5-2
「で、どの本だ?」
本題に戻されて、リーゼロッテは目の前の本棚を見上げた。先ほど気になった本の真下に来たようだ。
「この上の……」
背伸びをして手を伸ばしてみるが、あとちょっとの所で届かない。横にあった備え付けの移動式梯子が目に留まった。これに昇れば難なく取れるに違いない。そう思ってリーゼロッテは梯子を掴み、そのまま足をかけようとした。
「いや、待て。何をするつもりだ」
「何をって、梯子に昇って本を取るだけですわ」
梯子を掴む手を、上からジークヴァルトに掴まれる。かと思うとポールから手を引きはがされた。
「駄目だ、落ちたらどうする気だ」
「数段昇るだけですわ」
万が一落ちそうになったとしても、こんな狭い場所だ。本棚に手をつけば転がり落ちるのは避けられるだろう。
「いや駄目だ、却下だ、絶対に駄目だ」
頑なに手を離そうとしないジークヴァルトを、リーゼロッテは困ったように見上げた。王城で階段上からダイブして以来、リーゼロッテが少しでも高いところに昇ることを、ジークヴァルトは必要以上に嫌がるようになった。
(あれは王子殿下に触れてしまったからなのに)
あの事故は王子の守護者の怒りを買ってしまったからだ。あんなイレギュラーな事態が、日常で起こるはずもない。
「いい、オレが抱く」
「ふほぁっ」
いきなり子供抱きに抱え上げられて、油断していたリーゼロッテの口から思わず奇声が漏れた。この扱いはツェツィーリアに対するものと変わらない。成人した身としては、なんだかやるせない気持ちになってくる。
「届くか?」
耳元で言われ、本棚に視線を戻す。目線の少し上に、その本はあった。
「きのこが……きのこが生えてますわ」
光って見えたのは、その本からにょっきりと生えたきのこだった。漫画に出てくるような笠の開いた美しいフォルムのきのこは、青銀色の輝きを放っている。
「きのこ? ヒカリダケか?」
魅入られたまま手を伸ばす。その本を引き抜くと、生えていたきのこはすっと吸い込まれるように消えてしまった。
「あっ! きのこが消えてしまいましたわ」
手に取ったのはくすんだ表紙の赤い本だった。表題も何も書かれていない。首をかしげたままそれを手に、リーゼロッテはマテアスの待つ書庫へと戻っていった。
「さあ、旦那様はこちらで執務の続きをなさってくださいね」
先ほどまでエラたちと座っていた書庫のテーブルに、山盛りの書類が積まれていた。嫌そうにその前にジークヴァルトが座ると、リーゼロッテはその横の椅子に腰かけた。
「お前はこれを読んでいろ」
ジークヴァルトは自身が選んだ本を一冊手渡すと、すぐに書類仕事に取り掛かり始めた。
「おや、ずいぶんと懐かしい。そちらはフーゲンベルク家に代々伝わる子供向けの教本となっております」
「子供向けなの?」
「はい、公爵家には力ある者が多くお生まれになりますので、幼少期にそれを用いて、異形の者や浄化の力、託宣にまつわる知識などを勉強なさるのですよ」
ぺらぺらとめくってみると、ところどころに挿絵などもあり、確かに読みやすそうな内容だった。
(でも子供向けというには字が細かいわね)
詰まった文字に少々臆している自分がいる。
「旦那様などは五歳の折には読破なさっておりました」
「五歳!?」
驚いたように声を上げると、マテアスが笑顔を向けてきた。
「旦那様は規格外のお方ですから。アデライーデ様など、結局は半分もお読みになられませんでしたし」
「そう……なのね」
なんともリアクションしにくいマテアスの言葉に、リーゼロッテは笑顔ともつかない曖昧な顔を返した。
「そちらは見かけない書物でございますね」
もう一冊のくすんだ赤い本を見やって、マテアスが不思議そうに問うてくる。結局は中も確認せずに持ち出してしまった。
「なんだか光って見えて気になってしまったの。笑わないで欲しいのだけれど、この本にきのこが生えていたのよ。手にしたらきのこは消えてしまったのだけれど、本当に生えていたのよ?」
馬鹿にされたくない一心で、言い訳がましく言うリーゼロッテに、マテアスは驚きの表情を向けた。
「なんと! リーゼロッテ様はヒカリダケをご覧になられたのですか?」
「ヒカリダケ?」
某モバイル企業のマスコットのような名前に、リーゼロッテは訝し気に小首をかしげた。
「ヒカリダケ、通称、かがやきのこと申しまして、書いた者の思いが極限まで込められたときに、その書物に生えるという伝説のきのこでございます」
「伝説のかがやきのこ……」
レジェンドの割にはダジャレなネーミングにうさん臭さを覚えつつ、リーゼロッテは古びたその本を開いてみた。
「……これ、本ではなくて日記だわ」
製本はされているが、書物というよりノートのような仕立てだった。日付とその日にあった出来事が、流れるような美しい文字で数行ずつ綴られている。日記はページの三分の二くらいまで埋められており、そのあとは白紙が続いていた。
パラパラとページをめくってから、リーゼロッテはすぐにその日記を閉じた。
「お読みになられないのですか?」
「だって、昔のものとはいえ、人様が書いた日記だもの。わたくしだったら、読まれたくないってきっと思うわ」
「そうでございましょうか?」
いつになく反論してきたマテアスに、リーゼロッテは視線を向けた。
「いえ、その日記に関しましては、リーゼロッテ様に読んでほしいと思っているのかもしれません。かがやきのこは、故人の日記に多く現れるとの逸話も残っております。リーゼロッテ様のお目に留まったのも何かのご縁でしょう」
「そうね……そういうことなら、少しだけ見てみようかしら」
リーゼロッテが再び日記を広げると、マテアスは頷いて自身も書類仕事に手を伸ばした。ジークヴァルトとマテアスがせわし気に書類の束に格闘している中、リーゼロッテは静かにページをめくっていった。
その日の天気、庭に咲いた花の美しさ、お茶会の様子、舞踏会に着ていくドレスの話。所々、にじんだり紙が痛んだりして読めないこともあったが、日記にはそんな内容のことが、日付が途切れることなく綴られていた。
(内容から察するに、フーゲンベルク家の令嬢が書いた日記みたいね)
時折、婚約者のことが話題に上る。この公爵令嬢の婚約者は王族のようだ。
(でも、少し病弱なお相手のようね)
天候と共に、相手の体調を気遣うような日記が幾度も書かれていた。
それ以外は微笑ましく思えるような日常だ。夕食のメニューがどうだったとか、今流行りのファッションについてだとか、他家の茶会で出てきた菓子が美味しかったとか、時には父親に対する愚痴みたいなことも綴られている。
(ふふ、いつの時代も女の子は変わらないものね)
どれも共感できるような内容だ。微笑ましく思って、リーゼロッテはさらにページをめくった。
(あら?)
新しいページには、それまでの三倍以上の行で日記が書かれていた。文面から見ても、かなり興奮気味なのが伺える。それは、素敵な人に出会ってしまった、彼こそ自分の運命の人だというような内容だった。
(え? 運命の人って……あなた、婚約者がいるのよね?)
はらはらしながらページをめくる。
その次の日もその次も、切ない恋心が綴られていた。会えない日には胸を焦がし、その姿を見た日は思いが募り、会話をした時の彼はどんなだったとか、甘い内容がしばらく続く。そんな日々を重ね、公爵令嬢はとうとう従者の手引きで、その相手と逢引することになったようだ。
ごくりとのどが鳴る。すっかり夢中になって、リーゼロッテは日記を読み進めた。
逢引した日の日記には、彼がどんなにすばらしい人なのか、のろけ話が延々と書かれていた。初めての口付けを交わし、天にも昇る思いだと夢見心地に語られている。
(いや、だからあなた婚約者が……)
突っ込みを入れつつページをめくった。
(ええ? 今度は駆け落ちをする気なの!?)
婚約者の事は尊敬しているが、自分が愛するのは彼だけだ。苦し気に綴られる彼女の思いは本物のようだ。だが、貴族が駆け落ちするとなると、その先の生活はどうするのだろうと心配になってくる。
(一応、相手の人も身を引く覚悟はあったみたいね……)
自分のしあわせを願い、去ろうとする恋人を必死に引き留める公爵令嬢。そのすったもんだの末に、ふたりは駆け落ちをする決意を固めたらしい。
(あ! お父様に見つかって幽閉に!?)
駆け落ちがバレて、とうとう部屋へと閉じ込められてしまった。怒涛の展開にすっかり夢中のリーゼロッテは、日記の主に感情移入しまくりだ。
次のページにはたった一行だけ綴られていた。震えるような力ない文字だった。
『わたくしのせいであの方が死んでしまった』
(え? 駆け落ち相手は死んでしまったの?)
しかし、そのページが最後の日記だった。それ以降は白紙が続いている。呆然となって白いページを眺めていると、開かれた日記から一気に光の渦が広がった。
『カーク様……レオン・カーク様』
慟哭の声がする。
『わたくしも、今すぐあなたのおそばへ参ります』
冷たい雨の中飛び出した。
逢瀬を重ねたあの木の下で、どうか、どうかあの方の元へ――
激しい雨に奪われる熱。それでもまだ、この命は尽きてはいない。その手を自身の首に導き、乞い願う。
『お願い、ジョバンニ。――わたくしを殺して』
その刹那、大きな至福に包まれた。
『ああ……カーク様……ようやくあなたの元へ……』
これでひとつになれる。縛られた運命を、すべて捨て去って――
「ダーミッシュ嬢!」
肩を強く揺すぶられて、リーゼロッテははっと顔を上げた。同調していた意識が引きはがされ、いまだ混乱しながらジークヴァルトの瞳の青を見つめる。
「――これは、オクタヴィアの日記なんだわ」
鳴りやまぬ鼓動が耳につく。リーゼロッテの瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。




