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ふたつ名の令嬢と龍の託宣【なろう版】  作者: 古堂素央
第3章 寡黙な公爵と託宣の涙

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第7話 もうひとつの託宣

【前回のあらすじ】

 フーゲンベルク家からダーミッシュ領へと帰ったリーゼロッテ。屋敷まで送ってくれたジークヴァルトの過保護ぶりは相変わらずで。ツェツィーリアとの婚約を実現すべく、ルカが父親のフーゴを説得にかかる中、カイがダーミッシュ伯爵家の書庫の調査に訪れます。

 ウルリーケの容態が思わしくないと聞いたリーゼロッテは、自分の代わりにエラにグレーデン家へとお見舞いに行ってもらうことに。エラはそこでエーミールの貴族としての苦悩に触れるのでした。

「今日もいい天気」


 部屋からテラスに出たルチアは、朝日に手をかざして目を細めた。爽やかな風が吹き、小鳥たちのさえずりが聞こえてくる。ここに来てから、もう五か月が経とうとしていた。


 しゃがみこんで鉢植えの土が乾いているのを確認してから、ルチアは先の細いじょうろで水をやった。

 膨らんだ茶色に水が沈んで、土が黒ずんでいく。しばらくすると下から水が溢れ出し、小さな川がゆっくりとテラスの床を進んでいった。


「母さん、綺麗に咲いたよ」


 鉢植えには赤い花が五つ六つと開いている。真ん中だけが黄色くなったプリムラの花だ。母アニサは、中でもこの赤いプリムラが好きだった。


 去年の冬、王都の街はずれにあるこんがり亭を訪ねてから、ルチアの生活は一変した。

 こんがり亭のダンとフィンは面倒見がよく、毎日あたたかい食事と寝床にありつけた。風呂にも好きなだけ入れたし、必死に働かなくてもよくなった。そして何よりも、アニサのそばにずっといられるようになった。


 そんなある日、アニサが入院していた王都の病院に、その男はやってきた。

 イグナーツと名乗った男は整った顔立ちをしていて、つり気味の瞳が一見冷たそうに見えた。だが、イグナーツはゆっくりとやさしくしゃべる男だった。


 古い知り合いらしく、ふたりはしばらくの間、病室でずっと話し込んでいた。ルチアは席を外すよう言われたので、ふたりが何を話していたのかはわからない。だが、初めは動揺した様子だったアニサは、イグナーツとの話が終わった後、明らかに安堵した顔になっていた。


『長いこと、よく、頑張りましたね』


 帰る間際にそう言って、イグナーツはアニサのやせ細った手を取った。あんなふうに母親がむせび泣く姿を、ルチアはその時初めて見た。


 その後イグナーツの提案で、アニサは病院を移ることになった。急なことに、世話になったダンとフィンに、直接お礼も別れも言うことができないままここに来てしまった。かろうじて置手紙だけ残してきたが、不義理をしたと、今でもそれだけが悔やまれる。


(でも、今いる場所を知られるのはまずいし……)


 アニサにもずっと言われていた。できるだけ早く手に職をつけて、イグナーツの元を離れるようにと。そして、独り立ちができたら、今まで同様、ひと所に留まらないようにと。


 ルチアはじょうろをテラスの片隅に置いて、部屋の中へと戻った。備え付けの洗面台で顔を洗う。春先の水はまだ冷たいが、こうするとすっきりと目が覚める。顔を拭きながら、ルチアは鏡に映る自分の姿をじっと見つめた。


 ――金色の瞳に見事な赤毛。


 それが自分だ。顔立ちはアニサに似ているが、その色彩は似ても似つかない。イグナーツが自分の父親ではと疑うこともあったが、瞳の色は似ているものの、彼は綺麗な銀髪だった。


 以前のようにこの赤毛を染めることはしなくなった。髪染めは洗うとすぐに落ちてしまう。毎日のように風呂に入れるようになった今では、この長い髪を毎回染めるのは面倒でしかない。


(母さんが何から逃げていたのかはわからないけど)


 ルチアはいまだアニサの言いつけを守って、常にかつらをかぶって過ごしている。ずっと母に言われ続けていたことは三つある。この赤毛を見られないように。体にあるあざを知られないように。そして、神殿には決して近づかないように。

(普通は神殿なんて、行きたくても行けない場所なのに……)

 神殿とは本来、貴族のみが利用するものだ。庶民は何かあったら、教会に行くのがあたりまえのことだった。


 長く伸びた髪を三つ編みにしてきつく編んでいく。二本のおさげを手早くまとめ、その上からルチアは茶色のかつらをかぶった。肩口で切りそろえられたこのかつらは、前髪が長くて鬱陶(うっとう)しい。アニサは自分のこの金色の瞳も、人目につくのを嫌がった。


 そのくせふたりきりでいるときに、綺麗な瞳だとアニサは口癖のように言っていた。

『鮮やかな赤毛と金色の瞳が、まるでプリムラの花のよう』

 そう言ってアニサは、いつも(まぶ)しそうにルチアを見た。


(母さん……)


 そのアニサも先月、ルチアを残して逝ってしまった。眠るような旅立ちだった。


 病院に入院して、呼吸も楽になった様子のアニサは、ずっと穏やかに過ごしていた。あたたかい部屋で、食べ物に困ることもなく、ゆっくりと体を休めることができた。ルチアもでき()る限りアニサのそばにいた。そうできたのは、すべてイグナーツのおかげだ。


 王都の病院で初めて会ったイグナーツは、ここに移ってからというもの、一度もその姿を見せることはなかった。ただ、アニサの葬儀の時にはふらりと現れ、短い時間だけ、ルチアのそばにいてくれた。


 今、寝泊まりしているのは学校の寮だ。この土地の領主は領民のために学校を建て、貧しい家の子供には無償で通わせているとルチアは聞いた。簡単な読み書きや計算から、専門職の特別な技能まで、それぞれの資質に合わせて学べるようにしてくれているらしい。


(いろんな土地に行ったけど、こんなやさしい領主様は初めてだわ)


 しかし、ルチアがいる寮は、裕福な家の子供が入るような特別なものだった。その中でも一等贅沢な個室がルチアにあてがわれ、おかげで部屋の中にいるときは、人の目を気にすることなく、気兼ねなく素顔をさらすことができている。


 イグナーツが用意してくれた環境は、ルチアにとって驚くことばかりだ。衣食住に困ることなく、日々憂いなく過ごすなど、ルチアの生きてきた中で一度も経験がなかった。

 それでも、アニサと懸命に生きてきたあの日々に戻れるなら。いまだにそう願ってしまう。母がいなくなってからは、学校に通って、この部屋に戻ってくるだけの毎日だ。

 学校で教えてくれる内容はどれも目新しく、それなりに楽しくは思える。だが、裕福な子女が通うコースに入れられて、ルチアはその環境にはなじむことができていない。


 ルチアはもう一度かつらの位置を確認すると、母の形見のロケットペンダントを首から下げた。中に龍が彫られた繊細な作りのものだ。

 ロケットを握りしめ、祈るように瞳を閉じる。今日は授業で貴族のお屋敷へ行かなくてはならない。行儀見習いとして、メイドの体験をするのが目的だった。


「母さん、わたしを見守っていて」


 呟いて、ルチアはその部屋を出た。


     ◇

「やあ、リーゼロッテ嬢、今日もよろしくね」


 伯爵家の書庫で本を読みながら待っていたリーゼロッテに、カイは声をかけた。


「リーゼロッテ嬢は明日フーゲンベルク家に戻るの?」

「はい、エマニュエル様と一緒に行く予定ですわ」

「ブシュケッター子爵夫人、来てるんだ?」


「旦那様がリーゼロッテ様をいたくご心配されておりますから。デルプフェルト様、ご無沙汰しております」


 奥から本を数冊抱えたエマニュエルが姿を現した。エマニュエルが本を机に置くと、すかさずその手をすくい上げ、カイは指先に口づける。


「こんなところでお会いできるとは。相変わらずのお美しさですね」

「デルプフェルト様こそ、お変わりなく」

 ほほほはははと微笑み合うふたりは、どことなくうさん臭く見える。カイのチャラ男ぶりに、リーゼロッテもだいぶ慣れてきた。


「エラ嬢は公爵家に行ったまま?」

「はい、わたくしもすぐに向かうので、エラにはそのままあちらで待っているように伝えました」

「そっか。リーゼロッテ嬢も行ったり来たりでたいへんだよね」

「いえ、わたくしは……ヴァルト様に本当によくしていただいておりますから」

「ふうん?」


 リーゼロッテの反応を、カイはおもしろそうにみやった。ふたりは相も変わらず、順調にこじらせているようだ。


(ハインリヒ様と違って、ジークヴァルト様には何の障壁もないはずなのに)


 カイがジークヴァルトだったなら、間違いなく速攻でリーゼロッテを自分のものにするだろう。無垢な彼女を、少しずつ育てていくのも楽しそうだ。


「カイ様?」

 まじまじと顔を見られて、リーゼロッテは不思議そうに小首をかしげた。


「いや、何でもないよ。じゃあ始めようか」


 昨日の続きで、託宣に関わるような記述のある書物を探していく。今のところすべてが空振りだ。もっともダーミッシュ伯爵家は王家の血筋は入っていない。龍から託宣が降りるはずもないので、何も見つからないのも当然のことだった。


(まあ、ハインリヒ様の泣きが入ったことだし)


 リーゼロッテが伯爵家に戻ってから、ジークヴァルトがまったく使い物にならない。そう連絡を受けたカイは、リーゼロッテの様子を見に来がてら、ついでに護衛などもしているというわけだ。カイにしてみれば、息抜きにダーミッシュ領に物見遊山(ものみゆさん)に来たようなものだった。


「あ、リーゼロッテ嬢、顔にまつ毛がついてるよ」

 身を乗り出して手を伸ばすと、すかさずエマニュエルがリーゼロッテの顔をさらっていった。

「そういったことはわたしにお任せください」


 その様子を、壁際にいるカークがおろおろした様子で見守っている。そのカークに向けて、カイはひらひらと手を振った。


「ジークヴァルト様はカークを通して視てるんだよね?」

「わかっていらっしゃるなら、あまりおふざけにならないほうがよろしいですわ。それに……」


 エマニュエルが釘を刺すように言う。


「旦那様の守護者もこちらにいるそうなので」

「そんなものまで置いてったの? なんだよその規格外」


 カイの言葉にリーゼロッテの視線が宙に向く。何も視えないが、そこにジークヴァルトの守護者がいるのだろう。


「ヴァルト様は過保護でいらっしゃいますから」

「はは、それで済ませちゃうんだ」


 こんなにも鈍いリーゼロッテを攻略するには、もっとストレートにアプローチすべきだろう。なんてことはない。好きだ、ぶちゅ、で済む話だ。何ならぶちゅ、だけでも十分だ。


「ねえ、リーゼロッテ嬢、ジークヴァルト様に口づけられたことはある?」

「はへ?」


 顔を寄せて、周りに聞こえないように耳元で問う。本に集中していたせいか、リーゼロッテは一拍置いてから顔を上げた。


「ジークヴァルト様が、わたくしにそんなことなさるはずはありませんわ」

「そんなことって、婚約者なんだし、別に普通じゃない?」


 唇を尖らせて呆れたように言ったリーゼロッテに、カイも呆れたように言葉を返した。


「婚約者と申しましても、わたくしたちは龍が決めた間柄ですから」

「……うん?」

 さみしげにうつむいたリーゼロッテに、カイはわからないといった顔をした。


 対の託宣を受けた者同士は、問答無用で惹かれ合う。龍の託宣の存在を知る者なら、それはもはや常識だ。特に、男側の執着がひどいというのは、周知の事実のことだった。


 婚姻の託宣が降りる前に子ができて、なし崩しに結婚を前倒しする者は、過去にも多く存在する。ジークヴァルトの両親がその典型だ。アデライーデはふたりが十七歳の時に生まれているので、ジークフリートはかなり早い段階で、ディートリンデに手を出したことがまるわかりだ。


 しかしリーゼロッテは、龍の託宣自体を知らずに育ってきた。そんな常識すら知り得ない環境だったのだろう。


「なるほど。そこからか」


 カイは納得したように頷いた。ジークヴァルトが手を出さないのは、大方リーゼロッテに泣かれたくないとか、理由はそんなところだろう。逆に言うと、手を出したが最後、リーゼロッテを泣かせるくらいには、欲望が渦巻いているということだ。


「リーゼロッテ嬢もたいへんだ」


 ジークヴァルトの(たが)が外れた時が思いやられる。そう思って肩をすくめると、エマニュエルに白い目で睨まれてしまった。


「どうせいつか泣かせるんだったら、さっさと違った意味で()かせればいいのに」


 下世話な想像をしながらつぶやくと、リーゼロッテは再び小首をかしげた。


「何でもないよ」

 にっこり笑って手元の書物に視線を落とす。リーゼロッテも調べ物に戻って、書庫に沈黙が訪れた。時折ページをめくる紙の音だけが聞こえてくる。


(――対の託宣を受けた者)


 その存在の重さは、はかりきれないらしい。片割れを亡くした託宣者は、みるみるうちに憔悴(しょうすい)し、そのほとんどが後を追うように逝ってしまう。女好きでちゃらんぽらんなイグナーツですら、あんなふうになるのだから、カイにしてみれば驚きしかない。


 もしも、自分が消えたなら、ひとりくらいは本気で泣いてくれるだろうか。


 ふとそんなことを考えて、カイは目の前で一心不乱に本を読んでいるリーゼロッテを見やった。めそめそと泣く彼女の姿を想像し、それをなぐさめるジークヴァルトまで容易に目に浮かぶ。

 リーゼロッテは星を堕とす者をも浄化した。彼女ならもしやと思ったが、やはりジークヴァルトの相手であることを思うと、自分が彼女の唯一になるなどあり得ないことだろう。


 イジドーラは『馬鹿な子ね』くらいは言いそうだが、押し黙るだけで、おそらく泣いたりはしないだろう。イジドーラの泣き顔は二度と見たくない。しかしカイは、彼女にはもうディートリヒ王がいると、ひとり頷いた。


 ならば、アンネマリーは?

 王城で見た彼女の涙は綺麗だった。だが、あの時の涙はハインリヒのものだ。例え彼女がカイを思って泣いたとしても、あの涙と同じであるはずもない。


(――オレは何も持たない)


 自らそうしてきたのだ。誰も許さず、誰にも許されず。どうせ消えて無くなるこの身に、そんなものを残してどうなるというのか。

 それなのに、自分のためだけに涙を流す誰かがいたのなら。そんなことを本気で願う自分に、いつしかカイは気がついていた。


 みなが自分を忘れ去っても、ただひとり、誰かのその心に、ずっとずっと抜けない(とげ)のように残っていられたら――


 それはどんなに甘美な想像だろう。愛することなどできないくせに、自らは無償のそれを欲しがるなど、まるで聞き分けのない子供のようだ。


 その甘い甘い夢物語を思い、自嘲(じちょう)気味にカイは、ひとり(わら)った。


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