番外編 きみのいる世界(前)
「この方がヴァルト様の未来の花嫁様ですぞ」
そう言ってエッカルトが持ってきたのは、一枚の肖像画だった。掲げられた絵から目が離せない。焦がれるような何かが湧き上がり、戸惑いの中、そこに描かれた少女を食い入るようにじっと見つめた。
蜂蜜色の髪をたなびかせた少女は、きっと陽だまりの中にいるのだろう。光り輝くような笑顔が眩しくて、ジークヴァルトはそんなことを思った。
いつも座る真正面の壁に、その肖像画は飾られた。見上げるといつでも彼女は笑いかけてくる。
褪せた世界は、そこだけが色を取り戻した。
理由もないままジークヴァルトの瞳には、いつでもそう、映って見えた――
◇
「ほぅら、ジークヴァルト。あれがラウエンシュタイン城だぞ」
父親に連れられて向かった先は、龍の託宣により決められた婚約者の元だった。フーゲンベルクの屋敷を出て、もう三日ほどが経つ。初めての長旅に、ジークヴァルトはいつも以上に固まった表情で、馬車の窓から外を眺めていた。
「なんだ? 緊張してるのか? あの城は結界で包まれているらしいから、異形の者もいないと思うぞ? ああ、初めて会う託宣の相手が気になるんだな。可愛い娘だったもんな。だが、肖像画はちょっと大げさに描いてあることもあるから、絵と違う娘が出てきても驚くんじゃないぞ?」
頭をぐりぐりとなでられながら、ジークヴァルトはただ頷き返した。父親とふたりきりで長く過ごすのも初めてのことだ。マテアスがそばにいないのも、なんだかおかしな感じがした。
深い外堀がぐるりと囲むラウエンシュタイン城は、まるで湖の真ん中に建っているかように見えた。堀の中には碧の水が湛えられ、時折枯れ葉がくるくると踊りながら緩やかに流されていく。
堀の水は透明度が高く、底に敷かれた石の細部までも見通すことができた。浅そうでいて深そうにも感じる。吸い込まれるような不思議な感覚を、光の屈折はもたらしてきた。
馬車から降り、その石造りの城を見上げた。城壁は高く、侵入者のすべてを拒むような物々しさだ。ぽんと頭に手を置かれ、隣に立つジークフリートに顔を向ける。
「ここからは歩きだ。あの城へは許された者しか入れない」
いつになく硬い声音の父親に、ジークヴァルトは再び城へと視線を戻した。空を割くように、長い跳ね橋が城壁からゆっくりと降ろされていく。鎖の軋む音が、初秋の乾いた空気の中を重く響き渡った。
ごうんと最後に音を立て、水平となった橋は動きを止めた。水が流れる涼やかな音色だけが、この場を静かに満たす。
「行こうか、ヴァルト。何、心配するな。ひと目見ればすぐ分かる。託宣の相手とはそういうもんだ」
城へと一直線に伸びる跳ね橋を進み出したジークフリートの後ろを、ジークヴァルトも黙って続いた。
堀の水面が日差しを返し、進むごとに揺れる碧が眩しく乱反射する。それと同時に包む空気が澄み切っていくのを、ジークヴァルトはつぶさに肌で感じ取っていた。
この先に肖像画の少女がいる。そう言われても、実感など微塵も湧かなかった。
ジークヴァルトにとって色づいた場所はあの額縁の中だけだ。きっと彼女はこの世の存在ではないに違いない。そのほうがよほどしっくりくるように、ジークヴァルトには思えてならなかった。
近づくにつれ城の大きな鉄の扉が開かれていく。そびえたつ城門の前まで来ると、何かがこすれ合うような音がした。振り向くと、弛んでいた鎖が強く張られ、重い地響きと共に再び跳ね橋が立ち昇っていく。遮ることのない清浄な空気は、回る歯車の振動をどこまでも遠く響かせた。
高い鉄門をくぐり城内の敷地へと入る。誰もいないがらんとした庭は、整然としすぎていて逆に落ち着かなく感じられた。過ぎた鉄門が閉まりゆく音を背に、まっ平らな石畳をふたりは進んでいった。
「お? なんだ、お前ら。やけに愛嬌のある異形だな」
丸く整えられた茂みの陰に、瞳がきゅるんとした小さな異形が数匹、ぴるぴると震えながら隠れていた。ジークヴァルトの姿を見て、怯えるように身を寄せ合っている。
「それはリーゼロッテの小鬼です。祓わないでやってもらえますか?」
気配なく現れた男に、ジークヴァルトは思わず身構えた。先に続く石畳の小路から、銀髪の男がゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
「ようこそおいでくださいました、フーゲンベルク公爵。それに、ご令息も。あいにく妻は王城へと呼ばれていまして、わたしひとりの出迎えで申し訳ありません」
そこに立つのはジークフリートよりも随分と若い男だった。物腰は柔らかだが、どこか冷たそうな印象を与える風貌だ。
「いえいえ、ラウエンシュタイン公爵はお美しいと噂ですからね。イグナーツ殿が隠しておきたいと思ったとしても仕方のないことです」
「ははは、そうしたいのは山々ですが。でき得ればどこかに閉じ込めて、妻を誰の目にも触れさせたくないと本気で思いますけどね」
「おお! イグナーツ殿も! なんだか貴殿とは気が合いそうだ。お互い公爵家ですし、いずれ親戚となる間柄。敬語はなしにしませんか?」
「それはありがたい話です、ジークフリート殿」
「では、そういうことで。ほら、ヴァルト。お前の未来の花嫁の父君だぞ?」
「ジークヴァルト・フーゲンベルクと申します。以後、お見知りおきを」
「娘も君に会えるのを楽しみにしていたよ。仲良くやってくれるとうれしいな」
「……はい」
イグナーツに顔を覗き込まれて、ジークヴァルトは小さく頷いた。つり気味の金色の瞳がおもしろそうに細められる。
「リーゼロッテの肖像画は見てくれた?」
「はい」
「どう思ったかな?」
「……色が、ついていました」
「おいおい、ヴァルト。もっとほかに言いようがあるだろう?」
ジークフリートに呆れたように言われ、ジークヴァルトはぎゅっと眉根を寄せた。
「申し訳ない。息子は少々口下手なもので」
「構いませんよ。ジークヴァルト、君は緊張しているのかな? これから初めて託宣の相手に会うんだ。無理もないね」
「はっはっは、言われてみればそれもそうだな」
眉間にしわを寄せたままの息子の頭を、ジークフリートはぐりぐりとなでた。ジークヴァルトはなすがままにされている。
「ボクなど、初めて妻の姿を目にしたときは、雷に打たれたように感じましたよ」
「なるほど。オレはリンデと物心ついたころからずっと一緒だったからなぁ」
「それはなんともうらやましい。ボクが彼女に出会ったのは十二の時でしたから。婚姻前までは年に一度か会えませんでしたし」
「なんと! それはさぞやつらかったかと。リンデの顔が一年も見られないなんて……そんな苦行、オレには耐えられそうにない」
「ははは、ボクも今だから笑える話ですがね」
そんな話をしながら、イグナーツに促されて歩き出す。しばらく庭を進むとその先に、下へと降りる幅広の石造りの階段が目に入った。
「ロッテ。お待ちかねのひとを連れてきたよ」
階段下にいる誰かに向けて、イグナーツが声をかけた。先に降りて行ったふたりの背を追って、ジークヴァルトも階段へと向かう。だがその歩みはそこで止まってしまった。
階段の縁に立ち、ただ目を奪われる。
見下ろす庭に、摘んだ花を両手いっぱいに抱えた少女がいた。その周りだけが切り取ったように、なぜだか眩しく光って見えた。風が攫った蜂蜜色の長い髪が、緩やかに舞い上げられていく。
同じような小さな異形が瞳を潤ませながら、風に膨らんだスカートにまとわりついている。少女は大きな瞳を見開いて、じっとこちらを見上げていた。
勝手に足が前に出て階段を降り、ジークヴァルトは気づくと少女の目の前まで歩み寄っていた。あの絵と同じ緑の瞳が、自分を見つめ返してくる。だがその顔に笑顔はなく、驚いたように固まったままだった。
微動だにしない少女が幻でないことを確かめたくて、ジークヴァルトは無意識にその手を伸ばした。艶やかな髪に指を差し入れて、小さな顔を自身へと引き寄せる。浮かされるような熱に導かれるまま、当たり前のようにジークヴァルトは少女と唇を重ねた。
(やわらかい)
あたたかなその感触に、夢中になってさらに深く口づける。両親がいつもしているように、見よう見まねで舌を差し入れた。
その瞬間、少女の喉がひゅっと鳴った。両肩を掴むように強く押され、抱えていた花束が足元に散らばった。見開かれた緑の瞳に、透明な液体がせり上がってくる。かと思うと、火がついたように少女は突然泣き出した。
目の前でぼろぼろとこぼされる涙を、ジークヴァルトは食い入るようにただ見つめていた。その一瞬一瞬を焼きつけるように、瞬きはおろか、息をすることすらも忘れて。
「おい、ヴァルト! 託宣の相手にやっと会えたからって、挨拶もなしにそれはないだろう!? すまない、イグナーツ殿」
ジークフリートが引き離すように、慌てて少女を抱え上げた。わんわんと泣きながら、少女が父の首にしがみつく。その様子にちりとした痛みが、ジークヴァルトの奥に小さく生まれ落ちた。
「いや、ジークヴァルト分かんぞ、その気持ち! オレもマルグリットに初めて会った時、お前とまったくおんなじことしたわっ」
げらげらと笑いながら、今度はイグナーツがジークヴァルトの頭をぐりぐりとなで回してきた。乱暴すぎるその動きに、ジークヴァルトの首も同時にぐるぐる回る。
「やべー、可笑しすぎて素が出ちまった」
目じりに涙を浮かべ、イグナーツはいつまでも腹を抱えて身をよじらせている。
泣き続ける少女をあやすように、ジークフリートは庭の中を歩き回った。それでも少女はなかなか泣き止まない。
「あああ、泣かないでくれリーゼロッテ。そんなに泣いたらおめめがとけちゃうんだぞ? 本当にヴァルトは悪い奴だな。だが、これをやるからなんとか仲直りしてくれないか?」
「なかなおり?」
ぐずぐずと泣き続けながら、少女は小さく鼻をすすった。初めて聞く声は、響くようにジークヴァルトの耳に届けられた。
「ああ、リーゼロッテに贈り物だ。ほぅら、綺麗だろう?」
青い守り石がついたペンダントを、目の前に差し出した。それを受け取った少女が、不思議そうにチェーンを揺らす。
「……きれい」
涙がたまったままの目を見開いて、少女は日の光にかざすように守り石を揺らした。何度もそうしているうちに、その顔が緩く笑顔を作る。
「そうかそうか、気に入ってくれたか」
ほっとしたようにジークフリートは少女をすぐ近くに降ろした。一歩近づくと、守り石に夢中になっていた少女は、ジークヴァルトに気づいて再び顔を強張らせた。
「リーゼロッテ」
手を伸ばしながら、初めてその名を呼んだ。と同時に少女の体がびくりと大きく震える。
「リーゼロッ……」
びくっ
「リーゼ……」
びくびくっ
「リー……」
びくびくびくっ
見ていて可哀そうなくらい怯える様子に、ジークヴァルトもさすがにその口をつぐんだ。伸ばしかけた手をそのままに、対峙するように見つめ合う。
「ヴァルト……お前、すっかり嫌われたなぁ」
困ったように言うジークフリートの前で、ぐっと口を引き結んだ。考えあぐねた挙句、ようやく見つけた言葉で呼びかける。
「……ラウエンシュタイン嬢」
ぽつりと言うと、少女はきょとんとした顔をした。
「呼ばれ慣れてないから、ロッテは分かってなさそうだな」
「はぁぁ、名前も呼ばせてもらえないんじゃあ、お前リーゼロッテに相当嫌われたぞ?」
「はははっ、それも力いっぱい覚えがあんぞ! 大丈夫だ、ジークヴァルト。それでもオレはちゃんとマルグリットの愛を勝ち取った!」
もう取り繕う気がなくなったのか、イグナーツは声をたてて大きく笑った。
「まぁ、オレもしつこくしすぎて、リンデによく怒られてるからなぁ」
「フリート殿も! いやぁ、オレたち実に気が合いそうだ」
「まったくだ!」
はっはっはと笑うと、ジークフリートはイグナーツと仲良く肩を組んだ。愉快そうにふたりで笑い合いながら、ジークヴァルトの頭を同時にぐちゃぐちゃになでてくる。
「いやぁ、ヴァルトの初恋がこんな苦い思い出になるとはなぁ」
「ははは、何とも世知辛い!」
そんな男どもに興味がなくなったのか、リーゼロッテはくるっとこちらに背を向けた。守り石を光にかざしながら、スカートの裾を跳ねさせご機嫌な様子でスキップをしていく。
きゅるるん小鬼を引き連れて、茂みの奥へとそのままリーゼロッテの小さな姿は消えてしまった。




