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ふたつ名の令嬢と龍の託宣【なろう版】  作者: 古堂素央
第4章 宿命の王女と身代わりの託宣

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第8話 いたずらな吐息

【前回のあらすじ】

 クリスティーナ王女の東宮で、ジークヴァルトと手紙のやりとりをしながら過ごすリーゼロッテ。会話する相手もいない退屈な日々を送っていたある日、鶏のマンボウに追われる神官見習いの少年マルコと出会います。

 東宮での生活も慣れてきたとき、王女からジークヴァルトの元へ一度帰れると告げられて。クリスティーナの抱える何かを感じつつも、ふさぎ込む気持ちは一気に吹き飛ぶのでした。

 二十歳の誕生日を目前にして、エラは崖っぷちに立たされていた。


(ああ! どうしてこんなに覚えることが多いの……!)


 目の前に積まれるのは分厚い書物の数々だ。その山にうずもれて、何冊も同時にページをめくりながら、大切な個所は羊皮紙にメモを取る。その作業をエラは一日中繰り返していた。


「焦っては駄目だわ。ちゃんと頭に入れないと」


 自分に言い聞かせながら、羽ペンを握りしめる。羊皮紙は安いものではない。インクをにじませないよう、慎重にペン先を滑らせた。


 エラが今やっているのは「準女官」の資格を取るための勉強だ。


 リーゼロッテはいきなり遥か東宮へと連れていかれてしまった。すぐにでも追いかけようとしたエラだったが、東宮に住まうは王族のひとり、しかも第一王女ときた。


 王族の居住区に世話係として、ただの侍女は足を踏み入れることは許されない。その資格を持つのは女官だけだ。招かれてその場に滞在することになった貴族の世話も、女官がするものと決まっていた。

 しかし女官に準ずる作法を身に着けた侍女は、準女官の資格を与えられる。王族の世話はできなくとも、滞在する貴族の世話だけは可能になるのだ。


(リーゼロッテお嬢様のために、なんとしても試験に合格しなくては……!)


 この試験は希望があればその都度実施してもらえるが、未婚の令嬢は受験資格が二十歳未満という縛りがあった。既婚者は制限がないらしいが、とにかく独り身のエラは、二十歳の誕生日を迎える前にこの試験に絶対に合格しなくてはならなかった。


(お嬢様はどんなに心細い思いをされていることか)


 ひとり(さら)われるように連れていかれたリーゼロッテを思うと、エラの心は千々(ちぢ)に引き裂かれそうだ。届いた手紙には元気でやっていると書かれていたが、やさしいリーゼロッテのことだ。いろいろと気を使って、きっと我慢をしていることだろう。

 一刻も早く試験を受けて、リーゼロッテの元に駆け付けたい。その一心で試験勉強に励んでいる。


 試験内容は後宮で身に着けるべきしきたりや作法がほとんどだった。長い歴史の中、形式的な手順を取る複雑な作法が多く、文字だけでは理解できないことも数多い。

 そんなこんなで公爵家の書庫に入り浸って、机にかじりつく日々を送っているエラだった。


「エラ様、あまり(こん)をお詰めにならない方が……。食事もろくにお取りにならないと、マテアスが心配しておりましたよ」


 やってきたのは公爵家の侍女長を務めるロミルダだ。マテアスの母である彼女は、侯爵令嬢から使用人になった変わり種である。


「そうは言っても時間がなくて……」

「ちゃんと栄養を取らないと、効率も上がらないというものですよ。昼食がてら一度休憩なさってください」

「……はい」


 渋々握っていた羽ペンをペン立てに戻す。


「それでエラ様、明日王城に行く用事がございまして、よろしければわたしと一緒に参りませんか?」

「王城にですか?」

「エラ様は以前、リーゼロッテ様と一緒に王城に滞在されていたと聞きました。そのとき世話になった人間に、準女官試験のことを聞いてみてはいかがでしょう?」


 エラは目を見開いた。確かにあのとき、王城勤めの者といろいろと交流していた。滞在したのは王族の居住区外の客間だったが、後宮の女官も時々手伝いにきてくれていた。


「行きます! ぜひ一緒に行かせてください!」


 試験内容や、理解できない箇所も質問できるかもしれない。前のめりで返事をしたエラに、ロミルダは頷いて笑顔を返した。


「実はこれはマテアスが言い出したことなのですよ」

「マテアスが?」

「あの子はエラ様のことが心配で仕方ないみたいで。……それはそうと、エーミール様とは最近問題はございませんか?」


 ロミルダにはエーミールとの間にあったことを、マテアス経由で打ち明けた。これも女性同士の方が相談しやすいだろうというマテアスの気づかいだ。


「はい……あれからは特に何もありません」


 時折視線を感じると、その先にエーミールがいることがある。しかしそれ以上のことは何もない日々が続いていた。


「エラ様はエーミール様をお(した)いしてらっしゃるのでしょう? マテアスの言うように、今一度お話し合いをなさってもよろしいのでは? もちろんその時はわたしも立ち会いますし」

「気持ちはうれしいですが、わたしはリーゼロッテお嬢様のために生きると決めました。それ以外の未来は考えられません」

「そうですか……。エラ様、差し出がましいとは分かっています。ですが、もうひとつだけ言わせてください」


 (かたく)ななエラに、やさしく(さと)すようにロミルダは続ける。


「貴族籍を抜けると、エーミール様は本当に手が届かない存在となってしまいます。でも今ならまだ間に合います。ですからそのことだけは、もう一度お考えになってほしいです」

「どうして……マテアスもロミルダも、そんなにわたしのことを気にかけてくれるのですか……?」


 エラの実家エデラー男爵家は、近々爵位を返上しようと考えている。手続きは進んでいると父親から聞いていた。そう何度も説明しているのに、どうしてだかマテアスは、エーミールと自分の仲を近づけようと進言してくる。


「わたしは侯爵家の出ですからね。貴族籍を抜けたあと、いろいろと苦労してきました。マテアスもその姿を見て育ってきたので、きっとそれで尚更(なおさら)エラ様が心配なのでしょう」


 友人だと思っていた人間のほとんどが、貴族でなくなった途端、手のひらを返したように態度を変えた。使用人など、人とも思っていない貴族も多い。その変貌(へんぼう)ぶりは目を見張るものがあった。

 その上、世間知らずな箱入り令嬢だったロミルダだ。いきなり使用人として生きていくのも、苦難と失敗の連続だったのは言うまでもない。


「それでもロミルダは後悔していないのですよね? 今の道を選んだことを」

「ええ、そうですね。わたしはエッカルトと共に生きることを自分で望みました。それを悔やんだことは一度もありません」


 エラの決意が固いことを受け止め、ロミルダはそれ以上、口を出さないことにした。もとはと言えば、マテアスの思いを()んで意見したことだ。


「昼食はエラ様のお部屋に用意させます。今はひとまずご休憩なさってください」


 書庫を出ていくエラを見送りながら、不器用な息子を思う。マテアスだってエラのことを好きだろうに、エーミールとの仲を取り持とうとするのは、彼女の未来を思ってのことだろう。


(わたしだったら、ちゃっかりエラ様を手に入れようとするけれど)


 エーミールのことなど忘れさせて、自分の手で全力でしあわせにすると思う。実際にエッカルトを誰にも()られたくなくて、ロミルダはそれ以外のすべてを捨てた。押して押して押しまくって、その結果エッカルトの妻の座を勝ち取ったのだ。


「変に(およ)(ごし)なところは、エッカルトに似たのかしらねぇ」


 もっともエラにその気がないのだから、マテアスが迫ってもフラれるのが落ちだろう。それが分かっているからこそ、何もできずにいるのかもしれない。


 マテアスは(じき)に公爵家の家令を継ぐ。そろそろ伴侶を決めないとならなかった。

 候補の相手は何人かいるが、なんにせよ早く孫の顔が見たいものだ。そんなこと思いつつ、ロミルダも書庫を後にした。


     ◇

 エラはとぼとぼと王城の廊下を歩いていた。ロミルダとは別行動で、以前世話になった者たちを探し回った。だが話ができたのは下働きの人間ばかりで、女官には誰ひとりとして会えず仕舞(じま)いだ。


(やっぱり男爵令嬢の立場じゃうまくいかないわね……)


 あの時は公爵の婚約者であるリーゼロッテがいたからこその待遇だったのだ。そのことを痛感して、こんなことなら書庫にこもって勉強を続けていればよかったと、エラは大きく肩を落とした。


「あれ? エラ嬢、王城(ここ)にいるなんて珍しいね」

「デルプフェルト様、ご無沙汰しております」


 突然カイに呼び止められて、エラは慌てて礼を取った。不思議顔のカイに、王城に来た理由とともに準女官試験を受けるつもりであることを話す。


「ああ、そっか。リーゼロッテ嬢は今クリスティーナ様のところにいるんだっけ」

「はい……お嬢様のためになんとしても試験に合格しないとならないのです」

「準女官の資格ならベッティが持ってるけど……」

「ベッティが!?」


 言われてみればベッティは王妃の離宮にある星読みの間で、アンネマリーやリーゼロッテの世話をしていた。そんな身近な知り合いに有資格者がいたことに、エラは瞳を輝かせた。

 しかし彼女は今、ブルーメ子爵家でルチアの侍女をしている。私情で今すぐ呼び出すなどできないだろう。


 カイは少し考えるそぶりをしてから、何かを思いついたのか、少々人の悪い笑みを浮かべた。


「ねぇ、エラ嬢。推薦状って誰が書くの?」

「公爵様とダーミッシュ伯爵様が書いてくださることに」


 準女官試験は貴族の推薦状がないと受けられない。父は男爵だが、推薦するには弱すぎる立場なので、今回は除外した。


「それにデルプフェルト家も加わるからさ、その代わりオレの頼みも聞いてくれない?」


 推薦の数は多ければ多いほど良いとされている。その分、信頼置ける者だという保証になるからだ。デルプフェルト侯爵家は王家に近いということもあり、その効果は絶大だ。

 カイの提案に驚きつつも、崖っぷちのエラはふたつ返事で了承した。


     ◇

 王家の馬車に揺られながら、リーゼロッテは始終そわそわしていた。王都の中心街を越え、そろそろフーゲンベルク領に入る頃合いだ。あと一時間もせずにジークヴァルトに会える。そう思うと居ても立ってもいられなかった。


 そんなとき、(ゆる)やかに馬車が停車した。王家の馬車は目立つので、覗かれないようにと窓のカーテンは引いたままにしてある。街道で事故でもあったのかと、ちょっとだけ隙間から外を見ようとした。


「――……っ!」


 いきなり開け放たれた扉に、驚きのあまり声も出ない。そこに立っていたのはジークヴァルトだった。陽光を背に、手を差し伸べてくる。


「ジークヴァルト様……?」

「迎えに来た」


 会いたいあまり、幻覚でも見たのかと思った。だが抱き上げられた腕は、確かな温もりを返してくる。ぎゅっとしがみつくと、馬車を出てそのまま馬の背に乗せられた。


「行くぞ」


 ジークヴァルトが手綱(たづな)を握ると、馬は軽やかに走り出す。王都の中心を過ぎたとは言え、人の多い往来だ。王家の馬車から姫君が、白昼堂々、黒い魔王に(さら)われていった。そんな噂がこの冬に、王都の街中で語られることになるなど、リーゼロッテは知る(よし)もない。


(ヴァルト様だ、ヴァルト様だ、ヴァルト様だ……!)

 流れる景色に目もくれず、リーゼロッテは横乗りの姿勢で広い胸に抱き着いた。


「あっ、領主様だ!」

「領主さまぁ!」


 興奮気味に手を振る子供たちの横を駆け抜け、フーゲンベルク領に入ったことを知る。そのあとも、道行く人に次から次へと声をかけられた。


(ジークヴァルト様って、とても領民に(した)われているのね)


 夜会などでは貴族たちのほとんどが、ジークヴァルトを前に縮み上がっている。でも彼のやさしさを知っている人はちゃんといるのだ。そう思うとなんだか自分のことのようにうれしくなってきた。


「あの方は奥様かな!?」

「領主様はまだ結婚してないよ。きっと未来のお嫁さまだ!」


 そんな声が通り過ぎざま耳に入ってきて、リーゼロッテは思わず顔を赤くした。いつかジークヴァルトと結婚するのは分かっているが、まだまだ遠い先のことだと思っていた。だがあんなふうに言われると、急に現実味が増してくる。


(わたし、ヴァルト様のお嫁さんになるんだわ……)


 高鳴る鼓動を抑えられないまま、領地の中心街を進んでいく。その先の高台に、フーゲンベルクの屋敷が見え隠れした。


 帰ってきた。急激にそんな安堵が胸に湧く。


 続く坂を登り切って、リーゼロッテは無事に屋敷へと到着したのだった。


     ◇

「リーゼロッテ様、お帰りなさいませ」


 家令のエッカルトをはじめ、ずらりと並んだ使用人たちにエントランスで出迎えられる。いつも以上に大人数だ。


「お嬢様……!」

「エラ、心配をかけたわね」


 瞳を(うる)ませるエラに、リーゼロッテもつられるように涙目になった。


「お、お嬢様……そのお姿は……」

「え?」


 次いでエラの顔が蒼白となる。


「お肌の調子がよくないのではありませんか!? しかもこんなに日焼けをなさって! ああっ、御髪(おぐし)も痛んでおります! なんてことっ」


 そのまま卒倒しそうな勢いのエラに、リーゼロッテは慌ててフォローを入れた。


「あちらでよく散歩をしていたから」

「東宮の者は一体どんな仕事をしていたのです! お嬢様をこのようなひどい目にっ」

「あ、そうではなくて、わたくしが自分のことは自分でやると言ったのよ。王女殿下の東宮は人が少ないから、迷惑をかけるのも悪いと思って」


 むしろ面倒くさがって、手入れをさぼっていたのはリーゼロッテ自身だ。しかしムンクの叫びもびっくりな顔になって、エラはエントランスの端まで響く声でまくし立てた。


「あああっなんたること! わたしのこの目が行き届かないうちに、お嬢様の玉のようなお肌が、絹糸(きぬいと)のようにお美しい髪が……! 白の夜会はもう明後日です! 今から! 今から、わたしが精力込めてなんとかいたしますから、エラに、このエラにすべてお任せくださいっ!!」


 有無を言わさずそのまま全身エステに強制連行だ。一同はあっけにとられて、エラとリーゼロッテを見送った。


「では、旦那様は執務にお戻りになられますかな?」

「……ああ」


 ぽつんと取り残されたジークヴァルトは、文句も言えずにマテアスの待つ執務室へと戻ったのだった。


     ◇

 明けて翌日、結局この日もエステ三昧(ざんまい)で一日が終わった。湯あみ時に薬湯で肌を整え、美顔パックに全身オイルマッサージ、トリートメント効果の高いヘアパックも丹念に施された。

 それに加えて夜会で着るドレスやアクセサリー選びなど、やることは山盛りだ。本来なら少しずつ準備することを、次から次にこなしていった。


 毎朝の散歩や階段の昇り降りが功を奏したのか、幸い贅肉(ぜいにく)は増えてはいない。むしろ体が全体的に引き締まり、ドレスの調整にお針子たちがてんやわんやすることになってしまった。


 とにかくエラ以外の人間も総出で、昨日に引き続き全身を磨き上げられた一日だった。明日は夜会の準備で、やはり朝から慌ただしくなるだろう。


 今夜は早めに就寝するように言われ、リーゼロッテは薄暗い寝室で横になっていた。


(忙しすぎてヴァルト様の顔も見られなかったわ)

 せっかく公爵家に戻ってきたのに、これでは東宮にいるときと変わらない。


「エラたちとおしゃべりできるからまだマシだけど……」


 こんなことなら迎えに来てくれた時に、もっと話をすればよかった。しかし駆ける馬上でしゃべると舌を噛む。馬を走らせているときは、口を開くなといつも言われていた。


 時計を見ると普段寝るときよりもずっと早い時刻だ。少しだけでも顔を見られたら。そんな思いが強くなる。

 ショールを羽織り、音を立てないよう衣裳部屋(クローゼット)へと向かった。この奥にある扉はジークヴァルトの部屋につながっている。耳を押し当て、隣の様子を伺った。


「まだ戻ってないのかしら」


 ジークヴァルトは日々忙しくしている。夜遅くまで執務室に(こも)っていることも多いようだ。それに書類仕事以外のこともある。時に領民の陳述(ちんじゅつ)を直接聞き、領地への見回りも欠かさなかった。

 そんな中、昨日はわざわざ迎えに来てくれたのだ。会いたいと思っているのは自分だけではない。そう思うと余計に顔を見たくなる。


 ジークヴァルトの部屋は守り石と同じ力で満ちていて、扉越しでもそれがじんわり伝わってくる。もっとジークヴァルトを感じていたくて、頬ずりしながらその青の気を堪能(たんのう)した。

 自分でもちょっと変態チックだなと思いつつ、しばらく扉にへばりついていた。と、ふわっとジークヴァルトの気配が増した。かと思うと扉が引かれ、リーゼロッテは前のめりに倒れ込む。


「ジークヴァルト様……!」

「どうした? 何かあったのか?」


 やさしく抱き留められ、リーゼロッテはその背に手を回した。ぎゅっと力を入れると、ジークヴァルトも強く抱きしめ返してくる。


「ヴァルト様のお顔が見たくて……」


 伺うように見上げると、ジークヴァルトはぐっと眉間にしわを寄せた。疲れているのかもしれない。そう思っても、もうちょっとだけ一緒にいたかった。


「あの……ほんの少しでもいいのです」

「……五分だけだ」


 そう言うとジークヴァルトはリーゼロッテを子供抱きに抱え上げた。扉は開けたままにして、自身の部屋の中へと運んでいく。居間のソファへと座らせると、ジークヴァルトは一度奥の寝室へと引っ込んだ。

 (わく)のない扉から戻ってくると、手にしていた小さな箱を差し出してくる。


「王太子妃からだ」

「アンネマリーから?」


 受け取った小箱を開けると、その瞬間、ふわりとカカオの香りが広がった。中にはふた(つぶ)の丸いチョコが行儀よく鎮座している。数が少ない分だけ高級感が半端ない。


 香りだけで、口の中がもうチョコレートになってしまった。しかしこれから寝ようかという時間帯だ。でも食べたい。だが今食べるのは非常に危険だ。それでも口いっぱいに広がる(なめ)らかな舌触りを想像すると、食べたくて食べたくて仕方がなくなる。


 そんなせめぎ合いを脳内で繰り広げていると、横から長い指がチョコをひと(つぶ)つまみ上げた。「あーん」とともに、リーゼロッテの口元へと運ばれる。

 誘惑に(あらが)えなくて、リーゼロッテは自ら進んでそれを口に収めた。至福の味だ。うっとり口を動かすと、かしゃりと音を立て、チョコは舌の上で崩れ落ちた。


「うんんっ!?」

「どうした?」


 次に広がったのはアルコールの香りだ。舌にしびれる甘苦(あまにが)さを感じて、リーゼロッテは目を白黒させた。


(ウイスキーボンボン!?)


 そう思ったときには時すでに遅く、中から溢れ出た液体(リキュール)をこくりと飲み込んでしまっていた。

 (のど)がかっと熱くなり、全身にアルコールが回っていくのが自分でも分かった。割れた砂糖のシェルが口の中でしゃりしゃりと鳴る。


 目の前の世界がくにゃりと形を変え、次に気づいたらいつもの寝室で、ぼんやりと朝を迎えていたリーゼロッテだった。


     ◇

『ねぇ、ヴァルト~、もう我慢するのやめようよ~』


 執務室を出た廊下を歩きながら、守護者(ジークハルト)がうるさくからんでくる。自分の歩に合わせて背泳ぎしながら、同じスピードでついてきていた。それを無視して進んでいると、なおも食い下がるように言いつのってくる。


『そうやって毎日ムラムラして悶々(もんもん)とされると、オレもつらいんだってば。いいじゃん、もうリーゼロッテとは両思いなんだしさぁ、今夜にでもがっつり抱いちゃおうよ~』

「ふざけるな」


 眉間にしわを刻んで短く答える。無視するつもりだったのに、つい言葉を返してしまった。


『別にふざけてないって。リーゼロッテも嫌がったりしないと思うよ? 大丈夫だから気にせずやっちゃいなよ』

明日(あす)は夜会だ」

『夜会は夕方からだし、時間的に十分でしょ?』

「それくらいで終われる訳ないだろう」

『はっ、絶倫』


 それ以上は無視して進む。ジークハルトはニコニコ顔で、今度は横泳ぎしながらついてくる。


『だったらさ、ずっとふたりで寝室に(こも)ってればいいよ。夜会なんて、これからいくらでも行けるんだし。そうしなってば、ねぇ、ヴァルト~』

「うるさい、黙れ」


 無視するつもりがまた答えてしまった。苛立ちと共に歩が早くなる。


『じゃあ、いいこと教えてあげる。(つい)の託宣を受けた者は一度でも体をつなげると、お互いの存在を感じ取れるようになるんだ。ヴァルトはオレをいつでもそばに感じてるでしょ? それと同じでリーゼロッテが今元気にしてるかとか、離れてても分かるようになるからさ~』

「駄目だ。ダーミッシュ伯爵との誓約(せいやく)がある」

『すぐに婚姻手続きを済ませれば、それで万事(ばんじ)解決でしょ? それからは毎日一緒に眠れるんだよ? 離れるのはちょっとの間じゃない。どうしてここで二の足()むのかな~』


 ぱっと体を起こすと、ジークハルトはポンと手を打った。


『あっ、そうか! ヴァルトはリーゼロッテをイカせる自信がないんだ。だったらオレが手伝ってあげるし。ほら、オレって歴代当主が(サカ)ってるのずっと見てきたからさ、あの時みたいに(カラダ)貸してくれたら、秘儀の数々を伝授してあげられ……』

「ジークハルト」

『ん?』


 自室の扉に手をかけ、表情なく呼びかける。あぐらの姿勢に戻って、ジークハルトは背筋を正した。


「お前、殺すぞ」


 ()てつくような青を立ち昇らせる。笑顔のまま口をつぐんだ守護者を廊下に残し、苛立ちを抑えられないまま乱暴に扉を閉めた。


 部屋でひとり大きく息を吐く。


戯言(たわごと)だ。あいつの言葉に(まど)わされるな)

 言い聞かせるようにもう一度息を吐いた。今、彼女に手を出したら、これまでの努力が水の泡だ。


 ダーミッシュ伯爵とは絶対に婚前交渉を行わないようにと、正式に契約を交わしている。それを破れば婚姻が果たされる日まで、リーゼロッテとは一切会わせてもらえなくなる。


 たとえ婚姻の託宣を前倒しして夫婦になれたとしても、その前に空白の日々ができてしまう。ダーミッシュ領は彼女の安全の確保ができない場所だ。リーゼロッテをひとり遠くに置いたまま顔も見ずに過ごすなど、想像するだけでおかしくなりそうだ。


 確実に安全だと分かっている王女の東宮にいるときでさえも、一時(いっとき)も気が休まらない。それなのにそんなことになったら、自分は気が狂ったように彼女を攫いに行くに違いない。


(婚姻の託宣が降りるまでの間だ。それまでは自制しろ)

 扉に背を預け、自分にそう言い聞かせた。


 目先の欲望に身を任せては、彼女とのこれからに(きず)を作ることになる。ダーミッシュ家の信用を失えば、いちばんに苦しむのはリーゼロッテだ。

 明日の白の夜会を彼女は楽しみにしている。よろこぶ顔を見るだけで、今は満足しなければ。


(それに今夜、彼女はそこにいる)


 眠りながら壁一枚(へだ)てた向こうに、リーゼロッテの気配を感じ取れる。そんな一夜を明かすのは、言いようのない甘美な苦痛をもたらしてくる。だが自分のこの手が届かない場所にいるより遥かにいい。


 無意識に居間に飾られる肖像画に目を向けようとして、ジークヴァルトははっとなった。隣の衣裳部屋に続く扉から、リーゼロッテの気が濃く感じられる。

 何事かとすぐさま扉を引いた。勢いで倒れ込んできた体を抱き留めると、なけなしの理性が吹き飛びそうになる。


「ジークヴァルト様……!」

「どうした? 何かあったのか?」

「ヴァルト様のお顔が見たくて……」


 上目づかいで言われ、歯を食いしばる。そんな可愛く頬を染めながら言わないでほしい。本当に理性が吹き飛びそうだ。


「あの……ほんの少しでもいいのです」

「……五分だけだ」


 自分にタイムリミットを設け、リーゼロッテを抱え上げる。すぐに帰せるようにと扉は開けたままにした。ソファに降ろすと、ハインリヒ経由で渡された菓子の存在を思い出す。


「王太子妃からだ」

「アンネマリーから?」


 不思議そうに開けられた小さな箱には、香り高いチョコ菓子が入っていた。瞳を輝かせるリーゼロッテに「あーん」とひと(つぶ)差し出した。

 これを食べたら部屋に戻らせよう。五分以上かかるかもしれないが、食べ終わるまでだ。


 口に(ふく)んだ菓子に、リーゼロッテの頬が柔らかく(ほど)けた。このしあわせそうな顔を見るのが好きだ。ずっと見ていたいといつでも思う。

 そんな時、リーゼロッテがいきなり目を丸くした。


「うんんっ!?」

「どうした?」


 彼女の(のど)がこくりと鳴り、次いでアルコールの香りが辺りに立ちのぼった。はっとして箱に残る菓子を摘まみ上げる。軽く力を入れただけで、それはもろく崩れて中から液体がこぼれ出た。


「……もお、ヴァルトさま、もったいないですわ」


 舌足らずに彼女が言った。顔を真っ赤にしながら、ゆらりゆらりと揺れている。


 リーゼロッテはこの手首を掴んだかと思うと、崩れた菓子をジークヴァルトの指ごとパクリと口にした。次いで手に(したた)り落ちた(しずく)を、丹念にゆっくりと()めとっていく。赤い舌が肌を()っていく感触に、ジークヴァルトの全身は岩のように固まった。


 最後にちゅぽんと人差し指に吸いつくと、リーゼロッテがふうぅと甘い息をひとつ吐いた。それからジークヴァルトの手がぽいと投げ捨てられる。


 緑の瞳は、思い切り座っている。赤ら顔のまま、リーゼロッテはしばらく宙を見つめていた。


「あつい」


 言うなり肩にかけていたショールをはぎとった。夜着の胸元のリボンをしゅるりと(ほど)き、ボタンを上から順にはずしていく。


「いや、待て、何をする気だ」

「や、じゃましないでくださいませ」


 ぷうと頬を膨らませ、止めようと伸ばされた手を鬱陶(うっとう)しそうに払いのける。胸の(きわ)どいところまでボタンをはずすと「あっつい」ともう一度言って、手うちわでぱたぱたと胸元に風を送りだした。


 視線を感じたのか、リーゼロッテがあっけにとられているジークヴァルトの顔を見た。それから青い瞳が凝視する、自分の汗ばんだ胸元を覗き込む。


「りゅうのあざ……」


 ぽつりと言って、再び顔を上げた。かと思うといきなりにじり寄ってくる。


「わたくし、ヴァルトさまのりゅうのあざ、見たことありませんわ。どこ? どこにございますの?」

「あざなら鳩尾(みぞおち)にあるが……」

「みぞおちに……?」


 小首をかしげたかと思いきや、ジークヴァルトのシャツの(すそ)を無造作に(まく)り上げてきた。


「見たい。わたくし、見たいです。ヴァルトさまのりゅうのあざ、見てみたい」

「おい、いや、待て」

「だめ、見るの! ヴァルトさまばっかりずるい。わたくしのは見たことあるくせに」


 唇を尖らせながら、おぼつかない手がシャツのボタンを下から外していく。へその辺りまであらわになると、リーゼロッテは大きな瞳を輝かせた。


「しっくすぱっく!」


 意味不明な言葉を叫び、ぺたぺたと腹に触れてくる。


「すごい、すごい! ヴァルトさま、ふっきん割れてる! すごい! ふっきん、しっくすぱっく!」

「は、腹が割れていたら危ないだろう」


 動揺のあまり、リーゼロッテが何を言っているのかが分からない。いや、自分が何を言っているのかすらよく分からなかった。


 リーゼロッテはお構いなしに、どんどん上へと手のひらを(すべ)らせてくる。くすぐったいようでぞわりとする感覚に、ジークヴァルトは思わずその手首を掴み取った。


「いたっ」


 驚いて手を(ゆる)める。それをいいことにシャツは上まで開けられてしまった。


「りゅうのあざ……」


 鳩尾(みぞおち)にあるあざを、リーゼロッテは食い入るように見つめてきた。腹に両手をついたまま、確かめるように鼻先を近づける。今にも触れそうな唇から漏れた吐息が、いたずらに腹の皮膚をくすぐった。


「おそろい!」


 間近から見上げられ、理性の糸がピンと張り詰める。


「わたくしのりゅうのあざ、ヴァルトさまとおそろい!」


 しあわせそうな顔でリーゼロッテが抱きついてきた。対の託宣を受けた者は、鏡写しのあざを持つ。彼女はそのことを言っているだけだと、懸命に自分に言い聞かせた。


 素肌のあざに頬ずりされて、かっと全身が熱を持つ。


「ヴァルトさまのここ、あつい……」


 驚いたように顔を離す。恐る恐る指であざに触れ、リーゼロッテは熱のこもった瞳を向けてくる。


「ね? ヴァルト様もわたくしのここ触ってみて? わたくしもあついの。だから、ほら」


 腕を掴まれ胸元へと導かれる。振りほどこうと思えばそうできたのに、ジークヴァルトの指先はリーゼロッテのあざへとそのまま触れた。

 お互いがお互いの龍のあざに触れている。電流のごとく耐え難い熱が、体中を駆け抜けた。


 気づいたときには口づけていた。乱暴に抱き寄せ、逃がさないようにと囲い込む。甘いカカオの味と共に、アルコールの芳香が口の中を広がった。


 浮かされるような吐息が、リーゼロッテの口から漏れて出る。それすらも飲み込むように、口づけを深めていった。


 腹に当てられていた小さな指が、鳩尾(みぞおち)のあざをなぞってくる。触れられるまま更なる熱に追い立てられて、ジークヴァルトの手がリーゼロッテのあざをなで返した。漏れる切なげな声に、夢中になって口づける。


 止めなくてはという考えすら、もはや浮かばなかった。ソファの上に組み敷いて、お互いの熱と息遣いだけが支配する。

 触れるほどに互いの熱が高まっていく。その熱さが自分のものなのか、彼女のものなのか。その境界すらも曖昧(あいまい)に溶けていく。


 夢中になって彼女の感覚を追った。しかし、ある時からまったく反応が返ってこなくなったことにふと気づく。

 (いぶか)しみ、顔を上げる。無防備に肢体をさらけ出したまま、リーゼロッテは静かな寝息を立てていた。


 平和そうな寝顔をしばし見つめ、そこでようやくジークヴァルトは我に返った。混乱した頭が正常に働かない中、未練がましい指先が無意識にリーゼロッテの頬をくすぐった。不快そうに眉根を寄せて、リーゼロッテはその手を無造作にぺしっと払いのけてくる。


「リーゼロッテお嬢様……?」


 開け放した扉の向こう、衣裳部屋から声がした。血の気の引く思いで身を起こす。はだけそうな夜着の前をかき集め、ジークヴァルトはリーゼロッテをものすごい勢いで横抱きに抱え上げた。

 大股で衣裳部屋へと入ると、恐る恐る扉を伺おうとしていたエラと鉢合わせする。


「お嬢様っ!?」


 悲鳴を無視して、リーゼロッテを寝室へと無言で運ぶ。くにゃりと力が入っていない体を横たえて、上掛けのリネンで首元まで覆った。


「公爵様……一体何が……」


 青ざめたエラが震える声で問うてきた。乱れた夜着のリーゼロッテは気を失っている。自分のシャツも前がはだけられたままだ。


「酒が」

「え?」

「アンネマリー()に渡された菓子に酒が入っていた。故意ではない。不可抗力だ」


 いまだ整わない息が、荒く繰り返される。説得力などまるでないが、事実としてそう告げた。


 はっと息を飲んだ後、エラは冷静でいてどこか躊躇(ちゅうちょ)するように口を開いた。


「公爵様……お嬢様のために、その、耐えてくださって、本当にありがとうございます」

「……あとは頼む」


 それだけ言って寝室を後にする。


「あの……! お酒を召した間のことは、お嬢様はいつもお忘れになられますから!」

「ああ、承知している」


 振り返らずに短く答えた。足早に自室に戻ると、アルコール交じりの甘いにおいと共に、彼女の残り香が(ただよ)っていた。


 ジークヴァルトは冷水を浴びた。それでも熱は収まらなくて、屋敷の廊下中を駆け、再び冷たい水を頭からかぶった。


 そんなことをジークヴァルトは、一晩中、何度も何度も繰り返した。


【次回予告】

 はーい、わたしリーゼロッテ。白の夜会が当日に迫る中、ハインリヒ王子の王位を継ぐ準備は着々と進められていきます。酒癖の悪さを反省しつつ、ジークヴァルト様と共に夜会に参加したわたしは、束の間のしあわせを満喫して……?

 次回、4章第9話「移ろいの兆し」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!


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