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「あのう、お取込みのところ申し訳ございませんがぁ、リーゼロッテ様の夕餉の支度が整いましたぁ。湯あみも済ませて早めにご就寝なさいませんとぉ、美容とご健康に差し障りますよぅ」
唇まであと少しという所で動きを止めたジークヴァルトの眉間にしわが寄る。そのタイミングで、く~きゅるるとリーゼロッテのお腹の虫の音が部屋の中響きわたった。
(いや! なんで今鳴るの!?)
頬を朱に染めて、リーゼロッテは自分の腹をジークヴァルトの腕越しに押さえた。昼に王子に言われて力を流したせいで、いつも以上にお腹が減っているのかもしれない。
「公爵様は王子殿下のお部屋でどうぞお召し上がりくださいませねぇ。さぁさ、リーゼロッテ様は公爵様をお見送りいたしましょうかぁ」
リーゼロッテの手を引くと、ベッティはすたすたと隣の書斎へと連れて行ってしまった。
「おい」
ジークヴァルトが慌てたようにそれに続く。書斎に行くと、リーゼロッテとベッティが本棚の前で並んで立っていた。
「さぁ、公爵様ぁ、お帰りはこちらですよぅ」
ぎゅっと眉間にしわを寄せたまま、ジークヴァルトはなかなか動こうとしない。公爵相手に高圧的な態度を取るベッティを、リーゼロッテは横でハラハラしながら見守っていた。
「公爵様ぁ、ここは王妃様の離宮なんですよぅ。もっとご自分のお立場を自覚なさいませんとぉ、お困りになるのはあなた様の方かと思われますがぁ。それとも何ですかぁ? ここへは出禁になってもかまわないぃ、そうおっしゃるのでしょうかねぇ?」
その言葉に、ジークヴァルトがぐっと言葉を飲み込むのが分かった。そのまま不服そうに本棚へと手を伸ばす。本の一冊を押し込むと、本棚が重い音を立てて横へとスライドしていった。
冷やりとした風が部屋へと流れ込こむ。微かに揺れるリーゼロッテの髪に手を伸ばすと、ジークヴァルトは指でひと房すくい取った。
「明日、夜には戻る」
「はい、お帰りをお待ちしておりますわ」
帰る場所は公爵家なのに、とんちんかんな受け答えをしてしまった。直後にそう思ったが、ジークヴァルトは「ああ」とそのままスルーしてくれたようだ。名残惜しそうな緩慢な手つきで、指にからめた髪をさらりさらりとこぼしていく。
早く帰れと笑顔で圧をかけてくるベッティを睨みつけながら、ジークヴァルトは通路の暗がりへと足を踏み入れた。リーゼロッテをじっと見つめたまま、カチリとどこかのボタンを押す。本棚がスライドしていって、やがてジークヴァルトの姿は見えなくなった。
「ふぅ、危ないところでしたぁ」
本棚が完全に戻ったところで、ベッティが大げさな手つきで額をぬぐった。ジークヴァルトがあのまま暴走していたら、それ以降はベッティに止めることなど不可能だったろう。
こんなにも無防備なリーゼロッテを前にして、ジークヴァルトがどれだけ我慢に我慢を重ねているかは、ベッティの目から見ても涙ぐましいものがある。
そこをもって、異形の邪魔が入らないこの王妃の離宮で、口づけなど交わそうものなら、ことがそれだけで終わるはずもない。
箍が外れた男ほど手に負えないものはない。それを分かってないのは、それこそ当のリーゼロッテくらいだ。
「ええ、本当に危ないところだったわ」
しかしその横で、リーゼロッテはもっともだというように頷いた。ベッティがおや? という顔をすると、リーゼロッテは訳知り顔でベッティを見やった。
「わたくし、もう少しでまたお腹が鳴ってしまいそうだったの。あのタイミングでベッティがこちらに連れてきてくれなかったら、本当にどうなっていたことか……」
両手を取られ、心から感謝の意を伝えられたベッティは、しばしぽかんとなった後、へにゃりと相貌を崩した。
「リーゼロッテ様はぁ、いつまでもそのままでいてくださいましねぇ」
「え? ええ、ありがとう……?」
よくわからないがとりあえずお礼を言っておけなリーゼロッテを前に、ベッティはひとり頷いた。
公爵に対しては同情して有り余るが、この王妃の離宮で騒ぎを起こすのだけはご遠慮願いたい。これ以上カイの負担を増やさぬためにも、何が何でもリーゼロッテの貞操を守り抜かなければ。
「ご安心くださいましねぇ。このベッティが、命に代えてもお守りしてさしあげますよぅ」
「え? このお部屋に異形は入り込めないのでしょう?」
びっくりしたように問うリーゼロッテに、「もちろんですぅ」とベッティはにっこりと笑顔を返した。
(あなた様の最大の危険は、ジークヴァルト・フーゲンベルクなのですよぅ)
不適の笑みをたたえるベッティを前に、リーゼロッテはただ不思議そうにこてんと顔を傾けた。
戦いの火蓋は切って落とされた。ジークヴァルトとベッティの水面下での攻防は、リーゼロッテに知られることなく、その後静かに行われるのであった。




