10-3
※今回かなり流血をします。苦手な方はご注意を
◇
エラの示した方向へとひた走る。赤黒い瘴気の先に、アデライーデはリーゼロッテの緑を感じた。
「ちょっと! わたしの可愛いリーゼロッテに何してくれてるのよ!!」
渾身の力を手のひらに溜め、前方へと打ち放つ。一筋の青い光とともに、周囲の瘴気が吹き飛ばされる。束の間に晴れた霧の合間から、壁際に追いつめられるリーゼロッテの姿が見えた。
白い影が、その額へと穢れた指先を突き付けている。爪に灯る禍々しい紅を前に、リーゼロッテは恐怖に打ち震えていた。
「わたしのリーゼロッテに汚い手で触るんじゃないわよ!」
俊足で駆け寄り、力を込めた拳を繰り出した。白い影は揺らめきながら、その攻撃をすり抜けていった。逃がすまいと、続けざまに力を放つ。スカートがめくれることも厭わずに、アデライーデは見惚れるほどの美しい軌道で、蹴りをひとつ披露した。
「ちっ、逃げられたわね」
影が掻き消えた瞬間に、周囲の瘴気が流れを変える。
「きゃあっ」
「リーゼロッテ!」
渦巻くように瘴気がリーゼロッテを取り巻いた。アデライーデは無理やりその瘴気をかき分けて、リーゼロッテの手を強く握りしめた。
「怪我はない?」
「はい……アデライーデ様」
涙目で震えながらもリーゼロッテは強く頷いた。背後に人の気配を感じて、後ろ手にリーゼロッテを庇い、アデライーデは振り向いた。
「これはまた大人数ね」
虚ろな目をした劇団員が、老若男女問わず廊下にずらりと並んでいた。ふたりを囲い込むように、ゆらりゆらりと距離を縮めてくる。
「リーゼロッテ……すぐそこに執務室の扉があるわ。そこまで走ることはできそう?」
先を見やり、リーゼロッテは小さく頷いた。合図と共に一心不乱に駆け出した。憑かれた者たちの合間を縫って、脇目もふらずに扉を目指す。
援護するように、アデライーデがその後を続く。迫りくる攻撃を躱し、自身も執務室へと飛び込んだ。素早く扉を閉めて鍵をかける。すぐさま扉が多くの人間によって連打され始めた。軋むように扉が震え、こじ開けられるのも時間の問題だ。
「リーゼロッテ、こっちよ」
手を引いて部屋の奥へと誘った。いつもマテアスが座る執務机の後ろの本棚が、不自然にその場所を変えている。
「ここから屋上に出られるわ」
本棚の裏側を見やると、そこには昇り階段が続いていた。中は暗く、どこまで続いているかは見渡せない。
「上にジークヴァルトがいるはずだから」
「ヴァルト様が?」
「ええ。あなたはヴァルトの元へ行った方がいい。ここはわたしが食い止めるから」
「……わかりました」
自分がそばにいると、周囲の者まで巻き込んでしまう。リーゼロッテは頷いて、薄暗い階段へと足を踏み出した。
「中は真っ暗だけど、まっすぐ昇れば屋上にたどり着くから」
吸い込まれるように暗闇へと消えていくリーゼロッテを、アデライーデはその言葉で見送った。
「さあ、まとめてかかってらっしゃい」
両の拳をぼきりと鳴らす。壊されるように開け放たれた扉に向かって、アデライーデは不遜な笑みを向けた。
◇
「ちぃっ、フーゲンベルクの小娘め、いらぬ邪魔をしおって」
忌々し気に舌打ちをすると、ミヒャエルは一転うすく嗤った。
「まあ、いい。今回の目的は青き盾、貴様だけだ」
前回は力を拡散させ過ぎた。だが、女神の力を最大限濃縮し、今まさにヤツを追い込んでいる。他の力ある者と分断できれば、なぶり殺しもたやすいことだ。龍の盾の命を皮切りに、紅の女神に龍の血脈の魂を捧げ尽くそう。
「イジドーラ王妃――あと少し……あと少しで貴女はわたしのものだ」
果てなく広がる妄執が、枯れることなくこの奥を刺す。のどをくつくつと震わせて、ミヒャエルは愉快そうにひとり嗤った。
◇
吹きすさぶ強風の中、ジークヴァルトは苦戦を強いられていた。何も隔てるものがない屋上は、身を隠す場所さえ見当たらない。
幾人目かの男を、力を込めた拳で吹き飛ばす。ある程度の怪我を負わせても、操り人形のように何度でも立ち上がってくる。そこかしこで転がっているのは、手加減を加えられずに倒れた者たちだ。早く手当てをしないと、命にかかわる者もいるかもしれなかった。
丸腰の男がふたりと、短剣を手にした女がひとり。肩で息をしながら、残りの人数を確かめる。
早いところ片を付けて、瀕死の者の手当てをする必要がある。急を要する事態を前に、ジークヴァルトは努めて冷静に相手の動向を見守った。
男がひとりつかみかかってくる。城壁ぎりぎりまで押しやられて、ジークヴァルトの背が打ち付けられる。それを力技で跳ねのけて、男の腕をねじり上げた。
そのまま組み伏せ、腕を限界まであらぬ方向へと移動させる。男の絶叫と共に異形が咆哮をあげ、ジークヴァルトは容赦なくそれを青の力で祓っていった。別の男の気配を感じて、すぐさまその場を飛びのいた。
「ジークヴァルト様っ!」
悲鳴のようなリーゼロッテの声が響いて、ジークヴァルトに一瞬の隙が生まれた。つかみかかってきた男ともつれあいながら、ジークヴァルトは床の上を転がっていく。なんとか男を振り払い、リーゼロッテをこの腕の中へと収めた。
「どうしてここに来た」
「アデライーデ様に言われてわたくし……」
足手まといになることを悟ったのか、リーゼロッテは青ざめた顔を向けてくる。彼女の長い髪が、強い風に攫われるように舞い上がった。
「いい、お前はここを離れるな」
石畳の床に手をつくと、リーゼロッテを中心に青の円が描かれた。
「絶対にそこを動くなよ!」
迫りくる男に体当たりをして、リーゼロッテから遠ざけていく。もみ合いながら急所を狙おうとしたとき、女がリーゼロッテへと短剣を突き立てるのが目に入った。
「ダーミッシュ嬢!」
咄嗟に男を吹き飛ばし、女へ向けて力を放つ。一度は吹き飛ばされた異形の者が、さらに大きな塊となって女の体に纏わりついた。
女との間に体を滑り込ませ、リーゼロッテを背にかばう。先ほどの男が再び殴りかかってきて、狭い場所での混戦が始まった。
◇
強い風が吹く頭上には、晴れ渡った青空が広がっている。
ジークヴァルトの円から出られず、リーゼロッテはただその戦いを見守った。相手に大怪我を与えないよう、苦戦している様が見て取れる。
(ヴァルト様はまわりを巻き込まないために、ここにひとりで来たんだわ)
言われるがままに来てしまったが、自分はまた負担にしかなっていない。今はここを動かないようにするしかできない。リーゼロッテはなすすべなく、ジークヴァルトの動きをただ目で追った。
ふいに女がこちらに向けて短剣を振りかざしてくる。突然のことにリーゼロッテは自身の顔を庇うしかなかった。
「ダーミッシュ嬢!」
ジークヴァルトが立ちはだかり、その女の手首を取った。短剣を取り落とした女は、そのままジークヴァルトにつかみかかってくる。さらに男が拳を振るわせながらなだれ込む。すぐそこで繰り広げられる乱闘を、リーゼロッテは震えながら見守るしかなかった。
(こんな時、力がふるえたら……!)
母マルグリットが導いた自身の力を思い出す。湧き上がるように溢れ出た力は、今も確かにここにあるはずだ。
手のひらを重ね合わせるが、指が震えるばかりで力など微塵も集められない。焦れば焦るほど、この手から力は零れ落ちていった。
目の前でジークヴァルトが、つかみかかってきた女ともつれあう。その後ろで男が短剣を拾い上げ、陽光がその刃に反射した。
「ジークヴァルト様!」
大きく振りかぶられた短剣が、ジークヴァルトの背中に突き下ろされる。リーゼロッテは悲鳴を上げて、青の円から飛び出した。
最後の涙を闇雲に振りまいた。途端に、男から異形の影が浮きあがり、咆哮を上げて空へと消える。男は意識を失ったまま、その場に崩れるように倒れていった。
「ヴァルト様っ」
「ああ……助かった」
飛び込むように駆け込むと、その腕に抱き留められた。涙ながらに見上げると、そのままぎゅっと抱きしめられる。耳に胸の鼓動を聞いて、ジークヴァルトの無事に安堵する。確かめるようにリーゼロッテは、大きな背中に手をまわした。
ザンっと音がして、ジークヴァルトの腕に力が入った。呼吸が妨げられるほどにきつく抱きしめられて、リーゼロッテは背中のシャツを強く握った。
次の瞬間、ジークヴァルトが片膝をついた。その体を支えようとするも、リーゼロッテも一緒に床へと崩れ落ちていく。
ジークヴァルトの肩口に、短剣が突き刺さっている。銀色の刃がめり込むその下から、赤い液がみるみるうちに広がった。
受け入れられないその恐怖に、悲鳴すら出てこない。愕然と固まるリーゼロッテを庇いながら、ジークヴァルトは剣を突き立てた女に向かって渾身の力を放った。
女が倒れたことを確認すると、ジークヴァルトは自ら短剣を引き抜いた。途端に血が噴き出してくる。リーゼロッテの目の前で、赤い血はとめどなく流れ続けた。
「毒が塗ってあったようだ。少しくらい流れた方がいい」
短剣を投げ捨て、呻くようにジークヴァルトは小声で言った。
「ジーク……ヴァルトさま……」
「ああ……問題ない」
安心させるようにリーゼロッテの髪を力なく梳くと、ジークヴァルトは肩口の傷を押さえた。指の間から血が滴り落ちる。尋常ではないその量に、リーゼロッテは知らず首を小さく振った。
蒼白な顔でジークヴァルトは目を閉じた。どくどくと流れ出る血液に、意識が朦朧としている様子だった。
「ヴァルト様、ヴァルト様……」
泣きじゃくりながら、リーゼロッテは自身の手で傷口を塞いだ。生温かい血が、指の間を流れていく。
(どうして止まらないの……!)
涙を溢れさせながら、震える指でスカートをたくし上げた。止血の包帯のために、布を手で引き裂こうと試みる。だがドレスの生地はびくともしない。リーゼロッテはそのままスカートを傷口へと押しあてた。
淡い水色のドレスは、みるみるうちにジークヴァルトの血を吸い上げていく。赤く染まっていくスカートに、リーゼロッテは叫びだしそうになった。
(落ち着いて! 落ち着くのよ、リーゼロッテ……!)
言い聞かせるように心で叫ぶ。ジークヴァルトの血の気のない唇に、一刻の猶予もないことが見て取れる。
リーゼロッテは咄嗟のようにジークヴァルトの背後に回った。体でその背を支えながら、傷のある側の鎖骨の付け根に、親指の腹をぐっと押し入れる。
「ヴァルト様、お首を少し曲げさせていただきます」
耳元で言うと、その瞼が応えるように僅かに動いた。手を添えて、傷の方へと頭を傾ける。あれほど溢れ出ていた血が、嘘のように途端に止まった。
「今、血の流れを止めております。腕がしびれるように感じますが、血が滞っている証拠です」
ジークヴァルトは小さく頷いた。これは日本での記憶にあった、止血点を圧迫して血を止める方法だ。
(抑えるのはどれくらいが限界だったかしら……)
あまり圧迫時間が長すぎると血行が遮断され、その先の腕が壊死してしまう。一定の時間が経ったら、一度圧迫を緩める必要があった。だが、その知識が曖昧で、どうするのが正解なのかが分からない。
リーゼロッテは恐る恐る、抑える指の力を緩めた。途端に肩口から滝のように血が流れだす。
(駄目っ!)
リーゼロッテは再び指に力を入れた。指の腹が白くなるまで抑え込み、力の限界が近づいてきて、指がぶるぶると震えてくる。
ジークヴァルトは完全に気を失ってしまったようだ。風に髪が舞い上げられ、流れる涙をぬぐうこともできない。脱力した体は重く、支えるのがつらくなってくる。
泣きじゃくりながら、これ以上どうすればいいのか、リーゼロッテはもうわからなくなってしまった。
「旦那様……!」
リーゼロッテが通ってきた階段を、マテアスがかけ上がってきた。屋上の惨状には目もくれず、一目散にこちらへ駆け寄ってくる。
「マテアス……ジークヴァルト様が……」
しゃくりあげる中、うまく言葉が発せられない。血まみれのふたりを見やって、すぐさまマテアスはジークヴァルトの目の前に片膝をついた。
「すぐ処置をいたします。もう少しだけ頑張っていただけますか?」
言いながらマテアスは、懐から手早く様々な物を出しては下に並べていく。万年筆や替えの眼鏡、何かのメモ書き、黒い小箱と、関係ない物の後に、ようやく白い包帯が現れる。それを手早くジークヴァルトの肩口にクロスするように巻き付けていった。
マテアスの合図と共に、リーゼロッテは抑える手を緩めた。じわりと包帯が赤く染まったが、先ほどに比べると、些細と思える量だった。
「よく頑張られましたね。あとはわたしたちにお任せください。ヨハン様、旦那様を運ぶのを手伝ってください」
ジークヴァルトが担がれるように運ばれていく。それを目で追っていると、青い顔をしたアデライーデが駆け寄ってきた。血まみれのドレスを見て、アデライーデは小さく悲鳴を上げる。
「リーゼロッテ、あなたも怪我をしたの!?」
「いいえ、こちらはすべてジークヴァルト様の……」
緊張の糸が切れて、虫食いのように視界が黒く塗りつぶされていく。自分を呼ぶ声が遠くに聞こえて、リーゼロッテはその意識を手放した。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。大怪我負ったジークヴァルト様は、意識不明の重体が続いて。寝ずの看病を続けるわたしは、その存在の大きさを知ることになって……?
次回3章第11話「龍の盾」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!




