19-7
慌てて来た道を戻ろうとする。その瞬間、廊下の角から不意に人影が現れた。
その人物とぶつかって、倒れそうになったリーゼロッテは身を縮こまらせた。両肩をぎゅっとつかまれ体を支えられる。
「申し訳ございません!」
自分が邪魔になる場所でもたもたしていたのが原因だ。リーゼロッテは目の前にいる人物を、勢いよく見上げた。
「王子殿下……!?」
すぐ目の前にハインリヒ王子がいる。いまだかつてない至近距離に、お互いが驚きの表情で見つめ合う。
その刹那、ぶわりと目の前に熱を感じた。その熱風に押し出されるように、リーゼロッテの体が浮き上がる。
「――……っ!」
眼下にうつくしい女がいる。バレーボールをトスするような格好で、その女はリーゼロッテをさらに上へ上へと押し上げていく。
プラチナブロンドに紫の瞳をした、ハインリヒによく似たうつくしい女だ。リーゼロッテを押し上げる熱はあたたかく、とても心地がいいものだ。だが、女の顔は凍るように冷たく、そこに表情は見いだせない。あたたかい波動とは裏腹に、冷酷無比な印象だ。
リーゼロッテを天井高くまで押し上げると、女は満足そうに微笑んだ。そのまま体を翻して、ハインリヒ王子へと向き直る。ゆったりとしたドレープのかかった白いローブをはためかせながら、女は王子へとまっすぐ手を差し伸べる。
王子の元にたどり着いた女は、まるで我が子を慈しむかのように、王子の頭を包え込んだ。そのまま吸い込まれるように、ハインリヒの体の中に溶けて消えていく。
その様子をリーゼロッテはスローモーションのように見守っていた。まるで映画のワンシーンを眺めやっているようだ。
女が掻き消えた直後、青ざめたまま立ちつくす王子の脇をすり抜けて、カイが自分を見上げながら走ってくるのが目に入った。
次の瞬間、リーゼロッテの視界に天井だけが広がった。放物線を描いて放り出された体が、のけぞるような姿勢に変わる。落下しはじめているのだと、他人事のように分析する自分がいた。
体は階段上から落ちている。その先にある衝撃を思うと、大怪我を負うのは想像に難くない。
だが、死ぬことはないのだろう。この身は龍の託宣を受けたのだから。
スローモーションで遠ざかっていく天井の模様を見つめながら、リーゼロッテは冷静にそんなことを考えていた。
どさりと背中に衝撃を感じた瞬間、時間の流れが元に戻った。どちらが本当の感覚なのか一瞬だけ混乱を招く。
見上げた先の階段上から、あわてて駆け下りてくるカイの姿が見えた。同時にぎゅっと腹に巻かれた腕に力が入れられ、リーゼロッテはジークヴァルトの腕の中にいることに気がついた。
足を投げ出したままのジークヴァルトの上で、リーゼロッテは抱きとめられていた。恐らく滑り込むようにして、落ちてくるリーゼロッテを受け止めたのだろう。
肩で息をしているジークヴァルトに背中を預けたまま、リーゼロッテは血の気の引いたその顔をのけぞるように見上げた。
「ヴァルト様……王子殿下からとてもきれいな女の方が……」
青い瞳と目を合わせたまま、呆けたような声で言う。今はそんなことを言っている場合ではないのだが、そんな言葉しか出てこなかった。
「リーゼロッテ嬢! 怪我はない!?」
階段を駆け下りてきたカイが、青い顔のままやってくる。確かめるように自分の体を見やるが、どこも痛むところはなかった。
「問題ございません。ジークヴァルト様が受け止めてくださいましたから……」
そのタイミングで、お尻のあたりがもぞりとした。驚いて身じろぎすると、リーゼロッテのスカートの下から、異形が一匹、二匹、三匹と、順番に這い出てくる。
「あなたたち……!」
それは先ほど応接室にいた異形の者だった。リーゼロッテのクッションとなるべくその下に飛び込んできたらしい。
三匹の異形はリーゼロッテの前に並ぶと、まるで騎士のような礼をとった。緑にきらめく体の輪郭ががぼやけて、小さな異形は甲冑を着た立派な騎士へと変化した。三人の騎士はリーゼロッテのスカートの裾に、忠誠の口づけを落としたかと思うと、そのままふわりと消えていく。
『我々は主を守れなかった騎士のなれの果てでした。最後にあなたを守れて本当によかった……』
かき消えそうな小さな声で言い残すと、三人の騎士は白く大気に溶けていく。声をかける間もなく、リーゼロッテはただそれを見送った。
「……リーゼロッテ嬢」
ハインリヒ王子の震える声がした。カイ以上に蒼白な顔をして、リーゼロッテを見下ろしている。その瞳に映る怯えを読み取って、ジークヴァルトの腕を振りほどき、リーゼロッテは自ら気丈に立ち上がった。
「わたくし怪我はしておりません。ジークヴァルト様と、異形たちが守ってくれましたから」
力強く言うと、ハインリヒは青い顔のまま無言で頷き返してくる。
「王子殿下……先ほどの女の方は一体……」
あの慈愛に満ちたうつくしい女は、ハインリヒ王子の体の内から湧きあがったように見えた。リーゼロッテが問いかけると、ハインリヒはぎゅっとその手を強く握り締めた。
「あれは、わたしの守護者だ」
「王子殿下の守護者……?」
プラチナブロンドにアメジストのような紫の瞳。あの女は、ハインリヒ王子にとてもよく似ていた。
「リーゼロッテ嬢は、アデライーデの傷を知っているだろう?」
突然の問いかけに、リーゼロッテは困惑しつつも頷いた。
「あの傷は、このわたしが負わせたものだ」
感情を押し殺したようなその言葉に、リーゼロッテはただ息を飲む。
「少し、わたしの話を聞いてくれるか?」
そう言ってハインリヒ王子は、過ぎ去った日を思うように、どこか遠くをじっと見つめた。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。王子殿下と共に、王城の奥深くへと行ったわたし。アデライーデ様が負った傷の真相を語る王子殿下に、ただただ驚くばかりで。過去に一体何があったか。その真実が今明らかに……!
次回、2章第20話「心火の聖母」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!




