12-4
◇
「旦那様、少々お尋ねいたしますが、リーゼロッテ様とはうまくやられているんですよね?」
「ああ」
即答したジークヴァルトを前に、マテアスはこめかみにピキっと青筋を立てた。
「でしたら、なぜリーゼロッテ様は、あのように他人行儀にされているのでしょう?」
最近、ふたりの仲はいい感じに近づいてきたというのに、ここにきて再び雲行きが怪しくなっている。以前のようにリーゼロッテがジークヴァルトを避けることはなくなった。だが、その態度はまるで、親しくない知人の茶会に招かれたような、そんな不自然なよそよそしさだ。
ジークヴァルトの自室でふたりの時間を幾度か作っているが、回を重ねるごとに、リーゼロッテの様子がおかしくなっていく。
「旦那様のお部屋で、おふたりはどのように過ごされているのですか?」
「いつもと変わらない」
「いつもと、変わらない?」
再びマテアスのこめかみに青筋が立った。
「まさかとは思いますが、そのいつもと、というのは、普段、執務室で過ごされている様子と何ら変わりがない、ということでしょうか?」
「ああ、そうだ」
確かめるように問うたマテアスに、ジークヴァルトはそっけなく返した。
「異形の邪魔が入らぬようセッティングしているというのに、まったくあなたという人は……せっかくなんですから、口づけくらいなさったらいかがですか?」
呆れたように言ったマテアスに向けて、ジークヴァルトは眉間にしわを寄せた。
「そんなことできるわけがない」
「なぜですか? せっかくの機会ですのに」
「駄目だ。そんなことをしたら」
「そんなことをしたら?」
「……彼女が泣く」
ぎゅっと眉根を寄せたジークヴァルトに、マテアスが大げさにため息をついた。
ジークヴァルトがリーゼロッテと初めて会った日に、盛大に泣かれてしまったことはマテアスも知っている。それこそ、名をちょっと呼んだだけでも大泣きされて、幼かったジークヴァルトの中でトラウマになっているのかもしれない。
恐らくその時が主の初恋だったのだろう。本人の自覚はなくとも、それ以来会うことのできなかったリーゼロッテに、ジークヴァルトは並々ならぬ執着を見せていた。
「……それはあのリーゼロッテ様ですから、涙の一粒くらいはおこぼしになるかもしれません。ですが、おふたりは婚約関係にあるのですから、そのくらいは常識の範囲内でしょう?」
「いや駄目だ。そんなことをしたら」
「そんなことをしたら?」
再びマテアスが聞き返すと、ジークヴァルトは今日いちばん苦しげな顔をした。
「止まらなくなる」
そのあとジークヴァルトは押し黙って、すいと顔をそらした。
「どうしてあなた様は、いつも肝心な所でヘタレますかね。そこで止める必要など、どこにあるというのですか?」
諫めるようなマテアスの言葉を、ジークヴァルトは黙って聞いている。
「ヴァルト様……あなた、いつまで初恋をこじらせているおつもりですか? 本当に往生際の悪い。一体いくつになったんですかあなた様は。子供のようにいつまでたってもウダウダウダウダと」
いつになく苛立った様子のマテアスは、ジークヴァルトを焚きつけるように睨みつけた。
「リーゼロッテ様はヴァルト様の託宣のお相手なんですよ。しかも、もう成人なさった立派な淑女です。いい加減、腹をくくったらどうなんですか?」
「それくらい……わかっている」
「わかっておられないから、今こうなっているのでしょう? あなたが恋したあの方だって、同じく大人になられたんです。今、ヴァルト様が、どう決断してどう行動しようが、きちんと受け止めてくださいますよ」
唇を引き結んで、ジークヴァルトが呻くように言う。
「それでも、彼女を傷つけたくない」
「まったく、あなたと言う人は……」
マテアスはやっていられないとばかりに首を振った。
「婚姻の託宣がおりるまで、こんなぎくしゃくした関係を続けるおつもりなんですか? 今の様子じゃ、婚姻が果たされる頃にはリーゼロッテ様のお心は、別の誰かのものになっているやもしれませんね。託宣のお相手であることにあぐらをかいていると、いつか痛い目を見ますよ」
吐き捨てられたその言葉に、ぐっと喉を詰まらせる。婚姻の託宣を受けた者同士は、問答無用で惹かれ合う。だが過去には、託宣を果たした後に、決別を選択した者もいる。
その時、ジークヴァルトがはっと顔を上げた。自室の扉を開き、廊下を確かめる。
今、彼女の気配がした。だが、目の前には、人影ひとつ見えない廊下が広がっている。
「旦那様?」
「いや、何でもない」
そっけなく言うと、ジークヴァルトは自室の扉を再び閉めた。
◇
文机に向かい、リーゼロッテはぼんやりとしたまま、幾度目かのため息をついた。義父のフーゴに宛てた手紙を書こうとするも、先ほどから一向に筆が進まない。
「お嬢様……何かお悩み事でもございますか?」
エラにそう声を掛けられ、リーゼロッテはあきらめて握っていたペンを机の上に戻した。
「少し話を聞いてくれる?」
沈んだままのリーゼロッテの言葉に、エラはもちろんですと頷いた。
「え? 夜会でイザベラ様がまた絡んでこられたのですか?」
アルフレートを胸に抱きながら、リーゼロッテは隣に座るエラに向けて頷いた。
「でもそれはいいの。ジークヴァルト様はイザベラ様を相手にはなさらなかったから」
リーゼロッテの言葉にエラは安堵した。
「それならよかったです。では、お嬢様は一体何を憂いていらっしゃるのですか?」
「この前のお茶会で、イザベラ様がおっしゃっていたように……」
リーゼロッテは一度ゆっくりと呼吸をして、震える声で続きを口にした。
「わたくしね、ジークヴァルト様に、一度も名前で呼んでいただけたことがないの。本当に、ただの一度も……」
公の場なら、家名で呼ばれるのも不思議ではない。だが、身内しかいない場所でも、ふたりきりの時でも、ジークヴァルトが自分の名前を口にすることは、一度たりとてなかった。
「お嬢様……」
「わかってはいるの。わたくしたちは龍が決めた間柄。ジークヴァルト様も、わたくしの扱いに戸惑っていらっしゃるのかもしれない。だから、お互いを尊重し合えるように、ゆっくりやっていけばいい。そう思って今まで頑張ってきたのだけれど……」
泣きそうに瞳を伏せたリーゼロッテの手を、エラはそっと包み込んだ。
「それでしたら、公爵様にお願いしてみましょう」
「ジークヴァルト様に? 何を?」
「リーゼロッテと、名で呼んでほしいと。怖がることはないと思います。公爵様はおやさしい方ですから」
穏やかな表情で言うエラを、リーゼロッテは涙をためた瞳で見上げた。
「わたくし、名を呼んでくださらないからと、きっと意固地になっていたのね。呼んでいただけないなら、別にそれでもかまわないって……」
自嘲気味に言ってから、リーゼロッテは笑顔になった。
「でも、エラの言う通り、ジークヴァルト様にお願いしてみるわ。どうしてそんな簡単なこと、今まで思いつかなかったのかしら」
「お嬢様はいつでも、周囲に気をお遣いになられますから……。もっと我儘をおっしゃってもよろしいと思います」
「そうやって甘やかされると、わたくし本当に我儘になってしまいそうだわ」
「お嬢様は、そのくらいがちょうどいいです」
エラは本気でそう思っているかのように、真剣な顔で頷いた。
「もし、ヴァルト様に断られたら、エラが慰めてくれる?」
「もちろんでございます。ですが、お断りされることなどございませんよ。もしあるとしたら、それは公爵様が『お嬢様のお名前を呼んだら死んでしまう呪い』にかかっているからに違いありません」
大真面目にそんなことを言ったエラに、リーゼロッテは目を丸くした。
「ヴァルト様がそんな恐ろしい呪いにかかっていたら、わたくし名を呼ばれないくらい我慢できるわ」
くすくす笑うリーゼロッテを、エラは安堵した様子で見つめている。
「リーゼロッテお嬢様。エラは、これからもお嬢様をずっとお支えしてまいります」
「ありがとう、エラ……」
お互いを見つめて微笑み合う。ひとりではない。そう思うと勇気が湧いてきた。
このあと、ジークヴァルトの部屋に行くことになっている。先ほどまで気が重かったが、その時にジークヴァルトに名前で呼んでもらえるようにお願いしよう。そんなことを考えると、早く時間が来ればと気が逸る。
「エラはこれから刺繍教室よね。わたくしのことは心配しないで、行ってきてちょうだい」
ジークヴァルトの部屋はすぐ隣だ。廊下にカークも立っているし、ひとりで行っても問題はない。
エラを見送ると、リーゼロッテは義父のフーゴに手紙をしたためた。
(落ち込んだりもしたけれど、わたくしは元気です、と。これでいいわよね?)
これ以上、フーゴに心配をかけても仕方がない。ジークヴァルトとは長い付き合いになるのだ。ずっと一緒にいなければならないのなら、ギスギスと過ごすより、風通しのよい関係でいたいものだ。
迷惑にならない程度に自立を目指そう。ひとり頷いて、リーゼロッテは時計を見上げた。
(少し早いけれど、もう行ってこようかしら)
部屋に誰もいなかったら、しばらく廊下でカークとおしゃべりでもしていればいい。リーゼロッテはそのまま廊下へと出た。
「今日はジークヴァルト様のお部屋にいくだけだから大丈夫よ」
あとを着いてこようとするカークを制して微笑みかける。出番がやってきたとばかりに動こうとしていたカークは、ちょっぴり残念そうに壁際で再び背筋を伸ばした。
「カーク、いつもありがとう」
見上げるとカークは、照れたように頬をポリポリと掻いた。
ジークヴァルトの部屋の扉の前まで行くと、リーゼロッテは一度大きく深呼吸をした。大丈夫。ちゃんとうまくやれる。心の中で、そう自分に言い聞かせる。
扉を叩こうとしたとき、部屋の中からマテアスの声が聞こえた。言い争いとまではいかないが、口調から何やら不穏な空気を感じる。扉の前で躊躇して、リーゼロッテはノックしようとしていた手を、胸の前でぎゅっと握りしめた。
「どうしてあなた様は、いつも肝心な所でヘタレますかね。そこで止める必要など、どこにあるというのですか?」
中からはマテアスの声しか聞こえない。だが、内容から察するに、ジークヴァルトも在室しているのだろう。
「ヴァルト様……あなた、いつまで初恋をこじらせているおつもりですか? 本当に往生際の悪い。一体いくつになったんですかあなた様は。子供のようにいつまでたってもウダウダウダウダと」
マテアスの言葉に、リーゼロッテはその瞳を大きく見開いた。
――ジークヴァルトに初恋の人がいる
その事実に、リーゼロッテは頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。しかも、ジークヴァルトは現在進行形でその人が好きなのだ。
「リーゼロッテ様はヴァルト様の託宣のお相手なんですよ。しかも、もう成人なさった立派な淑女です。いい加減、腹をくくったらどうなんですか?」
突然自分の名前を出されて、リーゼロッテは激しく動揺した。
「それくらい……わかっている」
ジークヴァルトの低い声が聞こえた。絞り出すような声音だった。
「わかっておられないから、今こうなっているのでしょう? あなたが恋したあの方だって、同じく大人になられたんです。今、ヴァルト様が、どう決断してどう行動しようが、きちんと受け止めてくださいますよ」
「それでも、彼女を傷つけたくない」
「まったく、あなたと言う人は……」
リーゼロッテは数歩あとずさって、くるりと向きを変えた。そのままその場を駆け出した。鼓動がどくどくとうるさく、ひどく動揺している自分にさらに動揺していた。
(ジークヴァルト様に好きな人がいる。でも、ジークヴァルト様には、わたしがいる)
託宣で決められたこの自分が。だから、ジークヴァルトの恋が実ることはないのだ。
マテアスは言っていた。初恋の『彼女』も、ジークヴァルトの決断を受け止めるだろう、と。
(ふたりは相思相愛なんだ。でも……)
決してふたりは結ばれない。
(――このわたしがいるから)
『彼女』はきっと結ばれないその運命を受け入れたのだ。だが、ジークヴァルトは?
貴族に生まれたからには、政略結婚は珍しいことではない。家のために有利な相手と婚姻を結ぶのは、貴族として当たり前のことだ。ましてや自分とジークヴァルトは、龍が決めた相手。もし、それを違えるためには、星に堕ちるほかない。
(ジークヴァルト様は思い悩むほど、その方のことを――)
やみくもに飛び出して、リーゼロッテはいつの間にか公爵家の庭の中にいた。人影のない静かな庭で、リーゼロッテは呆然と立ち尽くす。
(……わたし、ジークヴァルト様のことが好きなんだ)
そう自覚したと同時に、自分は失恋してしまった。その事実に、リーゼロッテは絶望の淵に立たされた。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。ジークヴァルト様への気持ちを自覚したわたしは、その距離をますます測れなくなって。おかしな態度を取り続けるわたしに、何も言わないジークヴァルト様。見かねたマテアスは、原因を探るべくエラに相談を持ちかけて……?
次回、3章第13話「寡黙な公爵 - 前編 -」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!




