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「なんだ、こりゃあ」
目の前の光景にバルバナスは目を見張った。雪が積もった裏庭で、その周りだけが土がむき出しになっている。
何より目を引くのは、そこに立つ一本の木だ。このくすんだ雪景色の中、その枝に生い茂る緑だけがことさら異彩を放っていた。
葉かと思いきや、そこにまとわりついているのはどこかで見覚えのある緑の力だ。その木の根元で、異形の者が木に片手をついて上を見上げたまま立っている。
「おい、なんであんなことになってんだ?」
「あの異形に関する調書の写しです」
横にいた騎士がバルバナスにぶ厚い紙の束を手渡した。それをパラパラめくると、途中でそれを投げ返す。
「数百年間、年に一度は騎士団か神官の調査が入ってるのに、なんでここにきて星を堕とす者なんだ? しかもつい最近、デルプフェルトの小僧が来てんじゃねえか」
忌々しそうに言うと、バルバナスは周囲を見渡した。
バルバナスをはじめ騎士が数人と公爵家の人間が、雪のない円をやや距離を置いて取り囲んでいる。物々しい雰囲気にみな緊張した面持ちだが、ここにいるのは全員力ある者だ。
家令のエッカルトに、ユリウス・レルナー、奥にいる大男は子爵家のヨハン・カークだろう。バルバナスは最後に、先ほど案内を務めた細目の青年に目を止めた。
「お前、ジークヴァルトの……マテアスとか言ったな。なんでこんなになるまで報告しなかった?」
「恐れながら、あの異形がこのようになった後、国には即刻ご報告いたしております。直後からこの区画は誰も近づけぬように封鎖済みですし、公爵家としましては、先日の調査を終え、今後の指示を待っていたところでございます」
隙のないマテアスの返事に、バルバナスはちっと舌打ちをした。ざっと見たところ、ここにいる者の中で自分に次いで力を有しているのはこのマテアスだ。騎士団の特務隊にいる誰よりも、もしかしかしたらマテアスの方が上かもしれない。
ジークヴァルトの手駒に優秀な者がそろっているのも腹立たしい。龍付きはみな無条件で優遇される。この国の成り立ちを思うと当然ともいえるのだが、それこそが諸悪の根源だ。
バルバナスは憮然とした表情のまま、枯れ木の根元に立つ異形に目を向けた。確かめるように、その腕を真っ直ぐと伸ばす。
雪が積もっていない円状の空間に、手のひらを押し当てるように進めていく。ふわりとした圧に軽く押し戻されるような感覚があるが、中に入れないということはなさそうだ。
そのままその空間に足を踏み入れようとしたところで、隣にいた年配の騎士がそれを制した。
「バルバナス様、わたしが行きます」
禁忌の異形とされる星を堕とす者の実態は、いまだによくわかっていない。史実の中で幾度かその名が出てくるだけで、長いこと伝説のように囁かれてきた。
しかし、それは実在するのだと多くの者に知らしめたのが、十五年前におきた前ザイデル公爵の謀反だった。公爵にそそのかされてハインリヒを殺害しようとたくらんだ女は、それを目前にして龍の手により星に堕ちたという。
バルバナスが一歩下がって頷き返すと、その騎士は意を決したように円の中に入っていった。瞬間、身をこわばらせ、数歩歩いたところでいきなり騎士は片膝をついた。異形にはまだ近づいていない、そんなすぐそこの距離だった。
ちっと舌打ちをして、バルバナスは躊躇することなく、自らその中に踏み入った。途端に空気が重くなる。濃厚な緑の力に肺がつぶされるような感覚だ。
脂汗をかいてうずくまっている騎士の腕を引っ張り上げると、バルバナスはその円からすぐに出た。見ると、バルバナス自身も汗が噴き出している。はっと息を吐いて、動揺を表に出さないようにするだけで精いっぱいだ。
引き上げた騎士を他の騎士に任せると、バルバナスはいまだ微動だにしていないジョンを睨みつけた。
「おい、あの侍女連れてこい」
鋭い声に臆することなく、エッカルトが冷静な声で聴き返す。
「恐れながら、あの侍女とは、エデラー男爵令嬢のことでございましょうか?」
「わかってんならさっさと連れてこい!」
その怒鳴り声に、奥にいたヨハンがびくっとその巨体を震わせた。
エラは無知なる者だ。先ほど、バルバナスもそれを見抜いたのだろう。エッカルトの目配せに、マテアスが渋々と言った様子でこの場を離れていく。
ほどなくして、戸惑った様子のエラがマテアスに連れられてきた。物々しい雰囲気の中、バルバナスをはじめ、騎士とエッカルトたちの視線がエラへと集まる。
「これをあの木の根元へかけてこい」
バルバナスに透明な液体が入った小瓶を渡されて、エラは困惑した様子で枯れ木に視線を向けた。みなが取り囲む木の周りは、きれいに雪が避けられている。だが、何の変哲もないただの枯れた大木だ。
晩夏から秋にかけてリーゼロッテは、よくこの木の根元近くで休憩をしていた。主にエマニュエルが付き添うことが多かったが、エラも幾度かこの場所へ足を運んだことがある。
リーゼロッテはいつもここでお茶を飲みながら、耳を澄まして時折静かにうなずいていた。小鳥のさえずりに耳を傾けるように、口元をほころばせるその様子は、まるで一枚の絵のようにエラの目には映った。
秋風が吹く頃には公爵に行くのを止められたのか、リーゼロッテはここへ行きたいとは言わなくなった。そのくらいから、リーゼロッテに何か隠し事をされているように、エラはずっと感じとっている。
「エラ様。何かおかしいと思ったら、すぐにお戻りください」
マテアスに小声で耳打ちされて、エラはこくりと頷いた。なぜこんなことを要求されているのかは皆目見当もつかないが、王族であるバルバナスの命令に逆らえるはずもない。
何の抵抗もなく円の中に入り、そのまま木に向かってすたすたと歩いていく。そんなエラを、一同は固唾を飲んで見守った。エラにはジョンが視えていないのだろうが、周りにいる者はいつ何が起こってもおかしくはないと、否応なしに緊張感が高まっていく。
木の根元まで来るとエラは一度こちらを振り返った。すぐ横にいるジョンは、動じることなくじっと上を見上げたままだ。
「そのままそこに水をかけろ」
バルバナスに言われ、エラは手にした小瓶を、木の根元に向けて傾ける。ちょうどジョンのいる足元あたりへと、液体は注がれようとした。
「きゃあっ」
その刹那、エラが手にしていた小瓶が上へと弾き飛ばされ、空中で粉々に砕け散った。中の液体が、瞬時にその場で霧散する。
「エラ様!」
誰もが動けないでいる中、マテアスがなんの戸惑いもなくその円へと飛び込んだ。ぐっと顔をしかめながらも素早くエラの手を引いて、その外へと連れだしていく。
その様子をバルバナスは冷静に眺めやっていた。エラが聖水を傾けた時、一瞬だがジョンから殺気が放たれた。だが、それを覆い隠すように、緑の力がさらに強まったのをバルバナスは確かに目にした。小瓶を割ったのは異形だが、聖水を霧散させたのは緑の力といった所か。
「ちっ。木ごと守り石みたいになっちまってる」
しかも、その力が守っているのは、どうやらあの異形そのものらしい。
「埒があかねぇな」
吐き捨てるように言うと、バルバナスは苛立ったまま振り返った。
「リーゼロッテ呼んで来い。今すぐだ」
「しかし、リーゼロッテ様は今、王城にいらっしゃいますれば……」
エッカルトの答えにバルバナスは再び舌打ちすると、踵を返した。
「明日までに連れ戻して来い。例え、龍付きだとしても従ってもらうぞ。ジークヴァルトにそう言っとけ」
顔だけこちらに向けてそう言い残すと、バルバナスは騎士たちを連れて屋敷の方へと去っていく。有無を言わさぬその背中を、残された者たちは黙って見送った。
龍付きとは、龍の託宣を受けた者たちを揶揄する言葉だ。主に、龍の存在を知り、それでも龍から託宣を受けなかった人間が使う類のものだった。
「なあ、エッカルト。バルバナス様って、いまだ龍に選ばれなかったこと根に持ってんのか? 弟に王位を取られて、託宣の存在を知らない貴族に無能扱いされちゃあ、まあ、無理もねえ話か」
ユリウスの小声に、エッカルトが滅多なことを言うなという視線を向ける。
「オレなんざ、選ばれなくて万々歳だぜ? まったく、王族のプライドってのも厄介なシロモンだな」
託宣を受けた者たちを見ていると、どうにもこうにも窮屈そうだ。あのジークフリートでさえそう見えるのだから、それを望む奴らの気が知れない。
「それ以上おっしゃいますと、今度こそ大奥様にご報告せざるを得ませんな」
エッカルトの言葉に、ユリウスはぴゅっと背筋を正した。
「分かった、もう何も言わん。頼むからディートリンデにだけは黙っててくれ」
情けない震え声を出すユリウスに、エッカルトは小さくため息をついた。




