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ふたつ名の令嬢と龍の託宣【なろう版】  作者: 古堂素央
第4章 宿命の王女と身代わりの託宣

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第4話 遠き笛の音

【前回のあらすじ】

 ウルリーケの葬儀にジークヴァルトと共に参列するリーゼロッテ。人の死とは、異形の者の存在とは。そんなことに思いを馳せます。

 王妃の夜会を目前に、失踪するミヒャエル司祭枢機卿。そのことに胸騒ぎを覚えつつも、ハインリヒはアンネマリーたちと共に、束の間の楽しい時間を過ごします。そんな時にハインリヒからイグナーツに会ったと伝えられたリーゼロッテは困惑しきり。

 その同時刻、森の巫女に新たな神託が降り、クリスティーナ王女は自身の宿命が動き出したことを知るのでした。

 細く、刺さりそうな眉月(まゆづき)が浮かぶ空に、笛の()を響かせる。

 ほんのひと時だとしても、彼女のこころが安らぐように


 風も、虫たちも

 今だけは邪魔をしてくれるな


 そう願いながら石積みの高い(へい)を見上げ、その夜、ミヒャエルは笛を奏で続けた――


      ◇

 遅めの朝食を終え、イジドーラはゆったりと自室のソファに身を沈めていた。この時間にこうしていれば、よほどのことがない限り夫であるディートリヒが顔を出す。

 指先を広げ美しく磨かれた爪を眺めていると、控えていた女官たちが一斉に(こうべ)を垂れた。


「イジィ」


 愛称を呼ばれ優雅に立ち上がる。迎えるように手を伸ばすと、引き寄せられてその腕に収まった。頬に口づけを受けるのと同時に、女官たちが部屋から下がっていく。


「昼まではここにいる」

「まあ、王。執務はよろしいのですか?」

「あれに任せておけばよい」


 ソファに座り頬を撫でられる。ディートリヒが言うあれとはハインリヒのことだ。


「王はハインリヒに厳しすぎますわ」

「あれも(つがい)を得た。これからはあれの世だ」


 最近では王妃としてのイジドーラの公務も減っている。その分、王太子妃であるアンネマリーが(おおやけ)の場に出ることが多くなった。今こうしてゆっくりできているのも、アンネマリーが思いの(ほか)優秀なおかげだ。


 しかしイジドーラは思う。長い苦悩の果てに、ハインリヒはようやく欲しいものを得た。もっとふたりの蜜月の時間を作ってやりたいと思うのも、親心というものだろう。


「王はハインリヒに厳しすぎますわ」

 ディートリヒにもたれかかりながら、同じ言葉を口にする。


「すべては龍の(おぼ)()しだ」


 指先で頬をくすぐりながら、ディートリヒは(わず)かだけ口元に笑みを乗せた。いつも遠くを見据(みす)えている金の瞳は、自分に触れるときだけ幾ばくかの血が通う。


 この国の王は、その頭に(かんむり)を頂いた瞬間から人たり得なくなる。代々の王はそうして国を導き支えてきた。


 イジドーラは(さき)の王妃が好きだった。彼女の存在がいまだ胸を大きく占める。この寒い国にひとり嫁いできた隣国の王女は、美しく、どこまでも気高い女性(ひと)だった。


(セレスティーヌ様……)


 ディートリヒが王冠を降ろすそのときまで、そばで癒し支えるのが王妃である自分の役目だ。セレスティーヌが託してきたのは、(のこ)される子供たちではなく、むしろディートリヒの方だった。


「またセレスのことか? イジィはいつでも()よりもほかを大事にする」


 物思いに(ふけ)っていると、ディートリヒが少し()ねたように指の動きを止めた。最近ではそうさせるために、こんな態度をとっていなくもない。ディートリヒは次に言う自分の言葉を、たいそう気に入っているようだから。


「まあ、王、お(たわむ)れを。わたくしは王に救われました。ですから、この身が朽ちるまで、わたくしはずっと王のものですわ」


 甘えるように身を預ける。思った通りディートリヒは、その言葉に満足そうに目を細めた。


      ◇

司祭(しさい)枢機卿(すうきけい)はいまだ行方知れずか……)


 一晩たってミヒャエルが見つかったという報告は上がってきていない。夜には王妃の誕生日を祝う夜会が開かれる。自分ももう少ししたら出席の準備を始めなくては。


 夜会がある日でも、やる事は山積みだ。父王からほとんど執務を任されるようになった今では、ぎりぎりまで机にかじりつくほかなかった。

 アンネマリーは昼前には公務を切り上げて、今頃は支度に大忙しだろう。こんなとき女性は大変だなどと暢気(のんき)に思う。それに比べれば男の着替えなど一瞬のことだ。


(今夜はアンネマリーとは踊れないだろうな)


 今日の主役はイジドーラだ。ファーストダンスは王と彼女で踊る。そのあとにダンスフロアは開放されるが、この自分が多くの貴族と入り混じって輪に加わるわけにはいかない。万が一女性とぶつかったら、夜会は大騒ぎになってしまう。


 それでもアンネマリーと並び立てる今がとてもしあわせだ。彼女の存在が、こんなにも自信を与えてくれる。

 これからは執務だけでなく、国に関するすべてを引き継いでいく。自分の力で貴族たちをまとめあげ、隣国との外交や神殿との関係も円滑に運ばねばならない。


(アンネマリーが子を宿した時点で、わたしはこの国の王となる)


 恐らくそれは、そう遠くない未来の話だ。

 浮かれてばかりもいられないと、ハインリヒは改めて気を引締めた。


      ◇

 夜会の前に身を清め、一度化粧を落とした顔を姿見(すがたみ)に映す。そこにいるのは凡庸(ぼんよう)な女だ。


 スタイルがよく、妖艶な美女のイジドーラ王妃。


 それは自分が努力の果てに作り上げた幻想だ。一重(ひとえ)のまぶたはぼんやりとして野暮(やぼ)ったく、薄い唇は色香のいの字も見当たらない。本来の自分は貧相な体つきの、いてもいなくても気づかれないような華やかさとは無縁のそんな女だ。


「イジィ」


 鏡越しにディートリヒの姿が映る。後宮に戻ったと思ったのに、まだ王妃の離宮にいたようだ。


「まあ、王。女の支度(したく)を覗くなど、随分と無粋(ぶすい)なことを」

「着飾らぬともイジィはそのままがいちばん美しい」


 後ろから抱きしめ頬に口づけてくる。イジドーラのこの姿を知るのは、ディートリヒと古参の女官のルイーズだけだ。


「うれしいお言葉なれど、王に恥をかかせるわけには参りませんわ。横に立つにふさわしく、いつも通り飾らせてくださいませ」


 イジドーラの化粧はいわば武装と同じだ。貴族たちに舐められないよう、振る舞いと共に今まで己を磨き上げてきた。威厳ある王妃の(よそお)いとなるべく、洗練に洗練を重ねてきたのだから。


 目配(めくば)せをすると、控えていたルイーズが扉を開けて頭を垂れた。もう一度頬に口づけを落としてから、ディートリヒは部屋を後にする。


「でははじめましょう」


 ルイーズの言葉とともに、凡庸な女が一国の王妃へと成り代わる。


 おしろいで肌の色を整え、まぶたには絶妙なグラデーションをつけていく。頬紅で血色よく見せ、鼻筋にはさりげなくシャドウを入れる。目の(きわ)に丁寧にラインを引くと、切れ長の瞳の出来上がりだ。眉とまつ毛は盛りすぎないよう注意を払い、紅を唇の輪郭より少し厚めに塗ると、余裕に満ちた美女が鏡に映った。


 この化粧の技術はセレスティーヌから教わったものだ。社交界の荒波を乗り切るための助言も、いまだこの身の役に立つ。

 張りぼてでも長年続けると、それなりに板につくものだ。こんなときセレスティーヌはどう振る舞い、どのような受け答えをするだろう。そんな問答(もんどう)を繰り返しながら、今までどうにか乗り切ってきた。


(それもじき終わるわ)


 王妃という大役をこなした褒美(ほうび)に、この腕に可愛い孫を抱く日が間もなくやってくる。それはセレスティーヌが果たせなかった、儚くも大きな夢だ。


 セレスティーヌが亡くなってから、遠く長い道のりだった。生家のザイデル家が王家に反旗(はんき)(ひるがえ)し、本来なら一族ともどもあの時に(つい)えたはずのこの命だ。

 (のこ)されたディートリヒの後添(のちぞ)えとなって、自分が死した後も支えてほしい。そう言ったセレスティーヌは、命ばかりか生き続ける意味をも与えてくれた。


 当時、王妃の座を欲する貴族は多くいた。セレスティーヌの遺言を聞きつけた政敵が、猛反対したのは言うまでもない。再燃(さいねん)したザイデル家の断罪の声と共にイジドーラは死を望まれ、実際に処刑寸前まで追い詰められた。


 そこを押し通し、亡き妻の遺言通りに王妃としてイジドーラを迎い入れてくれたのがディートリヒ王だ。

 セレスティーヌとディートリヒの恩義に、自分は必ず報いねばならない。


(いずれこの身が朽ち果てるまで……)


 入念に化粧を終え、前を見据える。自信に満ちた表情(かお)の王妃が、鏡の向こうで妖艶な笑みを返した。


     ◇

 (くさむら)で息をひそめ、ミヒャエルはその時を待った。離宮から王城へと続くこの渡り廊下は、イジドーラ王妃が必ず通るはずだ。


 今宵は王妃の生誕を祝う夜会が開かれる。あの美しい花が命を散らすに、これほどふさわしい日はほかにない。


 (むしば)まれた右手が(うず)く。あれ以来、(くれない)の女神がミヒャエルの祈りに応えることはなかった。赤黒い(けが)れは、焼け(ただ)れるように日増しにこの身を浸食していく。見捨てられたのだと思い至るに、そう長い時間は要さなかった。


(はじめから捨て(ごま)だったのやもしれん)


 だがもはやどうでもいいことだ。最期(さいご)にイジドーラを手に入れる。それを成すためだけに、(おのれ)は今ここにいる。


 あの三日月(みかづき)の夜に、自らが吹いた笛の()が耳によぎった。自由の利かない右腕では、もう曲を奏でることは叶わない。だというのに最期に持ち出したのが、どうしてこの横笛ひとつだったのか。


 地位も、金も、女も。一通りのものは手に入れた。だがこの心が満たされたことは、(ただ)の一度もありはしない。真に欲した宝は、かの王の手により奪われたのだから。


(このまま終わらせるわけにはいかぬ)


 日没間近のまだ明るい空に、白い月が浮かんでいる。あの日よりもさらに細い、糸くずのような二日(ふつか)(づき)だ。


「イジドーラ王妃……」


 幾度呼べばこの手に届くのか。気を抜くと()まれそうになる灼熱に(あらが)いながら、ミヒャエルは遠きを思い、草陰(くさかげ)の中ひたすらその時を待った。


     ◇

 あれはまだ神官になりたての頃のことだ。


 失敗続きで先輩神官に怒られる毎日を送っていたミヒャエルは、ひとりになりたいときよくここに来ていた。神殿の外れにあるこの場所は、木々に囲まれ人気(ひとけ)なくとても心地よい。


 ミヒャエルは片田舎の小さな街で生まれ育った。幼いころからこの目は人には視えぬものを映し、耳は聞こえぬ声を(とら)えることができた。時に異形の嘆きだったり、時に森に住む精霊たちのささやきだったり、また時には先に起こる出来事を夢に見ることすらあった。


 家族を含む周囲の人間に奇異の目で見られながらも、神童としてミヒャエルの名は遠く王都に知れ渡っていった。その力を見出され神殿の門をくぐるに至ったのは、今思うと必然だったのだろう。


 若いミヒャエルは希望に満ちていた。神殿に行けば自分と同じく(たぐい)まれな力を持つ者が待っている。王都の本神殿となれば、国中から選ばれた者たちが大勢いるに違いなかった。


 だがおごってはいけない。この力は本来誰もが持っているものだ。みなが忘れ去っているだけで、ミヒャエルが特別なわけではないのだと、森の精霊たちはいつでもそう教えてくれていたから。


 しかしその期待はすぐに落胆(らくたん)に変わっていった。神官たちの多くは大した力もなく、欲にまみれる者ばかりだった。保身のために、目障(めざわ)りな人間を引きずり下ろす。そんなことに労力をかける暇があるなら、もっと己を(みが)けばいいものを。ミヒャエルは周囲からすぐに孤立した。


 それが気に食わなかったのか、先にいた神官たちはまだ慣れないミヒャエルをあざ(わら)い、(いわ)れのない難癖(なんくせ)をつけてはことあるごとに冷たくあたった。そんな彼らを哀れに思ってただ耐え忍ぶ。その日々はどうしようもなく(むな)しく感じられた。


 そんな生活に耐えられたのは、尊敬できる神官もいたからだ。当時の神官長はその筆頭とも言える人物で、敬虔(けいけん)な聖職者でありながら文武両道を備えた人格者だった。


 それでも疲弊(ひへい)する毎日に、ミヒャエルは時折この場所に来ては、自身を癒すように自然と(たわむ)れていた。王都では精霊たちをほとんど見かけない。この本神殿の中でさえ、滅多に姿を現すことはなかった。


 だがこの場所で横笛を吹いていると、わずかにその気配が近づいた。風を感じ、空に溶けるように笛の()を響かせる。そうすると好奇心が強そうな小さな精霊が、少しずつ伺うように寄ってきた。

 生まれ故郷の森のようにはいかなかったが、幾度も通ううちに近づく精霊の数も増えてくる。それがうれしくて、ミヒャエルは時間を見てはここで笛を吹くのが日課になった。


 今日もこの場に立ち、精霊が好む静かな音色を吹き始めた。するとすぐに精霊が集まってきた。なかなか声を聞かせてはくれないが、随分とこちらに慣れてくれたようだ。


 その精霊たちが突然一目散に逃げ散らばった。驚いたミヒャエルは、耳に心地よい旋律を思わず途切れさせてしまった。


 (へい)(へだ)てた向こうに人の気配がする。息をひそめていると、若い女性の話し声が聞こえてきた。身を寄せた塀の穴から見えたのは、渡り廊下を歩く四人の貴族令嬢だった。


 ここは神殿の外れだ。ほかの神官が近づかないのは、王城に近い場所にあるからなのだ。そのことに気づいたミヒャエルは、ここではもう笛は吹けないのかとひどく落胆した。


 本神殿は王城の敷地内にある。だが貴族と顔を合わせるのは神事の(おり)だけだ。神殿組織は王家とは完全に独立しているため、貴族だからと言って()びへつらう必要はない。とはいえ新米神官である自分が彼らと対等と言えるはずもなかった。


 令嬢たちが去っていくのを待つことにしたミヒャエルは、見つからぬようさらに息をひそめた。


「イジドーラ様、これはあなたのためを思って言うのだけれど、少し態度が大きすぎるのではなくて? 新参者なのだから、王太子妃様の前ではもっとわきまえた方が身のためですわよ」

「随分と遠回しにおっしゃるのね。頻繁(ひんぱん)にセレスティーヌ様に呼ばれるわたくしが気に食わないなら、はっきりとそう言えばよろしいのに」

「なっ、そんなことあるわけないじゃない! 人にはそれ相応(そうおう)の立場があると、わざわざ親切に教えてやってるのでしょう!?」


 何やら不穏(ふおん)な空気だ。ひとりの令嬢が年下の令嬢に難癖(なんくせ)をつけている。責められる令嬢の姿が自分と重なり、居たたまれない気持ちになった。だがミヒャエルと違って、その令嬢は黙って耐え忍ぶつもりはないらしい。すぐさま意地悪そうに鼻で(わら)う仕草を取った。


「あなたこそ、ザイデル公爵家の人間であるわたくしに(たて)()こうなんて、身をわきまえない愚かな女ね」

「年下の分際でなんて生意気なの! ねぇ、ジルケ様もそうお思いになりますわよね?」


 言い争うふたりの令嬢に、ミヒャエルは心中(おだ)やかでいられなかった。昔から(いさか)いが苦手だ。早く去ってくれと願っていると、脇に立っていた令嬢が(たしな)めるように間に入った。


「わたくしは王太子妃殿下の意向に沿うだけですわ。カチヤ様もイジドーラ様も少し落ち着きになって」

「あら、心外ね。カチヤ様がひとりで興奮なさっているだけのこと。わたくしは初めから冷静ですわ」


 幼いわりにきつめの化粧をした令嬢がそう言い放つと、やり込められた令嬢が悔しそうに唇をわななかせた。「覚えてらっしゃい!」と言い捨て、スカートを(ひるがえ)し逃げるように去っていく。


「手ごたえのないこと」

「イジドーラ様……あのように返すのはあまり感心いたしませんわ」

「まあ、ジルケ様。売られた喧嘩を買わなくてどうしろとおっしゃるの? ああいった者は初めにつぶしておかないと後々(のちのち)厄介(やっかい)になるというものよ」

「……くだらぬな」


 遠巻きに見ていた最後の令嬢が、興味なさげにつぶやいた。


「ジルケ様もいちいち付き合ってやるとは人がいい」

「マルグリット様……またお言葉が乱れていらっしゃいますわよ」

「すまぬ。ここは青龍の力が強いゆえ、つい守護者の意識に引きずられてしまってな。何、王太子妃殿下の前ではきちんと令嬢らしく振る舞おう」


 そんな会話が(きぬ)()れの音と共に次第に遠ざかっていく。ほっと息をついたミヒャエルは、うら若き女性の恐ろしさに思わず身震いした。どうにも貴族とは相いれそうもない。


「ここにはもう来ない方がよさそうだな……」


 女性とも、貴族とも、どのみち住む世界が違うのだ。そう言い聞かせてその日の出来事は、すぐに忘れ去られていった。



 しばらく時が過ぎ、ミヒャエルはようやく誰もいない静かな場所を新たに見つけだした。今度は王城からはほど遠い、神殿のかなり奥まった朽ち果てた庭だ。獣道(けものみち)を少し進まねばならないが、ここなら気がねなく笛を吹くことができるだろう。


(それにこの場は精霊たちが多そうだ)


 横笛を構え息を吹きこむと、ゆっくりと旋律が奏でられていく。


(知らぬ曲だな)


 自身が吹いているというのに、指が勝手にリズムよく笛の穴を(ふさ)いでいく。いたずらな精霊が力を貸しているのだ。操られるままミヒャエルは美しい音色を響かせていった。


 気づくと多くの精霊に囲まれていた。しかし曲が終わるとすぐに姿を消してしまう。気配をたどると、精霊は獣道の方に集まっているようだ。その正反対、茂みの向こうにある生垣(いけがき)を、なぜか警戒するように見やっているのが分かった。


(あちらに(けもの)でもいるのか……?)


 ミヒャエルは足音を忍ばせて、生垣の向こうを覗き込んだ。うっそうと生い茂るこちらと違って、その先は整えられた美しい庭が広がっていた。


 王城に隣接した場所に王妃の離宮がある。もしかしたらここはその敷地に近いのかもしれない。

 ようやく見つけた場所だというのに、また落胆させられるとは。己の運のなさを嘆きながら、ミヒャエルは早急にこの場を離れようとした。


 ふと耳にすすり泣くような声が届く。ひそやかに聞こえたそれに、ミヒャエルは引き留められるように足を縫い付けられた。


 すぐそこにある小さなガゼボにひとりの令嬢がいた。姿勢よく椅子に座り、開いた本を熱心に読んでいる。いつか見た令嬢だ。それもあの日ほかの令嬢をこっぴどくやり込めていた、いちばん性格の悪そうな令嬢だった。


 似合っていないきつめの化粧はあの時と同じだ。だがその令嬢は形の良い唇を小さくふるわせながら、薄い水色の瞳からはらはらと涙をこぼしている。

 儚げで今にも消えてしまいそうなその姿を、ミヒャエルは食い入るように見つめていた。


 ゆっくりとページをめくり、時に切なげなため息をつく。最後まで読み終えたのか、本は静かに閉じられた。

 ()れたまつ毛のまま余韻(よいん)を残したように、令嬢は満足げな笑みをやわらかくその口元に乗せた。


 生まれて初めて女性を美しいと思った。その姿は、今まで出会ったどの精霊よりも、ミヒャエルの目には完璧なまでに神々しく映った。


 本を抱え、令嬢は静かに立ち上がる。ふっと息を吐いたのちに姿勢を正し、睨むように正面を見据(みす)えた。

 その表情はまるで戦いに出る直前の騎士のようだ。仮面をかぶるかのような彼女の変化に、ミヒャエルは思った。あの令嬢は貴族社会を生きるために、必死に自分を(つくろ)っているのだと。



 それからというもの、ミヒャエルは笛を吹くという名目で、足繫(あししげ)くこの場に何度も通った。晴れた日の早朝は、高確率で彼女の姿を見ることができて、つらかった日々は途端に輝きを取り戻した。


 会えない日は笛を吹き、ひたすら彼女を思う。時間を重ねるほどにいろんな面が見えてくる。本来の彼女は心やさしいひとなのだとの推測は、すぐ確信に変わっていった。


 夢中になって本を読む彼女の周りでは、精霊たちもたのしげにくるくると舞うようになった。(けが)れた者に精霊は絶対に近づかない。そのことがさらにミヒャエルの思いに拍車をかける。


(イジドーラ・ザイデル……)


 それが彼女の名だ。辛辣(しんらつ)で気の強い令嬢だと、神官の間でも有名な公爵令嬢だった。彼女の心がどれだけ清らかなのか、それを知っているのはミヒャエルだけだ。


 イジドーラを擁護(ようご)したい気持ちも湧いたが、()も言われぬ優越感が己を満たす。だが決して届くことのない思いだと言うことも、ミヒャエルは十分に理解していた。


 彼女は貴族だ。それも王家に次ぐ地位を持つ、公爵家の人間だった。そんなイジドーラに自分の存在を知らしめることすらできはしない。自分たちは違う世界に生きているのだと、ミヒャエルはそうきちんと割り切っていた。



 しかしその事件は唐突に起きた。ザイデル家が謀反(むほん)を起こし、ハインリヒ王子の命を狙ったのだという。貴族の間に激震(げきしん)が走るのと同時に、神殿内にもその噂はひっきりなしに流れてきた。


 (さいわ)い王子は怪我ひとつしなかった。それが分かると、みなの関心はザイデル家の行く末に集まった。二歳の王子は王妃の離宮で育てられている。セレスティーヌ王妃の元に頻繁に通うイジドーラが、刺客を手引きしたのだと真っ先に嫌疑(けんぎ)がかけられた。


 神殿の外で起きている出来事など、どうすることもできはしない。だがあのやさしい彼女がそんなことをするはずはないと、ミヒャエルはイジドーラのため、一心に祈りを捧げる日々を過ごした。


 しばらくしてセレスティーヌ王妃自らが、イジドーラの身の潔白を証明したとの噂が立った。青龍に祈りが届いたのだ。ミヒャエルは心からよろこんだ。

 だが貴族社会での彼女の立場は、反逆者の一族として危ういものとなってしまったらしい。それ以来どれだけ待とうと、あのガゼボにイジドーラがやってくることはなかった。



 その翌年、セレスティーヌ王妃が身罷(みまか)られた。ほどなくしてミヒャエルの耳に信じがたい話が飛び込んでくる。王妃という後ろ(だて)を失くしたイジドーラを、糾弾(きゅうだん)する声が再び上がっているというのだ。


 謀反(むほん)を起こしたザイデル公爵は貴族籍を剥奪(はくだつ)され、疎遠になっていた弟がその地位を継いだと聞いていた。イジドーラも事件には関わっていなかった。それですべてが終わったのだと、安堵(あんど)していた矢先のことだ。


「ザイデル公爵令嬢が死刑に……?」

「ああ、前公爵の死と共にそれを望む貴族が多いらしい」


 神官たちの噂話にミヒャエルは(おのの)いた。真偽を確かめるために神官長の元へと向かう。当時の神官長は公明正大な男だった。彼に掛け合えば、彼女の窮地(きゅうち)を救えるかもしれない。


「事実がどうあれ、貴族の問題に神殿が関わるわけにはいかない」


 だが神官長から返ってきたのはそんな慈悲のない言葉だった。イジドーラがどれだけ清い人間なのか、今までの経緯も含めてすべて訴えた。だが神官長はイジドーラのために指一本動かすつもりはないのだと分かって、ミヒャエルは再び絶望の(ふち)に立たされた。


(このままではイジドーラ様が殺されてしまう)


 噂には尾ひれがつくものだが、亡くなった王妃のお気に入りだったイジドーラを、目の(かたき)にしていた貴族は多い。ザイデル公爵家の勢いを、更に()ぐ目的もあるようだ。

 貴族とはなんと恐ろしい人種なのか。たかが権力のために、あの美しい命が奪われるなど断じて許されるべきではない。


(そうだ……彼女が貴族でなくなれば助けることができるかもしれない)


 神官だとしても結婚し家庭を持つことは普通にできる。神殿に家族を住まわせるわけにはいかないが、妻や子を持つ神官は少なくない。


 しかし彼女は地位の高い貴族だ。神官の妻に迎い入れるにも、それ相応の立場が必要だ。神官長にはすでに妻がいる。だがほかにイジドーラを任せられるような人格者は見当たらなかった。


(それならば、わたしが彼女を救うしかない)


 神官長は健在ではあるもののそこそこ老齢だ。これまで堅実に努力してきたおかげで、自分は次期神官長候補として名が挙がっている。もう一度真摯(しんし)に頼めば、イジドーラのためにその座を譲ってくれるに違いない。


 だがミヒャエルのその希望は、神官長にすげなく一蹴(いっしゅう)された。そんな(よこしま)な思いを持つ者にこの座は譲れない。そのことがきっかけで、ミヒャエルは逆に候補から外されることになってしまった。


 どうしてこの思いが邪だと言うのか。手をこまねいているうちに、イジドーラの死刑の噂は色濃くなってきている。もう一刻の猶予もない。ミヒャエルはイジドーラのために、神殿の中で確固たる地位を築くことを強く誓った。


(何も神官長でなくてもいい。それに準ずる力を手に入れさえすれば……)


 そうすればイジドーラを妻へと迎え入れられる。自分の力で彼女の命を助けられるのだ。


 その日からミヒャエルは人が変わった。のし上がるためなら、他人を(おとし)めることも(いと)わない。時に()めそやし、弱みを握り、金品を握らせ、周囲の人間を囲っていった。


 もともと神官としての素質を持っていたミヒャエルは、(またた)く間に神殿内を掌握(しょうあく)した。最終的には神官長派とミヒャエル派に、派閥(はばつ)二分(にぶん)することとなる。


 神官長はどこまでもミヒャエルの壁となった。あの男がいる限り、イジドーラを救えない。(きた)るべき日のために、ミヒャエルは人を使って気づかれぬよう神官長に少しずつ毒を盛った。


 そして彼女の処刑執行の日程が決まったらしいという噂に、ミヒャエルはその覚悟を決めた。


 イジドーラが王城の一室に幽閉されていることは突き止めていた。決行の前夜に、その場所近くの茂みに立つ。この高い石塀(いしべい)の向こうにイジドーラがいる。どれだけ心細い日々を送っているのだろうか。彼女の涙を思うだけで、ミヒャエルの胸は(きし)むほどの痛みを訴えた。


(せめてひと時の安らぎを届けたい)


 久しぶりに吹く横笛に、精霊たちが集まることはなかった。(けが)れた我が身に寄ってくるのは、もはや異形の暗い影ばかりだ。だが後悔はひと欠片(かけら)たりとてない。


(もうすぐ……もうすぐだ。わたしが必ず貴女(あなた)を救ってみせる)


 旋律を響かせ、細くかかる三日月(みかづき)を遠くに見上げた。この笛の()を聞きながら、彼女も同じ月を見ているのだと。


 ただ、それだけを信じて――


     ◇

 はっと朦朧(もうろう)としていた意識を戻す。少し気を飛ばしていたようだ。


 震える手のひらを見やる。あの翌日、(にぶ)く光る短剣を神官長の胸に突き立てた。その肉を(えぐ)る感触がいまだこの手に(よみがえ)る。


 話があると真摯(しんし)な態度で会いに行った夜、彼は自分が懺悔(ざんげ)に来たとでも思ったようだ。精悍(せいかん)だった神官長は見る影もなく痩せ衰えていた。何しろこの自分でも容易(たやす)く殺せるほどに、毒で弱らせていたのだから。


 神官長がこと切れたあと、ミヒャエルは(ぞく)が現れたと大声で騒ぎ立てた。自らにも傷をつけ、争ったように部屋を荒らした。

 その数日後、ごろつきの死体が見つかった。それすらもミヒャエルが仕組んだものだ。毒を盛らせた人間も無事に始末した。彼女と自分の輝ける未来に、一点の曇りも残すわけにはいかなかった。


(ようやく貴女(あなた)を救う日がくる)


 彼女の手を取りしあわせにするためだけに、これまで脇目もふらずにやってきた。間もなくこの思いが(むく)われる。血に染まった体を清めながら、ミヒャエルはいつまでも笑いが止まらなかった。


 だがその願いは無慈悲にも打ち(くだ)かれた。そう、ディートリヒ王の手によって。


 王妃の()から明けてすぐ、ディートリヒはイジドーラを後妻に迎えると宣言した。それが亡き王妃の遺言なのだとの名目をもってして。多くの貴族から反発が起こった。しかしそれをものともせず、その一年後にイジドーラは王妃となった。


 あの日々をどう過ごしたのかミヒャエルに記憶はない。気づけば神殿の(おごそ)かな広間の片隅で、ふたりの婚儀を眺めやっていた。


 そこには王に並び立つ自信に満ちたイジドーラがいた。妖艶な笑みを()き、王の顔を見つめている。


 彼女はあんなふうに笑う女だったろうか? いや、あの顔を向けられるのは、王などではなくこの自分だったはずだ。


 その時ようやく怒りが込み上げてきた。イジドーラのためだけに、己はこの手を血で染め上げたというのに。



 それからは欲を満たすだけの日々が続いた。欲しい物を手に入れる衝動を抑えることはしなかった。いい顔をして手をこまねいていたら、何も手にすることなどできはしない。知らぬ間に狡賢(ずるがしこ)い人間にすべてを奪われてしまうのだから。


 幾年月(いくとしつき)も過ぎて、(くれない)の女が自分の元に前触れなく現れた。(けが)れた力を持つ女は、血で汚れた我が身が女神と呼ぶに相応(ふさわ)しい。


 ――この力さえあればイジドーラが手に入る


 風化しかけていた願望がふいに顔をもたげ、その誘惑に(あらが)うことなどできはしなかった。希望が絶望に変わったあの日のすべてに、再び強い光が差し込んだのだ。そのことにミヒャエルは歓喜した。


 紅の女神がどんな存在でも構わなかった。自分を裏切ったイジドーラこそ、穢れたこの手を取るに相応しい女だ。


 遠くに(きぬ)()れの音が聞こえてくる。同時に彼女の気配が近づくのが分かった。


 イジドーラがこの世で最期(さいご)に見るものは、誰でもない(おのれ)の姿なのだ。例えようもないよろこびが胸の奥底から湧き上がってくる。


(ようやく……ようやくだ)



 (ふところ)から取り出した()き身の短剣を、ミヒャエルは汗ばむ手で強く握りしめた。


【次回予告】

 はーい、わたしリーゼロッテ。ミヒャエル司祭枢機卿に命を狙われた王妃様。剣の切っ先はその胸に真っすぐ向けられて。歪んでしまった思いの果てに、ふたりを待つ結末とは……?

 次回、4章第5話「王妃の夜会」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!

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