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ふたつ名の令嬢と龍の託宣【なろう版】  作者: 古堂素央
第4章 宿命の王女と身代わりの託宣

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第19話 救国の聖女

【前回のあらすじ】

 神官見習いマルコの身柄を取り戻すべく、神官長自らが直談判にやってきます。騎士団の長である王兄バルバナスは、その要求を跳ねのけて。殺されたクリスティーナ王女を病死としたハインリヒ王に、青龍への不信感を募らせるバルバナス。

 そんな中、意識を取り戻したリーゼロッテの元に、アルベルトが訪ねてきます。クリスティーナからの手紙を渡されたリーゼロッテは、王女が受けた託宣の真実を知って。

 誇り高く生きた王女を否定しないで欲しい。アルベルトの言葉に頷くしかないリーゼロッテは、ようやく公爵家に帰る許可をもらうのでした。


「え? 帰るのを一日待ってほしい?」

「はい、なんでも神殿からそう申し入れがあったそうで……」

「神殿から……?」


 エラの言葉に首をかしげる。事情聴取は終わったので、もう帰っていい。騎士団からそう言われ、明日にフーゲンベルク家に戻ることになった。朝一で出発できるようにと、帰り支度を始めた矢先のことだ。


「いい、従う義務はない」


 エラとのおしゃべりを黙って聞いていたジークヴァルトが不機嫌そうに言った。手を引かれ膝に乗せられる。そのままあーんが始まった。離れ離れの日々が続いてノルマはたまりにたまった状態だ。ひな鳥のごとくリーゼロッテはおとなしく口を開いた。

 だが数口食べると、もうお腹がいっぱいになってくる。王女のことがあってから、食べる気力も湧かなかった。そんな様子を見て、ジークヴァルトも伸ばしかけた手を途中で止めた。


「本当に帰っても大丈夫なのですか?」

「ああ、予定通り明日には戻る。このまま準備をしておけ」


 エラが頷き、帰り支度を再開すべく部屋を出ていった。ふたりきりになって沈黙が訪れる。

 膝抱っこも久しぶりすぎて、妙に緊張してしまう。以前は平気だったはずなのに、うれしいのに落ちつけない。こんなときどんな会話をしていただろうか。顔を見上げるも、ジークヴァルトは黙ったままだ。


(何か話題を探さなきゃ……)


 そんな思案をしていると、大きな手が確かめるようにおでこにあてられた。


「まだつらいのか?」

「え、いえ、もう熱は下がりましたから」


 リーゼロッテはその手を頬へと導いた。寝込んでいた間の記憶は飛び飛びだが、ずっとそばにいてくれたように思う。預けるように頬ずりすると、肩を強く抱き寄せられた。


「ご心配をおかけしました。でももう大丈夫ですわ」

「そうか」


 体内で力が満ち溢れているのが分かる。ふわふわと掴みどころのなかった緑は、無駄に漏れ出ることなく、今はきちんとこの身に収まりきっていた。


「どうした?」

「力の流れが穏やかで、今までにない感じがなんだか不思議で……」


 それは奥底にあった固い(つぼみ)が、大きく花開いたような感覚だ。大輪の花が輝きを放ち、この胸の中で咲き誇っている。


「それがお前の本来の力だ」

「本来の……」

「膜がお前を守っていると言っただろう? あれが今は随分と(ほど)けている」


 マントのような何かが、体を覆っているのが確かに感じ取れた。自分のものではないあたたかな力だ。


「これがマルグリット母様の力……?」

「ああ、そうだ」


 声すら覚えていない母の面影は、淡い記憶の中、いつでも儚げにほほ笑んでいる。まだ自分を守ってくれている。そう思うと心強かった。


「お前の力はずっとその膜の中に閉じ込められていた。守護者と調和がとれなかったのもそのせいだ」

「では今はちゃんと調和できているということですか?」

「ああ、これからは以前のように、力が不安定になることもないだろう」


 リーゼロッテの守護者は聖女だと聞いている。


(いつだかハルト様に、黒髪で顔の薄いおもしろ系の聖女様って教えてもらったっけ……)


 いまだによく分からない言い回しだが、おもしろ系なら陽気な聖女なのかもしれない。そんなことを考えてリーゼロッテは口元を小さく(ほころ)ばせた。


「やっと笑ったな」

「え?」


 見上げると青い瞳がやさしく細められた。ふさぎ込むをリーゼロッテを、ずっと心配していたのだろう。今は素直に甘えたくて、背に回した手にぎゅっと力を入れた。


「お、お嬢様っ!」


 珍しく騒々しく飛び込んできたエラに顔を上げる。青ざめた顔でわたわたしながら、エラは声にならないまま扉に向かって礼を取った。


「取り込み中すまない」

「お……!」


 王子殿下と言いそうになって、彼はもうこの国の王なのだと慌てて口をつぐんだ。ジークヴァルトの膝を無理やり降りて、ハインリヒに向けて最大級の礼を取る。


「いい、私的な訪問だ。顔を上げてくれ」

「何の用だ」


 一国の王に向かって、ジークヴァルトは憮然とした態度で言った。驚いてその顔を見やると、ハインリヒを睨みつけている。


「用があるのはお前ではない」


 気に留めた様子もなく、ハインリヒはリーゼロッテに視線を向けた。王となって初めて対面する彼は、なんだか凄みが増している。


「リーゼロッテ嬢、君に頼みたいことがある」

「はい、何なりと」


 何も考えずに返事をすると、「話を聞いてからだ」とジークヴァルトの眉間のしわが深まった。


「夢見の巫女が不在の今、神殿から不満の声が上がっている。今まで巫女は王家直系の血筋から生まれてきた。だがピッパ王女にその力はない」

 そのため王家を不安視する者が増えているのだとハインリヒは付け加えた。


「夢見の巫女が……」


 その役目はクリスティーナが負っていたものだ。彼女が亡くなって、後継者がいないということだろう。そう理解して、すぐにルチアの存在を思い出した。ピッパ王女によく似た容姿の彼女は、王族の落とし(だね)だと推測しているリーゼロッテだ。


「あの……ルチア・ブルーメ子爵令嬢のことは……」

「ああ、彼女も含めて後継となり得る者を調査しているところだ。だがそれにはまだ時間を要する」


 恐る恐るした問いかけにあっさりと返されて、ルチアが王族の血を引くことは間違いないのだと知る。


「王妃の宿す子が、その(せき)(にな)っているかもしれないだろう?」


 警戒するようにジークヴァルトがリーゼロッテを腕に抱え込んだ。プライベートな場とはいえ、やはり王前だ。戸惑いながらジークヴァルトの顔を見上げるが、この手を振りほどくこともできなかった。


「わたしの龍のあざが消えたということは、アンネマリーが宿すのは確実に次代の王だ。双子でも生まれない限り、お前の言う可能性はない」


 この国で女王が誕生したことは歴史上一度もなかった。王となる託宣を受けた者は、これまで必ず男として生を受けている。


「事情は理解しました。ですがわたくしにできることなどあるのでしょうか……?」


 遠い先祖が王家の血を引くものの、リーゼロッテは直系というわけではない。そんな自分に頼み事など、一体何があるというのだろう。


「新たな神託が降りている」

「神託が?」


 それに振り回されて、今日に至っている。嫌な予感がするが、今さら聞きたくないと言えるはずもない。


「夢見を継し者見定(みさだ)めるまでは、来たる聖女を泉に招くべし。王女が最後に受け取った神託だ」

「クリスティーナ様が……」


 リーゼロッテを(かば)って王女が死んだことを、ハインリヒも知っているはずだ。彼から非難の色はまったく見えず、王女の死は本当に託宣で決められていたのだと改めて思った。


「君の守護者は聖女だろう? この神託にうってつけだ」

「うってつけと申されましても……」

「いや、君以外に適任者はいない。次の夢見の巫女が見つかるまでの間、神事を務めて時間稼ぎを頼みたい」


 力強く言われるも、おかしな雲行きに困惑しかなかった。


「リーゼロッテに夢見の力はない」


 隠すようにさらに抱き寄せられる。断固拒否の構えのジークヴァルトに、ハインリヒは表情を崩すことはなかった。


「必要なのは聖女という肩書(かたがき)だ。リーゼロッテ嬢は先日の騒ぎで聖女の力を解放した。あの力を身をもって感じた神官は数多くいる。その話はお前の耳にも届いているだろう?」


 ジークヴァルトの顔がさらに険しくなった。リーゼロッテがこれ以上厄介事(やっかいごと)に巻き込まれるのが嫌なのだろう。そのことがひしひしと伝わってきた。

 ジークヴァルトがそんなことを考えていることくらい、ハインリヒにも分かっているようだ。だからこそ直接交渉しに来たのか。ハインリヒの頼みを断り切る自信など、リーゼロッテにあるわけなかった。


「聖女……わたくしの守護者は、また王城中の異形を(はら)ったのですか?」

「王城だけではない。あの日、聖女の力は神殿までも広がった」


 城から神殿までとなると、とてつもなく広い範囲だ。想像ができなくて、リーゼロッテはただ首をひねった。


「神官の中には、聖女の力を神聖視する者が多く現れている。君の存在は神殿の不満を抑えるのに十分だ」

「ですが本当にわたくしに務まるのでしょうか……」


 龍の言葉である神託に対して、そんないい加減な感じでいいのだろうか? ジークヴァルトの言う通り、リーゼロッテに夢見の力はない。時間稼ぎをしろと言われても、一体何をどうすればいいのか分からなかった。


「君はただ神事に出るだけでいい。祈りの泉に(つか)かるだけの簡単な仕事だ」


(なんだか怪しい副業を勧めるような台詞ね……)


 だがそれならば受けてもいいかと口を開きかけたリーゼロッテを、不機嫌なジークヴァルトの声が(さえぎ)った。


「彼女の体力はまだ回復していない」

「神事は一時間もかからない。とりあえず明日(こな)してもらえれば、その後は公爵家に帰っていい」


 戻る日が一日延びるだけだ。そう言われてジークヴァルトは、不満そうにしながらも口をつぐんだ。


「無理()いはしないが、神殿からも君を要望する声が上がっている。国の安泰(あんたい)のためと思って協力してくれないか?」


 王にそこまで言われては、断るなどできないだろう。


「承知いたしました。わたくしがお役に立つのなら、よろこんでお受けいたします」


 口元に笑みを浮かべたハインリヒと対照的に、ジークヴァルトの唇が引き結ばれた。


     ◇

「なぁ、明日の夢見の神事はいつも通り行われるんだって?」

「降りた神託通りに、聖女が泉に招かれるって話ですよ」

「聖女? 聖女って誰だ?」


 雪かきを終えた若い神官がふたり、あたたかい部屋でお茶を飲みつつひと息ついていた。


「知らないんですか? 第一王女の神事があった日、清廉(せいれん)な力が広がったじゃないですか」

「ああ、あれ、すごかったな! 神殿中の空気が浄化される勢いだった」

「あれ以来、猟奇事件も起きてないですしね。犯人捜しでギスギスしていた暗い雰囲気も、なんだかすっかり落ち着きましたし」


 それどころか、誰もが穏やかな気持ちで日々過ごしている。心が洗われた。そう表現するのがしっくりする感じだ。


「その力の持ち主が、亡くなった王女の代わりに神事を務めるそうですよ。なんでもラウエンシュタインの血筋の令嬢だとか」

「ラウエンシュタインの……? あそこは最後の女公爵が、龍の花嫁になったんじゃなかったっけ?」

「ひとり娘がいるって聞きました。噂話なんで、本当かどうかは分からないですけど」

「へぇ、そうなんだ。神事にはまた神官長とヨーゼフ様とレミュリオ様が行くんだろうな。お供はここんとこマルコばかり選ばれるし……ってそういや最近マルコ見かけないな?」

「言われてみれば……別の場所に配属にでもなったんでしょうか?」


 ふたりで首をひねるも、下っ端神官に流れてくるのは噂話ばかりだ。


「でもその聖女って夢見の巫女ってわけじゃないんだろ? 巫女がいないと神託が降りてもすぐに分からないからな」

「第一王女も、実はあんまり役に立ってなかったって本当ですか?」

「王女ひとりでは神託を降ろせないから、シネヴァの森の魔女が力を貸していたって話は聞いた」

「それを王女は我々神官に伝達していただけなんですね。そりゃ、いないよりはましでしょうけど」

「王女がいないと最果てにあるシネヴァの森まで、いちいち聞きに行かなきゃならないからなぁ」


 内容とは裏腹に、のほほんとした口調で言う。


「でもそうかー、聖女かぁ。どんな姿してるかひと目見てみたいなぁ」

「聖女だからって美人とは限らないんじゃないですか?」

「お前、そんな夢のない事言うなよな」

「今回は申請すれば神事に参加できるって聞きましたけど。廊下での待機ですけど、そんなに見たければ行ってきたらどうです?」

「それを早く言ってくれよ! 申請まだ間に合うかな? とりあえず確認してくる!」


 飛び出していった背を見送って、残された神官はのんびりと茶を含む。


「明日も寒くなりそうだ」


 雪が降りだした外を見やり、穏やかな午後にあくびを漏らした。


     ◇

 王城中が喪に服す中、リーゼロッテは白一色のロングドレスとヴェールを(まと)い、長い廊下を進んでいた。神官長を先頭に、後ろには黒い騎士服を着たジークヴァルトが続く。

 廊下の両脇にはずらりと神官たちが並んでいる。物々しい雰囲気に、リーゼロッテはすっかり気押されていた。


 不躾(ぶしつけ)な神官たちの視線が先ほどから痛すぎる。この国では神官は貴族と対等の立場だ。貴族に対して敬意を払うことはあっても、いたずらに媚びへつらうことはしてこない。

 夜会での盗み見るような視線も苦手だが、こうあからさまに好奇の目を向けられるのも落ち着かなかった。


(ヴァルト様がいてくれなかったら、逃げ出したくなったかも)


 ハインリヒは神事の間、ジークヴァルトがそばにいられるよう配慮してくれた。泉での神事にはひとりで(いど)まねばならないが、護衛騎士として付き添ってくれることが心強い。

 ジークヴァルトを従えているようで、それは申し訳なく思えたが、聖女らしく見えるようにと背筋を伸ばし歩いていった。


(できるだけゆっくり歩くように言われたんだっけ)


 神官たちに聖女の存在を見せつけるように。

 ハインリヒ王にそう注文されて、国を治めてまとめ上げるとはいろんな苦労があるものだと、リーゼロッテはそんな感想を抱いた。


(でもどうしてハインリヒ王は命令しなかったのかしら……?)


 回りくどく頼みごとをしなくとも、王命にしてしまえばジークヴァルトもあんなふうに渋ることもなかったはずだ。勅命(ちょくめい)を出せば、書類一枚でことは済む。多忙の中、わざわざ自らが(おもむい)た理由もわからなかった。


「あれが救国の聖女……」

「なんとも清廉なお姿だ……」


 進むごとにそこかしこから、そんな囁き声が聞こえてくる。


(救国の聖女……? わたしそんな肩書になってるの!?)


 妖精姫などというこっ恥ずかしいふたつ名よりましだろうか。聞こえなかったふりをして、なんとか平静を保つ努力をした。


「まさにあの時の神聖な力だ……」

「ああ……癒しの精霊姫の名に相応(ふさわ)しい……」


(なんかおかしなふたつ名増えてるし……!)


 涙目になりそうなのを必死でこらえる。ヴェールで顔を覆っているものの、薄いレースでは表情を隠しきることは叶わない。


 その後も美しい、可愛い、綺麗だ、可憐だ、癒されるなどなど。神官たちから異口同音に称賛の声を浴びせかけられる。憧れのまなざしと共にされる会話は、ひそひそ話のようでいて、あたりの廊下に響き渡っていた。


(みなさん、そのお声、ばっちり聞こえてますから……)


 それはジークヴァルトも同様で、後ろから神官たちを威圧しまくっていることにリーゼロッテは気がつかなかった。


 羞恥に(さいな)まれながらも、ようやく神事が行われる部屋へとたどり着いたのだった。


     ◇

 ジークヴァルトを廊下で待たせたまま、神官長に中へと誘われる。小部屋へと通されて、その奥に古びた扉があるのが見えた。

 その前にいた中年神官が、見定めるような目つきを向けてくる。


「ヨーゼフ、レミュリオはどこへ?」

「外の神官たちを取りまとめに。(じき)に戻るでしょう」

「そうか」


 短い会話の後に、神官長はリーゼロッテを振り返った。


「ではリーゼロッテ様。祈りの泉へとご案内します」

「はい、よろしくお願いいたします」


 緊張しながら頷いた。開かれた扉をくぐると、中は思った以上に広い空間が広がっていた。

 石造りの壁の部屋の中央に、丸い大きな泉が湧いている。静かな水面(みなも)は、磨き上げられた鏡のように、天井の模様を映していた。


「あの泉に浸かっていればいいのですか?」

「はい、時間になればまたお迎えに上がります。恐れずともここは青龍の聖域。あるがままにお過ごしください」


 そう言って神官長はすぐ出て行ってしまった。ひとりきりで残されたリーゼロッテは、泉へと歩み寄る。


(あの日、クリスティーナ様もここで過ごされていたのよね……)


 沈んだ気持ちで覗き込むと、水の中、泉の(ふち)が階段状になっていた。見ようによってはただの室内プールだ。それでも恐る恐るリーゼロッテは水面に足を延ばした。

 裸足の指先が触れ、波紋が泉の表面を広がっていく。


(あれ? 意外と冷たくない)


 思い切って片足を突っ込んだ。水に入った感覚はあるのに、まるで冷たさを感じない。

 かといって、お風呂のようにあたたかいかというとそうでもない。不思議な感触の中、本格的に泉へと踏み入れた。


 水中の階段を(くだ)って、泉の床へと降り立った。そこまで深くはないが、王女より背の低いリーゼロッテは、胸下まで体が浸かった状態だ。

 ざぶざぶと中へと進んでいく。水の深さは変わらないようで、天井の模様を目印に、だいたいこの辺りかと泉の中央で立ち止まった。


 自分が作った波で、水面がゆらりゆらりと盛り上がる。そこに壁に灯された蝋燭(ろうそく)の炎が反射して、なんとも幻想的な模様を描いた。


 やがてその波紋も静まって、再び泉は天井の模様と同じになった。冷たさも温かさも感じないまま、リーゼロッテはしばらく息を殺して(たたず)んだ。音もしない場所で、どれだけ時が過ぎたかも分からなくなる。


「そうか……自分の体温とおなじなんだわ……」


 気を(まぎ)らわすようにつぶやいた。(すく)い取ると、さらさらと水が両手をこぼれていく。


「不思議……まったく濡れてない……」


 持ち上げた手に水滴すら残されない。浸かったヴェールの先も、長い髪の毛すら、泉から出してしまえば噓のように乾いた状態になった。


「水に入ってるって感じはするのに」


 かき回すように手を動かすと、水面に映る自分の顔もゆらゆらとかき混ぜられた。


「それにしても暇だわ……」


 自分の声だけが響く中、ぼんやりと天井を見上げる。ジークヴァルトの言うように、まだ体力は回復しきっていないようだ。何かしていないと眠ってしまいそうで、リーゼロッテは水中でロングドレスのポケットをごそごそと探った。


「こんなこともあろうかと、こっそり持ってきたのよね」


 取り出した知恵の輪をかちゃかちゃといじり出す。だが立ったままでいるのもおっくうになってきて、次第に睡魔が押し寄せてきた。


(駄目だわ……とりあえず、泉の中にいればいいのよね。どうせわたしがいたって、神託が降りるはずはないんだもの)


 夢見の力を持たない自分は、ただのパフォーマンス要員だ。誰も見ていないのをいいことに、リーゼロッテは水中の階段に腰を下ろした。

 (へり)に両腕をかけて、その上に(あご)を乗せる。神官長が迎えに来た時に、それらしく立ち上がればいいだろう。


(本格的に眠らないようにしないと……)


 膝の深さがあればひとは溺れ死ぬこともあるらしい。濡れない泉でも溺れるのだろうか。そんなことを思いつつ、やはりうとうととなってくる。ゆらゆら(ただよ)う水の中は、なんとも言えずに心地よかった。


「……はやく迎えが来ないかしら」


 そうつぶやいて、重いまぶたを閉じる。そのまますぅっと寝入ってしまった。


 音がなくなった部屋の中、リーゼロッテの力が染み出すように広がった。無色透明だった泉の水が、隅々まで緑色に変化していく。


 やがて満ちた力が、水面からエメラルドの輝きを立ち昇らせる。天井に反射して、緑の光が走るように刻まれた模様をなぞっていった。


 浮き出した天井の文様から、再び緑の光が振り注ぐ。神聖な輝きを身に受けながら、リーゼロッテは深い眠りに落ちていた。



「素晴らしい……ラウエンシュタインの力で、こんなにも青龍の神気が歓喜している」


 音もなく現れた神官――レミュリオが感嘆の声を漏らした。閉じた瞳のままゆっくりと部屋の中を見回して、堪能(たんのう)するように深く息を吸い込んでいく。


 次いで泉の縁で突っ伏して眠るリーゼロッテへと顔を向け、その口元に笑みを刻んだ。


「マルコさんはミヒャエル様よりも、よほど役に立ちましたね」


 ゆっくりと近づいて、すぐそばで片膝をつく。レミュリオはリーゼロッテの肩に流れる髪をひと(ふさ)持ち上げた。



「ようやく手にできました――わたしの花嫁」


【次回予告】

 はーい、わたしリーゼロッテ。祈りの泉から忽然と姿を消してしまったわたし。青龍の意思だと調査をさせない神殿に食ってかかるジークヴァルト様は、ハインリヒ王に謹慎を言い渡されて……。

 次回4章第20話「龍の花嫁」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!

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