6-3
寝室から出ると、ジークヴァルトは後ろに控えていたエラの顔をみやった。
「エデラー嬢、人払いをしたい。ダーミッシュ嬢とふたりにしてくれ」
「え? ですが……」
「問題ない、五分で済む。扉は開けたままでいい」
そんなふうに言われては、エラも引き下がざるを得なかった。「仰せのままに」と頭を下げて、リーゼロッテの部屋から出ていった。エラは開け放したままの扉のすぐそばで息をひそめた。だがここからでは、中の様子をうかがい知る事はできそうにない。
「ダーミッシュ嬢、ここに座れ」
ジークヴァルトにソファに座るように言われ、リーゼロッテは素直にそこに腰かけた。そこは日常リーゼロッテがいつも座る定位置だ。
公爵家では、となりに大きなクマの縫いぐるみが座っていた。ふたり掛けのソファの空いたスペースを見やって、なんだか物足りない気分になってくる。
(アルフレートも連れてくればよかったかしら……)
そんなことを思っていると、ジークヴァルトがリーゼロッテの前で片膝をついた。そのまま背もたれに手を伸ばし、リーゼロッテを囲うように閉じ込めてくる。
「ジークヴァルト様?」
こてんと首を傾けたタイミングで、ジークヴァルトがソファへと力を流し込んだ。
「ぅひあっ」
ついでにリーゼロッテの体の中にも流れ込んできて、奇声が思わず飛び出した。
「ヴァルト様……不意打ちはやめてくださいませ」
これをやられると、いつも軽く感電した気分になる。すぐそこにある顔を、非難交じりに涙目で見上げた。
「たいしたことはないだろう」
そう言ってジークヴァルトは、リーゼロッテの胸元に手を伸ばしてきた。一瞬身構えるが、胸に下げた守り石がすくい上げられるのを確認すると、すぐにその力を抜いた。
ジークヴァルトはすぅっと息を吸って、守り石に唇を寄せた。瞳を閉じたまま、力を注いでいく。王城でいつも見ていた光景を、リーゼロッテは不思議な気分で眺めていた。
(あの頃はチェーンが短くて、もっと密着してたっけ)
ジークヴァルトの髪が触れるのがくすぐったくて、一生懸命それを我慢していたことを思い出した。
守り石が大きく輝いて、中の青がゆらりと揺らめいた。いつ見ても美しい光景だ。
これがどれだけすごいことなのか、今だからこそ理解ができる。たゆとうように揺らめく青に魅入られたまま、瞬きもせずそれを見守った。
ふいに顔を上げたジークヴァルトと目が合った。ジークヴァルトの瞳もいつも綺麗だ。吸い込まれそうな瞳だとそんなことを思って、その青とじっと見つめあっていた。
首もとでしゅるりと音がした。次いで、ぷちぷちと音が鳴る。まるでブラウスのリボンをほどき、ボタンをはずしているようなそんな音だ。
(ん? 胸元がやけにスースーするわ)
そんなはずはないと思いながらも、自分の胸に視線を落とす。見ると、ジークヴァルトの大きな手が、いそいそとブラウスのボタンを外しているところだった。
「ほあっ! え? 何?」
「問題ない、じっとしていろ」
思わずジークヴァルトの手首をつかむが、その動きはまるで止まらない。あっという間にブラウスは、胸の際どい所まで開かれてしまった。
(え? ちょっ、待って、何? 何なの一体!?)
半ばパニック状態で身をよじる。ここのところバストアップをさぼっていた。今日は長距離移動することもあり、締めつけるようなコルセットも、ましてや盛り盛りの詰め物もしていない。
(こ、小胸がヴァルト様にバレてしまう……!)
「すぐに済む。いいからおとなしくしていろ」
両手首を取られて、動きを封じられる。ソファに身を沈めたままのリーゼロッテの胸元に、ジークヴァルトは顔をうずめてきた。
「ふっ、あ……」
なけなしの胸の谷間の少し上にある、龍のあざに口づけられる。突然灯った強い熱に、リーゼロッテは思わずジークヴァルトの頭にしがみついた。
確かめるように唇が微かに動く。
「んっ……」
体に熱が籠っていく。息づかいが荒くなり、溜まる一方の熱に、どうしたらいいのかわからなくなる。
力が入らなくなって、背もたれに体を預けたまま、気づくと天井を見上げていた。ぼんやりと視線を落とすと、ちょうどジークヴァルトが首元のリボンを結び直しているところだった。
きゅっと形を整えると、ジークヴァルトはリーゼロッテの体をすくい上げ、自身の膝に座らせた。
「お前を守る膜はまだ残っているようだ。だが、以前よりも弱くなっているように感じる。あまり過信はするな」
「マルグリット母様の……?」
いまだ働かない頭で問うと、ジークヴァルトは「ああ」と頷いた。
新年を祝う夜会でリーゼロッテを襲った穢れの正体は、いまだにつかめていない。そのことに不安を感じるが、母がそばで守っていてくれるなら、これからもどうにかなるだろうとも楽観していた。
だが、夜会からもう三か月以上は立つ。あれ以来、それと同じものが接触してくる気配はまるでなかった。
「ヴァルト様、またすぐに公爵家へと参りますわ。こちらにいる間は十分気をつけます」
そばを離れることも心労につながるのだと思うと、どんなお荷物なのだと自分でも哀しくなってくる。
「わたくし、ちゃんと自分の力を扱えるよう頑張りますわ」
できることと言えば、もうそれしかない。リーゼロッテの思いとは裏腹に、ジークヴァルトの眉間のしわが深まった。
「お前はそのままでいい」
「ですが……」
「今日はカークと、ジークハルトを置いていく」
「ハルト様を?」
「ああ、やつがいれば、万が一の時すぐこちらに来られる」
開け放たれた扉に目をやると、その向こうでジークハルトが浮きながらひらひらと手を振っている。
「部屋には入らないよう言ってある」
「ハルト様と離れても大丈夫なのですか?」
守護者とはいつでも繋がっている存在らしい。しかも、フーゲンベルク領とここダーミッシュ領は、馬車で四時間はかかる距離だ。
「問題ない。オレにとっては、どうせ、いようがいまいが変わらない」
そう言ってジークヴァルトはふいと顔をそらした。
◇
「うわぁ、なかなかの所蔵ですね。数日お邪魔することになりますが、かまいませんか?」
本棚が立ち並ぶ書庫を前にしたカイがこちらを振り返ると、隣に立つ義父フーゴが「もちろんです」と頷いた。
「デルプフェルト様、よろしければ伯爵家に泊まっていかれませんか? 街から通うのも不便でございましょう」
「いえ、お気遣いなく。ダーミッシュ領の街並みも見て回りたいので」
「でしたらそのほかご入用のものがございましたら、何なりとお申し付けください」
その言葉にカイは少し考えるそぶりをして、にっこりと笑顔を作った。
「では、ダーミッシュ伯爵、お言葉に甘えましてひとつだけ。最終日にでも、ダーミッシュ領で取り入れている、領民向けの職業学校を見学させてもらえませんか? 王妃殿下がそのシステムについてご興味をお持ちで、一度見てくるように言われているんです」
「王妃殿下が。それは光栄です。では最終日にはご案内できるよう、取り計らっておきます」
「じゃあ、リーゼロッテ嬢は書庫の調べ物を手伝ってくれるかな?」
リーゼロッテが頷くと、フーゴはやさし気に微笑んだ。
「リーゼロッテ、わたしは戻るが、デルプフェルト様のお邪魔はしないようにするんだよ」
「はい、お義父様」
やや疲れた表情でフーゴはその場を後にした。ダーミッシュ家へ帰ってから数日たつが、その間フーゴは、ルカのプレゼン攻撃に辟易しているらしい。
「聞いたよ。弟がレルナー家のツェツィーリア様を狙ってるんだって?」
「お耳がお早いのですね……」
もう少しましな言い方はないかとも思ったが、まあ、カイの言うことはおおむね間違ってはいない。ルカはツェツィーリアと婚約するにあたって、レルナー家とダーミッシュ家双方に、どんなメリットがあるのかをフーゴに猛プッシュしているのだ。
「はは、職業柄ね。でも、微妙だなー。レルナー家とフーゲンベルク家ってあまりいい関係じゃないからね。そこら辺がネックにならないといいんだけど」
「え? そうなのですか?」
フーゲンベルク家にはユリウスも護衛として常に滞在している。ユリウスはレルナー公爵の弟な上、先代フーゲンベルク公爵のジークフリートとは従兄弟同士だ。ツェツィーリアもジークヴァルトを慕っているし、それがどうしてそうなるのだろう。
「先々代のレルナー公爵がわりといい加減な人物でね。その頃から仲は悪いみたい」
親世代の諍いが、後世に脈々と受け継がれていく。貴族ではよくある話だ。原因は名誉だったり裏切りだったり、理由は様々だ。
「まあ、ダーミッシュ領は産業が栄えているから、うまくいけば話くらいは聞いてもらえるかもね。でも、相手は公爵家だし、相当いい条件を提示しないと、ほかの候補に勝てないんじゃないかな?」
第三者の客観的な意見なだけに、それが現実なのだろうと思えてくる。姉としてルカを応援してやりたいが、自分にできることなどほぼないと言っていい。
(ジークヴァルト様も、手を尽くすと言ってくださってたけど……)
やはり迷惑になっているのではと心配になってきた。
「それはさておき、書庫の調査を始めようかな。リーゼロッテ嬢、ヒカリダケ見つけたらよろしくね?」
「そうそう見つかるものではありませんわ」
「はは、リーゼロッテ嬢ならきっとできるよ」
褒められているのか馬鹿にされているのかよく分からない返しに、リーゼロッテは困ったような顔をした。
◇
「え? ウルリーケ様が?」
「はい、エマニュエル様のお話では、あまりご容態はよろしくないそうで……」
合間の休憩としてカイと紅茶を飲んでいると、エラがそんな話を切り出してきた。ウルリーケはエーミールの祖母だ。会ったのは一度だけだが、手紙でのやり取りは今でも続いている。
「お手紙ではそんなご様子はなかったけれど……」
元王族であるウルリーケは気位の高い女性だ。高齢ではあるが、グレーデン家の女帝として君臨し、その存在を恐れる貴族は数多い。他人に弱みを見せるなど、恥と思っているような人物だった。
「ウルリーケ様が亡くなったら、グレーデン家はたいへんになるだろうね。彼女、降嫁するときに王家から鉱脈の採掘権を携えてきたけど、相続はできずに王家に返還されることが決まってるから」
ウルリーケも高齢で、おいしい思いができるのは今のうちだ。そんな思惑の中、採掘を巡ってグレーデン領では、富の奪い合いが起きている。後先を考えない無茶な採掘が繰り返され、労働条件の劣悪化が激しいとの報告も、王家へと上がっていた。
「そんなことも相まって、グレーデン領の治安はあまりよくないみたい。グレーデン侯爵もウルリーケ様の言いなりで、事なかれ主義を貫いてるし」
「そうなのですね……」
リーゼロッテの表情が曇る。女性の噂話と違って、カイが言うと事実の裏打ちがなされていそうで、信ぴょう性も増してくる。その話を、エラも悲しそうな顔で聞いていた。
「ウルリーケ様にもしもの事があったら、グレーデン家は多分、今の地位を維持するのは難しくなるよ。侯爵は当てにならないし、跡継ぎのエルヴィン殿は病弱って話だし」
「エルヴィン様?」
「エルヴィン様はエーミール様のお兄様でいらっしゃいます」
補足するようにエラが言った。以前グレーデン家に行ったとき、侯爵のエメリヒには偶然会ったが、それ以外は人の気配すら感じられなかった。
「なんにせよ、ウルリーケ様のご容態が心配だわ……できればお見舞いにお伺いしたいけれど」
「はは、ジークヴァルト様が許さないだろうね」
訪問したグレーデン家で星を堕とす者に襲われて以来、ジークヴァルトはグレーデン家に行くことを決して許さなかった。手紙でのやり取りだけは、しぶしぶ許可してもらった経緯がある。
「でしたらお見舞いの品をお届けするのはいかがでしょう?」
「そう言えば、ちょうど刺繍のハンカチができたところだったわね。お見舞いの品になるかはわからないけれど、手紙だけで済ますのはわたくしも嫌だわ」
そのハンカチは、会いに行けないウルリーケのために刺繍していたものだった。また遊びに行くと言ったのに、その約束は果たせずにいる。
「でもそのハンカチは、公爵家のお部屋に置いてきてしまったの。ロミルダに頼んで代わりに届けてもらってもいいのだけれど……」
だが、そのハンカチは鍵付きの引き出しにしまってある。しかも、それを開ける鍵は、今リーゼロッテの手元にあった。
「よろしければわたしがお届けしてまいりましょうか?」
「そうね……お加減がよろしくないのなら、早く元気づけて差し上げたいわ」
手間をかけさせて申し訳ないと思ったが、エラにはハンカチを取りに一度公爵家に行ってもらって、そのままウルリーケに届けてもらうことにした。ジークヴァルトにお願いすれば、グレーデン家へと馬車を出してくれるだろう。
リーゼロッテはウルリーケへとお見舞いの手紙をしたため、それもエラの手へと託したのだった。




