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ふたつ名の令嬢と龍の託宣【なろう版】  作者: 古堂素央
第3章 寡黙な公爵と託宣の涙

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8-2

     ◇

 外に出ると、まだ日も昇らない暗闇だった。昨日に引き続き、強い風が吹いている。春になったとはいえ、この時間はまだ肌寒い。その冷えた空気を吸いながら、ジークヴァルトはいつもの場所へとひとり向かった。


 空の境目が白みかける頃、マテアスが大ぶりの剣を抱えてやってきた。普段よりも早く待っていた(あるじ)に、マテアスが訝し気な顔をする。


「今日はお早いですね。もしかして寝てないんですか?」

「しばらく横にはなった」

「……まぁ、いいでしょう。後で仮眠の時間を作ります。ひと汗流したら、今朝は早めに切り上げましょう。で、今日はいかがなさいますか?」


 剣を差し出すと、ジークヴァルトはそれを黙って受け取った。


「マテアスの好きでいい」

 剣を(さや)から抜いたジークヴァルトの言葉に、マテアスは体の前ですっと両手を構えた。

「では、こちらは素手で参ります」


 一瞬の静寂の後、ふたり同時に動き出す。容赦なく繰り出される切っ先に、マテアスは飛びのくように距離を取った。ジークヴァルトが次の構えを取る前に、その懐へと飛び込んでいく。

 手元を狙ったマテアスの手刀を、寸でのところで(ひじ)で受ける。はじき返すように剣を一閃すると、再びマテアスは遠く距離を取った。


 この早朝の手合わせは、ジークヴァルトが幼少の頃から、日課のように続けられている。マテアスは騎士ではないので、長剣をふるうことはない。だが、時には細剣を持ち、時には短刀で、そして今日のように体術を用いて、ジークヴァルトの相手をずっと務めてきた。


 賊に襲われるとき、相手が礼儀正しい騎士の作法で向かってくるなどあり得ない。ありとあらゆることを想定して、この鍛錬は続けられている。


 互いの(くせ)を知り尽くしているため、勝敗は大概、時間切れで幕を閉じる。幾度目かの攻撃がお互い不発に終わった時、マテアスはその体から緊張を解いた。


「今日はこのくらいにしておきましょう。湯で汗を流したら、一時間だけでも眠ってください。あなたに倒れられたら、わたしもいい迷惑ですから」


 再び長剣を抱えると、マテアスは屋敷に戻っていった。その背を見送りながら、いつの間にか明けた空を見上げる。低く、厚い雲が強風に流されていく。雲間に映る朝焼けが、その動きとともに形を変えた。


 自身の欲情を吹き飛ばすかのように、風に立ち、ジークヴァルトはしばらくの間、その様子をじっと見つめていた。


     ◇

「ご報告申し上げます」


 王の前で片膝をつき、カイは頭を垂れた。人払いがされた謁見(えっけん)室は、カイとディートリヒ王、そしてハインリヒ王子の三人だけだ。


「昨年見つかった新たな託宣のあざを持つ少女が、この度確認できました。彼女はウルリヒ様の血を引くものと思われます」

「その者とは?」

「少女の名はルチア。ウルリヒ様とアニータ・スタン伯爵令嬢の間に生まれたお子のようです」

「新たな託宣はふたつあったはず。そのうちのどちらなんだ?」


 ハインリヒの問いに、カイは一度言葉を詰まらせた。


「……彼女の受けた託宣名はリシル。異形の者に命奪われし定めの者にございます」

 努めて冷静に口にする。龍の託宣が違えられたことはない。ルチアはいずれ、異形の者に(あや)められる運命だ。


「して、その者は今どうしている?」

「彼女は今、ラウエンシュタイン公爵代理の庇護の(もと)、ダーミッシュ領で暮らしております」

「公爵代理……? リーゼロッテ嬢の父親か?」


 ハインリヒは意外そうな顔をした。


「アニータ嬢が既知の仲である公爵代理に助けを求めたようです。そのアニータ嬢は、一か月ほど前に逝去しています。王、託宣を受けた少女の処遇はいかがなさいましょう」


 カイがディートリヒ王を見上げる。その金色の瞳は、いつでも遠くを見つめているかのようだ。


「ラウエンシュタインに任せておけばよい」

「ですが……!」


 ルチアは王族の血を引く者だ。受けた託宣の内容を考えても、王家で保護するのが筋だろう。


「よい。すべては龍の思し召しだ」


 そう言ってディートリヒは玉座から静かに立ち上がった。青いマントを翻して去っていく。


「カイ・デルプフェルト。そなたはそばでその者を見守るがいい」


 去り際にそう残して、王は扉の向こうに消えた。残されたハインリヒ王子と目を合せる。カイがかいつまんでルチアの経緯を話すと、ハインリヒは神妙な顔つきとなった。


「カイ……何かあったら力になる。遠慮なく言ってくれ」

「お心づかい、感謝いたします」


 ハインリヒに向かって、カイは力ない笑顔を向けた。


     ◇

(今日はどれを読もうかしら……)


 アンネマリーは星読みの間の書斎で、本を吟味していた。正式に王太子妃になった後、隠されたこの本棚の存在を、イジドーラ王妃に告げられた。目の前に並ぶのは、歴代の王太子妃たちが書き残した記録の数々だ。

 いわば日記というやつだが、書いた人間によって内容は様々だった。王太子妃としての心構えを後世に残す者から、ただ日々の出来事を淡々と綴る者、中には、食卓のメニューを並べるだけのそんな強者(つわもの)もいた。


 王太子妃としてやっていくにあたって、参考になる物とそうでない物の落差がありすぎる。そんなラインナップに、アンネマリーは思わず力が抜けてしまった。過去の王太子妃たちが、肩ひじを張らなくても大丈夫だと教えてくれているようで、アンネマリーは少しだけ気が楽になった。


 そうはいっても、アンネマリーはあまりにも急にこの立場となってしまった。本来なら幼少期から行われるであろう、王妃になるための教育は、もはや実地訓練と化している。

 何しろ今まで上だった身分の者が、一斉に自分にかしずいて来るのだ。いきなり王族に籍を置いた身で、人を従えるのはことのほか気を使う。


 指を滑らせて背表紙を追う。綺麗な日記は手に取らず、すり切れたものを優先的に開いていった。

 参考になる日記は、過去の王太子妃たちにも何度も読まれてきたようだ。年月を経て(まく)られ続けた日記などは、もうページがちぎれそうなくらいだった。


(あ、これはまだ見てないわね)


 奥の方に押し込まれていたぼろぼろの日記を探し当てる。紙が破れないようにと、アンネマリーはそっとそれを開いた。

 ぺらぺらと少しめくって、アンネマリーは慌てたようにその日記を閉じた。顔を赤くして、しばし固まったまま動けなくなる。


(見間違いではないわよね……)

 心を落ち着けてから、再びそうっと日記を開く。中でもだんとつと言えるほどすり切れたその日記には、細かい文字でびっしりと(ねや)の作法が記されていた。


 いかにして愛する王太子を癒すのか。そんなことが中心に書かれている。刺激的な体位、マンネリになった時の打開策、殿方の体に関する知識のアレコレ。時には図解入りで、夜の営みに関することが、表現豊かに綴られていた。


 しかもいろいろな者が、後から書き加えた痕跡も残っている。王太子妃たちの叡智が詰まった、究極の愛の教本となっていた。


 立ったまま、食い入るようにそれに目を通していたアンネマリーは、途中ではっと我に返った。ハインリヒとは毎晩のように体をつなげている。癒すどころかハインリヒに翻弄されて、アンネマリーはいつもされるがままだ。

 体が火照ってくるのを感じて、慌ててその日記を本棚の奥に押し込んだ。


 気を取り直して、もっと日々の公務に役立ちそうなものを探す。いちばん端の真新しそうな日記を見て、アンネマリーは驚きの声を上げた。

「これ、アランシーヌ語で書かれているわ」


 アランシーヌは鎖国を貫くこの国が、唯一国交を持つ隣国だ。手に取って中を確かめると、そこには綺麗なアランシーヌの文字で日記が綴られていた。

 それを手に、一度居間へと戻る。ソファに座り、アンネマリーはゆっくりと目を通していった。


(この日記は、セレスティーヌ前王妃……ハインリヒ様のお母様が書いたものだわ)


 セレスティーヌは隣国の王女だったと聞く。その縁もあって第二王女のテレーズは、アランシーヌの王族へと嫁ぐこととなった。セレスティーヌは病弱で、ハインリヒが幼い時に亡くなっている。故人の記憶を盗み見ているようで、アンネマリーは後ろめたい気持ちになった。


《九月九日、晴れ、この国に来てからもう一か月。まだ秋も間もないのに、この寒さはどういうことなのかしら。真冬が来たら、わたくしはきっと氷漬けね》


 ふいに背後からハインリヒの声が聞こえた。流暢(りゅうちょう)なアランシーヌ語で、ちょうどアンネマリーが開いているページの日記を読み上げていく。


「ハインリヒ様!?」

「一応声はかけたけど、驚かせてしまったね」


 ソファの背をまたいで、アンネマリーの後ろに無理やりに座ってきた。時々こんなふうにハインリヒは、すごく子供っぽいことをする。それは自分にだけ見せる姿だと思うと、アンネマリーはくすぐったい気分になった。


 少し前にずれたアンネマリーを抱え込んで、そのうなじに口づけを落とす。

「ん……ハインリヒ様、そこは駄目です」

 龍のあざがある場所に触れられると、否応なしに体が熱を持ってしまう。


「仕方ないよ、アンネマリーが可愛いのが悪い」

 そう言って、再びうなじに口づける。肩をすくませて逃げようとする体を、ハインリヒはぎゅっと背後から抱きしめた。


「それにアンネマリー、また様がついてるよ」

「あ……」


 気を抜くとすぐ昔に戻ってしまう。これも急な立場の変化についていけてない(あかし)だ。


「大丈夫。アンネマリーはちゃんとやれているから」

 今度はその耳にキスを落とす。そのままアンネマリーの肩に、ハインリヒは自分の顔を乗せた。


「ハインリヒはアランシーヌ語が話せたのですね」

「ああ、でも聞くのはそこそこできても、話すのは苦手だな」

「ですが、先ほどは完璧でしたわ」

「そうかい? テレーズ姉上に比べたらまだまだってところだろうな。姉上は子供の頃からアランシーヌ語がペラペラだったから」

「え? テレーズ様が?」


 アンネマリーは首をかしげた。テレーズの元にいた時、隣国の言葉をうまく話せない彼女のために、アンネマリーはいつも通訳のようなことをしていた。時には隣国の貴族に、テレーズに伝えられないような暴言を吐かれて、人知れず涙した日もあった。


「ああ、分からないふりはきっとわざとだよ。言葉を理解できないとなると、侮って相手はぼろを出しやすくなるからね」

「そんな……」


 あんな口汚い言葉を、テレーズはにこやかな顔で聞いていたのだろうか。そのしたたかさに、アンネマリーは驚きを隠せない。


「アンネマリーは隣国の言葉に()けているからね。わたしもうまく話せないことにしておいた方が、隣国との交渉がうまくいくかもしれないな」


 そう言いながら、ハインリヒは腕に乗せたアンネマリーの胸をゆさゆさと揺らした。腹に巻き付けた腕に乗せ、先ほどからその重みを楽しんでいるようだ。


 ハインリヒはこの大きな胸がいたくお気に入りだ。ずっとコンプレックスに思っていたのに、今では大きくてよかったと思っているから、自分も相当現金だ。くすりと笑って、ハインリヒを振り返った。


「ん? どうしたんだい?」

「いえ、ハインリヒが楽しそうだなと思って」


 再びくすりと笑うと、ハインリヒは途端に真顔になった。

「それは違うよ、アンネマリー」

 あまりにも真剣な声音に、怒らせてしまったのかとアンネマリーは不安に駆られた。


「楽しそうなんじゃない。楽しいんだ」


 王太子顔できりりと言われ、アンネマリーはぽかんと口を開けた。


「ふ……ふふふ、それは本当に何よりですわ」

 くすくす笑っているうちに、ハインリヒが耳を()んでくる。日記を手にしていたアンネマリーは、読み進めることを諦めて、閉じたそれをテーブルへと置いた。


「もういいの?」

「ハインリヒより大事なことなんて、この世にはひとつもありませんわ」


 振り向いて、唇を奪う。意表を突かれたハインリヒは、すぐさまアンネマリーに口づけを返した。つばむようなキスは、やがて深いものとなり――


 お互いの熱を分けるように、静かに夜は更けていった。


    ◇

 三度ゆっくりと呼吸をして、ミヒャエルは深い瞑想から目を開けた。

「ラウエンシュタインの小娘は公爵家へと戻ったか……」


 新年を祝う夜会以来、(くれない)の女神は姿を現さない。何度乞うても、その声を聞くことは叶わなかった。


(いや、まだ見捨てられたというわけではない)


 言い聞かせるように、ミヒャエルは左の拳を握り締めた。あの夜、ラウエンシュタインの忌まわしき力の反撃にあって、負傷した右手はいまだ動かぬままだ。


 緑の小娘を今すぐにでも八つ裂きにしてやりたい。だが、フーゲンベルクの厚い盾に守られて、その居場所を探るのが精一杯だった。

(指輪さえ砕けなければ……)

 あの指輪と共に、女神から賜った力も失われてしまった。おかげで、フーゲンベルクの青にすら、太刀打ちできない事態に陥っている。


 今の状態で、ラウエンシュタインの力に敵うことはないだろう。だが――


「盾を崩すだけなら、やりようはある」


 ひとりほくそ笑み、再び目をつぶる。

(いつか、すべてを取り返す)


 その日を願ってミヒャエルは、女神の声をただひたすらに待ちつづけた。


【次回予告】

 はーい、わたしリーゼロッテ。ジークヴァルト様との距離がつかめないまま、ぎくしゃくするわたしたち。そんな中、レルナー家を飛び出したツェツィーリア様が、公爵家にやって来て。そして再び、ミヒャエル司祭枢機卿の魔の手が迫る……!

 次回、3章第9話「妄執の棘 - 前編 -」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!

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