表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ふたつ名の令嬢と龍の託宣【なろう版】  作者: 古堂素央
第6章 嘘つきな騎士と破られた託宣

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

455/494

第4話 果てなき焦燥

【前回のあらすじ】

 ジークヴァルトとともにレルナー公爵家の夜会へと向かったリーゼロッテ。ダーミッシュの両親と再会するも、よそよそしく挨拶されて。フーゲンベルク家の人間になったことを自覚させられ、公爵夫人としてジークヴァルトとともに生きていく決意を改めて固めます。

 ツェツィーリアとルカの婚約が発表され、ふたりのファーストダンスで始まった夜会。貴族の人間関係の複雑さに気後れしながらも、ジークヴァルトとのダンスをリーゼロッテは満喫します。

 そんな中、情報収集のために近づいた夫人と最後の逢瀬を交わすカイ。用なしとなった夫人を冷たく切り捨て、次の任務のために夜会の会場へと戻っていくのでした。

 彼女の気配を無意識に追う。遠巻きに、夫人たちに囲まれ座る姿が見えた。笑みを浮かべつつも、戸惑う様子がありありと伝わってくる。


 多くの者がひしめく広間だろうと、視界に入らない場所にいようと関係ない。


 例え国の(はし)と端にいたとしても、今の自分ならば、彼女との(つな)がりを確実に感じ取ることができるはずだ。


 対の託宣を受けた、たったひとりの存在。ようやくこの手にした、はずの――



     ◇

 夜会の会場に戻ると、多くの視線が特定の誰かを追っている。見やった先のダンスフロアに、ジークヴァルトとリーゼロッテの姿があった。


 仲睦まじく踊るふたりは、互いしか見えていない。それでいてジークヴァルトは周囲に殺気を飛ばしているから器用なものだ。リーゼロッテに目を奪われる者がそこかしこにいる。公爵夫人となった彼女は、確かにとても綺麗になった。


 元々愛らしい顔立ちのリーゼロッテだ。あどけない少女だった面影は薄れ、大人の女性として(かも)し出す雰囲気が、男のみならず同性の目すらくぎ付けにしていた。


(これは触らぬ神に(たた)りなしだな)


 下手に近づいてジークヴァルトの機嫌を(そこ)ねては面倒だ。そう判断したカイは、次のターゲットを探して辺りを見回した。人だかりの中心にいるその人物は、探すまでもなくすぐ目に留まる。


(レルナー公爵夫人……さて、どうやって近づくか)


 夜会の主催者側の彼女に、挨拶くらいは容易にできる。だが内緒話をするとなると、ダンスに誘うしか方法が見当たらなかった。

 しかし常に既婚者と浮名を流しているカイだ。妻に魔の手が伸びたとなると、レルナー公爵がいい顔をするはずもない。


 夫人と踊るのが無理なようなら、公爵に直接伝えるしかないだろう。そうは言っても、できればまだほかの貴族の耳には入れたくない内容だ。ハインリヒ王に無理難題を押しつけられて、カイはどうしたものかと思案に暮れた。


 こうして手をこまねいているうちに、今宵限りの逢瀬を望むご夫人に捕まるのも避けたいところだ。そんなことを思った矢先、誰か男に声をかけられた。


「カイ・デルプフェルト殿、あの時ぶりですね」

「これはエルヴィン殿。噂の次期グレーデン侯爵にお声がけいただけるなど光栄です」


 近づいてきたのは母カミラを連れたエルヴィン・グレーデンだった。昨年の白の夜会で潜入中に、エルヴィンにしてやられたことを思い出し、カイは張りつけたような笑顔を向けた。


「ここは初めましてと言うべきでしたか。どうせならあの日の(うるわ)しい姿で再びお会いしたかったと、ついそんなことを考えてしまいましたよ」

「はは、一体何の話でしょう。わたしには分かりかねますね」


 祖母ウルリーケの支配から逃れるために、幼少期から病弱で役立たずな跡取りを演じていたエルヴィンだ。令嬢に扮したカイをあっさり見破ったところを見ても、只者(ただもの)ではないのだろう。弟のエーミールと違い、カイの中でエルヴィンは要注意人物認定を受けていた。


「いやだわ、エルヴィン。デルプフェルト家と懇意(こんい)にしていると知ったら、エメリヒがいい顔をしないじゃない」

「それもお婆様の意向あってこそでしょう? もう何も心配はいらないですよ」

「カミラ様、ご無沙汰しております。今宵も変わらぬ美しさですね。とてもエルヴィン殿の母君とは思えません」


 カイの言葉に眉を(ひそ)めるも、夜会の席だからかカミラはそれ以上言い返すことはしなかった。


「ああ、一曲終わったようだ。カイ殿、よろしければ次の曲で、母のダンスの相手を務めてはいただけませんか?」

「エルヴィン、やめてちょうだい」

「いいではないですか。今夜は父上の目もないことですし、少しばかり羽目を外しても」


 グレーデン侯爵は嫉妬深く、妻カミラに男が近づくのをよしとしないのは有名な話だ。夜会でのダンスも、いつも夫婦で踊るのみだった。


「そんなこと言って、自分が好き勝手にしたいだけなのでしょう? わがまま言ってないできちんとわたくしをエスコートなさい」

「一曲誰か令嬢を誘うくらいは許してくださいよ。今宵は未来の妻探しのためにここへと来たんですから」

「そういうことならよろこんでご協力しますよ。カミラ様のお相手、責任をもって引き受けましょう。カミラ・グレーデン様、どうか至福のひとときをわたくしめにお与えください」


 カミラの手を取って腰を折り、カイはその指先に口づける。


「仕方ないわね……エメリヒのお小言は、エルヴィン、あなたがすべて引き受けてちょうだいよ」

「もちろん、そのように」


 悪びれない息子の返事に頷くと、カミラは居丈高(いたけだか)な態度でカイに手を預けた。


 フロアに足を踏み入れたふたりに、周囲が一気にどよめいた。身持ちの堅いグレーデン侯爵夫人が、夫であるエメリヒ以外の男と連れ立っている。しかもその男とは、夫人キラーで有名なあのカイ・デルプフェルトだ。


 ざわめきが収まらないまま曲が流れだした。ダンスフロアに降り立った淑女たちのドレスが一斉に花開く。


 カミラをリードしていく中、反対側のフロアに二曲続けて踊るリーゼロッテたちを見つけた。ジークヴァルトにしてみれば自分のものだと誇示(こじ)をして、リーゼロッテを誰の手にも渡したくないに違いない。


 踊りながらさりげなく、カミラがカイの耳元に顔を寄せてきた。その小声に意識を戻される。


「ねぇ、ブルーメ家に養子に入った赤毛の令嬢って、アニータの娘なんでしょう?」


 ハインリヒの消えた託宣の相手を探すため、カイはカミラに秘密裏(ひみつり)に会いに行ったことがある。カミラの情報通り、ルチアの母親は失踪した伯爵令嬢アニータであったものの、結局はアニータもルチアもハインリヒの託宣とは無関係だった。


 ただアニータは王族の子どもを宿し、その子ルチアは龍から託宣を受けた身だったことが判明した。しかしそれが分かっても、先代王ディートリヒはルチアを王家に迎えることはしなかった。


「彼女はブルーメ家の遠縁の血筋だそうですよ」

「ふうん? そう言い張るのなら、そういうことにしといてあげるわ」


 カミラはアニータを身ごもらせた王族の存在を知っている。当時後宮に幽閉されていたウルリヒ・ブラオエルシュタインだ。


 アニータは生まれたばかりのルチアを連れて、元王妃イルムヒルデの手引きで王城から出奔(しゅっぽん)した。恐らくは、降りた託宣の呪いから、ルチアを遠ざけ守るために。


「アニータも馬鹿よね。王家から逃げおおせたところで、龍に捕まるのは分かりきってるのに。事情なんて知らないし興味もないけれど、どうせ生まれた子を取り上げられたくないとかそんなくだらない理由だったのでしょう? 親などいなくたって、子どもなど放っておいても勝手に育つというのに……本当に愚かだわ」

「はは、その意見にはわたしも同意しますね」


 カミラは父親に賭けの道具にされた挙句(あげく)に他家へと捨てられ、カイは受けた託宣が理由で母親に最期まで拒絶され続けた。

 家族意識が薄く、子育てを使用人任せにする貴族は少なからずいる。その中でも、自分たちはかなり特殊な部類と言えるのかもしれない。


「ちょっと、何を考えてるか知らないけれど、()()のあなたなんかと一緒にしないでちょうだい」

「もちろん分かっていますよ。カミラ様はティール家の宝、桃色(ローゼ)姫でいらっしゃいましたからね」

「その呼び名はやめて。二度と聞きたくないわ」

「これは失礼を」


 腰を支えターンしながら言うと、カミラが不機嫌そうに顔をしかめた。


 賭けのチップ代わりにレルナー家からティール家へと養子に入ったカミラは、女児が欲しかったティール公爵夫人にそれはそれは可愛がられていたらしい。ピンクを好むティール夫人に、ことあるごとに派手に着飾らされ、カミラは令嬢時代いつでもピンク色のドレスを身にまとっていた。おかげでついたふたつ名が、ティール公爵家の桃色姫という訳だ。


 カミラが出席する夜会では、ティール家に気を遣って桃色のドレスを選ぶ者は誰ひとりとしておらず、もはやピンクの装いはカミラの専売特許となっていた。


 しかしグレーデン侯爵家へ嫁ぎ、反動のようにカミラは落ち着いた色のドレスしか着なくなった。ティール夫人による着せ替え人形ごっこが、よほど嫌だったことが伺える。


「親が子に干渉するなど、本当に馬鹿げているわ。そういった意味ではお前はしあわせね。忌み児として生まれて(かえ)ってよかったのではなくて?」

「まったくカミラ様のおっしゃる通りです」


 カイが受けた託宣について、カミラがどこまで知っているのかは分からない。だが今の自由な立場は、確かにそう悪いものではなかった。そんなふうに思って、カミラの軽口をカイは適当に笑顔でやり過ごした。


 曲が終わり、カミラをエルヴィンの元へと送り届けると、再びカイはレルナー公爵夫人へと注意を向けた。いまだ挨拶の人だかりに囲まれる夫人をみやり、彼女をダンスへと連れ出すのは至難の(わざ)に思えてくる。


(タイミング的に彼女がレルナー公爵と踊った後か……)


 主催者として、一曲くらいはふたりでダンスフロアに立つだろう。その機会を待つしかなさそうだ。


 ふいにフロアの入り口付近が騒がしくなった。ジークヴァルトとリーゼロッテを取り巻くように、多くの貴族が集まってきている。貴族たちは紳士淑女に分かれ、勢いのまま半ば無理やりふたりを引きはがした。


 ご夫人たちに囲まれて、リーゼロッテは休憩用の椅子が置かれた一角へと連れていかれた。戸惑い顔のままその中心に座らされる。

 これは新婚となった者の通過儀礼のようなものだ。根掘り葉掘り、既婚者たちから質問攻めの洗礼を受けるのが、社交界での習わしとなっていた。


 その淑女たちの輪の中に、ターゲットのレルナー公爵夫人が加わるのが見えた。これはまだしばらく時間がかかりそうだ。


 ジークヴァルトを見やると、こちらは立ったままで紳士たちにぐるりと囲まれている。好奇に満ちた女性陣とは違って、みな恐る恐るジークヴァルトを取り巻いていた。


(とりあえずオレもあの中に入るか)


 今夜に限っては、火遊び希望のご夫人に捕まるのも厄介だ。レルナー公爵夫人の動向に気を配りつつ、ダンスに誘うチャンスをきちんと見定めなくては。


 移動する途中で、子爵夫人のエマニュエルを見つけた。彼女もリーゼロッテの元へと向かう様子だ。


「ブシュケッター子爵夫人」


 名案を思いついて、カイはとっさにエマニュエルを呼び止めた。少々強引なその態度に、エマニュエルの顔色が警戒を(はら)む。


「いいところで出会えました。今夜こそ、ダンスのお相手をしていただけませんか?」

「せっかくのお誘いですが、わたくしこれからリーゼロッテ様の元に……」


 エマニュエルは妖艶な美女とあって、男どもからのアプローチが絶えないでいる。しかしうまいこと理由をつけて、絶対に誘いに乗らないことで有名だ。あまりの(かたく)なな態度に、ふられた紳士の間では岩の女と(くさ)されていた。


「神殿での一件で、デルプフェルト家は随分とフーゲンベルク家に貢献したでしょう? そのねぎらいに、どうか一曲お相手を」

「分かりましたわ……では一曲だけ」


 リーゼロッテ奪還のことを持ち出すと、さすがのエマニュエルもしぶしぶカイの手を取った。ご夫人たちに囲まれるリーゼロッテを気にしつつ、おとなしくカイのエスコートについてくる。押し問答の時間が勿体(もったい)ないと判断したのだろう。早いところダンスを終えて、リーゼロッテの元へ駆け付けたいと思っているようだ。


 舞い戻ったダンスフロアに、再びどよめきが広がった。あの身持ちの堅いブシュケッター子爵夫人が、夫以外の男と連れ立っている。しかもその男とは、またまた夫人キラーのカイ・デルプフェルトだ。


 痛いほど視線を感じる中、曲が流れ出す。慣れた手つきでリードするカイに、エマニュエルが胡散(うさん)臭そうな視線を向けてきた。


「カミラ様のあとに、わたしまでダンスに誘うなど……デルプフェルト様、一体何をお(たくら)みですか?」

「今日はカチヤ様にフられましてね、ヤケになってるってところです」


 普段カイが近づくのは、未亡人や貞操観念の低い奔放(ほんぽう)な既婚者だけだ。地位や威厳ある家の人間には、間違っても手を出したりはしない。いまだ(いぶか)しげなエマニュエルに、カイは(ほが)らかな笑顔を返した。


「大丈夫、フーゲンベルク公爵夫人に迷惑をかけるようなことはしませんから」


 踊りながらも、エマニュエルはリーゼロッテの動向を気にし続けている。ジークヴァルトと引き離された状態で、淑女の洗礼に耐えられるか心配で仕方がないのだろう。


「そう思いになられるなら、引き留めないでいただきたかったですわ」

「ははは、そんなにご心配ですか?」


 そこまで過保護にしなくても、リーゼロッテならうまいこと切り抜けそうだ。確かに世間知らずだが、彼女は決して地頭(じあたま)は悪くないと思っているカイだった。


 曲が終わりを告げて、それでもエマニュエルは急ぎ足でリーゼロッテの元へと向かっていった。その背を見送って、カイは続けてダンスに誘う相手を物色し始めた。


 通常なら絶対に声掛けなどしないタイプの貞淑(ていしゅく)な既婚者を、手当たり次第に誘っていく。断る者が大半だったが、中には面白がって誘いに乗るご夫人もいた。



 カイの奇行は貴族たちの口々に乗せられて、あっという間に夜会中に知れ渡っていったのだった。


     ◇

 ダンスフロアを出ると、いきなり大勢の貴族たちに囲まれた。誰だか分からないご夫人に手を引かれ、あれよあれよという間に壁際の一角に連れていかれてしまう。


 助けを求めジークヴァルトの姿を探すが、遠い場所で紳士たちの人だかりの真ん中にいた。紳士淑女に綺麗に別れた状況に、新婚貴族が受ける洗礼なのだと知る。新たな既婚者を迎えるべく行われるこれは、社交界で古くからの習わしであるとエマニュエルから事前に教わっていた。


 彼女の話では、新婚夫婦はそれぞれ紳士・淑女に分かれて質問攻めに合うとのことだ。赤裸々(せきらら)な会話にも動揺しすぎないよう、リーゼロッテは注意を受けている。


 リーゼロッテを中心に、大方の夫人が席に着いた。椅子にあぶれて立ったままでいる夫人は、爵位の低い者なのだろう。

 思わず知り合いを探すも、エマニュエルや母クリスタの姿はない。最後まで空けられていた横の席には、レルナー夫人が収まった。反対側にはカミラが陣取って、リーゼロッテは逃げようのない場に覚悟を決めた。


(いよいよ貴婦人の会へ仲間入りね。公爵夫人として言動には気をつけなくちゃ)


 今日はまずリーゼロッテのお披露目だ。多少のやらかしは大目に見てもらえる。この夜会で政敵は多くないはずなので、うまく立ち回ることは考えなくていい。周りが助け舟を出してくれるからと、エマニュエルの勉強会でリーゼロッテはそう教えられていた。


 それでもジークヴァルトの恥になるような振る舞いは、できれば避けて通りたい。不安をなんとか押し殺し、渾身(こんしん)の淑女の笑みを顔に乗せた。


「さぁみなさん、今宵はフーゲンベルク公爵夫人を初に迎えてよ。たのしくおしゃべりいたしましょう?」


 レルナー公爵夫人のひと声で、場が一気に盛り上がる。これまでも夜会には滅多に顔を出さないでいたリーゼロッテだ。どの夫人も品定めするように、好奇の目を向けていた。


「レルナー公爵夫人様、今宵は素敵な夜会にお招きいただきましてありがとうございます」

「そう改まらないで。リーゼロッテ様のご実家へ、我が義娘ツェツィーリアが嫁ぐことが決まりましたもの。もう身内も同然でしょう? どうぞわたくしのことはゾフィーとお呼びになって」

「光栄ですわ、ゾフィー様。ルカとツェツィーリア様の婚約を、わたくしもとてもうれしく思っております」


 夜会の主催者が味方となれば、今日のところは怖いものなしだ。安堵からふわりと笑ったリーゼロッテに、周囲から感嘆の声があふれ出た。


「リーゼロッテ様は誠に可憐(かれん)でいらっしゃること」

「フーゲンベルク公爵様が、ご自分のものと見せつけたくなるお気持ちがよく分かりますわね」

「青い(いかずち)と呼ばれる公爵様をああも骨抜きになさるなんて、さすがはリーゼロッテ様ですわ」


 口々にはやし立てられ、小首をかしげて微笑み返す。立場的に持ち上げられているだけだ。それは分かっているはずなのに、あながち嘘でないところが羞恥を誘う。


(淑女たるもの動揺を顔に出しては駄目よ! ロッテンマイヤーさんにもいつも言われていたじゃない)


 気を引き締め、笑みをキープする。社交経験の浅い自分は、とりあえずエマニュエルの言葉に従うしかない。彼女はいざという時の秘策を授けてくれた。返答に困った際は、とにかく笑顔で切り抜けろ。なんてことはない。ただそれだけのことだった。


(アデライーデ様にも以前言われたっけ……慌てて余計なことを口走らないのが大事ってことね)


 たわいもない会話から始まって、あちこちから質問が飛んでくる。笑顔で受け答えしていきながら、これなら乗り切れそうと気が緩んだ。


「それでどうなのですか? フーゲンベルク公爵様とお過ごしになる毎日は。わたくしたち、公爵様との日常など想像もつかなくて」

「何も特別なことはございませんわ。日々穏やかに過ごしております」

「リーゼロッテ様は婚姻前から、もう長いことフーゲンベルク家でお過ごしになられていましたものね。療養を兼ねてとお伺いしたのですけれど」

「ええ、わたくし、少しばかり体が弱いところがありまして……でも今ではほとんど問題ないくらいに回復しておりますわ」

「それを聞いてわたくしたちも安心しましたわ。公爵様はハインリヒ王の護衛騎士をこなすようなお方ですもの。そのようにご立派な公爵様を毎夜お相手になさるのは、なかなか大変なことでしょう?」


 率先しておしゃべりを続けるご夫人が、意味ありげに含み笑いをする。つられるように周りの夫人も、一斉に上品な笑い声を立てた。


 リーゼロッテは口ごもって、思わず頬を朱に染めた。動揺してはいけないと思っても、どう言い返したらいいのかが分からない。笑顔を保つことができなくて、俯きながら熱い頬を両手で覆った。


「まぁ、なんてお可愛らしい」

「ほんと、初々(ういうい)しくていらっしゃいますわ」

「こんな反応をされては、公爵様もたまりませんわね」


 あちこちからくすくすと笑われて、増々顔に熱が集まっていく。そこをまた笑われてしまって、もうどうにも収集がつかなくなった。


「それくらいにして差し上げましょう? リーゼロッテ様が恥ずかしがっておいでだわ」


 隣にいるカミラが助け舟を出してくれたが、周囲の生温かい視線は継続中だ。こんな初心(うぶ)な態度を示しては、公爵夫人として舐められてしまうかもしれない。涙目になったところで、遅れて輪に加わったエマニュエルと目が合った。


 大丈夫だというふうに頷かれ、少しだけ自信を取り戻す。新婚の熱々加減をからかうことは、ご夫人たちのたのしみのひとつであるらしい。そう言われたことを思い出し、みなの満足を誘えたのなら良しとしようと、リーゼロッテは開き直ることにした。


 そんな時カミラが、リーゼロッテ越しにレルナー夫人に話しかけた。


「時にゾフィー様、今宵はいつにも増して輝いておられますわね。その透き通ったお肌……なんて羨ましいのかしら」

「カミラ様はお上手ね。でもそうなのよ。最近はエデラー商会の化粧水を使っているせいか、肌の調子が本当によくって」

「まぁ、やっぱり。あそこの品は人気が高くて、なかなか手に入らないんですもの。ゾフィー様のお立場ともなると、自然と良い品が集まってくるんですのね。さすがですわ」


 エデラー印の化粧水は今、貴族の間で飛ぶように売れている。ダーミッシュ伯爵家は長い間エデラー家の後ろ盾を続けてきたので、エデラー商会の品はすべてダーミッシュ領の特産とも言える。そんなわけで、母クリスタは親しい夫人に化粧水一式をよく贈っていた。ルカの婚約を機に、レルナー夫人にも融通を利かせているのだろう。


 そんなことを思いながら、話題が変わったことにほっとした。内心息をついていると、カミラがリーゼロッテに意味ありげな視線を向けてくる。


「リーゼロッテ様ももちろんお使いになられてますのよね?」

「ええ、わたくしも愛用しておりますわ」


 ダーミッシュ家の娘として当たり前のように使っていたが、コスメ類はすべてエラ任せだ。深く考えずに頷いた。


「それはそうと、ツェツィーリア様はわたくしの(めい)ですし、リーゼロッテ様とわたくしは最早(もはや)、親戚も同然ですわよね?」

「ええ、弟とツェツィーリア様が婚約した今、わたくしもそう思います」


 先ほど助けてくれたこともあり、リーゼロッテはカミラへ心からの笑顔を向けた。しかしカミラはなおも(うかが)うような表情を見せてくる。


「でしたらダーミッシュ伯爵家ともども、これからも懇意(こんい)にしていただけたらうれしいですわ」

「もちろん、そうさせていただきますわ」


 わざわざ実家であるダーミッシュ家の名を出されたことに、リーゼロッテは若干(じゃっかん)の違和感を覚えた。フーゲンベルク公爵夫人としてではなく、なぜダーミッシュ家()みなのか。


 カミラから一抹(いちまつ)の苛立ちを感じ取って、リーゼロッテはそこでようやくはっとなった。淑女同士の会話は何重にもオブラートに包まれている。言外に含まれた意図を()み取ってこそ、社交上手と呼ばれるものだ。


「ダーミッシュの母にもよくよく伝えておきますわ。カミラ様とお近づきになれて、母もよろこぶと思います」


 恐らくカミラはエデラー商会の化粧水を融通してほしいのだ。リーゼロッテから頼めば、クリスタもいやだとは言わないだろう。満足そうな笑みを返したカミラを見て、この返事が見当違いではないことを、リーゼロッテは強く確信した。


 ふいにエマニュエルと目が合った。遠巻きに見守っていた彼女から、よくできましたとばかりに微笑まれる。


(これでお飾りの公爵夫人でないことが示せたかしら……? あとでエマ様と反省会をしないとだわ)


 初めてのことだらけで、正解がまるで分らない。しかし大事な局面は乗り切ったようだ。リーゼロッテを中心に、そのあとしばらく他愛もない会話が続いた。


「ねぇ、みな様聞きまして? ダンスフロアでおもしろいことが起きていましてよ?」


 途中参加してきたご夫人が、興奮気味に会話に加わった。


「デルプフェルト家の五男坊が既婚者相手に、普段は見向きもしない方まで手当たり次第に声をかけていますのよ。周囲の反応がそれはそれは面白くて」

「まぁ、それであなたも誘われましたの?」

「ええ。もちろんお断りしましたけれど」


 一同の視線がダンスフロアへと集まった。興味津々に瞳を輝かせ、再びおしゃべりに花が咲く。


「あの方、最近ではカチヤ様と一緒にいることが多かったのに……」

「そうよね、臆面(おくめん)もなく今日も仲睦まじげに連れ立っておいででしたもの」

「なんでもデルプフェルト様はカチヤ様にふられたそうですわ」

「エマニュエル様、それは本当ですの!?」

「ええ、わたくしもダンスに誘われて……そのときにご本人がそのように」

「そういえばわたくし、先ほど鬼の形相でお帰りになるカチヤ様をお見かけしましたわ」

「まぁ、なんてこと!」


 ご夫人方が興奮気味に目を見開いた。子爵夫人のカチヤと言えば、曾祖母(そうそぼ)が王族の血筋なことを(かさ)に着て、高圧的な態度を取ることで有名だ。いやな思いをさせられた貴族は多く、社交界でも嫌われ者の筆頭(ひっとう)だった。

 最近も若い男を捕まえたとして、同年代のご夫人にモテる自分をアピールして、過剰なほどにマウントを取っていた。そんなご自慢の相手を彼女自らが手放すとは思えない。


 普段から既婚者と浮名を流しているカイ・デルプフェルトは、定期的に恋人を変えている。これはきっと、フラれたのはカチヤの方に違いない。


 そんなことを口々にささやきあって、密やかな(あざけ)りがあちこちから漏れて出る。その雰囲気が居心地悪く思えて、リーゼロッテは無言のまま笑みだけを保ち、聞き役に徹していた。


「それにフロアでは、待てども誘われない方が(かえ)って恥をかくような雰囲気でしてよ?」

「まぁ、なんて面白い! わたくしも誘われに行ってこようかしら」


 収まらないおしゃべりが繰り広げられる中、ふいに談笑が途切れ、場が不自然に静まり返った。

 リーゼロッテは目の前に立つ紳士を見上げ、見苦しくないよう努めて優雅に立ちあがった。そのままゆっくりと礼を取る。


「レルナー公爵様、ご挨拶が遅れました。フーゲンベルク公爵の妻、リーゼロッテでございます」

「いや、問題はありませんよ。フーゲンベルク公爵とは先にあちらで十分話をさせていただいた」


 見やると、ジークヴァルトはいまだ紳士たちに囲まれている。こちらを気にしつつも抜け出せないでいるようだ。


「こうしてフーゲンベルク公爵家と懇意にできて、わたしもうれしい限りですな。夫人もご存じでしょう? 長い間あったレルナー家とフーゲンベルク家の軋轢(あつれき)を」


 リーゼロッテは静かに頷いた。だがその原因は二代前の公爵間で起きたことだ。レルナー家の令嬢がフーゲンベルク公爵夫人の実家と縁を結ぼうとしている今が、関係を修復するいい機会だ。その考えは両家で一致して、この夜会へと招かれた経緯があった。


 自分がフーゲンベルク家へと嫁いだことで、こんなふうに良い実を結んだことをリーゼロッテは誇らしく思った。淑女の笑みを向けると、レルナー公爵が軽く腰を折り、片手を差し伸べてくる。


「両家が再び手を取り合った記念に、一曲お相手いただけますかな?」


 突然の申し出に、一瞬だけ躊躇(ちゅうちょ)する。ジークヴァルトに判断を仰ぎたいが、こう離れていてはそれもままならない。それにここで断りを入れるのは、レルナー公爵に恥をかかせることになってしまう。


 これはレルナー家とフーゲンベルク家が、良好な関係を築いたことを示すための重要な社交なのだ。そう判断し、リーゼロッテはまずは戸惑うそぶりでレルナー夫人の顔を見やった。


「わたくしのことなら気になさらなくていいわ。どうぞ夫と踊ってらして」


 夫人から了承を得ると、リーゼロッテは淑女の礼を取ってから、レルナー公爵にそっと手を預けた。

 エスコートされてダンスフロアへと向かう。いまだ貴族に囲まれているジークヴァルトが視界の(すみ)に入るが、状況的に止めに入ることはしないだろう。


 ふわっと耳のピアスが暖かくなる。ジークヴァルトの熱だ。離れていてもそばにいる。青の波動を感じ取り、リーゼロッテは心強さに包まれた。


 道があけられて、レルナー公爵とともにフロアの中心に立つ。


(異形の者にだけは注意しなくちゃ)


 今の自分なら、トラブルなく誰とでも踊れるはずだ。胸の内で言い聞かせ、曲の始まりとともにステップを踏み出した。


     ◇

 ざわついたダンスフロアの中心に、カイは視線を向けた。大方の夫人を誘い終えて、フロアを出た矢先のことだ。

 レルナー公爵とリーゼロッテが手を取り合ってフロアの中央に進んでいる。とっさにジークヴァルトの姿を探すと、案の定にらみつけるようにふたりを目で追っていた。


(はは、いつの間にこんな面白いことに)


 大方、紳士に囲まれている(すき)に、レルナー公爵に出し抜かれたのだろう。(おおやけ)の場でジークヴァルトが、リーゼロッテに男を近づけさせないのは貴族の間では周知のことだ。


 しかしこれは絶好の機会だ。カイは急ぎレルナー公爵夫人の元へと向かった。

 多くの貴族が見守る中、大仰に腰を折り、カイはレルナー夫人に手を差し伸べる。


「今宵、こうして貴女と出会えましたこと、奇跡に感じております。レルナー公爵夫人、哀れな男の儚い願いだと思って、どうぞひと夜限りの栄誉をお与えください」


 もったいぶった態度をとりつつも、レルナー夫人はまんざらでもない表情でカイの手を取った。公爵夫人としてリーゼロッテとのダンスを認めたものの、若い女に鼻の下を伸ばす夫を快く思っていないのだろう。ここで自分がカイと踊ってみせれば、レルナー公爵に一矢(いっし)(むく)いることができるというものだ。


 そんな夫人の胸中を利用して、カイはまんまとダンスフロアに連れ出すことに成功した。ざわつくフロアをしり目に、流れ出した音楽に乗せて夫人をリードし始める。


「ねぇ、あなた、今宵は随分とおいたをしているようね?」

「本命ははじめからゾフィー様、貴女だけでした。この手に届かない貴女に焦がれ、自棄(やけ)になっていたことは認めます。ですからそのように誤解なさらないでください」

「まぁ」

「ああ……今こうして貴女のお手を取ってふたりで踊っているなど、本当に夢のようです」


 うっとりと目を細め、カイは夫人をまっすぐに見つめた。決して嘘は言っていないので、良心はひとつも痛まない。ぽっと頬を染めたレルナー夫人は、それでも威厳を保つようにつんと顔をそらして見せた。


「ふん、うまい口だこと」

「わたしの思いをお疑いですか? その気高きお心に、わたしはどうしようもなく惹かれてしまうのです」


 自尊心を満たすような言葉を並べ立て、カイはレルナー夫人の耳元に顔を寄せた。嫌がらないところを見ると、夫人も(えつ)に入っているようだ。


「貴女のしあわせを遠くから願うしかできないわたしの言葉を、どうか聞き届けてください」


 恋人に愛を語らうように、カイは尚も囁きかける。


「ハインリヒ王は秋にお生まれになる御子が、男児ならゾフィー様のご子息を側近に、女児ならば将来の伴侶にと考えておられるようです。このことを踏まえ、どうぞ先々の選択を、くれぐれも慎重になさいますよう申し上げておきます」


 レルナー公爵にはまだ幼い息子がひとりいる。兄の遺児(いじ)であるツェツィーリアを嫁に出してしまえば、跡目を継ぐのはその子しかいなくなる。それで完全にレルナー家は現公爵のものとなるため、レルナー夫妻は自分たちにいちばん都合の良い義娘の嫁ぎ先を、躍起(やっき)になって探していた。


 それがダーミッシュ家に決まった今、次は息子の嫁探しだ。レルナー家とつり合いが取れて、最も利益を生み出すそんな家が理想的だ。今のところ候補としては、反王家派の侯爵家が上がっていた。


 そんな状況であるときに、カイが発した先ほどの言葉だ。レルナー夫人は目をかっぴらいて鼻息を荒くした。王家とつながりが持てるなら、そんな栄誉なことはない。


 この国で五つある公爵家の中でも、ここ数代レルナー家は王家からないがしろに扱われている。レルナー家はフーゲンベルク家に次ぐ歴史ある家柄だ。それなのに、いちばん歴史の浅いザイデル家から王妃が誕生して以来、目に見えない格差は広がるばかりだった。


 それがハインリヒ王の御代で挽回(ばんかい)できる。未来の王の側近となるか、王女を妻として迎えるか。アンネマリー王妃が子を産むまではどちらになるかは分からないが、どのみち反王家派の家と懇意にするのは、その道を断つことになりかねない。


「これもゾフィー様、貴女のしあわせを願ってこその進言です。ご子息とともにレルナー家が輝かしい道を進まれますこと、このカイ・デルプフェルト、陰ながら見守っております」

「そ、そう。そこまで言うなら、一応、心に留めておきましょう」


 気のない返事をしつつ、レルナー夫人は気もそぞろに顔を紅潮させている。正式な王の言葉ではないため、将来どうとでもできる内容だ。この言葉を公爵がどう受け取るかは分からない。だが夫人の反応を見ると、レルナー家が王家の敵に回る可能性は低いだろう。


 不穏な芽はできる限り早い段階で摘んでおきたい。そんなハインリヒの思惑通りに事が運んで、これでカイの任務も無事完了となった。


 タイミングよく曲が終わり、賓客(ひんきゃく)を扱う態度で夫人をレルナー公爵の元へとエスコートしていく。リーゼロッテを連れた公爵と出くわして、なんとも微妙な顔を返される。しかし夫人の方は最早(もはや)それどころではなさそうだ。先ほど耳打ちされたことを、早く夫に伝えたくて仕方ないようだ。


 笑顔で夫人を公爵に引き渡す。リーゼロッテの視線を感じたが、あえてそれに気づかないふりをした。すぐそこにまで来ているジークヴァルトの気配を察知して、カイはその場をそそくさと離れた。


 足早に歩を進め、さりげなく後ろを振り返る。仏頂面のジークヴァルトがリーゼロッテを連れて、会場を後にするのが見えた。これ以上ほかの男にダンスを申し込まれでもしたら、本気で暴れ出すに違いない。


(まぁ、これからも断り切れない誘いはあるだろうから、今のうちに一度暴れといた方がいいかもね)


 そうすればリーゼロッテに近づこうとする馬鹿も減るだろう。そんなことを思って、カイは夜会の喧騒(けんそう)に背を向けた。


     ◇

 レルナー公爵とダンスを終えた直後、ジークヴァルトがすぐに来てくれた。ほっとするのも(つか)()、公爵夫妻に(いとま)の挨拶をして、待たせてある馬車へと向かう。


「あの、ヴァルト様」

「なんだ?」

「レルナー公爵様と踊ったこと、怒っていらっしゃるのですか?」


 うまく隠しているつもりだろうが、先ほどから不機嫌な様子が伝わってくる。


「怒ってなどいない」

「でしたらどうしてそんなに不機嫌にしていらっしゃるのですか?」

「それは……お前の気のせいだ」


 ふいと顔をそらされ、リーゼロッテは無理やりに歩を止めた。振り向いたジークヴァルトに見下ろされる。夜会に出れば、これからも避けられない誘いはあるだろう。そのたびにこんな雰囲気になるのは嫌だった。


「……いい、怒っていない。今夜、お前はよくやった」


 そっと頬をなでられて、リーゼロッテは瞳を潤ませた。ジークヴァルトのためにと思ったことが、裏目に出ては本末転倒だ。及第点(きゅうだいてん)をもらえたのなら、頑張った甲斐もある。


「ではダンスを申し込まれたとき、これからも応じてよろしいですか?」

「それは駄目だ」


 きっぱりと拒否されて、リーゼロッテは困り顔になった。あまりうるさく言うと、今後夜会に連れて行ってもらえなくなるだろうか。


「夜会につき、ひとりまでだ。オレがいいと言った相手以外、残りはすべて断りを入れろ」

「ですが相手によっては失礼にあたるのでは……」

「問題ない、理由はオレの指示と言えばいい」


 そっけなく言って、ジークヴァルトは前触れなくリーゼロッテを抱き上げた。


「ヴァルト様……!」

「馬車までだ」


 もう目の前にある馬車には、ジークヴァルトの数歩でたどり着いた。相変わらずの過保護ぶりに、呆れるよりほかはない。

 乗り込んだ馬車で、当たり前のように膝に乗せられる。おとなしく身を預けて、リーゼロッテは小さく息をついた。


「疲れただろう?」

「少しだけ……」


 久しぶりの夜会で、確かに疲れきってしまった。でもそれは緊張からくる気疲れが大半を占めている。


(ああ……やっぱりここがいちばん安心できる)


 胸に耳を押し当てると、聞き慣れた鼓動がリズムを刻む。青の波動の心地よさに包まれて、リーゼロッテは(まぶた)を閉じた。無言でいてもこの空間は、とろけるような至福で満たされる。


 走り出した馬車の中、ジークヴァルトが()い上げられた髪から(かんざし)を一本引き抜いた。かと思うと、奥に仕込まれたピンを次から次に外していく。


「ヴァルト様……?」


 外したピンをそこら中に放り投げていくジークヴァルトを、戸惑ったままリーゼロッテは見上げた。(ほぐ)された髪がふわりと広がり落ちていく。


 大方ピンを引き抜くと、今度はいきなり足首をつかまれた。抗議の声を出す前に、ヒールの高い靴が脱がされる。靴をおざなりに床へ転がすと、ジークヴァルトはゆっくりと髪を()きだした。


 夜会巻きはきつく髪を結うため、(ほど)かれてずいぶん楽になった。窮屈(きゅうくつ)な靴を脱いだ足の爽快感は言わずもがなだ。乱暴な気遣いに呆れもするが、やはりうれしさの方が(まさ)っていた。


「着くまで眠っていろ」

「はい、ありがとうございます、ヴァルト様……」


 再び胸に身を預け、息をついて(まぶた)を閉じる。訪れたまどろみの中、青の力を流し込みながら、長い指がやさしく髪を梳いていく。


(今少しでも眠れたら、屋敷に戻ってからもうひと踏ん張りできそうだわ)


 家に帰るまでが遠足とよく言うが、夜会に関しては帰ってからもやることが山盛りだ。

 重いドレスを数人がかりで脱がせてもらい、脱力した体で湯あみに向かう。濃く施された化粧を落とし、念入りに肌を整えることも必要だった。結い上げた髪は香油を多く使うので、洗うのは普段以上に苦労する。エラが手伝ってくれるが、今までも眠い目をこすって半分寝ながらこなしていた。


(それに明日はきっとゆっくり眠れないだろうから、今夜中にしっかり体力を回復しとかないと……)


 ここ一週間、ジークヴァルトと身を繋げていなかった。月のもののあとのジークヴァルトは、いつも以上にしつこくねちっこい。明日の夜も覚悟しておくしかないだろう。


 とにかく今夜はやることをやったら、早く眠ってしまいたい。屋敷に着くまでの時間、リーゼロッテは短いまどろみに意識を沈めた。


      ◇

 起こさないようにと、慎重に抱き上げる。よほど疲れたのか、部屋に戻ってもリーゼロッテは深く寝入ったままだ。

 寝台に横たえると、スカートのドレープがはみ出すように広がった。夜会のドレスは細い腰がさらに締めつけられている。それがどうにも痛々しく感じてしまう。


「旦那様、あとはわたしたちにお任せを」

「いい、オレがやる。お前たちはもう下がれ」

「ですが……」


 ロミルダとエラが顔を見合わせ、困った顔をした。


「……分かりました。御用がございましたらすぐにお呼びください」

「ああ、何もなければ、昼まで顔を出さなくていい」


 ふたりが出ていくと、部屋に静寂が降りる。リーゼロッテが息苦しそうに身じろいだ。そっと体を起こし、飾りのリボンの下に隠されていた(ぼたん)を順に外していく。


 背中側、肩口の白い肌の上に、行きの馬車でつけた所有のしるしが刻まれている。見えそうで見えない絶妙な位置だ。だがそれは見えなそうでいて、真上から見下ろすと覗きこむことのできる、そんな位置でもあった。


 リーゼロッテと踊ったあの男も、この(あと)を見ただろうか。軽率な自分の行為にジークヴァルトは苛立った。


 新婚貴族を捕まえてなされる無遠慮な会話は、くだらないほど低俗で()()けだ。男だけの集まりなら尚のこと、彼女との秘め事を想像させる言葉に、抑えようのない殺意が湧き上がった。


 その頭の中で、リーゼロッテが服を脱がされにかかっているのかと思うと、目の前の男どもを全員、呪い殺してしまいたかった。彼女を知る者は自分だけでいい。この世のすべての人間の記憶から、彼女の存在を消し去ってしまえたら。そんな馬鹿げたことを本気で願った。


 重いドレスを脱がし、遠くに放り投げる。きつく絞めあげられたコルセットの(ひも)を緩めると、リーゼロッテは大きく息を吸いこんだ。胸郭(きょうかく)が最大限広がって、次いでゆっくりと息を吐く。


「ん、エラ……? ごめんなさい、わたくし寝てしまっていて……」


 寝ぼけ(まなこ)のまま、リーゼロッテがこの顔を見た。不思議そうに小首を傾ける。


「じーく……ヴぁるとさま?」


 たまらなくなって口づけた。リーゼロッテの瞳に映るのは、自分ひとりだけでいい。このまま永遠に閉じ込めてしまいたい。もう二度と、誰の手にも触れさせないように。


「リーゼロッテ……」

「あ……ヴぁるとさ……ま……」


 漏れる吐息すら飲み込むように、深く深く口づける。


 手にさえすれば、満足すると思っていた。自分のものにしてしまえば、(かわ)きのすべてが消え去ると、そうずっと信じていた。


 リーゼロッテは光だ。多くの人間が吸い寄せられて、いつだって彼女はその中心にいる。


 まばゆく光が増すほどに、ジークヴァルトの闇が際立(きわだ)った。深く重い漆黒(しっこく)(おり)の中、彼女に向かってこの手を伸ばす。掴んでも掴んでもすり抜けていきそうで、得体の知れない焦りと恐怖に、どうしようもなく追い立てられた。


 腕の中のリーゼロッテをさらにきつく抱きしめる。

 華奢な背に滑らせた手の動きに、くすぐったそうに身をよじらせた。


「や……ヴぁるとさま、今夜はもぅ……」

「駄目だ、ここが気持ちいいだろう?」


 疲れている彼女を休ませなくてはと頭では考える。だがこの衝動を、抑えることなどできはしなかった。


 ジークヴァルトはリーゼロッテに対して、(りっ)していることがふたつだけある。そのひとつは、彼女が眠っているときは、決して手を出さないということだ。父ジークフリートに言われたことを、ジークヴァルトはこれまで律儀に守ってきた。

 だが今、リーゼロッテは自分を瞳に映している。与える刺激に反応し、切なげな吐息をもらし続けている。


 やめる理由が見当たらなくて、ジークヴァルトはリーゼロッテの鼻先にやさしい口づけを何度も落とした。


「あ……や、ヴぁ……るとさま……」


 (すが)りつく背を片手で支える。

 しなやかに反りかえる(のど)を唇で追いかけた。逃げる体を膝に乗せ、追い立てるように夫婦の夜にもつれ込む。

 首にしがみつくリーゼロッテが、耳元で熱い吐息を漏らした。


「も、こんやは……ぁるとさま」

「まだだ。まだ足りない、リーゼロッテ」


 何度も夜を共にして、すべてを知り尽くしたはずだった。

 それでもこの瞬間、リーゼロッテはジークヴァルトの名しか発しなくなる。

 リーゼロッテを取り巻くすべてが、自分一色で塗りつぶされる。その世界を、永久のものにしてしまいたい。


 彼女が慣れるまでは夫婦の営みで決して暴走しないように。マテアスからそう強く言われていた。

 律儀に守る二つ目の戒律(かいりつ)を前に、ジークヴァルトはなんとか理性を取り戻す。


「……るとさま……?」


 動きを止めたジークヴァルトを、リーゼロッテが物足りなそうに見上げてくる。その唇を塞ぎ、腕の中に閉じ込めた。

 自らが与える刺激に、リーゼロッテが反応を返す。その事実が、ジークヴァルトをどうしようもなく興奮させた。

 彼女をこんな姿に変えられるのはこの世で己ただひとりだ。


 永遠にリーゼロッテに包まれていたい。

 リーゼロッテが眠りに落ちるまで、ジークヴァルトは止まれなかった。


 狂喜と見まがう至福に溺れ、互いの感覚を分け合いながら、その夜もふたりはひとつに溶けていった。


【次回予告】

 はーい、わたしリーゼロッテ。フーゲンベルク家でお茶会を主催することになったわたし。手始めに仲のいい令嬢たちを招待したものの、うまく場を盛り立てられなくて……?

 次回、6章第5話「公爵夫人の矜持(きょうじ)」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ