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ふたつ名の令嬢と龍の託宣【なろう版】  作者: 古堂素央
第3章 寡黙な公爵と託宣の涙

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第1話 冬のひより

 雪深き小国ブラオエルシュタイン。

 龍が住まうとされるこの国は、その意志のまま長きに渡り平和な世を築いてきた。

 王子の婚儀を無事に迎えた今、悠久の平穏を再び約束されたのか……。隠された託宣の謎はいまだ鳴りをひそめ、それぞれが背負いし宿命の歯車は、ただ静かに回りゆく。

 龍の真意をはかる術もなく、人の営みは途切れることなく続いていく。

 ここに語るのは、龍に囲われし者たちの一途な愛の物語――

「ですが、あの日……わたくし泣きましたわ」


 リーゼロッテの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。驚いたように目を見開き、信じられないといった顔を向けてくる。


(――マテアスの言うとおりだ)


 いつも自分は言葉足らずだ。この感情を形にするのは難しい。心のままに触れるのも、失うことになるのではと思うと怖くなる。


(だが、もっと信じていいのかもしれない)

 彼女のこころを。この涙を。


 吸い込まれそうな緑の瞳に魅入られたまま、頬に伝うそれを親指の腹でぬぐい取る。


「ああ……あの日、泣いたお前も可愛かった」


 今宵、落ちた涙もまた、どこまでも輝いて――


 ふたりの思いが通じるのは、まだ、もう少し先。さわやかな風が吹く、初夏の夜会の話。


     ◇

「ああ、また駄目だわ……!」


 手のひらの中でふたつに砕けてしまった緑の石にため息を落とす。小さな石くずを落とさないよう、リーゼロッテは慎重にそれを箱の中へと戻した。


(まだらにはなってたけど、今回はうまくいきそうだったのに)


 残った砂粒をはらうと、横に座って書類に目を通していたジークヴァルトに、ふいにその手を取られた。


「怪我はないか?」

「はい、大丈夫ですわ」


 返事を疑っているかのように、親指が手のひらを滑っていく。それがくすぐったくて、リーゼロッテは思わず手を引いた。


「動くな」


 ジークヴァルトの指は傷の有無を確かめるように、手首から爪の先までゆっくりと移動していった。丹念に確認された後、ようやく手が解放される。


(大丈夫って言ってるのに)


 そう思いつつもリーゼロッテはジークヴァルトにすまなそうな顔を向けた。


「お仕事中に邪魔をして申し訳ございません」

「怪我がなければそれでいい」


 そっけなく言ってジークヴァルトは書類へと視線を戻した。リーゼロッテも再び目の前の箱を覗き込む。その中には、先ほど戻した割れた石の他に、灰色の丸い石がいくつか転がっていた。

 小さ目の新しい石を選んで、両手で包み込む。リーゼロッテはその灰色の石に、自身の力をそっと注ぎこんだ。隙間からのぞくと、灰色だった石が仄かに緑を帯びている。


(慎重に、少しずつ少しずつ……)


 修行の一環として、リーゼロッテは守り石に力を注ぐ練習をしていた。箱に入っているのは、リーゼロッテ用に選別された守り石だ。


 練習用のそれほど質のいいものではないと言われたが、その実、粗悪なものでも守り石ひとつあれば、平民がひと月は楽に生活できる。それを知っていたら、恐らくこんなふうに気軽に扱うことはできなかっただろう。


 初めてこれを渡された時、リーゼロッテは見様見真似で石に力を注いでみた。だが、手のひらに意識を集中した瞬間、その守り石は見事に粉々になってしまった。

 手の内をさらさらと零れ落ちた石は、まるで緑の粉砂糖のようだった。


(どうしてヴァルト様みたいにうまくできないのかしら)


 むうと唇をへの字に曲げる。力加減を間違えると先ほどのように割れてしまうし、弱すぎるとまだら模様になったりもする。時には気泡が入ったかのように見え、それはそれで綺麗なのだが、やはり何かが違うと思ってしまう。


 ジークヴァルトの守り石は綺麗な青に輝いている。たゆとうように揺らめく青は、いつ見ても見飽きることはない。

 自分の纏う緑が石にこめられ、同じように揺らめく様を頭に描く。それができたらなんと素敵なことだろうか。リーゼロッテはひとり頷き、再び手のひらの石に心を傾けた。


(焦らない焦らない……)


 調子に乗るとまた割れてしまいかねない。呪文のように繰り返しながら、リーゼロッテは瞳を閉じて力の流れに意識を集中した。


 不意に髪に何かが触れた。はっとして顔を上げると、ジークヴァルトの大きな手が、自分の髪を梳いている。当のジークヴァルトは書類に目を落としたままだ。


(また無意識ね)


 ジークヴァルトは自覚のないまま、頻繁に髪に触れてくる。これはそばにいる犬や猫を、いつの間にか撫でているような感覚なのだ。リーゼロッテはそんなふうに理解していた。


 撫でられるのは不快ではないし、時にはくすぐったいがおおむね心地よく感じる。リーゼロッテは梳かれる頭をそのままに、何ごともなかったように再び石に集中し始めた。


 少しずつ緑に染まっていく石を、隙間から覗き込んでは確認する。それを幾度か繰り返した時、前触れなく耳をすうっとなぞられた。

(ひゃっ)

 ぞわぞわする感覚に、思わず肩をすくめた。驚いて隣を見上げるも、ジークヴァルトは相変わらず書類に集中している。眉間にしわを寄せたまま、指がリーゼロッテの耳朶に這わされていく。しまいにはジークヴァルトは、耳たぶをはさんでやわやわと揉み始めた。


「ヴァルト様っ」

 思わずその手首をつかむ。さすがのリーゼロッテもそれ以上は我慢ができなかった。


「その……耳は、くすぐったいので……」


 涙目で訴える。自分の指が、小さな耳の感触を確かめていたことに気づいたジークヴァルトは、驚いたようにその手を引いた。


「無意識だ」

「はい、承知しておりますわ」


 そう言ってふたりは、それぞれが書類と守り石に目をむけた。何事もなかったかのように、先ほどと同様、部屋に沈黙が訪れる。聞こえてくるのは、カチコチと鳴る振り子時計の音だけだ。


 しばらくの後、ジークヴァルトの指が再びリーゼロッテの髪を梳き始めた。それを気に留めるでもなく、リーゼロッテはそのまま石に集中している。


「……なあ、旦那様とリーゼロッテ様って、いつもあんなにべたべたしているのに、なんでこう、もっと甘い雰囲気にならないんだ?」


 開け放たれた執務室の扉の外で、使用人の男がひとりつぶやいた。その男同様、中を出歯亀していた男が、困ったように首をかしげる。


「うーん……何といっても、あの旦那様とリーゼロッテ様だからなぁ」


 顔を見合わせ、ふたりは再び執務室を覗き込んだ。ガッツポーズを作りながら、息を合わせたように小声で声援(エール)を送る。


「「なんにせよ、頑張れ旦那様!!」」


 相も変わらず進展しないふたりの関係に、使用人一同がやきもきしているフーゲンベルク家なのであった。


     ◇

 晴れた日の午後の庭で、リーゼロッテが一面の雪に瞳を輝かしている。年が明けてからというもの、ずっと屋敷に閉じこもりきりになっている彼女のリクエストで、(あるじ)付き添いの元で庭の散策がなされていた。


 最近の(あるじ)は、リーゼロッテから片時も離れようとしない。屋敷の中では可能な限りそばに置こうとするし、王城へ出仕する日ですらリーゼロッテを一緒に連れて行っている始末だ。


 新年を祝う夜会で王太子の命が狙われたという話はマテアスも聞かされていた。そして、リーゼロッテもまた、得体のしれない凶悪な力に襲われたということも。


(まあ、不安に思うのも仕方のないことか……)


 ジークヴァルトの力ですらはじき返されたらしい。そんな強大で禍々しい力など、マテアスには想像すらできなかった。


 敵の正体も分からない。リーゼロッテのみが狙われた理由も不明なままだ。その上、自分の力で守り切れなかったとなると、ジークヴァルトのダメージの大きさは相当なもののはずだ。


 異形の憎しみは、常にジークヴァルトに向けられている。それがフーゲンベルクを継ぐ者に課せられた宿命だ。その(たて)の力を跳ね飛ばせるくらいなら、初めからジークヴァルトだけを襲えばいい。それなのになぜ、標的はリーゼロッテだったのか。


(しかもその邪気を、リーゼロッテ様が一瞬で消し去ったというのだから驚きですねぇ)

 正確に言うとリーゼロッテの母・マルグリットの力らしいが。


(ラウエンシュタインの末裔、か……)


 リーゼロッテの華奢な背をじっと見つめる。同じ公爵家でありながら、ラウエンシュタインの系譜は長く謎に包まれてきた。そのひとり娘がフーゲンベルクに嫁ぐなど、歴史の中で一度もなかったことだ。


(龍とは一体何なのでしょうねぇ)

 子供の頃から当たり前のように受け入れてはきたが、今さらながらにそんなことを思った。


「ヴァルト様、雪ですわ!」


 降り積もった白銀を前に、白い息を吐きながらリーゼロッテはいつになくはしゃいでいる。この雪深い国では見飽きすぎる光景だ。彼女は外に出ることも許されなかった深窓の令嬢なのだと、改めてマテアスは思っていた。

 そう思うとそんなリーゼロッテの姿にもほっこりしてくる。だが、前のめりになるリーゼロッテを、ジークヴァルトは頑として腕の中から離そうとはしなかった。


「旦那様。少しはご自由に歩かせて差し上げては」


 マテアスの言葉にジークヴァルトが不服そうな顔を返してくる。寒さに頬を赤く染めたリーゼロッテが、伺うようにジークヴァルトの顔を見上げた。


「わたくし転んだりしませんわ」


 手袋(ミトン)をはめた小さな手が、ジークヴァルトの指をきゅっと握り返す。耳当て付きのファーの帽子の頭を、リーゼロッテは可愛らしく傾けた。


「ヴァルト様……わたくし、一度でいいから、雪遊びをしてみたかったのです」


 純真無垢な瞳を向けられて、ジークヴァルトは眉間にしわを寄せた。一拍置いてから、その手を緩めてリーゼロッテを解放する。うれしそうにリーゼロッテは新雪が積もる庭へと足を踏み入れた。その姿をハラハラした様子でジークヴァルトは目で追っている。


 リーゼロッテはかがみこんで、一掴みの雪を両手に取った。それをぎゅっと握り込んでいく。


「ふふ、雪合戦ですわ」


 リーゼロッテは可愛らしく微笑むと、丸めた雪玉をえいとジークヴァルトに向かって投げようとした。だが、その塊はリーゼロッテの目の前で、ふわっと崩れて舞い落ちた。


 こてん、と首をかしげると、リーゼロッテは再び雪を手にすくい上げた。先ほどより念入りに、小さな手のひらの中で雪玉を固めていく。


「今度こそ、えい、ですわっ」


 小さく振りかぶって投げられた雪玉は、先ほどと同じように空中で弾けてしまった。そのほとんどがリーゼロッテの頭上に降り注いでいく。


「雪がさらさら過ぎなんだわ……」


 リーゼロッテは絶望した様子でつぶやいた。どれだけ強く丸めても、雪玉は結局崩れてしまう。唇をふるふると震わせて、今にも泣きだしそうになっている。


「雪を投げてみたいのか?」


 理解はできないが何とかしてやりたいと思ったのだろう。ジークヴァルトは少々困惑したように、リーゼロッテに問いかけた。


「雪玉を投げ合う遊びがあると聞いたことがあったのです……」


 しゅんと俯くリーゼロッテの言葉を受けて、ジークヴァルトがマテアスの顔を見た。


「水を含ませれば固まるかも知れませんが……」


 だがそれをすると、雪玉というより氷の塊が出来上がる。もしそれを投げ合うのだとしたら、怪我人が出るのは必至、血みどろの雪合戦となり果てるだろう。


「いいえ、それはきっと危険だわ。無理を言ってごめんなさい」

 リーゼロッテもそのことを理解したのか、すぐさまかぶりを振った。


「みなは雪だるまとか、雪像(せつぞう)などは作ったりはしないの?」

「雪像でございますか?」


 物珍し気に雪を眺める割には、妙な知識ばかりが豊富なリーゼロッテに、マテアスは困惑しきりだ。だが、外に出られない分だけ、書物などに触れて過ごしていたのだろう。そう思い当たると、マテアスはにっこりと笑顔を返した。


「冬の娯楽として凝った雪像を作る者もおりますが、一度吹雪くとすぐ雪に埋もれてしまいますので、みながやっているとは言い難いですねぇ」

「まあ、そうなのね」


 むしろ大概の人間が雪かきにうんざりしていて、雪像を作ろうとする者など変人扱いだ。この国の建物や主要の道路には、雪が積もらないように温泉の熱を利用した工夫が施されている。それでも雪かきの作業がゼロになるというわけにはいかなかった。


「雪かきには塩をまくといいと聞いたことがあるけれど……」


 考え込むようにしたリーゼロッテは、さらに不思議そうな表情をマテアスに向けてきた。


「そういえばこの国は海がないのよね。塩はどうやって手に入れているの?」


 至極当然のようになされた質問に、マテアスはただ面食らった。国内には大雑把な地図しかでまわっていない。それは詳細な地形が他国に渡らないための手立てだったが、そもそも貴族令嬢が国の地理に疑問を抱くなど、普通ではあり得ないことだった。


 封建的なこの国に、他国の情報が入ってくることはほとんどない。中には外国などというものの存在すら知らない者がいるくらいだ。まして海など聞いたこともない言葉の筆頭だろう。


 ダーミッシュ家の書庫がどうなっているのか、一度は覗いてみたい。そんなことを考えながら、マテアスは気を取り直すようにリーゼロッテに糸目の笑顔を向けた。


「国の北西に塩湖(えんこ)があるのですよ。国中の塩はそこで賄われております」

「それで、この国は鎖国していても大丈夫なのね。塩がなければ人は生きていけないもの」


 なるほどといったふうにリーゼロッテは頷いている。先ほど被った雪のきらめきを体に纏い、その長いまつげの先には小さく雪の結晶が形取られていた。雪の妖精のような幻想的なその姿と、言動のギャップが激しすぎだ。


 その時、くしっとリーゼロッテが小さなくしゃみをした。間髪置かずにジークヴァルトが、脱いだ自らの外套をその体にかぶせて巻き付けていく。


「これではヴァルト様がお寒いですわ」

 ミノムシの様に巻かれたその隙間から、リーゼロッテの声が漏れて出る。


「問題ない」


 そう言ってジークヴァルトは、小さい体を抱き上げようとした。手を伸ばしながらかがみこんだその時に、隙間からリーゼロッテが顔をひょっこりとのぞかせた。真正面でリーゼロッテの大きな瞳と見つめ合ったジークヴァルトは、次の瞬間、うずたかく積もった雪へと向かって一目散にバックした。


「ヴぁ、ヴァルト様……?」


 人型を作ったまま雪の壁にうずもれるジークヴァルトを見やって、困惑気味に声がかけられる。


「大丈夫だ、問題ない」


 動揺を隠して答える主を呆れたように見やりながらも、マテアスはその腕を引いて雪の中から埋もれたジークヴァルトを引っ張り出した。


「旦那様、こんな場所で公爵家の呪いを発動させないでくださいよ」

「……分かっている」


 今ここで異形が騒ぎ出したら、雪崩のひとつも起きかねない。リーゼロッテのそばを離れたくないジークヴァルトの理性は、もはや限界まで引き絞られた細い細い糸のようだ。


 無防備なまま可愛らしい顔を惜しげもなく向けてくるリーゼロッテを前に、いつその糸が切れるのではないかと、マテアスもふたりのそばを離れられないでいる。このくそ忙しい時に散策に付き合っているのもそのためだった。


「ダーミッシュ伯爵の信頼を裏切るような真似だけはなさらないでくださいね」


 くぎを刺すように小声で言う。リーゼロッテの同意があるのなら、止めるような野暮なことはしないつもりだ。だが、純真無垢なリーゼロッテが今のジークヴァルトを受け止められるようには、マテアスには到底思えない。


 そもそもリーゼロッテが男女の営みの知識を持ち合わせているかも怪しいところだ。常識的に考えて、社交会デビューを果たした令嬢は、淑女教育の一環としてそこら辺の知識は学んでいるはずである。しかしダーミッシュ夫妻がそこのところをどうしているのか、マテアスは判断がつけられないでいた。


(エラ様に聞いて確かめたいところですが……)


 だがそんな問いかけは、「我が(あるじ)がお宅のお嬢様に手を出したくて出したくて仕方ないんです」と告白するようなものだろう。

 あのエラの事だ。そんなことを聞いたら、ジークヴァルトをリーゼロッテに近づけさせないように必死になるに決まっている。


「リーゼロッテ様のおそばにいたいのなら、とにかくきっちりご自制してくださいよ」


 屋敷を破壊されるのも、正直、勘弁してほしい。ジークヴァルトが取れるのは、何が何でも我慢を貫いてそのそばにいるか、リーゼロッテと心を通わせて彼女を自室に連れ込むか。この二択だけだ。


 ジークヴァルトの自室なら、異形の邪魔が入ることはない。ジークヴァルトの守りが厚く施されたその場所なら、いくらでもイチャこらしてもらって構わない。


 だがそれは、リーゼロッテの心を得てからだ。婚姻が果たされたのならともかくとして、今の段階で無理やり襲って心と体に傷を負わせようものなら、一生涯、悔恨が残ることだろう。


 マテアスの心とシンクロするように雪がちらついてきた。急に陰った空を見上げて、三人は急ぎ散策を終わらせた。


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