第5話 公爵夫人の矜持
【前回のあらすじ】
レルナー公爵家の夜会で、公爵夫人ゾフィーと接触の機会を図るカイ。そんな中リーゼロッテは囲まれたご夫人たちの質問攻めに。新婚生活をからかわれつつ、なんとかその場を乗り切ります。
断れない流れでレルナー公爵と一曲踊ったリーゼロッテは、疲れ果てて帰り着いた寝室で、ジークヴァルトに熱く求められます。
婚姻を果たし自分のものとなったリーゼロッテを前に、それでも失う恐怖を消せないでいるジークヴァルトなのでした。
「いたっ」
髪の毛が引っ張られ、起き抜けに頭皮に痛みが走る。踏みつけた髪を引き抜きながら、リーゼロッテは寝台の上でひとり小首をかしげた。
(また解けてる……夕べもちゃんと結んだはずなのに)
長い髪を踏んづけてしまわないようにと、三つ編みを作って眠るのが子供のころからの習慣だ。それなのにここ最近、起きるとそれが解けてしまっている。髪が乱れるようなことは何ひとつしていない。今は月のものが来ているため、ジークヴァルトとは普通に眠っているだけだった。
「わたし寝相が悪くなったのかしら……?」
つぶやきながら寝台を降りる。眠っている間は基本、腕枕をしてもらっている。だが寝技のごとくホールドされるため、寝返りを打ちたくても打てないことも多かった。ジークヴァルトの腕の中、眠りながら抜け出そうともがいているのかもしれない。
(ヴァルト様を蹴飛ばしたりしてないといいけど……)
今夜あたりに聞いてみようか。そろそろ月のものも終わる頃合いなので、このあとしばらくまぐあい三昧の日々が続くだろう。そうなると会話どころではなくなってしまう。
お預けが明けたときのジークヴァルトは特別ひどい。翌朝遅くまでゆっくりできるようにと、解禁の夜に合わせて執務をとことん片付けている徹底ぶりだ。長時間におよぶ夫婦の営みに、体力尽きるまでリーゼロッテは翻弄されるしかなかった。
「おはよう、エラ」
「おはようございます、奥様。ゆっくりお休みになられましたか?」
「ええ、明日まではきっとぐっすり眠れるわ」
リーゼロッテの返答に、エラが困ったような笑顔を返す。夫婦として過ごすうちに、ジークヴァルトの行動パターンはだいたいのところ分かってきた。それはエラにしても同じことで、言わずともこの気持ちを汲み取ってくれている。
「マテアスに頼んで、旦那様に進言してもらいましょうか?」
「いいの、世継ぎを作るのは公爵夫人としての務めだもの。わたくし頑張るわ。ただ……」
公爵夫人となった今、子作りに励むのは当然の流れだ。ジークヴァルトと肌を合わせるのも嫌ではない。しかしねちっこく、体中を舐めまわすのだけはやめてほしい。焦らしに焦らされるのも勘弁だ。
「ただ……?」
「い、いえ、何でもないの」
エラ相手でも、さすがにそこまで言うのは恥ずかしすぎる。赤くなった顔をごまかしながら、リーゼロッテはそそくさと身支度をはじめた。
今日はリーゼロッテ主催で初めてのお茶会を開くことになっている。招待客は仲のいい令嬢たちだけなので、気負わなくてもいいのがうれしいところだ。女主人としての振る舞いの経験を積みつつ、次は社交の本番としてご夫人方を招待する予定になっていた。
「久しぶりの方ばかりだからたのしみだわ。でももう公爵夫人になったんだもの。浮ついていては駄目ね」
「段取りはわたしがしっかりと取り仕切らせていただきます。何も心配なさらず、このエラにすべてお任せください」
「ありがとう、心強いわ。……ねぇ、でも、エラ。今日はあまり調子が良くないのではない……?」
今朝のエラはどことなく顔色が悪い。いつもてきぱき動く彼女にしては、やたら手つきが緩慢だ。
「いいえ、そんなことは」
「もしかして悪阻がひどいの? 駄目よ無理をしては」
エラはそろそろ妊娠四か月だ。お腹のふくらみも少しずつ目立ってきている。
「それほどではありません。どうぞ奥様はお茶会に専念なさってください」
「でも……」
「必要なときはロミルダを頼ります。ですから」
こういったときエラはなかなか引いてくれない。あとでロミルダに無理させないように頼もうと、リーゼロッテはとりあえずこの場は頷いた。
「分かったわ。無理のない範囲でお願いね」
「承知しました、リーゼロッテ奥様」
気遣いの塊であるエラに、ついつい甘えてしまう。エラだけでなく誠心誠意仕えてくれる者たちに、これからは女主人としてきちんと目を配らなくては。
決意も新たに、あわただしい一日が始まった。
◇
出される菓子の確認を厨房で済ませ、茶会の席の最終チェックへと向かう。テーブルクロスに使用する茶器、飾りの花に至るまで、すべて最高級の品が揃えられた。リーゼロッテに恥をかかせるわけにはいかない。なんとしても今日の茶会を成功に導かなくては。
頭の中でもてなしのシミュレーションをしながら、エラは急ぎ廊下を進んだ。ここまで来れば、あとは客人の到着を待つばかりだ。少しばかり気が緩んだときに、胃のむかつきがこみ上げた。
(こんなときにもう……!)
周囲に人がいないことを確かめて、エラは大きめの飴玉を口に含んだ。こうすると悪阻の症状がひとときごまかされる。今はつらいなどと弱音を吐いている場合ではない。
「具合が悪いのか?」
「ぅぐっ」
気配なく背後から声をかけられ、驚きのあまり飴玉をまるごと飲み込んでしまった。喉を抜けた塊の感触に動揺しつつ、振り向いた先の人物に再び動揺が走った。
「エーミールさっ、いえ、グレーデン様、申し訳ございませんっ」
声をかけられるまで気づかなかったことの謝罪を込めて、エラは慌てて礼を取った。自分はもう貴族ではない。使用人としての礼節を、絶対に守らなければならない立場となった。
それに平民となった自分など、気位の高いエーミールは興味も示さないはずだ。奥に生まれ落ちた痛みを無視して、エラはじっと頭を下げ続けた。
(どうして行ってくれないの……?)
一向に立ち去ろうとしないエーミールの靴のつま先を見つめながら、次第に吐き気の波が押し寄せてくる。このまま下を向いていると、本当に胃の中身がせり出しそうだ。
「顔色が悪い。やはり気分がよくないのだな」
「え……?」
手を引かれ、廊下に置かれた長椅子に座らされる。戸惑って見上げると、エーミールは通りすがった使用人の男に声をかけた。
「おい、お前。ロミルダを呼んで来い。今すぐだ」
「は、はいっ、ロミルダですねっ、すぐ連れてきますっ」
エーミールが使用人に声がけするなどまずないことだ。足をもつれさせながら、男は廊下を駆けて行った。それを目で追ったあと、エーミールは当たり前のようにエラの横へと腰かけた。
姿勢よく腕を組み、エーミールは黙ったまま正面を見据えている。貴族と使用人が並んで椅子に座るなどあり得ない。自分から話かけることもできなくて、エラはひたすら困惑した。
気まずい沈黙の中、不安な気持ちと相まって、胃のむかつきがこみ上げてくる。こらえきれず口元に手を添えると、目の前にハンカチが差し出された。
「こういう時はどうすればいい?」
「え?」
「子ができたのだろう?」
思わず受け取りそうになった手を引っ込めて、エラはとっさに立ち上がった。
「エーミール様の、いえっ、グレーデン様のお手を煩わせることでは……うぅっ」
「無理するな。いいからロミルダが来るまで座っていろ」
腕を引かれ、元居た場所に座るよう促される。手を取られたまま半歩下がって、エラは必死に首を振った。
「で、ですがエーミー……グレーデン様の横に座るなどやはりできません。わたしはもう平民となりました」
「そんなに気になるか? ならばわたしが立っていよう」
「いけません! グレーデン様を差し置いてわたしだけ座るなど」
「だったらおとなしく座ってくれ。わたしがいいと言っているんだ。問題はないだろう」
立ち上がったエーミールは、両肩を掴み半ば無理やりエラを座らせた。そして再びその横に腰かける。舞い戻った沈黙がいたたまれなくなって、エラは唇をかみしめた。
妊娠してからというもの、エラの情緒はすぐ不安定になる。エーミールが何を考えているのか分からなくて、不安からか胸のむかつきがさらにひどくなった。
だがこの居心地の悪さは、何よりも自分の行いのせいだ。誰とも結婚する気はないのだと、あれほどエラはエーミールを拒絶した。その癖、あっさりマテアスと一緒になってしまった。
エーミールに軽蔑されたとしても、自業自得のことだ。それなのに胸の奥にわだかまる、この鈍い痛みは一体なんだというのか。
(わたしにこんなこと思う資格はない)
いまだ自分の中でエーミールへの思いが燻っていたことに、エラ自身驚いていた。マテアスの妻となり、今こうして子を宿している。だがこれは自らが望んで選んだことだ。
リーゼロッテに生涯を捧げるための最良の選択だった。納得もしているし、後悔もしていない。
そう思うのに、なぜ今自分は泣きそうになっているのだろうか。うつむいた膝の上、スカートの布を握りしめる。肩が触れそうな隣にいるエーミールの熱を感じながら、早くロミルダが来てくれることをただ願った。
「エーミールでいい」
「え?」
「呼び名だ。もう今さらだろう」
「ですがわたしはもう……」
名で呼ぶのは貴族であるうちだけと、この冬に約束をした。平民となったエラにとって、エーミールはもはや雲の上の存在だ。
「いつかも言っただろう? 今は騎士団に身を置いているが、わたしはジークヴァルト様に生涯の忠誠を誓った。フーゲンベルク家の侍女長となったエラは、わたしとはいわば同志だ。ともに公爵家に仕え支える立場として、名で呼ぶくらい構わない」
「エーミール様……」
ダーミッシュ家の屋敷の廊下で、エーミールと交わした会話が蘇る。今思えば、あの出来事がふたりのはじまりだった。切なく疼くこころを抑えきれなくて、エラは苦しげに奥歯をかみしめた。
「気持ちが悪いのか?」
「い、いえ……あの、今ここで飴を舐めてもよろしいでしょうか……?」
「悪阻が和らぐとよく聞くな。ああ、そうするといい」
エーミールにじっと見つめられたまま、エラは飴玉を口に含んだ。広がる甘さとともに、胃の不快感が引いていく。
(エーミール様は矜持をもって旦那様にお仕えしている……リーゼロッテ様の侍女として、わたしもそれを見習わなくては……)
音を立てないように飴を舌で転がしながら、エラは自分の気持ちに区切りをつけた。エーミールの心の中に、自分などもう存在しないのだから。
それ以降会話もないまま、しばらくふたりで並んで座っていた。ほどなくしてロミルダがやってくると、エーミールはすぐこの場をあとにした。
「ロミルダ、迷惑をかけてすみません」
「いいのよそんなこと。それよりも……」
エーミールの去る背を目で追ったあと、ロミルダが気づかわしげにエラを見やる。何もなかったと安心させるため、エラは静かに首を振った。
「気分が悪くなったわたしに、エーミール様はついていてくださっただけです」
「そう……」
一瞬、何か言いたげにしたが、ロミルダはそれ以上聞いてはこなかった。切り替えるように笑顔をエラへと向けてくる。
「リーゼロッテ奥様の初めてのお茶会だものね。エラは最後まで自分で仕切りたいでしょう? 招待客が到着するまでまだ時間があるし、それまではしっかり休んでいてちょうだい。無理なようならわたしもいるから。もっと肩の力を抜いて、ね?」
「ありがとうございます、ロミルダ」
「可愛い嫁と孫のためだもの。何かあったら遠慮なく言って」
茶会の席の最終チェックはロミルダに任せることにして、エラは一度部屋へと戻った。居間のソファで息をつき、瞼を閉じる。
マテアスと過ごすこの部屋も、随分となじんできた。初めは書類やら本やらで雑然としていたここも、今では居心地よく整頓されている。
あれでいて、自分のことになるとマテアスは割といい加減だ。衣類は適当に脱ぎ散らかされているし、食べかけ飲みかけの物もよく放置されている。普段、隙ひとつ見せないマテアスの意外な側面に、エラは最初驚いた。
だがエラ以上に忙しい身を思うと、それも仕方のないことだ。横で寝ていた形跡はあっても、朝、顔を見ない日もしばしばだ。
(そんな中、ずっとわたしの護身の鍛錬につきあってくれていたのよね……)
結婚してからというもの、早朝訓練は中断している。夫婦の営みに時間を取られて、それどころではなかったからだ。
そこまで思って、エラはひとり顔を赤らめた。
夜のマテアスは、また違った顔を見せてくる。多分、あれも自分しか知らない姿なのだろう。いや、マテアスは過去、恋仲だった女性が何人かいたようだ。それを知った時のもやもや感が、今、急に胸にこみ上げてきた。そのことにエラは驚き、同時にくすりと笑みを漏らした。
「エラ? 大丈夫ですか? ロミルダから具合が悪いと聞きました」
慌ただしく駆け込んできたマテアスを笑顔で迎える。目が回るほど忙しいだろうに、わざわざ合間に抜けてきてくれたのだろう。
片膝をつき、確かめるようにマテアスはエラの頬に手のひらを添えた。
「顔色は悪くなさそうですね」
「ごめんなさい、心配かけて。少し休んだのでもう大丈夫です」
「そうですか。安心しました」
ほっとした顔をされ、エラは少しばかり申し訳ない気持ちになる。
妊娠が分かってからも、エラはリーゼロッテの世話を人任せにはできなかった。ロミルダもマテアスも、その気持ちを尊重してくれている。侍女長としての役割も手を抜くことはしたくなくて、体調的に随分と無理をしている自覚はあった。
それを知りつつも、マテアスは黙って見守ってくれている。そこに信頼と愛情を感じ取って、むず痒いようなよろこびの種が、エラの奥にいつしか芽吹いた。
「マテアス……わたし、リーゼロッテ様のためにできる限りの事をしたいんです。でも無理はしないと約束します。わたしの意地のせいで今日の茶会を台無しにしては、公爵家の侍女長として失格ですから」
「その点は信頼していますよ。すべてエラの判断に任せます」
頷き返したマテアスは、エラを静かに抱きしめた。
「ああ、でもあなたが無茶をしやしないかと冷や冷やしている自分もいます。リーゼロッテ様のことになると、エラはすぐ限界を忘れてしまうので」
「マテアスだって人のこと言えないでしょう? もっとちゃんと自分を労わってほしいです」
「返す言葉がありませんね」
耳元で苦笑すると、マテアスはエラの頬に触れるだけの口づけを落とした。
「ではわたしは戻ります。何かあったら無理せずロミルダを頼ってください」
「忙しいのにありがとう……来てくれてうれしかった……」
立ち上がりかけたマテアスが再びエラを抱きしめてくる。今度は唇を啄むと、来た時と同様慌ただしく部屋を出て行った。
残されたエラはそっと腹に手を当てた。ここに命が育まれている。
(わたしの選んだ道は間違っていない)
マテアスに対する思いは穏やかだ。誰よりも頼れる存在であり、この胸を占めるのは尊敬と信頼だ。正直なところ一緒にいても、熱に浮かされた甘く痺れるような感情は湧いてこない。
それでもこれは愛だと思う。すこしずつ膨らんで膨らんで、この思いはいつしかエラの中で無視できないくらいに大きく広がっていた。
エーミールに感じる疼きは、もはや過去の感傷なのだとようやく気づく。彼を思って胸を焦がしたあの日々は、思い返すと今でも心が痛い。でも無理に忘れなくてもいい。時が経てばきっともっと、やさしく懐かしい痛みに変わっていくのだろう。
瞼を閉じて、ゆっくりと息を吐く。リーゼロッテに仕える者として、公爵家の侍女長として、そしてマテアスの妻として、これからも自分は生きていく。
そろそろ招待客が到着し始める頃合いだ。時刻を確認し、エラは気を引きしめ立ち上がった。
◇
招待客が揃ったとの知らせを受けて、リーゼロッテはサロンへと向かった。客人を待たせるのもどうかと思ったが、もったいぶった振る舞いも公爵家の女主人として当然のことらしい。
今日招いたのは未婚の令嬢ばかりだ。侯爵令嬢のヤスミンをはじめ、伯爵令嬢イザベラに子爵令嬢のクラーラとルチア、それに公爵令嬢のツェツィーリアが加わった。
リーゼロッテが令嬢時代に催した茶会とほぼ同じメンバーだが、貴族籍を抜けたエラの代わりに貴族の養子となったルチアを招待した形だ。
(ツェツィーリア様がイザベラ様と喧嘩しないといいけれど……)
ふたりは以前のお茶会で一触即発のバトルを繰り広げた経緯がある。あの時はうまく収めることができずに、ちょっとした騒ぎになってしまった。今回もリーゼロッテの女主人としての手腕が問われるところだ。
社交の先輩として、エマニュエルにこっそり茶会の様子を見守ってもらっている。あとで改善点を教えてもらうためだ。今日の茶会は実地訓練の位置づけだった。次回はご夫人方を招いて、本格的な茶会を開くことになっている。
リーゼロッテが姿を現すと、みなが一斉に礼を取った。リーゼロッテはこの場で誰よりも地位が高い。公爵夫人としていちばんに敬われるべき立場となった。
「リーゼロッテ様、本日はお招きありがとうございます」
「せっかくの招待ですもの。来て差し上げましたわ」
「フフフーゲンベルク公爵夫人様、本日はおまおまお招き頂きましてまことにありがとうございましゅっ」
「わたくしまでお招きいただいて光栄です……」
「今日は本当にたのしみにしていたのよ、リーゼロッテお姉様!」
次々に挨拶をされ、余裕の笑顔を返す。
「みな様、お顔を上げて。今日は気軽なお茶会をと思っておりますの。それにクラーラ様、今まで通りリーゼロッテとお呼びになってよろしくてよ」
和やかな雰囲気で茶会を進めたい。見たところ、リーゼロッテ待ちの間は会話も弾んでいなかったようだ。
イザベラはヤスミン以外の者をガン無視しているし、ツェツィーリアはそんなイザベラに敵意のまなざしを向けている。おどおどと目を泳がせているクラーラの横で、ルチアは貝のように黙りこくったままだ。ヤスミンだけがその様子を面白そうに観察している。
(前途多難そうね……まずはヤスミン様に話を振って話題を広げようかしら)
話しかける順番にも気を遣う。イザベラはマウンティング令嬢なので、ことさら注意が必要だった。彼女の繰り出す暴言は、破壊力満点だ。まだ子どものツェツィーリアも空気を読むことをしないので、ふたりがエキサイトしないよう上手に誘導しなくては。
そんなことを考えているうちに、ヤスミンが先に口を開いてくれた。
「リーゼロッテ様、この度はご結婚おめでとうございます。改めてお慶び申し上げますわ。ふふ、わたくしたちの中では、リーゼロッテ様がいちばん乗りでしたわね」
「ありがとう、ヤスミン様。急の王命を頂いてわたくしも驚きましたの。婚姻は本当にあっという間のことでしたわ」
ヤスミンとイザベラ、それにクラーラは、リーゼロッテと同じ年に社交界デビューを果たしている。王妃となったアンネマリーも含めて、みな龍暦八百二十九年デビュー組だ。
「ヤスミン様こそご婚約おめでとう。婚姻はいつごろの予定ですの?」
「来年の夏に嫁ぐことになりましたわ」
「ヤスミン様も物好きね、子爵家なんかに嫁ぐだなんて。しかもカーク家と言ったら随分と田舎貴族じゃない」
イザベラのぶっこみに、場が一瞬静まりかえった。婿養子を迎えて侯爵家を継ぐ予定だったヤスミンは、ヨハンと恋に落ち子爵家に嫁ぐ道を選んだ。貴族では珍しい恋愛結婚だ。
「田舎暮らしも案外悪くはなくってよ。空気も澄んでいて、王都にはない良さがありますもの」
「わたくしもカーク家には一度お邪魔したことがありますけれど、とてもよいところでしたわ」
早くもイザベラ警報発令だ。ヤスミンは気にも留めていない様子だが、冷や汗をかきつつリーゼロッテはすかさずフォローを入れた。
「式もカーク家の庭園で行うことになりましたの。今から何かと準備が忙しくて。みな様もぜひ出席していただきたいですわ」
「そういえばリーゼロッテ様は結婚式はなさらないの?」
びよんと縦ロールを揺らしながら、イザベラがヤスミンの言葉をさえぎった。子爵家に嫁ぐと分かった時点で、ヤスミンを格下認定したようだ。
「わたくしたちはシネヴァの森で婚姻の神事を行ってきましたから」
「まぁ、随分と古臭い。神事と式はまた別の話でしょう? 婚姻のお披露目の夜会も開いていらっしゃらないし、公爵家の名が聞いて呆れますわね。このままではいい笑いものになりましてよ?」
「神事は王命でしたし、それにクリスティーナ様のことがありましたから……今は式を挙げたり、そんな浮ついた気持ちにはなれなくて……」
愁いを帯びた瞳でリーゼロッテは俯いた。式も夜会もしないのは、異形が騒ぐと危険だからだ。だが対外的には、亡くなった第一王女の喪に服すためということにしてあった。
「でも王族以外は喪が明けてますでしょう? ハインリヒ王も気にせず夜会などを催すようお触れを出しているのに」
「わたくしもジークヴァルト様も、クリスティーナ様とは親しくさせていただいておりましたから」
「リーゼロッテ様は王女殿下の東宮に、お話し相手としてお呼ばれになっていましたものね」
「ええ、ですから余計に……」
「あら、そういうこと。クリスティーナ様は滅多に貴族の前にはお出にならなかったものね。そんな王族と懇意にしていたことをひけらかす目的でしたの」
イザベラの言葉に、場がしんと静まり返る。それを破ったのは、もくもくと菓子を頬張っていたツェツィーリアだった。
「自分はひけらかす伝手もないくせに、相変わらず口だけは達者なのね」
「……そうおっしゃるツェツィーリア様だって似たようなものでしょう?」
「わたくしはピッパ王妹殿下と定期的にお会いしているもの」
「年が近いから呼ばれているだけではなくて? そんなことくらいで威張らないでいただきたいわ」
「ヤスミン様はアンネマリー王妃殿下と親しくされているわ。イザベラ様はお年も近いのに、王妃の離宮に呼ばれもしないのね」
鼻で笑ったツェツィーリアを前に、イザベラがさっと顔を青ざめさせた。リーゼロッテが止める暇もなく、次々と火種に油が注がれていく。
「わわわわたくしのへリング子爵家なんて田舎も田舎、ド田舎貴族ですから、王族の方など白の夜会でご挨拶したときにしかお会いできておりませんわっ」
涙目で震えながらクラーラがおどけた声を張り上げた。クラーラなりに場を和ませようとしてくれているらしい。
「それは当然よね。わたくしは伯爵令嬢、それも宰相の娘ですもの。大きな夜会にもよく招かれるし、王族の方には何度もご挨拶しているわ」
「さっすがイザベラ様ですわ! 田舎子爵の身分ではそうそう王族にお会いできませんものっ。ね、ルチア様もそうですわよねっ」
ルチアのブルーメ子爵家は、クラーラの家よりさらに王都から遠い場所にある。仲間を増やそうとでも思ったのか、クラーラはルチアに同意を求めた。
「わたくしはまだデビュー前ですし……でもクリスティーナ様となら、わたくしもお会いしたことがあります」
「えっ!?」
興味なさそうに座っていたルチアが、これまた興味なさそうに受け答えをした。なおりかけていたイザベラの機嫌が、再び一気に下降する。それを感じても、何をどう言えばこの場が収まるのか、リーゼロッテには皆目見当がつかなかった。
「時にクラーラ様。先日のレルナー家の夜会で、エルヴィン・グレーデン様にダンスに誘われたと聞きましたわ」
話題を切り替えるように、のほほんとヤスミンがクラーラを見やった。おろおろするばかりのリーゼロッテとはけた違いの大物ぶりだ。
「そそそうなんですよ。いきなりのことでわたし、じゃなかったわたくし緊張のあまり、エルヴィン様の足を踏んでしまってっ」
必死に道化を演じるクラーラにも頭が下がる。なんとかこの場を穏便に済ませようと、必死になっているのがよく分かった。
「わたくしだってエルヴィン様にダンスを申し込まれたわ」
そこにすかさずイザベラが口をはさんできた。自分が会話の中心にいないと、どうにも気が済まないようだ。
「あら、そうでしたの。ではイザベラ様も乗馬に誘われましたのね?」
「乗馬?」
「ええ、クラーラ様がエルヴィン様と乗馬デートをなさったと、社交界ではその話で持ちきりでしてよ」
「も、持ち切りだなんてっ、おはおはお恥ずかしいですわっ」
赤くなったクラーラの横で、イザベラが唇を噛みしめた。エルヴィンは侯爵家の跡継ぎだ。花嫁候補を探していると、もっぱらの噂になっている。
「その様子じゃイザベラ様は誘われなかったのね」
はん、とツェツィーリアが馬鹿にしたように笑った。
「わ、わたくしはブラル伯爵家を継ぐ身ですもの。変に気を持たせては悪いでしょう? お誘いは受けましたけど、お断りしたまでですわ」
「ふうん? そうだとしても、その年まで婚約者もいないんじゃ先が思いやられるわね」
「なんですって!? わたくしの結婚相手は宰相であるお父様がお決めになるの! お父様のお眼鏡に適う殿方が見つからないだけだわ!」
「宰相の地位は世襲制ではないのでしょう? ブラル伯爵はもういいお年だし、引退も間近と聞いているわ。そんな先のない家に婿に来たがる物好きはそうそういないってことね」
まだ十歳のツェツィーリアにやり込められて、イザベラは悔しそうに顔をゆがませた。ツェツィーリアの口を塞ぎたい思いに駆られるも、リーゼロッテには止める余地もない。
「ツェツィーリア様は随分と貴族社会のお勉強なさっているのね。ダーミッシュ家のご長男と婚約が決まったせいかしら?」
「る、ルカのことは関係ないわ。レルナー公爵家の令嬢として当然の知識だわ」
いたずらな笑みを向けるヤスミンに、今度はツェツィーリアが口ごもった。つんと顔をそらして、ごまかすように紅茶に口をつける。再び沈黙に包まれて、笑顔を保つしかできない自分に、リーゼロッテはもはや自信喪失だ。
だがここでくじけてはいけない。自分主催の茶会なのだ。場を盛り上げなくてどうするというのか。
「ルチア様はいよいよ社交界デビューですわね」
デビュタントのための白の夜会が来月に迫っている。間もなくルチアも正式に貴族の仲間入りだ。
「はい……わたくし上手くできるか自信がなくて」
「ルチア様なら大丈夫ですわ。わたくしが保証いたします」
市井で育ったものの、ルチアの令嬢としての立ち居振る舞いは完璧だ。口数は少ないが、この一年で貴族としてのしゃべり方もすっかり板についたようだ。
「ルチア様のことはわたくしも気にかけて差し上げてよ? お父様に目を配るよう頼まれましたから」
「ブラル宰相様がですか?」
「ええ、お父様はお心が広いの。あなたも感謝することね」
イザベラは父親に言われて仕方なくな様子だが、ルチアの出自を宰相は承知しているのだろう。ルチアは今期デビューする令嬢の中でも、いちばんの話題になるのは避けられないはずだ。何しろ彼女の鮮やかな赤毛は、王族の血筋を思わせる。
「ルチア様はブルーメ家の養子なのでしょう? 本当のお父様はどなたなの?」
「父は……ブルーメ家の遠縁です」
「何それ、曖昧ね。まぁ、田舎貴族なんてそんなものなのかしら」
「ブルーメ子爵家はリーゼロッテ様のお父様の実家です」
むっとしたようにルチアが言い返した。その態度にイザベラが半眼となる。
「リーゼロッテ様のご実家はダーミッシュ伯爵家でしょう。いい加減なこと言わないで」
「いえ、実父は確かにブルーメ家の出ですわ。わたくしもダーミッシュ家には養子に入りましたから。ルチア様は間違っておりません」
やんわりと間に入る。これ以上こじらせては、本当に収拾がつかなくなりそうだ。
「そういえばリーゼロッテ様は元々ラウエンシュタイン公爵家の方でしたわね。随分とややこしいですこと」
「ええ、本当に」
そこのところはリーゼロッテも頷くしかない。実父のイグナーツに一度会えたものの、なぜ自分が養子に出されたのかは結局聞けず仕舞いだった。
「リーゼロッテ」
突然やってきたジークヴァルトに、みなが一斉に立ち上がった。ツェツィーリアだけが遅れるように礼を取る。
「少し様子を見に来ただけだ。気にせず茶会を続けるといい」
そっけなく言ったジークヴァルトに、リーゼロッテはほっと笑みを返した。おかげでおかしな雰囲気が吹き飛んだ。うやむやになっただけだが、場がリセットできたことに心から安堵する。
「そういうことですから、みな様おかけになって」
全員を再び椅子に座らせたところで、リーゼロッテはいきなりジークヴァルトに抱えあげられた。
「じ、ジークヴァルト様……?」
リーゼロッテが座っていた椅子の上、当たり前のように膝に乗せられる。一同がポカンと見守る中、ジークヴァルトの指先がリーゼロッテの前髪を整え始めた。
(ななな何を考えているのヴァルト様はっ!?)
招いた公爵家のお茶会で、この光景はあり得ない。今すぐ降ろせと怒るべきだろうか? だが令嬢たちの前で、ジークヴァルトに恥をかかせるのはマズいかもしれない。とは言え今現在、ふたりで恥をかいているのもまた事実だ。
どうするのが正解なのか分からない。リーゼロッテは視線を彷徨わせて、指導役のエマニュエルの姿を探した。遠まきに控えていた彼女と目が合った瞬間、さっと顔をそらされる。そのあからさまな態度に、最適解はないのだと知る。
「どうした? 気にしなくていいぞ?」
「ほほ、では遠慮なく」
動じた様子もなく、ヤスミンは紅茶をひと口含んだ。次いでツェツィーリアが菓子に手を伸ばす。
「この紅茶は焼き菓子ととても相性がよろしいですわね。芳醇な香りもたまりませんわ」
ティーカップを片手に、ヤスミンがリーゼロッテに微笑みかける。髪を梳き続けるジークヴァルトなど、そこにいないかのようだ。
「そちらはクラッセン家から頂いたもので……」
「王妃殿下のご実家ね。ということは隣国のお茶なのかしら?」
アンネマリーの実家は代々他国との外交を務めている。国交は少ないので、もっぱら隣国アランシーヌ専門だ。
「どうりで変わった味の……じゃなかった美味しいお紅茶だと思いましたわ。さっすがフーゲンベルク家ですっ」
カミカミのままクラーラがぐいと紅茶をあおった。その横でルチアも上品な手つきでカップに口をつけている。
その間イザベラだけが、膝抱っこされているリーゼロッテを凝視していた。ここは気を利かせて見て見ぬふりをしてほしいものだ。
「イザベラ様もどうぞお召し上がりになって? 今日の菓子はアーモンドをふんだんに使っていて、美容にもよろしいんですのよ」
気をそらすため、泣き虫ジョンのアーモンドケーキを勧めてみる。ふいに後ろから長い手が延ばされた。リーゼロッテ用のフォークでケーキがひと掬いされると、耳元で悪魔が来りて囁いた。
「あーん」
眼前に迫る甘い香りのケーキを、リーゼロッテは条件反射で口にしてしまった。唇からフォークが抜き取られたときは、もはや後の祭りのことだ。
濃厚なクリームとバターの風味が舌の上でとろけ、遅れてアーモンドの香ばしさが鼻腔に広がった。喉の奥までもが至福で満ち、しあわせの塊を静かに咀嚼する。そこでようやく我に返った。顔を上げ、恐る恐る周囲に目を向ける。
全員が全員、こちらに視線を向けていた。ひとりひとりと目が合って、リーゼロッテはみるみるうちに涙目になった。
「うまいか?」
「美味しいです……美味しいですけれども……」
腕の中、潤む瞳で見上げると、羞恥で震える唇を親指の腹で拭われる。
「ふふふ、ほんとお甘いですこと」
「甘すぎて胸やけがしますわ」
そう言いつつも、イザベラがケーキを口に運び出す。クラーラがそれに倣うと、ツェツィーリアとルチアも各々のペースで食べ始めた。
マテアスの迎えが来るまでの間、ジークヴァルトのあーんは延々と続けられ、茶会の後半の記憶がほぼ飛んでしまったリーゼロッテなのだった。
◇
疲れ果てて、寝台へともぐりこむ。昼間の出来事が繰り返し繰り返し思いだされて、リーゼロッテは身もだえるように頭から毛布をかぶった。
(うう……わたしが守りたかったものは一体なんだったのかしら……)
フーゲンベルク家の権威か、ジークヴァルトの名誉か、はたまた公爵夫人としての矜持だろうか。もう何もかもが分からなくなる。
ジークヴァルトに恥ずかしいという感情はないらしい。夜会だけでなく、主催の茶会でもジークヴァルトに禁止事項を事細かに伝えなくては。
(それにしてもヴァルト様、今夜はお戻りが遅いわね)
茶会に顔を出したせいで、執務が滞ってしまったのかもしれない。だが今日ばかりは自業自得だと、心配する気も起こらなかった。
「明日、絶対に抗議しよう……」
次の茶会はご夫人方を招待する予定になっている。大勢の前でまたアレをやられたら。想像するだけで顔から火が出そうだ。
そんなことを思いながら一度沈んだ意識が、浅いまどろみまで浮上する。指が頬をすべる感触に、ジークヴァルトが戻ってきたのだと分かった。重すぎる瞼が開けなくて、しばらくされるがままジークヴァルトに撫でられていた。
おでこにかかった前髪が避けられると、額に唇が落とされる。次いでひとつに編まれた三つ編みが、大きな手で掬い上げられた。
しばらくそれを玩んでいたかと思うと、ジークヴァルトがやおら髪紐の先を引っ張った。指先に髪を絡め、丁寧に三つ編みを解いていく。
毎朝のように結んだ髪が解けているのは、誰でもなくジークヴァルトのせいなのだ。意外な真犯人のお出ましに、真実はいつもひとつな名探偵気分になった。
「もう……ヴァルト様が犯人だったのですね……」
抗議のつもりで梳く手を制すると、指と指を絡めとられる。青の瞳が細められ、近づいてきた顔に唇を塞がれた。
エスカレートしていく口づけに、怪しい手つきが加わっていく。
「ん、今夜はまだ……」
今はまだ月のものの期間だ。寝台を汚したくなくて、リーゼロッテはジークヴァルトの肩を強く押した。
「ああ、分かっている」
「や……駄目……せめてあと一日は……」
「分かっている、触れるのは服の上からだけだ」
「上からってそんなっ!」
ジークヴァルトはもどかしくてたまらない手つきで攻めてくる。
それは止まることなく、そのまま朝を迎えたリーゼロッテだった。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。ヴァルト様の閨でのしつこさに、ひとり思い悩むわたし。恥ずかしさのあまり、エラにも相談できなくて。久しぶりに会いに行ったアンネマリーに、思い切って話してみたら……?
次回、6章第6話「王妃の手ほどき」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!




