)


 肩までもぐりこんだ上かけの毛布が心地よすぎて、起きていたくてもいつの間にか瞼が閉じてしまう。頑張って目を見開いた先にいるのは、やさしく微笑む母親だ。その後ろから父イグナーツが、包み込むように母を抱きしめている。


「マルグリット母様……」


 唯一残る母の思い出は、ここで見た風景なのだ。急に郷愁(きょうしゅう)に駆られて、リーゼロッテはなんだか寂しくなってしまった。


 身を起こして寝室から出る。


「ジークヴァルト様……?」


 戻った居間を見回すも、その姿は見つからない。先ほどルルに話があると言っていたので、まだ戻ってきていないようだ。

 耳の守り石に触れると、不思議と不安が和らいだ。ジークヴァルトはすぐ近くにいる。そんな気配が伝わってくる。


 感じる青の波動を頼りに、リーゼロッテは子ども部屋を出た。進むにつれて、ジークヴァルトに近づいているのがよく分かった。もうすぐそこにいる。その確信の下、リーゼロッテの足はおのずと速くなっていく。


 ぴりっと背筋に悪寒が走った気がして、驚きで立ち止まった。その嫌な気配は自分を追うように、ゆっくりと、だが確実にここへと迫っている。そんなはずはないと言い聞かせながら、リーゼロッテは恐る恐る振り返った。


「おや、これは奇遇ですね、リーゼロッテ・ラウエンシュタイン」


 その声に、あの夜の悪夢が蘇る。

 背後に(たたず)んでいたのは、かつてリーゼロッテを(さら)った張本人――盲目の神官レミュリオだった。


【次回予告】

 はーい、わたしリーゼロッテ。思いがけない場所で神官レミュリオとエンカウントしてしまったわたし。見え隠れする青龍の思惑に、戸惑いと不安が募ります! 一方、託宣の調査を続けるカイ様は、何も得られないまま王都へと戻ってきて……?

 次回、6章第9話「星に堕ちる者 - 前編 -」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!

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