17-2
◇
ガラガラと車輪が回る音が響く。帰りの馬車の中、リーゼロッテは行きに約束したようにジークヴァルトの膝に乗せられた。
菓子を差し入れる指先が、いちいち唇に触れてくる。その刺激だけで制御が効かなくなって、体のいたるところから力が溢れ出してしまう。そこにすかさず菓子が差し出され、ひたすら咀嚼を繰り返した。
(夢……ではないのよね……)
とめどなく流れ出ていく力に、次第に眠気が襲ってくる。食べても食べても追いつかない。もうまぶたが重くてくっつきそうだ。
「眠ってもいいぞ」
やさしく声をかけられる。ああ、この声も大好きだ。そんなことを思いながら、リーゼロッテはまどろみに沈んでいった。
はっと目を覚ます。次の瞬間、目の前にいたのは、自分の口にクッキーを差し入れているエラだった。
「お嬢様……」
ほっとしたように呼ばれ、リーゼロッテはがばっと身を起こした。見回すと、公爵家のいつもの寝室だ。夜着に着替えさせられて、胸元にはペンダントの守り石が揺れている。
「……夢?」
青ざめたまま、確かめるように唇を指でなぞる。
もしあれがすべて幻だったとしたら。そんな残酷な考えがよぎって、リーゼロッテは色のない顔のままエラを見た。
「エラ……夜会は……?」
「夕べ公爵様とお戻りなられたとき、お嬢様はもうお眠りになっておりました。今日はゆっくり休むようにと仰せつかっております。あの、体は簡単に拭かせていただきましたが、今から湯あみをなさいますか?」
気づかわしげに問うてきたエラに、リーゼロッテは自身の腕を見た。昨日ついていた血の跡はそこにはない。
「エラ……夕べわたくしに血が付ていたわね?」
「はい、お嬢様」
その返事に夢ではなかったのだと力が抜けた。
「一体何があったというのですか? お嬢様がどんなひどい目にあったのかと思うとわたしは……」
エラはぼろぼろと泣き出した。傷はないものの、血のりをつけて帰ってきたのだ。着ていたドレスもあちこち裂けていた。これで心配するなという方が無理というものだろう。
「ち、違うの。あれは異形がまた襲ってきて。それでジークヴァルト様に……」
そこまで言って、リーゼロッテはぼぼんと真っ赤になった。脳裏に夕べの深い口づけが蘇る。エラには目視できなかったが、全身から緑の力が盛大に飛び出した。
再び枕に頭を沈めてしまったリーゼロッテに、エラがあわててクッキーを差し入れる。
「ごめんなさい、エラ……。落ち着いたらちゃんと話すから……信じられないけれど、とてもうれしい話なの。だから、もう少し、ま……って……」
すぅと再び寝入ってしまったリーゼロッテに、エラは安堵の息を漏らした。リーゼロッテの寝顔は、今とてもしあわせそうだ。
弧を描く唇を見つめ、エラの口元も知らずほころんだ。
◇
「それでは、リーゼロッテ様と思いが通じたのですね?」
前のめりにマテアスに問われ、ジークヴァルトはぎゅっと眉根を寄せた。
「……触れても、嫌がられなくはなった」
「は……?」
その曖昧な返答に、今度はマテアスの眉根が寄せられる。だがすぐに気を取り直したように咳払いをした。
「では順を追ってお伺いいたしましょうか? まずは異形が再びリーゼロッテ様を襲ったと」
「ああ」
「そこに旦那様が助けに入った」
「そうだ」
「で、その次に旦那様はどうされたのですか?」
「無理やり口づけた」
「そうですか。リーゼロッテ様に無理やり口づけを……って、あなた何やらかしちゃってるんですかっ!?」
納得しかけたマテアスが、驚愕した顔になって声を荒げた。あれほど今はしつこくするなと口を酸っぱくして言ったのに、一体何を考えているのだ。ジークヴァルトは無言でついと顔を逸らした。
「はぁ、まったく、うまくいったからよかったものの……」
あれほど焚きつけても決して手を出そうとしなかったクセに、相変わらず自分の予想を軽々と超えてくる主だ。
「それでリーゼロッテ様には、ちゃんと愛しているとお伝えになったのですね?」
「いや……」
「では好きだとお伝えに?」
「いや、言ってない」
ぴきっと青筋を立てつつも、マテアスは努めて冷静に問うた。
「では、どうやって思いをお伝えになったのでしょう?」
「初恋の相手はお前だと、そう言った」
「は? 何ですか? それ」
いきなり無理に口づけて初恋はお前だったなどと言われても、あの状態のリーゼロッテの心に響くと思えない。普通に考えてドン引かれるだけだろう。
「マテアスとの話を聞いていたと言っていた」
「わたしとの話?」
「ああ、彼女が庭に出た日のことだ」
そう言われて、マテアスははっとした。あの会話を聞いて何か誤解をしたのだろう。ジークヴァルトが他の女にうつつを抜かしているとでも思ったのかもしれない。そう思うと、エラの自分への塩対応も納得できた。
「はぁ……何にせよ、よかったです。それでリーゼロッテ様に思いを返していただけたのなら」
「いや」
即座に否定したジークヴァルトに、マテアスは信じられないものを見る目つきを向けた。
「え……? リーゼロッテ様に思いを受け入れていただけたのですよね?」
「いや、彼女からは特に何も聞いていない。だが、触れても嫌がられなくなった」
きっぱりと言い切る主を前に、マテアスの顔から表情が消える。
「……今のあなたに必要なのは、恋愛指南書のようですね。恋愛小説と合わせて簡単な分かりやすいものを見繕いますので、最低十回はお読みになってください」
愛の告白の仕方から恋人同士の過ごし方まで、何から何まで教えてやらなくてはならないのだろうか。このままでは、いずれ夫婦生活まで指導しなければいけなくなりそうだ。
「とにかく、明日にでもきちんとリーゼロッテ様に思いをお伝えになってください。そして、必ずリーゼロッテ様からも明確なお返事を」
その言葉を翌日に後悔するはめになろうとは、思ってもみないマテアスだった。
◇
「もう大丈夫なのか?」
「はい……ゆっくりと休めました」
執務室のソファにいつものように並んで座るふたりを見て、主の言うことに嘘はなかったとマテアスは安堵した。ジークヴァルトを見上げては、ぽっと頬を染めて目を逸らす。そんなことをリーゼロッテは先ほどからずっと繰り返している。
そのたびにあふれ出る緑の力のせいで、部屋の中はいつも以上にご機嫌そうな小鬼たちがはしゃぎまわっていた。
「あーん」
「ヴァルト様もあーんですわ」
これまでにないくらいの甘い雰囲気で繰り広げられているふたりのルーチンワークに、マテアスはほっと息をつく。ここまでくればゴール目前、ジークヴァルトが本懐を遂げれば万事オッケーだ。自分の心労も大幅に減少するに違いない。
(先日の異形の騒ぎで執務もたまりにたまっていますが、今日くらいは大目に見ましょうか)
乳くりあうふたりに生温かい視線を送って、マテアスは書類へと手を伸ばした。
「ヴァルト様……くすぐったいですわ」
「嫌か?」
「嫌……というか、その、恥ずかしくって……あ、や、もう、くすぐったいって申し上げておりますのに」
「恥ずかしいだけではやめる理由にならないだろう」
リーゼロッテの頬を撫でまわしながら、ジークヴァルトが魔王の笑みを浮かべている。そんなジークヴァルトの胸に手をついて、リーゼロッテはつっぱるように距離を開けようとした。すかさず体を引き寄せ、自分の膝の上に乗せてしまう。
「あ……ひゃっ。くすぐったいからやめてくださいませ」
「これならいいか?」
頬に滑らせていた手を髪にくぐらせ、絡めるように梳いていく。
「……恥ずかしいからやっぱり駄目です」
「いや、オレは何も恥ずかしくない」
「そんな、もう……」
こんなやり取りをすぐそこで聞いていたマテアスは、ぷるぷると震えるペン先で必死に自分を押さえていた。もう、口から砂糖を吐きそうだ。主とはいえ、執務中に他人のいちゃこらを見せつけられるのは、思った以上に精神を削られる。
(考えたら負けですねぇ)
決してうらやましいなどと思っていない。マテアスは未来の家令だ。その立場から近づいてくる女性は後を絶たない。だが家令の伴侶となると、それなりの人格者を選ばなくてはならないのだ。金と権力目当ての者は論外だし、理想の伴侶は母ロミルダのように侍女長を務めあげられるような女性だった。
損得勘定抜きで今まで付き合った女性もいるにはいたが、忙しすぎるマテアスに愛想をつかすのがいつものことだった。恋人は二の次三の次。そうなれば捨てられるのも仕方のないことだと、もう半ばあきらめている。
(だからといって、うらやましいなんて思っていませんからねっ)
どうせいちゃつくならジークヴァルトの自室でやってほしい。リーゼロッテの耳をしつこくいじっている主を横目に、げんなりしながらマテアスはため息をついた。その瞬間、執務室全体が前触れなくドン! と揺れた。
「ふぉおおぉお! 公爵家の呪いだけは勘弁してください!」
マテアスも浮かれすぎていたのか、最重要事項を失念していた。このまま主の暴走を放置するわけにいくはずもない。
ふたりに割り込むようにして、距離を開けさせる。リーゼロッテは真っ赤になって、肩で息をしていた。その体からぽっぽぽっぽと緑の力が絶え間なく飛び出している。
「これは……リーゼロッテ様も力の制御ができないと、困ったことになりそうですねぇ」
ジークヴァルトに触れられて、動揺するたびに力を使い果たしてしまう。そんな状態では子作りに専念するのも難しいだろう。
ジークヴァルトは再びリーゼロッテを抱き寄せ、せっせと菓子を口元に運び出した。そのたびに唇を撫でまわし、リーゼロッテはさらに脱力している。
「旦那様……あなたは阿呆ですか?」
ぽつりと漏れ出た言葉が聞こえなかったように、ジークヴァルトはそのまま給餌行動を続けている。
「はぁ……もう、それ以上続けるなら、旦那様の部屋に行ってください。異形の邪魔は入りませんので、どうぞ心置きなく」
「いや、駄目だ」
「どうしてですか? もう我慢なさらなくてもいいでしょう?」
「駄目だ。明日、ダーミッシュ伯爵が来る」
「え? フーゴお義父様が?」
くったりしていたリーゼロッテが瞳を輝かせて体を起こした。
「ああ、ルカも一緒に連れてくるそうだ」
「まあ! うれしいですわ」
無邪気によろこんでいるリーゼロッテを見て、マテアスは複雑な心境になった。ダーミッシュ伯爵とは、リーゼロッテと絶対に婚前交渉を行わないようにと契約を交わしている。いかに公爵と伯爵の身分差があれど、契約の前ではごり押しもできない。
しかもその契約書は、王の調印が押された最大級の効力を持つものだ。フーゲンベルク家とダーミッシュ家、そして王城に一枚ずつ契約書が保管され、不履行になどできない貴族としての正式な契約だった。
そこにダーミッシュ伯爵の本気が伺える。しかも契約を破った場合には、婚姻が果たされるまで二度とリーゼロッテには会わせないという過激な内容なのだ。
(そこはそれ、そうなった場合には、なんとしても婚姻を早める所存ですが……)
そのときはハインリヒ王子を使ってでも、マテアスはふたりの婚姻を前倒ししようと思っていた。アデライーデの件で公爵家は王子にものすごい恨みを抱いている。そのくらいのことをさせても、おつりがくるというものだろう。
「でしたらリーゼロッテ様は今日は早めにお休みになられてください。今の様子のままお会いしては、伯爵様にご心配をおかけしてしまうでしょうから」
力の制御が効かずくったりしているリーゼロッテは、もっともだという顔をして頷いた。不服そうにしているのは、ジークヴァルトだけであった。




