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エーミールは苛立ちを押さえられないまま、素早く湯あみを終えた。ガウンを羽織り、濡れた髪を無造作にタオルでこする姿は、水も滴るいい男を体現したかのようだ。もしご婦人のひとりでもこれを目撃したのなら、感嘆のため息が盛大にこぼれ落ちたことだろう。しかし生憎ここには、エーミール以外誰もいなかった。
異形の者の調査が入るからと、父であるグレーデン侯爵に無理やりに呼び戻された。本来なら当主であるエメリヒが表立って対応するべきなのに、この自分を矢面に立たせたいだけなのが見え見えだ。祖母の圧力が面倒という理由で、似たようなことが過去に何度も繰り返されていた。
フーゲンベルク家では、バルバナスたちによって泣き虫ジョンの調査が行われている。ジークヴァルトの補佐をするべく、自分はその傍らに立つべきなのに。そう思うと苛立ちもさらに増してくる。
数年ぶりに足を踏み入れる自室の扉を開けようとして、ふとその手が止まった。部屋の中に誰かがいるのを感じて、エーミールは自身の気配を殺した。
そっと扉を開ける。このグレーデン家で賊が入るなどまずありえない。それでも慎重に中へと足を踏み入れた。子供の頃から見慣れた室内は、エーミールをいつもよそよしく迎え入れる。
居間にある長椅子の上で伸びた白い脚を認めて、エーミールはぎょっとした顔をした。
「アデライーデ様……!?」
その声にソファで寝そべっていた人物が体を起こす。その脚線美に目を奪われていたものの、そこに長く引き攣れた傷跡を見つけると、エーミールは慌てて体ごと目をそらした。
「ここ、エーミールの部屋だったのね」
呆れたようにアデライーデは立ち上がった。その姿は薄い夜着にガウンを羽織っているだけのものだ。
対して、エーミールは濡れそぼった裸にガウンをひっかけた状態だった。無意識に前をかき集め、ぶらりと垂れ下がっていた腰ひもを性急に結び合わせる。いびつに結ばれたその形は、エーミールの動揺をそのまま映していた。
「お婆様の仕業ね。ほんと、やることがあからさまなんだから」
既成事実を作って、エーミールとの婚姻を押し進めようとでも思ったに違いない。
アデライーデは部屋の一番目立つところに置かれた棚の前へと歩み寄った。そこには祭壇よろしく青い石が飾られている。
「ねえ、これ、ジークヴァルトの守り石でしょう? なんでこんなところに飾ってあるのよ」
ジークヴァルトは公爵家にいる力ある者たちすべてに、自身の力を込めた守り石を持たせてある。異形に対して不測の事態があった時用だが、持ち歩かないことには何の役にも立ちはしない。
「いえ、失くしたりすると困るので……」
「失くしたらまたもらえばいいじゃない」
そういうアデライーデはいつの間にやらどこかにやってしまって、心配するエマニュエル経由で幾度もジークヴァルトから配給を受けている。
「ジークヴァルト様から頂いたものなのに、そのような失礼はできません……!」
エーミールの返事に、アデライーデは呆れたように首を振った。エーミールの弟への心酔ぶりは、姉としてちょっと気持ちが悪いものがある。
「とりあえずどうしようかしら?」
アデライーデのため息に、エーミールは申し訳なさそうに目を伏せた。
「この部屋は何年も使っていません。ご不満かもしれませんが、今日はこのままここでお休みください」
「悪いわね。じゃあ遠慮なくそうさせてもらうわ」
ずっと使っていないとはいえ、自分の寝台で眠ることにアデライーデは何とも思っていないようだ。そのことに小さく傷つきながらも、エーミールは仕方なくその格好のまま部屋を出た。
適当な客室に入り、部屋着だけでも持ってくるべきだったと後悔したが、時すでに遅しのことだった。使用人を呼ぶ気にもなれず、なんとか着られそうなものを探し当てた。
ぼふりと寝台に背を沈ませるが、興奮した神経は眠りを誘うにはほど遠い。時計を見ると、日付が変わる少し前くらいの時刻だった。
(アデライーデ様がお眠りになっていなくてよかった……)
もしも寝台で深い眠りに就かれていたら、その布団をはぎ取り何者かとあの肢体にのしかかっていたかもしれない。
(駄目だ)
余計に興奮してきてしまった体をがばりと起こす。先ほどよりも苛々したまま、その部屋を出ていった。あてどもなく屋敷内をさ迷う。もともと人の気配がしない屋敷だが、深夜の薄暗い廊下はそれに輪をかけている。
フーゲンベルク家のあの騒がしさが日々煩わしく感じていたが、改めてこの家に帰ってくると、この異様な静けさに叫びだしたくなる衝動が襲ってくる。
苛立ったように息を吐くと、ぶつくさと誰かが何かを言っている声が聞こえて来た。足音を忍ばせて、そちらへと向かう。
王城の騎士服を着た男が、廊下のガラス戸をぺたぺたと触りながら、しきりに何かをつぶやいている。
「……ったく、どこかから外に出られんもんかな」
「おい、貴様、そこで何をしている?」
ぱっと顔を上げた騎士が、振り返ってたれた目を見開いた。あの顔には見覚えがある。宰相であるブラル伯爵にそっくりということは、年の頃からみて長男のニコラウス・ブラルだろう。
「ニコラウス・ブラルだな? 伯爵家の人間がこんな時間に何用だ」
「うわ! グレーデン家の貴公子に名前を覚えてもらえてるなんて……!」
感動したように浮ついた声を上げたニコラウスを、エーミールがぎろりと睨みつけた。ニコラウスは慌てて背筋を正す。
「王兄殿下の命で王城より異形の調査に参りました。ウルリーケ・グレーデン様の許可もいただいておりますっ」
「こんな深夜にか?」
「いえ、明日までに調査を終わらせろとのお達しでして」
困ったようなその言葉に、エーミールはすべてを察して息を吐いた。
「手伝ってやる」
「はい?」
「だから手伝ってやると言っているんだ」
どうせ今夜は眠れそうもない。何かやれることがあるのなら渡りに船だ。
それに本来ならば侯爵家当主であるエメリヒがしきる所を、祖母がしゃしゃり出てきたのだろう。どうせあの父のことだ。面倒くさくて顔も出さなかったに違いない。それを思うと、ニコラウスにも同情の念が湧いてくる。
「グレーデンの色男、その名の通り……!」
たれ目をキラキラさせているニコラウスを、エーミールは訝し気に睨みつけた。
「何を訳の分からないことを言ってる」
「あ、いえ、すみません。社交界きってのもて男と名高いグレーデン様に興奮してしまって」
「ニコラウス・ブラル……お前、気持ちが悪いな」
「うわっめっちゃ傷ついたっ」
胸を押さえながら本当に傷ついたような顔をしているニコラウスを、エーミールは苛ついたように見やった。
「エーミールでいい。変な名をつけて呼ぶな」
「え? マジっすか? エーミール様って本当に呼んじゃいますよ」
「それでいい。お前、本当に気持ち悪いぞ」
虫けらを見るような目を向けられて、ニコラウスはよろりと一歩下がった。
「その冷たい視線……やっべ、癖になりそう」
その返しにエーミールは呆れるよりほかなかった。その様子にニコラウスも少々やり過ぎたかと内心舌を出す。
「おい、ニコラウス・ブラル」
「オレの事はニコでいいですよ」
それでも気安くなってしまうのは、アデライーデから彼の話を、何度か聞かされているからだと思う。恐らくエーミール自身、他人には知られたくないだろう男のプライドに関わるような話だ。
「ではニコラウスと呼ばせてもらう」
その返事にニコラウスは小さくガッツポーズをした。オレ、あのエーミール・グレーデンと名前で呼び合う仲なんだぜ。この武器を使えば、街に降りた時に女の子からモテモテになるに決まっている。
たれ目と緩んだ頬が相まって、目も当てられなほどだらしがない顔となる。
「お前、果てしなく気持ちが悪い男だな」
「うわっ、三度も言われると果てしなく傷つくんですけどっ」
栗色の髪をがしがしかきむしるニコラウスをしり目に、エーミールはさっさと異形が残した気配へと意識を移した。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。公爵家の部屋で目覚めたわたしは、久しぶりのその部屋でエラに真実を語ります。星を堕とす者の調査は一段落となり、新年を祝う夜会の準備が始まって。その一方で、ラウエンシュタイン家に戻ったイグナーツ父様を待っていたものは……?
次回、2章第24話「石の牢獄」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!




