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ふたつ名の令嬢と龍の託宣【なろう版】  作者: 古堂素央
第2章 氷の王子と消えた託宣

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20-5

※残酷描写回です

 苦手な方はご注意ください

    ◇

 過密なスケジュールを終えて、ハインリヒはその日ようやく再び自室へと戻った。

 早朝より支度を進め挑んだ立太子の儀が、遠い昔のことのように感じられる。だが、これはほんの始まりに過ぎない。未来の王として、自分はこれからの日々をこなしていかねばならないのだ。


 今日はもう休んで、明日からの公務に備えなくてはいけない。人払いが済んだ自室で、気が緩んだようにハインリヒは大きく息をついた。

 式典用の豪華な衣装を脱ごうとして、だがハインリヒはふとその手を止めた。


(最後にこの姿を見せたいな)


 王妃の離宮には、もう、王の許可なく立ち寄ってはならない。周りの者からそう言われている。だが、今日のこの自分の晴れ姿を、離宮で世話になった者たちに見てほしい。

 そんな子供じみた考えが頭をもたげてくる。もう、遅い時間だ。みなもすでに眠っている頃だろう。そうも思うのだが、行ってはならないと言われると、余計に行きたくなってしまうのが人の性だろう。


(最後に本当に一度だけだ)


 ハインリヒはひとり頷いて、自室の書斎へと向かった。この部屋は、隠し通路で王妃の離宮へ通じている。そう聞かされていたが、いまだその通路を使ったことはない。

 確認のためだとそう自分に言い訳をして、教えられたとおりの手順で通路を辿っていった。


 ついた先の部屋は王太子妃用の部屋らしい。(あるじ)不在のため、今は誰にも使われていない。その部屋を抜けて、ハインリヒは寝静まった王妃の離宮の中へと足を踏み入れた。


 様々な思い出がある場所だ。感慨深くハインリヒは離宮の中をゆっくりと見回るように辿っていった。


 奥まった場所にあるサンルームにまでやってくる。晴れた日は、ここで過ごすのが好きだった。


(ジークヴァルトと初めて会ったのもここだったか)


 母親であるディートリンデに連れられてやってきたジークヴァルトは、今と変わらない無表情な奴だった。アデライーデの弟だと言うから興味津々で会ったのだが、ふたりが似ているのその瞳の色くらいで、非常に拍子抜けしたのを覚えている。


(まあ、あのふたりもずっと離れて過ごしていたのだからな)


 異形に狙われるジークヴァルトにかかりきりで、アデライーデはあちこちに預けられて過ごしていたらしい。後から聞いた話だが、ふたりの姉弟らしからぬよそよそしさは、そのせいだったらしい。


 それを思えば、自分とアデライーデの方がよほど共にいる時間を過ごしたのではないだろうか。


 小さく明かりが灯されたサンルームを見回しながら、そんなことを思っていると、ハインリヒはふとそこに人がいることに気が付いた。庭が見渡せる位置に置かれた長椅子の上で、ごろんと無防備に横になっている人影が目に入った。


 こんなところで寝るような人物には、心当たりがある。そうっと近づくと、やはりそれはアデライーデだった。


(言われてみれば、昔もよくこうやって所かまわず眠っていたな)


 アデライーデは夜着にガウンを羽織っただけの姿で、すーすーと寝息を立てている。ハインリヒはあきれ半分にため息をついた。


「風邪をひいたらどうするんだ」


 そうっとその顔を覗き込む。その寝顔はあどけなくて、本当に昔に戻ったような気分になった。


 ふと、その胸元に視線が落ちる。昔と違って、そこは柔らかな曲線を描いていた。その弾力のありそうな胸が、寝息と共にゆっくりと上下する。


 ――触れてみたい


 ハインリヒはごくりとのどを鳴らして、そのやわらかそうなふくらみに、無意識のまま手を伸ばしていた。


 ハインリヒのまだ幼さの残る指先が、アデライーデの胸にふにと沈んだ。その瞬間、ぱちりとした静電気が青白くはじけた。不快そうに眉間にしわを刻んだアデライーデが身をよじる。


 だがそれは一瞬のことで、アデライーデの寝息は再び深いものとなる。身をこわばらせていたハインリヒは、安堵のため息をついてその肩の力を抜いた。


 いけないと思いつつも、その誘惑に勝てずに、再びその手を伸ばしてしまった。その先にある悲劇など、想像することもなく――


 ハインリヒが確かめるようにアデライーデの胸に手のひらを押しあてたとき、それは突如現れた。


 目の前が明るく輝き、あたたかな何かに包まれた。

 自分の中から何かが這い出て目の前で膨らむ感覚だ。胸が締め付けられるようなその熱に、ハインリヒの瞳から、知らず涙が溢れた。


(あたたかい)

 まるで亡き母に抱かれているかのようだ。母の思い出など、何ひとつ持っていないはずなのに。


 その瞬間、遠くで何かが叩きつけられるような鈍い音が響き渡った。顔を上げたその先に、白いドレスをまとう女が烈火の表情で宙に浮かんでいた。そのさらに先に、窓にはりつけにされた人形の姿――


 それがアデライーデなのだと認識したのは、サンルームの窓が砕け落ちた直後のことだった。糸の切れたマリオネットのように、アデライーデの体が床に転がった。


「ア――……っ」


 のどが引き攣れたように声が出ない。


 宙に浮かんだ白い女は、体を翻して手を差し伸べるように自分へと帰ってくる。苛烈な表情から一転、うつくしいその顔は、慈愛に満ち満ちたものだった。


 あたたかい。

 何が起きたかもわからぬまま、鮮烈なその存在を前に、ハインリヒの瞳からは涙がこぼれ続けた。


 自分の瞳と同じ色をしたうつくしい女は、愛おし気にこの頭を包み込む。かと思うと、再び自身の中に溶けていく。吸い込まれる感覚を残して、そのままふっとかき消えた。


 途端に冬の冷たい風がこの髪を大きく乱した。顔を上げた向こう、かろうじてぶら下がっていたガラスの破片が、無慈悲に床へと降り注ぐ。


 ぱらぱらと破片が落ちる中、ピクリとも動かないアデライーデの下から何かがじわりと流れ出た。それは床の上を、ゆっくりと、だが確実にその面積を広げていく。雪風にまぎれて匂うそれは、そう、錆びたような鉄のにおい。


「アデライーデ様っ……!」


 女官の悲鳴を、ハインリヒはどこか遠くのように聞いていた。そのあとの記憶は、都合のいいことに、黒く塗りつぶされたかのようにぶつりと途切れた。



 その日以来、アデライーデに会うことは、一度もなかった――


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