表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ふたつ名の令嬢と龍の託宣【なろう版】  作者: 古堂素央
第5章 森の魔女と託宣の誓い

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

437/494

第3話 王の采配

【前回のあらすじ】

 公爵家で小さな異形たちに寄り添いながら、リーゼロッテの時間は穏やかに過ぎていきます。しかしジークヴァルトの過保護は相変わらずで。部屋の外をまったく歩かせてもらえないリーゼロッテは、室内でも運動ができるようにとマテアスにあれこれ相談を持ち掛けます。

 そんな中、エデラー家が正式に貴族籍を抜けたという知らせを受けたエラ。それを聞いたマテアスに、その場でいきなり求婚されて。初めは断るも理詰めで説得されたエラは、最終的に自らマテアスとの結婚を望みます。

 交際ゼロ日婚を果たしたエラは戸惑いつつも、前向きにマテアスと夫婦生活を送ることを決意。リーゼロッテと共に歩む新しい人生に、思いを馳せるのでした。

 上座のひじ掛けで頬杖をつきながら、ハインリヒはしかめ(つら)(まぶた)を閉じていた。頭の中、歴代の王たちの無秩序な声が反響する。(きょう)の乗った夜会よりも、手のつけられない馬鹿騒ぎだ。


 薄く目を開いた先では、ひとりの貴族が糾弾(きゅうだん)されている。あの男は以前から悪政を続けていた伯爵だ。再三にわたる勧告にも上辺だけ応じるのみで、領民から税を搾取し放蕩の限りを尽くしていた。


(大方、財政がひっ迫して、何か悪どいことをやらかしたのだろうな)


 憶測なのは議会の会話が何も聞こえないからだ。王たちの記憶(おしゃべり)がうるさすぎて、繰り返される詰問は、一向にこの耳には届いてこない。


 ブラル宰相が不正の数々を挙げ連ねていく。ああいった場面は、王太子時代に幾度も目にしてきた。聞こえずとも流れなどは、容易に推測できるというものだ。いよいよ悪事を隠しおおせられなくなって、伯爵は今ここに立たされているのだろう。


 だが罪状を言い渡そうにも、ハインリヒに判断することは不可能だ。なにしろ本当に何も聞こえないのだから。


(こんなにも長い期間、放置していたから問題が大きくなるんだ……)


 父の代で適切な対処をしていれば、いたずらに領民が苦しむこともなかったはずだ。王太子であった頃はそう思っていたものの、いざ王の立場になって理解ができた。ディートリヒは対処しなかったのではなく、対処のしようがなかったということを。


 ――そうじゃそうじゃ、考えても無駄なこと!

 ――王冠などただの飾りに過ぎぬ!

 ――我ら王に決定権などない。国の歴史を見守るだけだ!


 王たちが口々に言う。中でもひとり甲高い笑いを発する王がいて、それがたまらなく気に(さわ)った。考える気力もとうに消え()せ、この状況がずっと続くのだと思うと気が滅入って仕方がない。


 この国の王の戴冠(たいかん)(おおむ)ね十六、七歳で行われ、平均在位は十八年だ。動乱の世ならともかくも、平和な国にしてみれば、若すぎる王な上、早すぎる退位と言えるだろう。王座に執着を見せることもなく、王太子に託宣の子ができればみな即座に退位する。ハインリヒとて絶対にそうするはずだ。その日が来ればこの異常事態から、きれいさっぱり解放されるのだから。


 しかしハインリヒの跡継ぎは、いまだアンネマリーのお腹の中だ。順調にいったとしても、その子が王位を引き継げるのは、あと十六年はかかる見積りだった。


(長くて三十年かかった王もいると聞く……)


 これは何の拷問だろうか? 王太子時代の苦悩も葛藤も、この胸に誓った決意ですら、今では陳腐な喜劇に思えてくる。


 ――当代の王よ、そろそろ顔を上げた方が良いぞ


 この声は中でもまともな助言をくれる王だ。そう思いハインリヒは意識を評議場に戻した。みながこちらに注目している。じっと押し黙り、何かを待っているようだ。


 自分に意見を求めているのだ。それが分かりハインリヒは再び目を閉じた。誰ももったいぶっているわけではない。何と返答したものか、考えあぐねているだけのことだった。


 この奇妙な空白の()も、貴族たちの目には王の威厳(いげん)と映っているらしい。それがせめてもの救いだが、これまで押し殺してきたため息は数知れない。


 ――まずは領民の生活を最優先に!

 ――屋敷の雇用は継続じゃ!

 ――適切な監督人は宰相に選ばせよ!


 頭の中の王たちが矢継(やつ)(ばや)に伝えてくる。こういったとき、うるさいおしゃべりも控えめになった。しゃべらずにいられるというのなら、ずっと口をつぐんでいてほしいものだ。


「まずは領民の生活を最優先にして事を進めるように。伯爵家の雇用は継続し、いかなる者も不当に解雇してはならない。不正を精査するにあたって監督人を伯爵家に遣わせること。人選は宰相に任せる。適切な者を選ぶといい。罪状を決めるのはすべてが明るみに出てからだ」


 評議場を見回して、ハインリヒは重い声を響かせた。どの貴族も納得顔だ。内心は盛大に安堵して、何食わぬ顔で豪奢(ごうしゃ)な椅子から立ち上がる。


「宰相、あとは任せた」

「仰せのままに、ハインリヒ王」


 物々しい雰囲気の中、ハインリヒは悠然と評議場を後にした。


      ◇

 王の執務室に戻り、深いため息と共に椅子に背を沈めた。すでに王たちは頭の中で騒ぎ始めている。こめかみを押さえながら、再び長い息を吐く。


 議会や貴族との謁見(えっけん)は、状況がよく分からないまま、王たちの言葉で乗り切っていた。他にやる事と言えば書類に王印を押すだけだ。王位に就いてからというもの、こんな日々が繰り返されている。


(こうなれば誰が王位に就こうと関係ないな)


 自嘲(じちょう)気味に思いながら、置かれた書類の束を手に取った。


 ハインリヒが事の真相を知れるのは、すべてが終わった後、誰かがよこした報告書に目を通した時だ。王たちに言わされた言葉の意味を、ようやくそこで理解する。


 今手にしているのは、カイが持ってきた報告書だった。簡潔にまとめられた文章を、はじめから順に目で追っていく。


 神殿内での媚薬密造の疑い。伯父バルバナスが騎士団を引き連れて神殿に乗り込んだこと。証拠隠滅がなされた媚薬の畑。それでも燃やされた土から検出された違法成分。首謀者の名は、誰もが口を割ろうとしないこと。そして秘密裏に助け出された令嬢の存在――。


 何度読んでも気が滅入るばかりだ。ハインリヒはおざなりに報告書の束を机へと放り投げた。


 あの日、リーゼロッテが夢見の神事を行った時、ハインリヒは王たちに()かされて、訳も分からず祈りの泉へと向かった。そこでジークヴァルトに謹慎を命じたのも王たちの指示だった。


 ジークヴァルトの怒りように、リーゼロッテがどうにかなったのだろうという事は、容易に予想はついた。言わされるがままあんな台詞を口にしたが、よもやこんな事態に(おちい)っていようとは。あまりの驚きに、報告書を前に何度も我が目を疑ったほどだ。


 だがそんな言い訳がジークヴァルトに通用するはずもない。そもそも国の記憶を受け継いだことは、王だけが知る秘匿(ひとく)の事項だ。この事実は最愛のアンネマリーにすら話せないでいる。龍の意思が介在している以上、何が起きてものらりくらりと(かわ)すしかなかった。


(明日にもヴァルトの登城が再開される)


 リーゼロッテを取り戻したとは言え、ハインリヒの行いに対して、いまだ不信感を抱いているはずだ。同じ立場に立たされて、もしもアンネマリーを奪われたならば――。


 考えるまでもなく、出てくる答えはたったひとつだ。自分なら相手を殺しに行くだろう。それこそ国も民もすべて捨て去って、復讐の道を迷わず選ぶに違いない。


 そこまで思って、再び重いため息が口をついた。今ここでジークヴァルトを失うのは大きな痛手だ。政務的に言ってもそうなのだが、やはり気の置けない存在は、ハインリヒにとって掛け替えのないものだった。


「どうしたものか……」


 こんな時ばかりは、歴代の王たちは何も助言してこない。こうるさいおしゃべりをBGMに、ハインリヒはずっと思案に明け暮れていた。


     ◇

「旦那様、お気持ちは理解いたしますが、王前で剣を抜いたりなさらないでくださいよ」


 謹慎が解け、久々の登城を前にマテアスが釘を刺すように言った。ジークヴァルトは眉間にしわを寄せたまま、何も返事を返さない。


「わたしとて旦那様と同じ気持ちです。ですが今問題を起こしたら、リーゼロッテ様との未来がすべて台無しとなるのですよ。ここはリーゼロッテ様のしあわせを思って、どうぞ心をお(しず)めください」


 そんなふうに言われては、ジークヴァルトも黙って頷くしかなかった。出発前にリーゼロッテの部屋へと向かう。外へと一歩も出したくなくて、いつも行われるエントランスでの送り迎えも、必要ないと伝えてあった。


 できることなら出仕になど行きたくない。とにかくリーゼロッテのそばを離れることが怖かった。

 以前のように連れていくことも考えたが、政務のための出仕となると、結局はどこかの部屋で留守番させることになる。また何かあったらと疑念が頭をもたげて、王城になど近づけられるはずもなかった。


「ヴァルト様、お気をつけて行ってきてくださいませね」


 出迎えた笑顔に、波だつ心が穏やかになる。頬に触れるとはにかみながら、小さな手を重ねてきた。かき抱いて離したくなくなる。閉じ込めて、これ以上、誰の手にも届かぬように。


「あの、ヴァルト様……わたくし、お戻りのお出迎えだけでもしたくって」

「駄目だ、戻ったらすぐ顔を見に来る。それまで部屋からは一歩も出るな」

「……分かりましたわ」


 仕方なさそうにリーゼロッテは微笑んだ。自由を奪う行為も、彼女は寛容に受け入れる。

 マテアスには何度も(たしな)められたが、それでも退()けない自分がいた。目の行き届かない不測の事態を思うと、脅迫観念のように失う恐怖が襲い来る。


「旦那様、もう少しリーゼロッテ様を自由にして差し上げても」

「いいのよ、マテアス。わたくしちゃんとお部屋でお帰りを待っているから」

「ですが、いつまでもこの状況でいたら、リーゼロッテ様も窮屈(きゅうくつ)でございましょう?」

「ヴァルト様には今まで心配ばかりかけてきたもの。わたくしこれくらい、なんてことはないわ」

「しかしそれはリーゼロッテ様のせいではございませんし……」


 困り顔のマテアスを前に、リーゼロッテはふわりと笑みを作った。


「それでもご負担にはなりたくないの。その代わりヴァルト様、お戻りになったら少しでもわたくしをかまってくださいませね?」

「ああ、分かった」

「あともうひとつお願いが……」


 もじもじと恥じらいながら、上目遣いを向けてくる。頬を真っ赤に染めたまま、リーゼロッテは大きく両手を広げてみせた。


「お出かけの前に、ぎゅっとしてくださいませっ」


 意を決したように紡がれた言葉に、ぎゅっとなったのはむしろこの胸の奥だった。いろんなものが限界を超えすぎて、衝動であらぬものが爆発しそうだ。触れたら最後、止まらなくなりそうで、手を伸ばすことをためらった。


「何やってるんですか、早く抱きしめて差し上げないと」


 小声で()かされて、歯を食いしばり小さな体を包み込む。やわらかくて、あたたかくて、あまい香りが鼻をくすぐった。力が入りすぎないようにしながらも、きつく閉じ込めて離せなくなる。このまま自室に連れ去って、鍵を掛け、寝台に押し倒して、もう何もかもを手に入れたい。


「ヴァルト様……少し苦しいですわ」


 慌てて腕を(ゆる)めると、はにかむ笑顔で見上げてきた。胸板に頬を寄せ、無防備な体を預けてくる。たまらなくなって、真上から髪に口元をうずめた。(あふ)れ出る何かをごまかすために、リーゼロッテの頭めがけて青の力を吹き込んだ。


「ふひあっ」


 腕の中をリーゼロッテが小さく飛び跳ねる。理性と欲望がせめぎ合って、踏みとどまるために大きく長く息を吐いた。ぎりぎりの所でようやく理性が機能する。傷つけないように。壊さないように。彼女は守るべき存在だ。


「もう、ヴァルト様、突然力を流し込むのはやめてくださいませ」

「オレがいない間の応急措置だ」


 やっとの思いで体を離した。これ以上触れていたら、きっと本当にまずいことになる。


『ヴァルトってなんでそんなに頑固なんだろ? 本能に従っても別にいいと思うけど』

「うるさい、お前は黙っていろ」


 天井から現れた守護者を睨みつけると、マテアスが(いぶか)しげな顔をした。


『もう仕方ないなぁ。今日はオレ、ずっとリーゼロッテのそばにいるからさ、安心して王城に行って来なよ。何かあったらすぐにヴァルトを呼ぶからさ』

「ハルト様がおそばにいてくださるなら心強いですわ」

「駄目だ、部屋には絶対に入るな」

『やだなぁ、リーゼロッテの着替えとかは覗いたりしないって。ヴァルトが見たいって言うなら、遠隔で視せてあげるけど』

「ふざけるな」


 殺気交じりに言葉を返すと、横にいたリーゼロッテがなぜか傷ついたような瞳で見上げてきた。


「旦那様……また守護者ですか? ご心配でしょうが今日はエラもそばにおります。そろそろ出発しないと遅れてしまいますよ」

「ああ、分かっている」


 離れがたくて頬に指を伸ばす。()れたマテアスに促されて、ジークヴァルトは渋々王城に向かったのだった。


     ◇

「もうハルト様ったら、ヴァルト様にあんなことおっしゃるなんて」


 天井から足だけを出してぷらぷらさせているジークハルトに向かって、リーゼロッテは頬をぷくっと膨らませてきた。中に入ると怒られるので、とりあえずここにいるという意思表示だ。


『あんなことって?』

「わたくしの着替えをうんぬんのことですわ」

『ああ、あれね。だってヴァルトってば素直じゃないから』

「そういう問題ではございませんでしょう? ヴァルト様が返答に困るようなことをおっしゃらないでくださいませ」

『うんまぁ、本人の前じゃ見たいとは言えないか』


 それにジークヴァルトは守護者と言えど、他人の目にリーゼロッテが(さら)されるのが我慢ならないのだ。本心では見たいくせに、やはり素直でないとジークハルトは肩を(すく)めた。


「……わたくしの着替えなど、ヴァルト様はご興味ございませんわ」

『んん? なんでそんなこと思うの?』

「だってヴァルト様、そういったことはあまりお好きではないみたいですから。普段のヴァルト様の言動を見ていれば、いくら(にぶ)いわたくしにだってそれくらいちゃんと分かりますわ」


 これはジークヴァルトは女に興味がないと言う意味だろうか? 自分で言って傷ついているリーゼロッテに、ジークハルトは思わず天井から顔をのぞかせた。


『じゃあさ、試しにこうしよっか。リーゼロッテはヴァルトの寝台に入って帰りを待ってるといいよ。あ、もちろん服は全部脱いでね? そしたらいくら鈍いリーゼロッテでも、考えが改まると思うから』

「ヴァルト様の寝台で……? 何を馬鹿なことをおっしゃっているのですか。不在の間にそんな失礼なことをしたら、気持ち悪がられるだけですわ」

『ふたりしてもう面倒くさいなぁ。前にも言ったけどさ、ヴァルトの想像の中でリーゼロッテって、本当に相当ヤバいことになってるんだって。それが分かるいい機会だから、思い切ってリーゼロッテから飛び込んでくれない?』

「や、ヤバいわたくしなど知りたくありません」

『そう言わずにさぁ。ヴァルトが悶々(もんもん)としすぎて、オレがもう限界なんだけど』

「あの、お嬢様……」


 ふたりの会話にエラがおずおずと割り込んできた。エラにはジークハルトが認識できないので、リーゼロッテが天井に向かって独りでしゃべっている奇妙な図式だ。


「そろそろ湯あみの時間なのですが、この部屋の浴室の調子が悪いのです。以前使わせていただいていたお部屋で準備いたしますので、そちらで入っていただけますか?」

「でもこの部屋からは出られないし」

「ですが湯あみはなさりたいでしょう? 先ほど運動もなさいましたし」

「そうね、でも、どうしようかしら……」

「こういった事情なら、公爵様もお許しくださいますよ」


 エラの言葉にリーゼロッテの瞳が揺らいでいる。助けを求めるように、天井へと視線をよこしてきた。


『行って来れば? 大丈夫、ちゃんとそばにいるけど、覗いたりヴァルトに視せたりしないからさ』


 その言葉に顔を赤らめて、リーゼロッテは複雑そうに頷いた。


     ◇

 数か月ぶりの出仕は書類仕事から始まった。外での公務があるからと、ハインリヒと顔を合わせることもなかった。その事にどこかほっとしている自分がいる。


 リーゼロッテが神事から消えた日の出来事が、未だ胸にわだかまったままだ。あの日のハインリヒの行いは、今でも到底許せるものではない。だが彼らしくない言動に、信じられないという思いも大きく占めた。


(王位を継いでからハインリヒは何かが変わった……)


 この国を()べる王はみな、(かんむり)と共に青龍の御霊をその身に宿す。そんなことを年老いた貴族は何かにつけて口にする。あれがそうだと言うのなら、ジークヴァルトも信じざるを得なくなってくる。


 王家に忠誠を誓う貴族として、公爵領を任された当主として、そして何よりも、リーゼロッテの伴侶に選ばれた身として、この(くすぶ)る怒りは見て見ぬふりを貫かなくてはならない。


(大丈夫だ、彼女は彼女のまま戻ってきてくれた)


 傷を負いながらも、その心は変わらず無垢なままだ。以前にも増して(まばゆ)くて、誰の目も引きつけてしまうリーゼロッテが、今は歯がゆくて仕方がなかった。自分以外には触れさせたくない。そんな欲ばかりが際限なく膨れ上がっていく。


 手に届かないうちは存在に焦がれ、いざ腕の中に戻ってくれば、もっと深くを求めてしまう。果てのない欲望は、いつまでも(かわ)きを訴えた。


(駄目だ、彼女の無事をよろこぶべきだ。今はそれで満足しなければ)


 心を無にして政務を続ける。書類の不備を確認し、王印を押すのみとなった書類を選別していく。今さらハインリヒを責め立てても事は何も変わらない。むしろ状況をややこしくするだけだと、己を無理やり納得させた。


「フーゲンベルク公爵様、ハインリヒ王がお呼びでございます。今すぐ来るようにとの仰せです」


 声掛けをしてきた城仕えの者を、思わず眼光鋭く睨んでしまう。委縮する脇を通り過ぎ、ジークヴァルトは玉座の間へと向かった。


     ◇

「お召しにより参上致しました」

「来たか、フーゲンベルク公爵。久しいな」


 久しいも何も、謹慎を命じたのはハインリヒだ。無言のままジークヴァルトは、さらに深い礼を取る。周囲には近衛騎士をはじめ、宰相と幾人かの神官がいた。王に忠誠を誓う貴族として、形だけでも敬意を示さなくてはならない。決して怒りを(おもて)に出さぬよう、ジークヴァルトは無表情を貫いた。


「今日呼んだのは他でもない。(さき)の夢見の巫女が降ろした神託の件だ」


 前の夢見の巫女とはクリスティーナ王女のことだ。その彼女が亡くなってから、二か月以上は経過する。次の巫女は未だに見つかっておらず、二度とリーゼロッテには関わらせまいと、ジークヴァルトは身構えた。


「以前にも伝えた通り、王女が残した神託は、そなたに向けて降ろされたものだ。神殿が出立(しゅったつ)の吉日を占った。断鎖を背負う青き者として、公爵にはシネヴァの森に向かってもらう。これは龍の意思であり王命だ。快く引き受けてくれるな?」

(つつし)んで拝命致します」


 ハインリヒの顔を見ないまま、ジークヴァルトは深く(こうべ)を垂れた。龍の言葉である神託は、託宣と同様この国では絶対だ。厄介事(やっかいごと)だと思っても、突っ張ねることは不可能だった。


(だがリーゼロッテだけは連れていく)


 神託だろうと何だろうと、彼女から離れるなどできはしない。そこは何としても押し切る覚悟を決めていた。


「詳細の日付と道中の経路は、神官長、そなたから伝えてくれ」

「承知いたしました。フーゲンベルク公爵様、まずはリーゼロッテ様が無事にお手元にお戻りになったこと、心からお(よろこ)び申し上げます。あの場ではすべては青龍の意思とお伝えしましたが、公爵様の心中はさぞ穏やかではなかったことでしょう」


 神官長の言葉に、危うく(うな)り声をあげるところだった。リーゼロッテが(さら)われた事に関して、神殿は知らぬ存ぜぬの姿勢を保っている。


 こちらとしても不法侵入をして奪還したとは、大っぴらに言う訳にもいかなかった。神隠しに合ったリーゼロッテが、ある日突然戻ってきたというスタンスなので、神殿に問い詰めることはできないでいるのが現状だ。


 おまけにリーゼロッテの話も曖昧(あいまい)始終(しじゅう)した。龍に目隠しされてうまく伝えられない様子に、つらい事は思い出させたくないと、それ以上は強く聞けなかったジークヴァルトだった。


 すべてが不可解で、何もかも分からないまま、事はあっさりと片づけられてしまった。ハインリヒに問い詰めたところで、この立場を危うくするだけのことだろう。それが分かっているため、動かないでいる。だが本心から納得しているかどうかは、また別の問題だ。


「さて神託についてですが、公爵様の役割は、シネヴァの巫女に降りた言霊(ことだま)を持ち帰ることにあります。()の地へと辿(たど)る道のりも、良き方角を巡って頂く必要がございます。決めごとが多いため、詳細は書面にて公爵家に直接届けましょう」

「承知した」


 どうあってもこの流れに逆らうことはできない。過去の怨嗟(えんさ)にしがみつくよりも、リーゼロッテとの未来を見据(みす)えなくては。


「それではわたしどもは神殿に戻らせて頂きます」


 神官たちがジークヴァルトの脇を通り、玉座の間を後にした。過ぎざまに、ひとりの神官が密やかに(わら)ったのを感じ取る。


 あの盲目の神官だ。いつだか神官長に紹介された覚えがあるが、名は何と言っただろうか。あの日リーゼロッテが、この男に対して必要以上に(おび)えていたことを思い出す。


「人払いを」


 ふいにハインリヒの重い声が響いた。王の言葉を受けて、近衛の騎士がひとり残らず辞していく。

 残されたのはジークヴァルトのみだ。誰もいなくなったことを確かめて、壇上の玉座で頬杖をつくハインリヒを、真正面から睨み上げた。


「ジークヴァルト、お前にはもうひとつ王命を授ける」


 口調を崩しながらも、王としての態度はそのままだ。そんなハインリヒに対して、ジークヴァルトは慇懃無礼(いんぎんぶれい)に腰を折った。


「なんなりと」

「シネヴァの巫女に託宣の神事の許可を出した。行ったついでだ。オデラ()でザスとメアの誓いの儀式を行って来るといい」

「な……――っ!」


 衝撃に言葉を詰まらせた。オデラ湖での儀式は、対の託宣を受けた者の婚姻の(あかし)だ。動揺する心をどうにか押さえ、ようやくの思いで口を開いた。


「だが婚姻の託宣はまだ……」

「真面目だな。対の託宣を受けた者のうち、婚姻を前倒しにしなかった事例の方が少ないくらいだぞ」


 真面目が専売特許のハインリヒに鼻で笑われる。婚姻の託宣が降りる前に子ができて、前倒しで結婚する者は、実のところ半数以上を占めていた。


「いやしかしオレたちはまだ……」


 リーゼロッテに子ができた訳でもない。何しろ(ちぎ)りもまだ交わしていないのだ。そんな状況で龍が婚姻を許すとは思えなかった。


「確かに我らは龍の加護の(もと)にある。だがすべてが言いなりというわけではない。わたしもこの国の王となった。心配せずとも、それくらいの裁量(さいりょう)は許された身だ」


 ハインリヒは余裕の笑みを口元に浮かべた。うろたえるジークヴァルトがそんなに可笑(おか)しかったのか、観察するように返答を待っている。


「本当に……そんなことが許されるのか……?」

「くどいな。リーゼロッテ嬢にはお前とは別に王命を出そう。ダーミッシュ家には王家から連絡しておく。出立(しゅったつ)まで王城に出仕する必要はない。よく心づもりして準備を進めろ」


 そう言ってハインリヒは玉座から立ち上がった。


「以上だ。もう下がっていい」


 王のマントを(ひるがえ)し、ハインリヒは壇上を降りていく。礼を取ることも忘れて、ジークヴァルトは茫然と(たたず)んだ。


「ふっ、間抜け(づら)だな。これもわたしなりの罪滅ぼしだ。その代わり、戻ったら今まで以上に働いてもらうぞ」


 どこか遠くを見据える瞳ではあるものの、王太子時代と変わらない口調でジークヴァルトをいたずらに見やった。


「いいからさっさと帰れ」


 それだけ言い残し、ハインリヒは悠然と玉座の間を出ていった。


 回らない頭で、ジークヴァルトはふらふらと歩き出す。王城の広い廊下に出て、それほど行かないうちに大きな柱にごつんとぶつかった。


「副隊長……!?」


 廊下にいたキュプカー隊長が、慌てて駆け寄ってくる。キュプカーはリーゼロッテが消えた日に、事の次第を()の当たりにしていた。今日もジークヴァルトが何かをしでかすのではないかと、後ろでハラハラと見守っていた口だった。


「大丈夫か? 一体王に何を言われたんだ?」


 ハインリヒ王は先ほど何事もなかったように去っていった。ジークヴァルトが食ってかかった様子もなくて、安堵していた矢先のことだ。


 明らかに普段と違うジークヴァルトに、キュプカーは顔を曇らせる。神事の騒ぎで王が取った行いは、決して()められるものではなかった。それを口にすることはできないが、キュプカーはずっとジークヴァルトに同情的だ。

 だから先日の騎士団の訓練では、リーゼロッテが無事に戻ってきたことに、キュプカーは心からよろこんだ。ジークヴァルトの表情も穏やかで、すべてが元通りになったのだと、そんなふうに考えていたのだ。


「副隊長……?」


 心ここに()らずなジークヴァルトが、本格的に心配になってくる。こんな(うわ)の空な彼は、今まで一度も見たことがない。


「いや大丈夫だ、問題ない」


 ジークヴァルトはふらふらと歩き出した。まったく大丈夫そうには見えないが、本人がそう言っている以上、黙ってその背を見送った。しかしその先で再び柱にぶつかる姿が目に入る。


「いや、ちょっと待ってくれ。副隊長、本当に何があったんだ?」


 もう一度呼び止めるも、ジークヴァルトは構わず先へと進んでいく。打ち付けた額が赤くなって痛々しい。しかしそんなことはまるで気にしていない様子に、キュプカーはひたすら戸惑った。


 そんなジークヴァルトがふいに上方を見やった。普段の顔つきに戻って、宙の一点を睨みつけている。「ハルト?」と呟いたかと思うと、何もない空間に大きく手を伸ばした。


「リーゼロッテ……!」


 次の瞬間、ジークヴァルトがその場から()き消えた。


「副隊長!?」


 辺りの廊下を見回すも、そこにいたはずの姿はどこにも見当たらない。


「……オレは疲れているのか?」


 ごしごしと目をこすりながら、キュプカーはしばらく休暇を取ろうかと、そんなことを真剣に考えた。


     ◇

「ありがとうエラ、もう少し湯に(つか)かっていてもいいかしら?」

「何かあったらすぐお呼びくださいね。ガウンをこちらに置いておきますから、湯から出たらすぐに羽織ってください」


 春めいてきたとはいえ、まだまだ湯冷めしやすい時期だ。頷いてリーゼロッテは首元まで体を湯に沈めた。


「はぁ、気持ちいい」


 広い浴槽で足を延ばしてくつろいだ。この世界は日本のように湯に浸かる習慣があって、本当によかったと思うリーゼロッテだ。


「なんて贅沢(ぜいたく)なのかしら……」


 囚われの身となった時、リーゼロッテは痛切に感じた。当然のように過ごしていた日常は、多くの人間に手により支えられていたのだと。


「ありがとうの反対の言葉は当たり前、か……」


 いつか日本で聞いた知識がふと思い出された。有難(ありがた)いと漢字で書くと、その意味にも納得がいく。


「わたしは誰かに何かをしてあげられるのかしら……」


 こんな贅沢な暮らしが送れているのは、リーゼロッテが伯爵令嬢の立場だからだ。義父のフーゴがいて、公爵であるジークヴァルトの婚約者であるからこそ、享受できる待遇だった。


(わたし個人として、いる意味はある?)


 ふとそんなことを考えた。大好きな人達のために、何か役に立つことができたなら。


 一度エラにして欲しいことはないかと聞いてみた。お嬢様が笑ってくださるだけでエラはしあわせです。そんな答えが返ってきただけで、結局は何もかも任せきりだ。


 ちゃぷりと湯をかき混ぜる。抱えた膝に頭を乗せて、リーゼロッテはとりとめもなく考え込んでいた。


 のぼせる前に上がらなければ。そう思ったとき、いきなり全身に鳥肌が立った。

 あたたかい風呂にいるはずなのに、芯の奥まで一気に冷える。ぞくりと波立つ異変を感じながら、リーゼロッテは揺れる湯面に視線を向けた。


 離れた場所に、泡がこぽりと浮き上がった。ひとつ、ふたつとその数は増えていく。同時に透明なはずの湯が、どす黒い色へと変化した。


 咄嗟に湯船を立ち上がった。こぽこぽと湧き続ける泡を見やりながら、置かれたガウンを後ろ手に探す。掴んだガウンで前を隠しながら、後ずさるように浴槽を出た。


 泡の中心から何かがせり上がってくる。その黒い(かたまり)は、すぅっと水面から顔を覗かせた。頬に黒髪を張り付かせ、異形の女はリーゼロッテをうつろな瞳で凝視する。


「……――っ!」


 恐怖で悲鳴すら出なかった。這い出すように女が手を伸ばしてくる。助けを呼ぼうにも声にならない。戦慄(わなな)きながら下がった足が、(おけ)に取られて転びそうになった。


 その瞬間、支えられた体がふわりと青の波動に包まれた。リーゼロッテを抱き寄せながら、ジークヴァルトが女に向かって力を放つ。

 咆哮(ほうこう)を残し、女の気配が掻き消える。重苦しかった空気が軽くなり、リーゼロッテは早い呼吸を繰り返した。


「ジークヴァルト様……」


 放心したまま名を呼んだ。どす黒かった浴槽も、無色透明に戻っている。確かめるように湯に()けると、ジークヴァルトはすぐにその手を引き上げた。


「もう入っても大丈夫だぞ」

「え、ですが……」


 大丈夫だと言われても、異形が湧き出た湯船など再び入る勇気はない。震える体を小さくしながら、リーゼロッテは無意識のままジークヴァルトに身を寄せた。


「怖いのか? なんなら一緒に入ってやるが?」

「え……?」


 支えていた手のひらが、腰の曲線をわずかになぞった。見上げるとジークヴァルトの視線は下に向けられている。はっと自分の姿を確かめた。


 濡れそぼった体。首筋にはおくれ毛が一筋張りついている。抱えたガウンで前だけはかろうじて隠れているが、背中もおしりも丸出しだ。


「うっきゃあぁあっ!」


 奇声を上げて、湯船へどぼんと飛び込んだ。盛大に水柱が立ち昇り、あたりにもうもうと湯けむりが広がっていく。


「今、侍女を呼んでくる」


 ふっと笑うとジークヴァルトは浴室を出ていった。

 身を抱きしめたままリーゼロッテは、口までつかった湯の中で、ぶくぶくと泡を吐き続けたのだった。


     ◇

「こ、公爵様!?」


 いきなり浴室から現れたジークヴァルトに、エラが小さく悲鳴を上げた。


「どうしてここを使った?」

「あちらのお部屋の湯の出が悪くて……でもなぜ公爵様が」

「不測の事態だ。もう問題ないが彼女についていてくれ」


 エラがリーゼロッテの元に行ったのを確かめると、ジークヴァルトは部屋を出た。ここはリーゼロッテが以前使っていた客間だ。ジークヴァルトの部屋からいちばん遠い場所にある。


 使うこともなくなって、ジークヴァルトの力が薄れていたようだ。そこを異形に狙われた形だ。あの程度の強さの異形なら、今のリーゼロッテの脅威にはならない。そうは思うが、もしジークハルトが自分を呼ばなかったなら、一体どうなっていたことだろう。


 出た廊下では、そのジークハルトがあぐらをかいて待っていた。宙に浮いたまま体を揺らし、たのしげな視線を向けてくる。


『いいところを呼んであげたんだし、せっかくだから一緒に入ってくればよかったのに。王城で婚姻の前倒しの許可をもらったんでしょ?』

「許可は出たが、まだ婚姻を果たしたわけではない」

『似たようなものじゃない、ほんとヴァルトってやせ我慢が好きだよね。もうしょうがないな~。最後まで我慢するって言うなら、オレもヴァルトにつきあうけどさ』


 肩を(すく)めてへらりと笑う。そんな守護者をジークヴァルトは真っすぐと見つめた。


「……今日は助かった。礼を言う」

『どーいたしまして』


 そう言ってうれしそうに目を細める。


 ――自分にはジークヴァルトを守ることはできないから

 だからヴァルトの大事なリーゼロッテだけは、一緒に守ってあげる。


 守護者の小さなつぶやきは、ジークヴァルトの耳には届かない。リーゼロッテの支度が整うのを待つ姿に、ジークハルトは穏やかな瞳を向けた。


『ねぇ、ヴァルト』

「なんだ?」

『それ大丈夫? すっごく鼻血が出てるけど』


 ジークヴァルトは無表情のまま、これ以上なく逆上(のぼ)(あが)っている。確かめるように鼻を押さえるも、ぼたぼたと床に落ちるは見事な鮮血だ。


『あの程度でこんなになるなんてな~。想像ではあんなすごいことしてるのに、ヴァルトって案外初心(うぶ)だよね』


 初夜の寝台ではどうなるやらと、呆れを交えつつ、ジークハルトは満面の笑顔になった。


【次回予告】

 はーい、わたしリーゼロッテ。ジークヴァルト様に降りた神託のお供で、最果ての地に向かうことになったわたし。貴族として初めての正式な王命に、気の引き締まる思いです! 旅の準備で大忙しの中、フーゴお義父様たちがわたしに会いに来て……?

 次回、5章第4話「はなむけの言葉」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!! 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ