22-5
「お願い、ジョン! わたくしの話を聞いて!」
その声は空に虚しくかき消えた。ジョンの紅は禍々しく光り輝き、渦巻く憎悪はこの場にいる者たちの心の平衡すら狂わせていく。
(怒りで我を忘れているんだわ……!)
その感情に抗おうとしながら、リーゼロッテは心の限りその名を呼んだ。
「ジョン……!」
ぱん! と空気が弾け、リーゼロッテは奇妙な浮遊感をその身に感じた。入れ替わるように空気が澄み渡る。突如として目の前に広がったのは、窓枠から見える空だった。雲ひとつない真っ青な晴天だ。
リーゼロッテは、裏庭の見える一階の廊下に立っていた。それなのに地に足がついていない。ふわふわとしたその感覚に、混乱しかおこらない。
(ここはどこ……?)
辺りを見回そうして、ふいに唄声が耳元に届く。どこか物悲しいその旋律は、窓の外から聞こえてきているようだった。
よぎるように、誰かがリーゼロッテを追い越した。過ぎた人物の背を認め、リーゼロッテははっと息をのんだ。生成りのシャツとベストに糊のきいたスラックス。横顔からうかがえる前髪は、少し長すぎると感じる青年だ。
――ああ、今日もお嬢様が唄っていらっしゃる
つぶやくような声に、リーゼロッテはその目を見張った。青年は書類を抱えたまま立ち止まり、耳を澄ますように窓の向こうの空をじっと見上げた。
(これは……、ジョンの記憶!?)
その瞬間、景色がぶれる。気づくとリーゼロッテは立派な調度品が置かれる部屋の隅に立っていた。
すぐそこに椅子に腰かける女性がいる。艶やかな黒髪に深い青の瞳。女性は目の前にかけられた、豪華なドレスをただ悲し気に見つめていた。
「美しゅうございますね、お嬢様」
青年の声に女性は瞳を伏せて、「そうね」と小さくつぶやいた。横に置かれたトルソーに、見覚えのある豪奢な首飾りが飾られている。
(あれは……オクタヴィアの瞳だわ)
白の夜会で自分が身に着けたものと、全く同じものがそこにはあった。複雑に光を返す輝石の数々、その中心に輝くは一粒の青い守り石――。
「この意匠はオクタヴィアお嬢様のために、特注で王弟殿下が作らせたとか。本当に素晴らしいものですね」
その言葉に守り石と同じ青の瞳が揺れ動く。オクタヴィアは再び「そうね」と言って、そっと目をそらした。
――これでいい。
その苦しみを知りながら、青年――ジョンは言い聞かせるように繰り返す。これでいい。これでお嬢様はしあわせになれる。悲しみはいつかあの唄に乗せて、消えてなくなってしまえばいい。
再び景色がぶれる。リーゼロッテはただ流されるままだ。
春の日差しの中、裏庭で一本の木に駆け寄っていくオクタヴィア。その根元にいるのは、騎士服を着たひげ面の厳つい男だ。
「レオン・カーク様!」
オクタヴィアは頬を染めて、その男の胸へと飛び込んでいく。抱き合うふたりは、しあわせそうに見つめ合った。その影はゆっくりと近づき、ひとつに重なっていく。
遠巻きに見つめていたジョンは、両手をきつく握りしめそこから顔をそむけた。
景色が流れ、今度は長い廊下に降り立った。少し先に、オクタヴィアとすらりとした印象のプラチナブロンドの青年がいる。青年がやさし気にオクタヴィアをエスコートしていく。ジョンはそのふたりの姿を静かに眺めやっていた。
廊下の端に並んで礼を取る使用人たち。その中にあのレオン・カークも当たり前のように紛れている。
カークは頭を垂れたまま、オクタヴィアの婚約者である王弟へと礼を取る。その横を通り過ぎるとき、オクタヴィアは今にも泣きそうな視線をカークへと送った。
何もできぬまま、オクタヴィアはただその横を素通りする。耐えるように跪くカークを、オクタヴィアは悲し気に振り返った。婚約者に促されて、仕方なく再び歩を進めていく。
――これでいい。これでお嬢様はしあわせになれるのだから。
ジョンは呪文のように繰り返す。カークを冷たく見やって、ジョンもその横を黙って通り過ぎた。
秋風が吹く頃、それほど広くない部屋の中、オクタヴィアが涙ながらにジョンを見上げていた。駆け落ちの計画が、父親にばれてしまった。あれほど秘密裏に事を進めていたなずなのに。
「お願い、ジョバンニ。もうあなたしか頼れる者はいないの。どうかこれをあの方に……」
閉じ込められた一室で悲しみに暮れたまま、オクタヴィアは信頼を寄せるジョンに、一通の手紙を手渡した。
笑顔で頷き、ジョンはその場を後にする。扉を閉めた後、部屋の中から唄が聞こえてきた。会えない恋人を切なく想う、ありきたりな愛の唄だ。その物悲しい旋律は、今にもかき消えそうに細く弱く響いていく。
その唄を聞きながら、ジョンは託された手紙を、表情なく破り捨てた。その足でオクタヴィアの父親の元へ向かい、いつも通りすべてを包み隠さず報告した。
証拠がないまま、カークは処罰を受けることとなった。オクタヴィアが数日後に迫る婚姻から逃げ出さないよう、庭から部屋を見張るようにと命がくだされた。
雨の中、カークは裏庭にひとり立つ。見張るように命じた部屋に、オクタヴィアはいない。カークにもそれは分かっているだろう。その建物は使用人が利用するだけの、取るに足りないものだった。
地面の一点を見つめたまま、耐えるようにカークは立っていた。土砂降りの雨に濡れそぼるその姿を、廊下の窓からジョンはじっと見やった。
邪魔者は消えた。これで、お嬢様はしあわせになれる。誰よりも大切なボクのお嬢様――
婚姻が果たされる日の前日に、ジョンの元にカークが死んだとうわさが届いた。冷たい雨が降りしきる中、夜通し庭で立っていたカークは、肺炎をこじらせてこの世を去ったらしい。
――これでいい。お嬢様はこれで、真のしあわせを手に入れる。
いずれカークの死は、オクタヴィアの耳にも届けられるだろう。その嘆きは、今も聞こえているあの唄にのせて、やがてきっと消えていく。
閉じ込められた部屋から絶えず聞こえていた唄が、その朝ぱたりとやんだ。
屋敷中の者が、消えたオクタヴィアの姿を求める。
胸騒ぎを覚えたジョンの足は、誰も知らないあの裏庭へと向かった。いまだ雨が降りしきる中、オクタヴィアはその木の根元にいた。濡れそぼったまま、ぐったりと木へとその身を任せている。
「オクタヴィアお嬢様!」
オクタヴィアの瞼が揺れた。抱き起したジョンに向けて、うつろな瞳が開かれる。
「わたくし、まだ生きているの……? お願い、ジョバンニ。わたくしをあの方の元へ……」
懇願するように、オクタヴィアはジョンの両手を自身の首に導いた。冷たく青ざめたその肌に、震えるジョンの手が沿わされていく。
ジョンの手が離れぬよう、力ない腕がそっと支える。貼りついたドレスの袖から、透けるように丸い文様――龍のあざが垣間見えた。
(オクタヴィアは、龍の託宣を受けていたんだわ……!)
そう思ったとき、首に手をかけたまま動けないでいるジョンに、オクタヴィアが囁いた。
「お願い、ジョバンニ。――わたくしを殺して」
滝のような雨の中、催眠術にかけられたかのように、ジョンはぐっとその手に力を入れた。苦しそうに歪められたオクタヴィアの表情は、やがてうっとりと満ちたりたものへと変わっていく。
「ああ……カーク様……ようやくあなたの元へ……」
これ以上ない満足そうな顔だった。そんなにも。そんなにもあの男だけを選ぶというのか。
爆発したように、一気にジョンの感情が膨れ上がった。
――大切なお嬢様。龍に選ばれ、王子に守られ、誰よりもしあわせになるはずのボクだけのお嬢様。それなのに、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ……!
激流のようにジョンの感情が巡っていく。
ボクの愛は届かない。勝ち目のない龍の選んだ王族ならばまだしも、なぜあの男でなければならないのか。
満足そうに微笑むオクタヴィアの首を、ジョンは折れんばかりに締め上げた。
憎い、憎い、憎い、あの男が、どんなに焦がれても、この手に届かぬオクタヴィアが――
細い首がのけぞり、ジョンの腕をつかむ手が力なく地面に落ちる。ジョンは滂沱の涙を流しながら、天に向かって咆哮を上げた。
視界のきかない豪雨の中、厚い雲間から一筋の光がジョンの額へとまっすぐに射した。
その刹那、リーゼロッテの全身がぐんと地面へと引っ張られる。その感覚は、ハインリヒと共に歩いたあの廊下で感じたものだった。
(龍がここにいる)
じんとしびれる圧をこの身に感じて、リーゼロッテはなぜだか咄嗟にそう思った。
一筋の光はジョンの額へ紅のしるしを刻んでいく。苦し気に咆哮を上げ続けるジョンの手から、オクタヴィアの首筋が解き放たれた。力なく木の根元に体を横たえるオクタヴィアの前で、ジョンの額が紅く染まっていく。
龍の烙印が刻まれるまま、ジョンは断末魔のごとく叫びを上げた。
「いや! やめて! ジョンを殺さないで……!」
「ダーミッシュ嬢!」
肩を揺さぶられ、はっと顔を上げる。目の前にジークヴァルトがいる。混乱した状態のまま、つんざくような咆哮がさらに空気をかき乱した。




