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ふたつ名の令嬢と龍の託宣【なろう版】  作者: 古堂素央
第3章 寡黙な公爵と託宣の涙

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10-2

     ◇

『ヴァルト、来るよ!』


 前触れなく、守護者(ジークハルト)の声が頭に響いた。咄嗟にリーゼロッテの姿を探す。少し先を歩く彼女はツェツィーリアの手を引いていた。その刹那、ジークヴァルトの身を、いつかの瘴気が覆いつくした。閉じ込められたかのように、あらゆる感覚が遮断される。

 赤黒い霧の向こうに、彼女の気配すら感じ取れない。大きく舌打ちをして、リーゼロッテがいた方向へと駆け出そうとした。


 目の前に数人の人影が揺らめいた。気配なく霧の奥から現れた者たちは、一様に虚ろな瞳でジークヴァルトを見つめている。(まと)う衣装を見ると、先ほど観劇に出ていた役者のようだ。


 一番近くにいた女が、ふらふらとした足取りで近づいて来る。焦点の合わない瞳のまま、ジークヴァルトに向かって短剣を振りかざした。おぼつかない歩みとは裏腹に、俊敏な動きで(やいば)を突き立てる。ぎりぎりのところで切っ先を(かわ)すと、女の手首に手刀を落とした。


 短剣を取り落とした女は、なおもジークヴァルトに迫ってくる。素早く背後に回り、込めた青の力をその背に放った。

 吹き飛ばされるように倒れた女の体から、どす黒い影が浮き上がる。それに向かってもう一度力を放つと、取り憑いていた異形の者が、断末魔の叫びを上げて消し飛んだ。


 息をつく間もなく、別の男が剣を片手に襲ってくる。同じように吹き飛ばそうとするも、もうひとりの男が同時にジークヴァルトにしがみついてきた。もつれあいながら男ふたりをなぎ倒すと、ジークヴァルトの頬を銀の閃光がちりと(かす)めていった。


 転がりながら距離を取る。頬に(にじ)んだ血をそのままに、視界の悪い前方を見据える。先ほどの女が血のしたたる短剣を手に(たたず)み、その背には新たな異形の影が揺らめいていた。

 横の霧の中から、倒れた男たちの姿が浮き出すように現れる。こちらにも新たな異形が取り憑いていた。


 同時に襲い来る者たちに、(かわ)すのが精一杯になってくる。異形に憑かれた者の攻撃は乱雑で、かえって動きを読むのが難しい。(はら)ってもすぐに別の異形が取り憑いていくため、その(いたち)ごっこの状態に、ジークヴァルトはただいたずらに消耗していった。


 こうなれば、操られている人間の動きを封じるしかない。だが、彼らもまた被害者だ。できれば怪我を負わせることは避けたかった。


「旦那様!」


 瘴気の奥からマテアスが飛び込んできた。男のひとりを吹き飛ばし、すぐさまジークヴァルトと背中合わせに並び立つ。


「できるだけ怪我人を出すな」

「そんな余裕を言っている場合ではなさそうですよ」


 言いながらふたりは同時に動き出した。緩慢な攻撃を躱し、お互いの動きをフォローするように力を放つ。引き付けるようにマテアスが相手の動きを誘導するも、操られた者たちは頑なにジークヴァルトにのみ攻撃を仕掛けていった。


「どうやら目的はヴァルト様、あなた様だけのようですね」

「ああ」


 肩で息をしながら身構える。ジークヴァルトを中心に、周囲の瘴気はその濃度を増していく。まるで圧縮するかのように、その範囲を狭めているように感じ取れた。


「このままでは被害が広がる。オレは屋上でヤツらを迎え撃つ。マテアス、お前はこの中にいる人間すべてを安全な場所に避難させてくれ」

「しかし……」

「問題ない。オレは死ぬことはない」


 その言葉にマテアスの顔が(ゆが)められた。


「その言いようは気に入りませんが、お言葉には従いましょう。リーゼロッテ様を最優先にして、事に当たらせて頂きます」


 言うなり、マテアスはため込んでいた力を目の前に放った。取り憑かれた者たちが(ひる)んだ隙に、ジークヴァルトが走り出す。


「あまり無茶はなさらないでくださいよ!」


 異形を()き止めながらも、マテアスはその背に大きく叫んだ。ジークヴァルトが霧の中に消えると、男たちはマテアスから興味を失ったように、ふらふらと明後日(あさって)の方向へと歩き出す。


 その動きを止められずに、男たちの姿を瘴気の中へと見送った。息をつき、(ひたい)に浮かんだ汗をぬぐいとる。リーゼロッテの姿を求め、マテアスは霧の中をひとり進んでいった。


     ◇

 これでツェツィーリアを巻き込むことはなくなった。ふたりを見送った後、リーゼロッテは安堵の息を漏らした。

 霧の向こうから、再び行商の男が近づく気配がする。落ち着いている場合ではないと、リーゼロッテは再び瘴気の中を走り出した。


 赤黒い霧の中、いつもはカークが横に立っている扉を何とか見つけ出す。リーゼロッテは部屋の中に入ると、念入りに鍵をかけ、そのまま迷わず奥の寝室へと向かった。廊下ほどではないものの、自分の後をついて来るように、(けが)れた霧が濃くなってくる。


(この中にも瘴気が入り込んでいるわ……)


 寝台の横に置かれたナイトテーブルの引き出しを開け、数本の小瓶を取り出した。中には透明な液体が揺れている。日々、リーゼロッテが溜めてきた涙の小瓶だ。

 この涙には異形を(はら)う力がある。普段は薄めて使っているが、今回はそれでは太刀打ちできないだろう。


 リーゼロッテはそれをドレスの隠しポケットへと詰め込んだ。一本だけを手に握りしめ、寝室から居間へと戻った。クローゼットを抜ければ、ジークヴァルトの部屋に出ることができる。守り石で囲まれたそこならば、異形たちも近づけないに違いない。


 その時、エラの声がした。廊下から自分の名を呼ぶ声が聞こえてくる。慌てて扉を開き、エラを中へと引き入れた。


「お嬢様!」


 安堵したようにエラはリーゼロッテを抱きしめた。


「ヨハン様が屋敷の様子がおかしいとおっしゃるものですから、心配になってお探ししておりました」

「まだ危険な状況なの。お願いよ。エラはすぐにここを離れてちょうだい」


 自分のそばにいると、エラも巻き込まれかねない。異形が悪さをできない無知なる者とはいえ、実際に襲ってくるのは異形に憑かれた生身の人間だ。エラに危害を加える可能性は十分にあった。


「お嬢様を置いていくなどできるはずはありません」

「わかったわ、エラも一緒にヴァルト様のお部屋へ……」


 そう言いかけた時、部屋の扉が大きく(きし)み、蝶番(ちょうつがい)ごと吹き飛んだ。廊下の瘴気が一気になだれ込み、その奥から行商の男がゆらりと姿を現した。


「お嬢様、こちらへ」


 エラに手を引かれ、瘴気の中を進む。迫りくる男の気配に押されて、気づくと部屋から廊下へと出てしまっていた。


(これではヴァルト様のお部屋に入れないわ)


 来た道を振り返るも、濃くなっていく瘴気に、すぐそこにいるエラの姿すら(かす)んで見える。その上、男の気配が近づいてきて、今さら部屋には戻れなかった。


 ふいに目の前を(かす)めた短剣に、リーゼロッテは身を強張(こわば)らせた。いつの間にか目の前に立つ男の瞳は、リーゼロッテを見ているようで見ていない。


「お嬢様っ」


 リーゼロッテに向けて短剣を振りかざした男の前に、エラが(かば)うように飛び込んだ。腕を掴み取り、何とか短剣をリーゼロッテから遠ざける。


「エラ!」


 濃霧の中、もみ合うような姿が垣間見える。エラが男に突き飛ばされたのが分かって、リーゼロッテは悲鳴を上げた。床に倒れるエラに向かって、男が短剣を振り上げる。


「わたくしはこっちよ!」


 駆け寄って、気を引くように大きな声で叫んだ。リーゼロッテの姿を認めると、男はエラから離れすぐにこちらへと近づいてきた。


「そうよ、襲うならわたくしだけにしてちょうだい」


 じりと後ずさりながらも、リーゼロッテは挑むように男を睨みつけた。


「お嬢様、いけません!」


 悲鳴のようなエラの声が響く。霧のせいで姿は見えないものの、その無事を確認したリーゼロッテは、次いで男に不敵な笑みを向けた。


「あなたには恨みはないけれど、おとなしく天に還ってちょうだい」


 蓋を開け、リーゼロッテは小瓶を横一閃(よこいっせん)に一気に振るった。涙は男の体にまっすぐかかり、次の瞬間、線上に緑の閃光(せんこう)がほとばしった。


 咆哮(ほうこう)を上げ、男から黒い異形が浮き上がる。かと思うと、どこかへ吸い込まれるように、一瞬でその場から消え去った。

 支えを失ったかのように、男がその場に崩れ落ちる。しばらく様子を伺うも、再び起き上がる様子はなかった。


「お嬢様、ご無事ですか!?」

「ええ、今そちらに行くわ」


 手探りで声がした方へ歩み寄ると、エラは床に座り込んだままだった。リーゼロッテが手を差し伸べるが、立ち上がろうとした瞬間、エラの顔が大きくゆがんだ。


「いたっ」

「もしかして足を痛めたの?」


 見るとエラの足首が()れあがっている。青ざめるリーゼロッテに、エラは安心させるように笑顔を向けた。


「先ほどもみ合った時に少し痛めてしまったようです。ただひねっただけですので、問題ありません」


 腫れた足をスカートで隠すと、エラはリーゼロッテの顔を見上げた。


「ですが、これでは満足に歩けそうにありません。この先にヨハン様が待っていると思います。申し訳ないのですが、お嬢様が呼んできていただけませんか?」

「ええ、わかったわ」


 少し迷ったあと、リーゼロッテは頷いた。


「すぐに助けを呼んで戻ってくるわ。これ、念のために渡しておくから。もし、さっきのように誰かが襲ってきたらすぐに振りまいて」

「いけません! こちらはリーゼロッテ様がお持ちになっていてください」


 涙の小瓶を手渡そうとすると、エラはすぐに押し戻してきた。


「わたしなら大丈夫です」

「でも……」

「それよりも早くヨハン様を」


 エラの額に脂汗がにじんでいるのに気がついて、リーゼロッテは仕方なく立ち上がった。


「痛み止めもすぐに持ってくるわ。こっちに進めばいいのね?」

「はい、まっすぐ進めば、公爵様の執務室へと行けるはずです。その少し先に、ヨハン様はいらっしゃるかと」


 頷いてエラの元を離れる。エラには瘴気が見えないので、廊下の方向に間違いはないだろう。

 手探りで壁伝いに進む。しかし、行けども霧が晴れる様子はなかった。それどころかどんどん瘴気が濃くなってきているように感じられた。


 ぞわりと背筋をなぞる感覚に、リーゼロッテは固まるように歩みを止めた。手に握る一本と、ポケットの中にもう二本。無意識に小瓶の数を確かめる。


 震える心を叱咤(しった)して、リーゼロッテはゆっくりと後ろを振り返った。瘴気の中からすうっと白い影が現れる。そこに浮かぶ男は、ホログラムのように朧気(おぼろげ)だった。


 ゆらゆらと揺らめくその姿は、敬虔(けいけん)な聖職者のようにも見える。だが、そこから発せられている気は、あまりにも邪悪に満ちたものだ。

 恐怖のあまりリーゼロッテは、涙の小瓶をその影に叩きつけた。だが、小瓶は(はじ)かれて、霧の中へと転がりながら消えていく。


 かたかたと震えるリーゼロッテに、白い影は薄く(わら)ったように視えた。それが近寄ってくる気配を感じて、リーゼロッテは必死に二本目の涙を振りまいた。


 影には届かず、涙は線上に広がった。描いた線そのままに、緑の光が床から天井へと立ち昇る。まるでリーゼロッテを守る壁のように、輝く緑が揺らめいた。


 白い影は緑の壁に押し戻されるように弾かれる。しかし、片手を掲げ、影は人差し指をリーゼロッテに向けて突き立てた。その尖った爪が、禍々(まがまが)しい(くれない)の光を放つ。まるでよく切れるナイフのように、その指は緑の壁をまっすぐに突き抜けた。


 指先がゆっくりと目の前へ突き立てられていく。迫りくる(けが)れた(あか)に、捕らわれたかのようにリーゼロッテは動けないでいた。


     ◇

 足をかばいながら、エラは何とか立ち上がった。激痛が走るが、このままぼんやりと座っているわけにもいかない。壁伝いにリーゼロッテの向かった方向へと進んでいく。人の気配のしない廊下は、不気味なくらい静まり返っていた。


 バランスを崩しそうになり、壁に手をつき事なきを得る。ほっとするのも束の間、その壁に()した影に気がついて、エラは恐る恐る振り返った。


「――……っ!」


 振り下ろされた剣を咄嗟に避ける。いつの間にか背後に立っていた男は、虚ろな瞳のまま再びエラに向かって剣を振り上げた。()けきれない。そう感じてぎゅっと目を閉じる。その時、男が真横に吹き飛んだ。


「エラ様、ご無事ですか!?」

「マテアス……!」


 その姿に安堵するも、倒れたはずの男が再びマテアスの背後に迫る。エラが悲鳴を上げると、マテアスは男を振り向きざまに()り上げた。


「エラ様はそこを動かないでくださいっ」


 言うなりマテアスは男の(ふところ)に飛び込んだ。(こぶし)に力を溜めて、素早く腹に叩きつける。だが、よろめきながらも男はなかなか倒れない。おぼつかない手つきで剣を振り上げ、再びマテアスに襲い掛かってきた。


 紙一重でその尖刃(せんじん)を避けると、胸、腹、腹と、マテアスは連打を繰り出した。素早いコンボに浮き上がった体を、最後に回し蹴りで吹き飛ばす。


 壁に叩きつけられた男は、壊れた人形のように再びゆらりと立ち上がろうとする。マテアスは取り出したロープを素早く巻き付け、男の動きを封じにかかった。ロープに自らの力を流し込む。芋虫のようにもがいていた男は、しばらくすると床に転がったまま動かなくなった。


 それを確かめると、マテアスは壁際でへたり込んでいるエラに駆け寄った。


「エラ様、お怪我は?」

「あの男は……」

「あの男は異形に操られているだけです。死んではいません。大丈夫です」


 安心させるように言うも、エラの腫れた足を見て、マテアスはその場に片膝をついた。


「触れること、お許しください」


 懐から取り出した包帯で、エラの足首を固定していく。顔をゆがませたエラは、それでもおとなしくマテアスの行為を受け入れた。


「お立ちになれますか?」


 (うなず)くエラの手を引いて立ち上がらせる。バランス悪くよろめくエラを引き寄せて、マテアスはその腰をしっかりと支えた。


「わたしの事よりもリーゼロッテお嬢様を」

「リーゼロッテ様はどちらに? アデライーデ様と一緒におられたはずですが」

「お嬢様はおひとりでした。先ほど別の男に襲われて、ここは危険だからとヨハン様の元へと向かっていただきました」

「ヨハン様の元に?」

「はい、ヨハン様は執務室を過ぎたあたりの廊下にいらっしゃるはずです」


 そこでヨハンと別れ、エラはここまでやってきた。今までの経緯を話すと、マテアスは口元に手を当て考え込んだ。エラを残して行くこともできないが、リーゼロッテの安否の確認は最優先だ。


「マテアス!」


 アデライーデの声が響いた。煩わしそうにドレスの(すそ)(ひるがえ)し、瘴気の中からふたりへと近づいてくる。


「リーゼロッテはどこ?」

「お嬢様は先に執務室の方へと向かわれました」


 エラの説明にアデライーデは頷いた。


「リーゼロッテの事はわたしに任せて。マテアスはこのままエラについててちょうだい」


 アデライーデはそのまま霧の中へと消える。その背を見送ると、マテアスはすぐさまエラを横抱きに抱き上げた。


「つかまっていてください。ここはまだ危険です。一刻も早く出たほうがいい」


 エラの体を抱え直すと、マテアスは瘴気の中を進んでいく。戦闘続きでマテアスの体力は限界を超えていた。それを感じたエラは、その腕から降りようと身をよじる。


「降ろしてください。自分で歩けます」

「時は一刻を争います。エラ様をかばいながら戦闘になるのは()けたいんです。どうかご協力を」


 そう言われてエラはおとなしく動きを止めた。


「エラ様は羽のように軽くて、飛んで行ってしまわないかと心配になりますねぇ。よろしければ首に手をかけていただけると、わたしも安心してお運びできるのですが」


 (ひたい)に汗をにじませながらマテアスが言う。しがみついていた方が、マテアスも運びやすいのだろう。そう思いいたって、エラはその首筋にぎゅっと抱きついた。


「重いでしょう? ごめんなさい」

「いいえ。わたしにしてみれば役得ですから」


 おどけたように言うマテアスに、エラの口元がほころんだ。


「ありがとう、マテアス」


 耳元で囁くと、マテアスは「本当に役得ですねぇ」とつぶやいた。


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