13-2
◇
「ねえねえ、聞いた? ヨハン様のプロポーズの話」
「聞いた聞いた! 勢いで申し込んで、あっさりエラ様にフラれたって話」
「何気に玉砕!」
「見事に玉砕!!」
「それにエラ様、貴族籍を抜けるって話」
「それ、知ってる! 男爵令嬢やめて平民になるって話」
「え? 平民に? それってあたしたちにもチャンスありってこと?」
「やった! エラ様、お嫁に来てほしい!」
「でも女同士じゃ結婚できないし。うちの弟にいかせよっかな」
「あんたんトコの弟になんてやんないわよ」
「そうよそうよ! エラ様はあたしのものよ!」
「同性婚賛成!」
「同性婚推進!!」
ここは公爵家の洗濯場。パリッと乾いたリネンのシーツを手際よく畳みながら、洗濯担当の三人娘が今日もおしゃべりに精を出している。
「あっ! もうこんな時間!」
「ホントだ! リーゼロッテ様のお渡りに間に合わせなきゃ」
「急いで急いで!」
畳んだリネンを大きなワゴンへと乗せていく。寝具のリネンは数が多いとなかなかの重量級だ。それでも手慣れた様子で三人娘は積み終わったワゴンを押して、洗濯場から大廊下へと急いで進んでいった。
「あ! よかった、間に合った!」
「じゃあ、ワゴンはここらに置いて」
「今日は結構いいポジション!」
ほかにも使用人たちが並ぶ廊下で、三人娘も同じように端に寄って頭を下げた。廊下の奥からリーゼロッテが歩いて来る姿が小さく見える。その後ろにはエラもついてきているようだ。
「今日はエラ様も一緒ね」
「旦那様も久しぶりの王城出仕だったもんね。そりゃ万全にお迎えしなきゃ!」
「でもでもリーゼロッテ様、ここ数日お熱を出されていたって話」
「そうそう、何でもお庭で散策中に雨に降られたって話」
「旦那様もお怪我をされたり、なんだか最近ついてないって感じ」
「あ! ほらもう、しっ」
近づくリーゼロッテ一行に、三人娘は慌てて口をつぐんだ。頭を下げつつも、その姿を目に焼き付ける。
「はあぁ、今日もリーゼロッテ様、超可憐!」
「超妖精!」
「超精霊!」
リーゼロッテが去った途端、おしゃべりは再開された。三人娘の感嘆の声を、周囲の者たちも微笑ましそうに聞いている。
「リーゼロッテ様、早くお嫁にきてくれないかなぁ」
「うんうん、そしたら奥様のために全力でがんばっちゃう!」
「そうなるためにはやっぱりアレよね……」
三人娘は目配せし合い、円陣を組んで手を重ね合わせた。
「なんにせよ、頑張れ旦那様!!」
◇
リーゼロッテと連れ立って歩きながら、エラはその横顔を少し遅れた位置から見つめていた。数日前に雨に降られて、リーゼロッテは微熱を出していた。どうして庭へ行ったのか、公爵と共に行ったのか、問いかけても曖昧な返事しか返ってこない。
今朝ようやく熱が下がり、王城から戻ってくる公爵を出迎えにいくところだ。リーゼロッテはずっと公爵の怪我の具合を心配していた。出仕が再開されて、負担が増えるのではと憂いているのかもしれない。
元気がないのはそのせいかと、とりあえずそれで納得した。悩み事があっても自分の中で整理がつくまで、そのことをなかなか口にしてくれない。今は問い詰める時期ではない。そう思ってエラは、リーゼロッテが自ら話してくれるのを待っていた。
エントランスに着き、家令のエッカルトと共に中央に並び立つ。周囲を囲むように大勢の使用人たちも控えていた。こんな時、リーゼロッテはエッカルトに笑顔で話しかけるのだが、今日は伏し目がちに表情なく黙りこくっている。
「リーゼロッテ様……お加減はまだよろしくないのですかな?」
「いいえ、もう大丈夫よ。ありがとう、エッカルト」
気づかわしげに声をかけてきたエッカルトに、リーゼロッテはにこっと笑みを返した。しかしその視線が床の上に外されると、ふっと先ほどの無表情に戻ってしまう。
エッカルトが何かを言おうとしたタイミングで、公爵が扉から現れた。リーゼロッテの姿を認め、真っすぐにこちらへと向かって来る。
「具合はもういいのか?」
「はい、ご心配をおかけしました」
淑女の礼をとり、リーゼロッテはこわばった笑みをジークヴァルトへと向けた。そしてすぐに視線をそらす。そのまま俯いてしまったリーゼロッテに、もう一度公爵が問うた。
「本当に具合はよくなったのか?」
「はい、今朝熱は下がりました。公爵様も久しぶりの出仕でお疲れでございましょう。わたくしのことなどお気になさらず、どうぞご自愛なさってくださいませ」
他人行儀にもう一度礼をとると、リーゼロッテは一歩下がって公爵から距離を取った。
「……何なんだ、それは?」
「それ、とは何のことを仰せでしょうか」
眉根を寄せた公爵に、リーゼロッテはやはり他人行儀に言葉を返した。公爵の眉間の溝が深くなる。
「どうしてオレのことを公爵などと呼ぶ?」
「思えば公爵様の御名を勝手に呼んでおりました。今さらながら不敬に気づき、改めさせていただきました」
「そんなもの、今まで通りでいい」
苦々しい顔をして、公爵は呻くように言った。その様子にリーゼロッテは静かに頭を垂れる。
「寛大なお心、ありがたく存じます」
そんなやり取りを、周囲は黙って聞いていた。目を見開いたまま、誰もが驚きを隠せないと言った表情だ。
ぐっと眉間にしわを寄せて、どこからともなく取り出した菓子を「あーん」とリーゼロッテの口元へと運んでいく。公爵家のエントランスでいつも見られる光景を、誰もが固唾を飲んで見守った。
しかしその菓子は口に入れられる寸前に、小さな白い指につかみ取られてしまった。菓子をその手に取ったまま、リーゼロッテは淑女の笑みを浮かべて公爵を仰ぎ見る。
「こちらは後ほどきちんと頂かせていただきます。やはりまだ気分が優れないようなので、今日はこれで御前を失礼させていただきたく存じます」
手にした菓子を白いハンカチで包むと、リーゼロッテはそれをエラに手渡してきた。
「ジークヴァルト様もごゆっくりお休みになってくださいませ。行きましょう、エラ」
最後に完璧な淑女の礼をとると、リーゼロッテは公爵に背を向けた。そのまま振り向きもせず、エントランスを出ていってしまう。エラも公爵に礼をとり、慌ててその背を追いかけていった。
途中振り向くと、公爵はじっとリーゼロッテを睨むように見つめていた。表情なく廊下を進むリーゼロッテに、かける言葉が見つからない。
最近は異形のカークが道を教えてくれるとのことで、リーゼロッテはひとり迷うことなく廊下を進んでいく。エラにはカークが視えないが、今は信じてついて行くしかなかった。
しばらく進むとリーゼロッテの部屋がある廊下へと出る。胸をなでおろしてエラは、先導して部屋の扉を開けた。
部屋に戻るとリーゼロッテは、無表情のまま居間のソファへと音もなく腰かけた。とその瞬間、緑の瞳から大粒の涙が零れ出る。
「リーゼロッテお嬢様!」
慌てたエラはすぐさまその手を取った。目の前で膝をつき、下から覗き込むように顔を見る。
「お嬢様……やはり公爵様と何かあったのですね?」
その言葉に、リーゼロッテはぎゅっと唇をかみしめた。はっとして、握ったエラの手に力が入る。
「もしや公爵様は、お嬢様のお名前を呼んでくださらなかったのですか?」
「違う……違うの、エラ」
強く否定するようにリーゼロッテは首を振った。なんとか言葉にしようと、懸命に幾度もしゃくりあげる。エラはリーゼロッテの隣に座って、その小さな背中をやさしくさすった。
「名前を呼んでいただけるよう、お願いはできなかったの。あの日、ジークヴァルト様のお部屋にはいかなかったから」
「ではなぜ……?」
逸る気持ちを押さえて、エラは辛抱強く言葉を待った。
「あの日わたくし、お部屋の前で……マテアスとの会話を聞いてしまったの」
「マテアスとの会話を?」
頷くリーゼロッテの瞳から、とめどなく涙が溢れ出る。小さく唇をふるわせている姿は、見ていていたたまれなくなった。
「ジークヴァルト様に、今も思う、初恋の方がいらっしゃるって。それでわたくし、どうしたらいいのかわからなくなってしまって……」
「まさか、あの公爵様が」
リーゼロッテ以外の女に熱を上げているなど信じがたい。驚いたエラはリーゼロッテの顔を覗き込んだ。エラの目から見ても、公爵がリーゼロッテの虜になっているのは明らかだった。
「それは、お嬢様の聞き間違いなのでは……?」
「いいえ、ジークヴァルト様も『彼女』を傷つけたくないと……。わかってはいたの。わたくしとジークヴァルト様は龍に決められた間柄。だから、仕方ないって、わたくしそう思って……託宣が果たされたらジークヴァルト様を自由にしてあげようって、それまでは今まで通りふつうに接しようって、そう決めたのに……!」
リーゼロッテは歯を食いしばって天井を仰いだ。堪えていたものが、堰を切ったかのようにあふれ出す。
「わたくし、こんなに嫌な人間だった? ジークヴァルト様に頼りきりにならないようにって、これからはちゃんとしなきゃってそう思っているのに、あんな、あんなひどい態度をジークヴァルト様に――っ」
「お嬢様……」
「お願い。このことは誰にも言わないで。ジークヴァルト様はわたくしを誠実に扱ってくださってるわ。だから、エッカルトにもマテアスにも、お義父様たちにも誰にも言わないで……」
泣きじゃくりながら懇願してくるリーゼロッテに、エラは安心させるように頷いた。
「このエラ、誰にも話さないと命にかけて誓います」
「……ありがとう、エラ」
抱きしめてやさしく髪を梳く。エラがダーミッシュ家に奉公に上がったのは、リーゼロッテが十歳の時だった。あんなに小さく幼かったリーゼロッテが、今、ひとりの男性を思って心を痛めている。
これからもこの方のおそばでお支えしたい。そんな思いが溢れてくる。
リーゼロッテが腕の中泣きつかれるまで、エラは愛おしそうにその髪をなで続けた。
◇
「一体何がどうなってしまったのか……何にせよ、このままではまずいですよねぇ」
ぶつぶつと言いながら、マテアスは薄暗い廊下をひとり歩いていた。まだ夜も明けきらない早朝だ。人気のない廊下を迷うことなく進んでいく。
リーゼロッテの様子がますますおかしい。他人行儀だった態度は、今ではまったくの赤の他人状態だ。貼りつけた笑みに、へりくだった言動。その振る舞いは、まるで目上の公爵に初めて出会った伯爵令嬢のような徹底ぶりだ。
(ヴァルト様に問いただしても覚えがないとおっしゃるし……)
あの日、なぜリーゼロッテが部屋に来ずに、庭に飛び出したのかも理由が分からないままだ。カークが危険を知らせてこなかったということは、リーゼロッテ自らがそこへ足を運んだのだろう。
無理にふたりを近づけさせたのがまずかったのだろうか? いや、途中まではうまくいっていた。やはり原因はジークヴァルトにあるはずだ。その結論に至るころ、マテアスは目的の場所へと到着した。
扉を叩くとすぐにエラが出てきた。いつも通り着古した侍女服を着ている。
「エラ様、折角準備をしていただいたところ申し訳ないのですが、本日より主との手合わせが再開されることとなりまして。エラ様との稽古は、これから週一二回程度にさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「そうですか……。でも、そういうことなら仕方ないですね。わざわざ知らせに来てくれてありがとうございます」
「昨日のうちに連絡しておけばよかったのですが、忙しさにかまけてうっかりしておりました」
嘘である。本当はエラとふたりきりで話がしたくて、わざわざ連絡をしなかったマテアスだ。
「では、今日の稽古はなしということですね。じゃあ、わたしはこれで」
「エラ様!」
さっさと扉を閉めようとするエラに、マテアスは慌てて声をかけた。ドアノブに手をかけて、閉められないようにと力を入れる。
「まだ何か?」
「最近のリーゼロッテ様のご様子が気になりまして。その、何かエラ様にお心当たりがありましたら教えて頂けたらと……」
その言葉に、エラの表情がすん、と冷たくなった。その冷気を前に、マテアスは思わず背筋を正す。
「そんなもの、公爵様と……マテアス、あなたの胸に手を当てて考えれば、すぐわかることでしょう?」
およそ今までエラの口から発せられたことがない、そんな地を這うような声だった。呆然とするマテアスの前で、乱暴に扉が閉められる。
ノブを握っていた形そのままに、マテアスはしばらくの間動けないでいた。
「え? わたしも同罪ですか……?」
やはりふたりきりにしたのは早計だったのか。再び袋小路にはまってしまい、天然パーマの髪をマテアスはがりがりと掻きむしった。
◇
「旦那様……ほんっとうにお心あたりはないんですね?」
「ない」
ソファに座ったままのジークヴァルトの後ろに立ち、マテアスはその背に胡乱気な視線を送る。ふいと顔をそむけるジークヴァルトを、マテアスはさらに問い詰めた。
「いちばん最後にこの部屋で過ごされた時、リーゼロッテ様に何かなさったでしょう?」
「いや、してない。……しそうにはなったが、何もしていない」
ぐっと口をへの字に曲げたジークヴァルトは、まだ何かを隠してそうだ。
「しそうになって何もしなかった代わりに、一体何をなさったんですか?」
「……部屋を、追い出した」
ようやく自供したジークヴァルトを前に、マテアスは大きくため息をついた。
「会いに来させておいて、理由も言わずにリーゼロッテ様を追い出したというのですか、あなた様は?」
「……泣かせたく、なかった」
「それで追い出された時、リーゼロッテ様はなんとおっしゃられましたか?」
「何も。だが……泣いていた」
「はぁ、呆れて物も言えませんね。泣かせたくなくて、結果、泣かせるなど……一体何を考えているんですか?」
冷たく言うと、ジークヴァルトはぐっと口をつぐんだ。そのままじっと、正面に飾られたリーゼロッテの肖像画を見上げている。
「だいたいヴァルト様は、リーゼロッテ様の事をどう思っておいでなんですか?」
今さらな問いだがさらなる自覚を促すべく、マテアスはあえてそれを口にした。少し考えるような間をおいてから、ようやくジークヴァルトは返答した。
「彼女はオレの託宣の相手だ」
「それだけですか?」
「それ以外に何がある?」
逆に聞き返されて、マテアスは絶句した。まさかと思うが目の前の主は、いまだ自覚がないまま迷走しているというのか?
口を開きかけて、マテアスは言葉を飲み込んだ。最近のジークヴァルトは感情の起伏が激しかった。リーゼロッテをそばに置くようになって、それはどんどん顕著になっている。
(今ではそれが当たり前のように思っていた――)
以前のジークヴァルトならば、あり得ない事態だ。ずっとそばに仕えていながら、どうしてそんな大事なことを忘れていたのだろうか。
「マテアス。オレはこんなに阿呆な男だったか?」
ふいにジークヴァルトが言った。視線は、リーゼロッテの肖像画に向いたままだ。
「惚れた相手の前では、男はみな阿呆になるものですよ」
そんなジークヴァルトを笑うでもなく、マテアスは静かに答えた。
ジークヴァルトが驚いたように振り返る。その表情は、長くそばにいる者にしかわからないほどの変化だったが、確かにその瞳に動揺をうつしていた。
「彼女は託宣の相手だ」
「それが何だというのです? そんなことを抜きにしても、リーゼロッテ様を大事にしたいと思っているんでしょう? その思いは、ヴァルト様、あなた自身のものですよ」
「オレ自身の……」
「触れたいと思うのも、愛しているからこそなのではないですか?」
「あんなもの、ただの肉欲だ」
嫌悪するようにジークヴァルトは吐き捨てた。そんな主にマテアスは苦笑いを向ける。
「ただの肉欲ならば、ほかの女でも事足りるでしょう? 欲しいのはリーゼロッテ様だけ。違いますか?」
「…………」
「今、あなたが感じているそのお気持ちこそが、人を愛するということですよ」
「…………そうか」
マテアスの言葉を噛み砕くように時間をかけてからそう言うと、ジークヴァルトは再びリーゼロッテの肖像画を見上げた。そこにはずっと変わらず、なんの屈託もなく笑っている彼女がいる。
――そのままの彼女であってほしい
そう願うが、果たして自分に守りきれるのだろうか?
だが、それを人任せになどできるはずもない。ジークヴァルトは身じろぎもせず、絵の中の彼女の笑顔をじっと見続けていた。
そんな主の後ろで、マテアスは静かに立っていた。
(さんざここまでしておいて、ようやく自分の気持ちに気づくとは)
鈍すぎる主にあきれを禁じ得ない。禁じ得ないのだが、それもまた、とても主らしいとも思ってしまう。
マテアスはジークヴァルトが誕生してから、ずっと傍らでその成長を見守ってきた。一緒に過ごしてきた時間ならば、自分が一番であると自負できる。それなのにあの日、自分は守ることができなかった。
――きっと、主の心は、あの時一度壊れたのだ。
(リーゼロッテ様の存在が、この人の心の欠落を埋めてくれるなら……)
過ぎ去りし日のジークヴァルトを思い、マテアスは祈るように瞳を伏せた。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。すれ違うわたしたちに奮闘を続けるマテアス。不器用な主人にあきれつつも、ジークヴァルト様をとても大事に思っていて。その胸に浮かぶのは失った日々の追憶……マテアスが知る、ジークヴァルト様の過去とは!?
次回、3章第14話「寡黙な公爵 - 後編 -」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!




