第11話 龍の盾
【前回のあらすじ】
行商人を招いたお祭り騒ぎに浮かれるフーゲンベルク家。ヨハンのエラへのプロポーズが不発に終わる中、ミヒャエルによる陰謀が公爵家を襲います。
逃げ惑うリーゼロッテとツェツィーリア。先に逃がされたツェツィーリアのもとにルカが現れ、決められた婚約者はルカ本人であると知らされて。
そんな中、周囲を巻き込まないようにとひとり屋上に向かうジークヴァルト。遅れてきたリーゼロッテを庇ったジークヴァルトは、大怪我を負ってしまうのでした。
浮かんだ汗をぬぐうと、眉間のしわが少しだけ小さくなった。額に冷やした布を乗せ、その青白い寝顔をじっと見守る。
ジークヴァルトの意識は戻らないまま、もう三日ほど経過していた。短剣に毒が塗られていたのと、血が多く流れ過ぎたことが原因だ。
「リーゼロッテ様……少しはお休みになられませんと、お体にさわりますよ」
そんなリーゼロッテの背に、ロミルダが気づかわし気に声をかけてきた。
ここ数日、食べ物もろくにのどを通らない。あの時、自分がジークヴァルトのもとに行かなければ。そんな思いばかりが、頭の中をぐるぐると巡る。
「もう少しだけ、ここにいさせてちょうだい」
「……わかりました。あとでまた様子を見に参ります」
力なく答えたリーゼロッテに、ロミルダはそれ以上何も言わなかった。ロミルダが出ていくと、寝室は再び静寂に包まれる。
「ジークヴァルト様……」
呼びかけるも返答はない。いつもなら、じっと見つめ返してくる青い瞳も閉じられたままだ。その腹の上あたりで守護者が、先ほどからあぐらをかいて浮いている。両手を頭の後ろで組み、のんびりとした様子でリーゼロッテを眺めていた。
『大丈夫。ヴァルトは死なないよ』
「……死ななくとも、こんなにもおつらい目にあっているではありませんか」
苦し気な寝顔を見つめたまま、リーゼロッテは硬い声で返した。それでもジークハルトはいつも通りのニコニコ顔だ。
『仕方ないよ。託宣を受けた者は、それを果たすまでは死ぬことも許されない。前にもそう言ったろう? それに、これは別にリーゼロッテのせいじゃないよ。ヴァルトが異形に狙われるのはいつもの事だから』
肩をすくませて言うジークハルトに、リーゼロッテは語気を荒げた。
「託宣とは……龍とは一体何なのですか? どうしてヴァルト様ばかりがこのような目に……!」
『ジークヴァルトは龍の盾だからね。フーゲンベルクを継ぐ者の宿命だよ』
「龍の盾……?」
思わずその顔を見上げる。ジークハルトは少し困ったような笑顔で見つめ返してきた。
『龍はこの国の成り立ちそのもの。それに向けられる悪意を引き受けるのが、フーゲンベルクの役割だから』
「龍に向けられる悪意……?」
『そう、異形の者は龍を憎んでいる。理由も何も分からないままにね』
「異形が龍を?」
『まあ、被害者としては当然の意識だよね』
そのときジークヴァルトが僅かに身じろいだ。はっとなりその蒼白な顔を見つめる。滑り落ちた布はもう温まっていて、額には再び汗がにじんでいた。
「ヴァルト様……」
汗をぬぐい、氷水に浸した布を額に乗せる。今、自分にできることはこれだけだ。
『ヴァルトが今何を思っているか教えてあげようか?』
突然そんなことを言われ、リーゼロッテは訝し気にジークハルトを見上げた。
『オレとヴァルトは意識がつながってるから、ヴァルトがリーゼロッテをどう思ってるかも教えてあげられるよ?』
「ですが……」
いくら守護者と言えど、他人の口から本音を漏らされるのは、ジークヴァルトも嫌だろう。そう思って、リーゼロッテは静かに首を振った。
「ヴァルト様がわたくしを子供扱いしているのは、十分に分かっておりますから」
『子供扱いねえ』
頭の後ろで手を組んだまま、愉快そうに体を傾ける。そんな様子のジークハルトに、リーゼロッテは不満そうに唇を尖らせた。
「だってそうでございましょう?」
『ジークヴァルトの中でリーゼロッテって、割とすごいことになってるよ?』
「すごいことに?」
首をかしげると、ジークハルトは力強く頷いた。
『うん。かなり、結構、ものすごく』
にっこりと言い切るジークハルトに、リーゼロッテは唇をかみしめた。ジークヴァルトの中で、自分はそんなにもお荷物なモンスターになっているのだろうか。
その時、ジークヴァルトの口から苦しそうな息が漏れた。はっとなり、再び視線を戻す。
『ねえ、リーゼロッテ。ヴァルトの手、握ってあげてよ。それだけでも十分癒しになるから』
戸惑いながらもリネンの中、ジークヴァルトの腕を探す。大きな手を両手で握ると、いつになく乱れた青の力を感じた。
いつも髪をやさしく梳いてくれる手は、熱を持ったまま微動だにしない。汗ばんだ手に指を絡め、リーゼロッテは包むようにきゅっと握りしめた。
『少しずつでいいから、リーゼロッテの力を分けてあげて』
言われるがまま、手のひらに向けて意識を集中する。瞳を閉じて、一心に願った。
早く意識が戻るように。早く痛みと熱が引くように。そして、早く、その瞳に自分を映してほしい――
つないだ手の中、青と緑が混じり合っていく。ジークヴァルトの気が穏やかになっていくのを感じて、リーゼロッテは祈るように力を注ぎ続けた。
流れゆく力と共に、まどろみが訪れる。その手を握りしめたまま、リーゼロッテは深い眠りに落ちた。それでもなお、力は静かに注がれ続ける。
『ありがとう、リーゼロッテ』
無意識のまま癒し続けるリーゼロッテの寝顔を見つめ、ジークハルトはその耳元で囁いた。
『ーーヴァルトを救えるのは、君だけだから』
◇
翌日、意識が戻ったとの知らせを受けて、リーゼロッテは急ぎジークヴァルトの部屋へ向かった。淑女のたしなみも忘れて寝室へと足を踏み入れる。ここ何日も訪れた場所に、戸惑うことは何もなかった。
居間を抜けて枠だけの扉をくぐる。その先の寝室で目にしたのは、寝台の上で身を起こし、書類に目を通しているジークヴァルトだった。
「ジークヴァルト様……?」
青い目と視線が合い、安堵のあまりその場でへたり込みそうになる。だが、ナイトテーブルにうず高く乗せられた書類の束が目に入り、思わずジークヴァルトのもとに駆け寄った。
「一体何をなさっているのですか!」
手にした書類を乱暴に取り上げる。面食らったような顔のジークヴァルトを見上げ、リーゼロッテはその唇を小さく振わせた。
「ようやく意識が戻ったばかりですのに……もっとご自分を大切になさってくださいませ」
いつになく強く言ったリーゼロッテの頬に、ジークヴァルトは指を滑らせた。溢れる涙をぬぐい、その顔を上向かせる。
「心配をかけた。もう問題ない」
「ヴァルト様……」
大きな手に引き寄せられて、リーゼロッテはその胸に顔をうずめた。包帯が巻かれた体から、薬草の香りが漂った。大きな手が髪を梳いていく。嗚咽を堪えきれないまま、リーゼロッテはその体にしがみついた。
ジークヴァルトが痛みに顔をしかめると、リーゼロッテはあわてて預けた身を起こした。
「ヴァルト様……申し訳ございません」
「いい。大丈夫だ、問題ない」
そう言ってジークヴァルトは再びリーゼロッテを引き寄せる。今度は遠慮がちに頭を預けると、リーゼロッテはぽつりと言った。
「わたくしがあの場に行かなければ、ヴァルト様がこのようなお怪我をなさることはなかったのに……」
「お前に落ち度はない。ダーミッシュ嬢が無事ならそれでいい」
そっけなく言われ、思わずその顔を見上げる。
「わたくしは嫌です! わたくしだけが守られて、安全な場所でのうのうと過ごすなど」
「それでもお前を守るがオレの義務だ」
静かにそう返されて、リーゼロッテは悲しそうに顔をゆがませた。
「それならば、わたくしにもヴァルト様を守る義務がありますでしょう?」
「そんなものは必要ない」
拒絶するような言葉に、リーゼロッテはジークヴァルトからその身を離した。
「旦那様……」
声掛けと共にロミルダが気づかわし気に寝室に入ってきた。
「お医者様が診察にと来られております。リーゼロッテ様はお部屋にお戻りになっていただいてもよろしいですか?」
「……ええ、わかったわ。ジークヴァルト様、お体がおつらいところに、煩わしいことを申し上げました。わたくしのことは、どうぞお気になさらないでくださいませ」
淑女の礼をとり、その場を辞する。リーゼロッテはすぐさまジークヴァルトの部屋を後にした。隣にあるリーゼロッテの部屋へは、あっという間にたどり着く。
「リーゼロッテ様……旦那様に代わって、わたしから謝罪いたします」
扉の前で突然ロミルダに頭を下げられ、リーゼロッテは驚いたように振り返った。
「ロミルダに謝ってもらうことなんて何も……」
「いいえ。先ほどの旦那様は、あまりにもひどい言いようでした。ですがあれは、大事な方に弱みを見せたくないという、殿方の見栄でございましょう。ですからリーゼロッテ様、どうぞ旦那様をお許しになってください」
「許すだなんて……」
戸惑いながらロミルダを見つめる。不安そうな表情を受けて、リーゼロッテはその口元に淑女の笑みを浮かべた。
「心配してくれてありがとう。ヴァルト様を支えられるように、わたくしも努力するから」
「リーゼロッテ様……」
「わたくしたちは龍が決めた相手同士ですもの。ヴァルト様もちゃんとわかっていらっしゃいますわ」
安心させるように言う。それでもなおロミルダは、その表情を曇らせた。
◇
「お嬢様、公爵様のご様子はいかがでしたか?」
「ええ、無事に意識は戻られたわ」
エラに迎え入れられて、居間のソファ、アルフレートの横へと座る。そのもふもふに肩を預けながら、リーゼロッテは小さく息をついた。
「ご容態は思わしくないのですか?」
「いいえ、思いのほか元気にされていたわ。ここ数日の心配が嘘みたい。だって、ジークヴァルト様ったら、寝台の上でもう書類に目を通していらっしゃったのよ? わたくし思わずそれを取り上げてしまったわ」
リーゼロッテはおどけた調子で言った。しかし、エラはそんな様子のリーゼロッテを心配そうに見やる。
「公爵様と何かございましたか?」
「……隠しても、エラには何でも分かってしまうのね」
リーゼロッテは半ばあきらめたように微笑んだ。
「こんなときだからこそ、ジークヴァルト様を支えなきゃって思うのに、ヴァルト様はちっともわたくしを頼ってくださらないの。わたくし、それが悲しくて……」
瞳を伏せたリーゼロッテの手を、エラはやさしく握った。
「そうでございましたか。公爵様は、お嬢様に弱った姿をお見せになりたくないのかもしれません。男性特有の強がりではないでしょうか」
「エラもロミルダと同じようなことを言うのね」
「でしたら間違いないのでは。ロミルダは公爵様の乳母だったと聞いております。公爵様のことをよく分かっているでしょうから」
エラの言葉にリーゼロッテは「そうね」と頷いた。これ以上、周りを心配させてはならない。そんなことを自分に言い聞かせながら。
「それと、お嬢様。本日の午後に、旦那様が公爵家にいらっしゃると連絡を受けております」
「フーゴお義父様が?」
エラが旦那様と呼ぶのはダーミッシュ伯爵だけだ。久しぶりに会える父に、リーゼロッテの表情が明るくなった。
「では早速、お迎えする準備をいたしましょうか」
ジークヴァルトが心配で、リーゼロッテはここ数日憔悴しきっていた。こんなやつれた様子をフーゴには見せられないと、リーゼロッテは大きく頷いた。
「ありがとう、エラ」
「エラはずっと、お嬢様のおそばにおります」
そう言ってエラは、静かに頷き返した。




