第2話 茶会の攻防
【前回のあらすじ】
公爵家で修行の一環として、守り石に力を注ぐ訓練をするリーゼロッテ。そんなリーゼロッテを相変わらず過保護に守ろうとするジークヴァルトに、従者のマテアスはあきれ気味となります。
雪の庭で散策した後、思いがけずお酒を口にしてしまったリーゼロッテ。その可愛い変貌ぶりに、ジークヴァルトの理性はギリギリで。マテアスの心労はこれからも続くのでした。
「あの、ヴァルト様……」
「なんだ?」
走る馬車の中、窺うように声をかけてきたリーゼロッテに、ジークヴァルトは髪を梳く手を止めた。
「その、わたくし邪魔ではございませんか?」
「問題ない」
膝の上でもじもじと身じろぐリーゼロッテの肩に手を回して、自身の胸に引き寄せる。指に蜂蜜色の長い髪を絡めだすと、ジークヴァルトは再び書類に目を落とした。膝に乗せたリーゼロッテの髪を梳きながら、器用に片手でぶ厚い書類の束をめくっていく。
ジークヴァルトが自分を膝に乗せたがるのは、以前、道中で馬車が大きく揺れたことがあったからだ。とはいえフーゲンベルク家から王城までの道のりは一時間もかからない。整備された王都の道を走るため、過度に馬車が揺れることはまずなかった。
心配性のジークヴァルトは一度言い出したら意見を曲げることはない。広く空いた座席を見やりながらも、あきらめたリーゼロッテはその胸におとなしく頭を預けた。
この体勢では外の景色もよく見えない。耳に鼓動を聞きながら、うつらうつらとなってくる。だが、これからアンネマリー主催の茶会に行く予定だ。寝ぼけ眼のまま会いに行くわけにもいかず、リーゼロッテはなんとか眠気を覚まそうとその目を大きく見開いた。
(何かしていないと眠ってしまいそうだわ……)
手持ち無沙汰のまま、騎士服に施された飾りの刺繍に目を落とした。なんとなくその糸を人さし指でなぞってみる。ほかにやることもないので、リーゼロッテは小さく動かしていた指先を、刺繍の描く曲線のままくるりと大きくなぞっていった。
びくりとジークヴァルトの体が震えたのと同時に、バンっと馬車の窓が大きく叩かれた。続けざまにバンバンと振動する窓を見やると、そこに張り付いていたのはどす黒い異形の影だった。
(こ、公爵家の呪い!?)
叩かれるごとにべっとりと手形が残される。血のりのようなその跡に、リーゼロッテは小さく悲鳴を上げた。
ぐっと眉間にしわを寄せて、ジークヴァルトは叩きつけるように手のひらを窓に押しあてた。青の波動が広がって、貼りついた異形の者がぼろぼろと剥がれ落ちていく。両側の異形を弾き飛ばすと、ジークヴァルトは厚手のカーテンを掴んでシャっと乱暴な手つきで閉め切った。
薄暗くなった馬車の中、震えながらリーゼロッテはその胸にいまだ縋りついている。窓に手形が増えていく様は軽くホラーだ。異形の姿に慣れてきたリーゼロッテも、その恐怖映像に思わず鼓動が跳ね上がってしまった。
「今のは一体……」
「大丈夫だ。問題ない」
静かに言って再び肩を抱き寄せると、ジークヴァルトは暗がりの中すぐに書類に目を通し始める。それ以上は何も聞けないまま、ほどなくして馬車は王城へとたどり着いた。
◇
「リーゼロッテお嬢様!」
王妃の離宮の前でジークヴァルトと別れ控えの間に通されると、先に到着していたエラがすぐさま駆け寄ってきた。今回エラは男爵令嬢としてこの茶会に招かれている。その顔を見てほっとしたリーゼロッテは、エラに導かれるまま陽当たりのいい窓際のソファへと腰かけた。
ほかにも茶会が始まるのを待つ令嬢がちらほらいて、こちらへとさりげなく視線を向けてくる。さわさわと囁き声が聞こえるが、それぞれが陣取るソファは、何をしゃべっているかまではわからないようなそんな距離感だ。
「ねえ、エラ。ここは王妃様のお茶会の時に通された部屋よね」
「そのようでございますね」
王妃の茶会に招かれたのは去年の遅い春のことだ。あの日は異形の存在も知らないまま、緊張しながらここに座っていた。一年足らずの間に随分といろいろなことがあった。そう思うとおのずと感慨深くもなる。
(一年前の今頃は、ジークヴァルト様のことをまだ怖がっていたっけ)
子供の時に一度会っただけの婚約者は、黒いモヤを纏う得体のしれない存在だった。時折届く贈り物に辟易していた頃が懐かしい。
ダーミッシュの屋敷から出ることもなく、食べて転んで寝て夢を見る、そんな繰り返しの毎日だった。今となっては何を思って日々過ごしていたか、自分でも思い出せないくらいだ。
すべての始まりは王妃の茶会だったと心から思う。あの日から、自分の世界は驚くほどに変わっていった。
いろいろな場所に行ったし、様々な人に巡り合った。知らないでいたことをたくさん知り、この世界の広がりを思うと今でも心が躍る。そしてその中で、自分の至らなさも存分に味わった。
(このままじゃきっといけないんだわ……)
新年を祝う夜会以降、ジークヴァルトの過保護ぶりはさらにひどくなった。フーゲンベルクの屋敷では、寝るとき以外はほぼジークヴァルトのそばにいる。リーゼロッテに用意されていた部屋も、ジークヴァルトの自室の隣へと引っ越した。
ジークヴァルトが登城する時はリーゼロッテもついて行っている。朝早い日は瞼をこすり、王太子の執務室でその仕事ぶりを見守る日もあれば、王妃の離宮に預けられひとり読書や刺繍をして待つ日もあった。
「……まるでコバンザメね」
小さく漏れ出た声に、エラが不思議そうな顔をする。
「今、何かおっしゃいましたか?」
「いいえ、なんでもないの」
微笑んでゆるく首を振った。今、エラに余計な心配をかけても仕方がない。
あの夜会で突如襲った紅の穢れは、言いあらわせないほどの恐怖だった。それと同時に、自分の身から溢れた力に、底知れないものをリーゼロッテは感じていた。あの穢れを消し去ったのは、いまだ自分を守っているという母の助力によるものだろう。だが、あの力の渦は、この身の内から放たれた。
自分の手のひらをじっと見つめる。マルグリットはただそれを導いただけだ。溢れた緑の感覚は、まだ確かに残っている。
(あの力は、わたしのもの。今も、ここにあるはずの――)
ぎゅっとその手を閉じた。つかみどころのない緑はふわりと広がり、そのまま大気に溶けていく。
身につけている淡い水色のドレスに目を落とす。美しい刺繍には細かく青いビーズが縫い込まれていて、ビーズに見えるそれはひとつひとつが小さな守り石だ。
胸に光る首飾りも、耳に揺れるイヤリングも、結われた髪に差し込まれた簪も、すべてがジークヴァルトの守り石でできている。こうして離れていても、自分はずっと守られたままだ。
「……ありがとうの反対の言葉は何か、エラは知っている?」
ふいの問いかけに戸惑いながらも、エラは何か言葉を返そうとした。その時、テラスの扉が開かれ庭園へと促す声がかけられる。
「行きましょう。王太子妃殿下のお招きですもの。粗相があってはいけないわ」
そのまま会話は打ち切られ、ふたりは庭園へと足を踏み入れた。
見渡す庭園は雪をかぶっているものの、行く小道はさほど寒さを感じない。この国では寒さ対策として、地熱や温泉水が利用されている。そんなことを知ったのもつい最近の事だ。
「うわさには聞いていましたが、王妃様の庭園は素晴らしいですね」
「そうね。今の時期は雪化粧がされていて本当に美しいわ」
前回ここを通った時は、まだ異形の存在を知らなかった。あの日きっと自分は、大勢の小鬼を引き連れていたのだろう。積もった雪から顔をのぞかせるいくつかのオブジェを横目で見ながらそんなことを思った。
(今思うと、倒れたオブジェも異形のせいだったのよね)
あの日、オブジェを破壊しながら歩いたことを申し訳なく思いながらも、やはりあれは自分のせいではなかったのだと何食わぬ顔で通り過ぎる。
ちらっと見やった先の茂みの合間から、小さな異形がのぞき込んでいた。
「どうかなさいましたか?」
「弱い異形の者がそこにいるわ。星読みの間は異形が入れないと聞いていたけれど、この辺りにはちらほらいるようね」
王妃の離宮は王の加護が厚く、異形の者は易々とは近づけない。だが、王妃が人を招くためのここは王城に一番近い所にあり、人の出入りも多い場所だった。
「異形の者は人が集まる場所に多くいるそうだから、以前のわたくしみたいな人間が連れてきてしまうのかもしれないわね」
神妙に頷きつつも、エラは一生懸命茂みの先を見やっている。異形がいたずらに葉を揺らしているが、エラの目にはきっと風が吹いているようにしか見えないのだろう。
「ふふ、エラとこんな話ができるなんて、わたくし本当にうれしいわ」
今までのつかえがとれて、心からほっとしている自分がいる。
「ありがとう、エラ」
「はい、お嬢様」
リーゼロッテの笑顔を受けて、エラもしあわせそうに微笑んだ。
「まあ、見てエラ。庭がサンルームみたいになっているわ。以前のお茶会では、あの辺りに円卓が並べられていたのよ」
目指す先がガラス張りの温室の様になっている。去年来た時には、外の庭でパラソルの下お茶をたしなんだ。
その入り口まで行くと、若い女官が円卓へとふたりを導いた。庭のようでいて、温室のような、そんな不思議な空間だ。
「王太子妃殿下は後程いらっしゃいます。もうしばらくこちらでおくつろぎください」
女官は頭を垂れて下がっていく。ほかにも別の席へと通された令嬢が何人かいたが、ふたりは中でもいちばん立派な円卓に通されたようだ。
しばらくすると同じ女官がひとりの令嬢を連れて戻ってきた。
「ヤスミン様!」
「白の夜会ぶりですわね、リーゼロッテ様」
ヤスミンはキュプカー侯爵令嬢だ。知り合いが同席することに安堵する。貴族の社交など、深窓の令嬢生活を続けてきたリーゼロッテにしてみれば緊張の連続だった。今までは身内のバリケードに守られてきたが、こういった席では自らがうまく立ち回らねばならない。
今回の茶会の主催者はアンネマリーだが、王太子妃となった彼女が従妹とは言えリーゼロッテばかりを贔屓することなどできはしないだろう。
(エラがいてくれてるけど、男爵令嬢のエラに負担はかけられないわ)
伯爵令嬢の立場として、ふさわしいふるまいが必要だ。そう思ってリーゼロッテはひとり頷いた。
「わたくし新年を祝う夜会でも、リーゼロッテ様をお見かけしましてよ?」
榛色の瞳を細めていたずらっぽく微笑まれる。ジークヴァルトと共にあれだけ目立つ抱っこ行脚をしたのだ。だが、そのあとの騒ぎと王子とアンネマリーの婚約に、その黒歴史は埋もれていったと安堵していた。それだけにそこを突かれると羞恥で思わず頬が赤くなる。
「うわさ通りに公爵様は、可憐な妖精姫に夢中みたいですわね」
体のあちこちに飾られた青い石を見やったヤスミンは、その瞳をきらりと光らせた。その口元が音を発さず『独 占 欲 ま る 出 し ね』と動いたように見えたのは、気のせいだと思いたい。
(うう、この格好はそういうのじゃないのに)
若干涙目になりながらも、抗議できないこの身がもどかしい。
「リーゼロッテ様はいつお会いしても本当に愛らしいですわね。お部屋に飾って毎日愛でていたいくらいですわ」
公爵様に叱られてしまいますわね、とヤスミンがそう付け加えた時に、新たな令嬢が案内されてきた。その令嬢に向けて、ヤスミンは他人行儀に微笑んだ。
「イザベラ様、お久しぶりですわ」
「ヤスミン様もお変わりなく」
やってきたのはニコラウスの妹、イザベラ・ブラル伯爵令嬢だった。
「イザベラ様、ごきげんよう」
リーゼロッテが話しかけるも、イザベラはツンと顔をそらしてそのたれ目でガン無視を決め込んだ。新年を祝う夜会で会った時と同様に、艶やかな栗色の縦ロールをびよんと弾ませながら、イザベラは同じ円卓、ヤスミンの隣の席へと腰をかける。
円卓は主催者席を除いて全部が埋まったようだ。アンネマリーが座るだろう席の両隣は、ヤスミンとリーゼロッテだ。ヤスミンの横にはイザベラが、その隣にエラ、リーゼロッテと並んで円卓を囲んでいた。
「田舎貴族のくせに王太子妃殿下の隣の席を陣取るだなんて。宰相の娘であるわたくしを差し置いて、厚かましすぎるとお思いになりませんこと?」
この席順が大いに気に入らなかったようだ。聞こえよがしにイザベラはヤスミンに向けてそう言い放った。
「リーゼロッテ様はアンネマリー様の従妹でいらっしゃいますもの。別段おかしくは感じませんわ」
にっこりと笑ってヤスミンは置かれた紅茶を一口飲んだ。微妙な沈黙が訪れる。




