18-4
◇
ふと意識が浮き上がる。見慣れない天井が目に入った。
「お目覚めになられましたかぁ?」
聞き慣れたベッティの声がして、公爵家に戻ってきたのだと安堵した。
「食べられそうなら、少しでも何か口になさいませんかぁ? 公爵様も王城に留まって、たいそう心配しておられましたよぅ」
その言葉にがばりと身を起こした。見回すとそこは、やはり見慣れない部屋だ。
「……ここは?」
「王妃様の離宮ですぅ」
起こした体をみやると、いつの間にか夜着に着替えさせられていた。癖のように胸元に手を伸ばすも、そこに守り石はない。いつも肌身離さずつけていたペンダントは、公爵家の部屋に置いて行ったままだ。
お守りのような存在が手元にないとわかると、急に不安になってくる。その様子を察したのか、ベッティが元気づけるように明るい声を出した。
「ここなら歴代の王の守りが超絶半端ないですのでぇ、リーゼロッテ様も超絶安全! なんの憂いもありませんので超絶安心してお過ごしくださいぃ」
寝台から降りて、リーゼロッテは隣の部屋へと移動した。そこは豪華な居間だったが、どこかで見たことがある部屋にリーゼロッテは首をかしげた。
「ここはアンネマリーの……?」
「はいぃ、こちらは星読みの間と言って、以前アンネマリー様が滞在されていたお部屋ですぅ。リーゼロッテ様も一度いらしたことがございましたよねぇ」
どうしてそれをベッティが知っているのかとも思ったが、ベッティはもともと王妃の元で働いていたと言っていた。アンネマリーを訪ねた日に、ベッティもあの場にいたのかもしれない。
「少しお食べになったら、湯あみもなさいませんかぁ? この部屋には豪華なお風呂がついておりますのでぇ、入らない手はございませんよぅ」
ベッティにすすめられて、リーゼロッテは素直に汗を流すことにした。
夜着のまま風呂場に移動すると、そこは公衆浴場のようなだだっ広さだった。タイル張りの床、くつろげる豪華な椅子とテーブル、泳げそうな大きな浴槽にはなみなみと湯が張られ、壁に備え付けられた龍の口からは、じょぼじょぼと湯があふれ出している。
(お、大江〇温泉も顔負けだわ……)
湯あみ用のガウンを羽織り、リーゼロッテは湯煙の中へ足を踏み入れた。
「リーゼロッテ様ぁ、まずは髪から洗いましょうかぁ。さあこちらにおかけになってくださいぃ」
ニコニコ顔のベッティに寝そべるタイプの椅子を指さされ、リーゼロッテは首を振った。
「いえ、髪は自分で洗えるから大丈夫よ」
長い髪を洗うのはなかなか手間だが、エラがいないときはいつも自分ひとりで洗っている。だが、リーゼロッテがそう言うなり、ベッティの表情が一変した。突然、黒い笑みを向けられ、リーゼロッテは思わず一歩後ずさる。
「リーゼロッテ様ぁ? まずは髪から、洗いましょうねぇ?」
有無を言わさず手を引かれ、椅子に座らされる。そのまま仰向けにされると、ベッティはリーゼロッテの髪にやさしく湯をかけた。
(あ……この体勢、美容院にいるみたい)
椅子からはみ出した頭の先がちょうど桶になっている。仰向けた首もいい感じの枕があって、とても快適だ。
「うふふぅ~、リーゼロッテ様の髪はなかなか触らせてもらえなくてぇ、ベッティずっと悔しかったんですよぅ。ああ、このすべらかな手触りぃ、ううぅんたまんないぃ」
ベッティが上機嫌でリーゼロッテの髪を洗っていく。その手つきが心地よくて、また眠ってしまいそうだ。ベッティのゴールデンフィンガーにされるがままになって、リーゼロッテは大満足で湯あみを終えた。
冷たいレモン水で一息ついていると、今度はベッティが後ろからやさしく髪をタオルで乾かしはじめた。ぽんぽんとやさしくたたきながら、水分をとっていく。この世界にドライヤーはないので、基本、暖炉のそばに座って自然乾燥する感じだ。
大方水気が取れると、ベッティは丹念に髪に香油をなじませていく。
「はうん、やっぱりリーゼロッテ様の髪は最高ですぅ」
丁寧にブラシで梳きながら、ベッティはいまだ上機嫌だ。
「アンネマリー様の髪もやりがいがありましたけどぉ、リーゼロッテ様の御髪はまた違った楽しみがありますねぇ」
「え? ベッティはここでアンネマリーの侍女をしていたの?」
「はいぃ。短い間でしたがこのベッティ、確かにアンネマリー様のお世話をさせていただいておりましたぁ」
髪を梳く手は止めず、ベッティは普段以上に饒舌だ。
「アンネマリー様の髪は猫っ毛でぇとても扱いづらいんですけどぉ、そこがまたやりがいがあって燃えるんですよねぇ。湯あみの時も絡まりやすくてなかなか苦労しましたよぅ。逆にリーゼロッテ様の髪はこしがあって滑らかな反面、結うときにちょっとコツがいりますねぇ」
湯あみと言われて、リーゼロッテはふと思った。アンネマリーは自分に龍の祝福はないと言っていたが、もしかしたら背中など自分で確認できない場所にあるかもしれない。
「ねえ、ベッティ。ベッティはアンネマリーの湯あみのお世話もしていたのよね? その時に、その、アンネマリーの体のどこかに龍のあざ……いえ、龍の祝福はなかったかしら……?」
リーゼロッテの言葉に、ベッティはその手を止めた。
「リーゼロッテ様も、カイ坊ちゃまと同じことを聞くんですねぇ」
「カイ坊ちゃま?」
リーゼロッテが不思議そうに振り返ると、ベッティは少し困ったような顔をしていた。かと思うといきなりニヤリとした悪い顔になる。
「リーゼロッテ様には坊ちゃまも託宣の捜査のお話しているようですしぃ、もうベッティもぶっちゃけてもいいってことですよねぇ。ぶっちゃけて申し上げますとぉ、ベッティはカイ坊ちゃまとぶっちゃけ腹違いの兄妹なんですよぅ」
は、の形のままでリーゼロッテの口が固まった。言われた言葉を咀嚼するまで時間がかかる。
「カイ坊ちゃまって、その、カイ様のことなのよね?」
聞き間違いではないかと、念のために聞いてみる。
「はいぃ。デルプフェルト侯爵様はぁ、ぶっちゃけ手の施しようのないくらい女好きでいらっしゃるのでぇ、このベッティを含めて、今いる兄弟姉妹、みいんな母親が違うんですよぅ」
「え? でも、それじゃあベッティは侯爵令嬢ってことでしょう?」
その身分があれば、下位の伯爵令嬢である自分の世話などする必要はないだろう。
「わたしはいわゆる庶子ってやつですのでぇ。一応は淑女教育も受けたんですよぅ。ですけど母親は平民も底辺な人間でしたしぃ、市井で生まれ育ったわたしも今さら貴族社会になじめなくてですねぇ。結局言葉遣いもこんな感じでなおすことはできなかったんですよぅ。だからこうやって働いている方が性に合ってるんですぅ」
「そう……」
悲しそうな顔をして、リーゼロッテはそう言ったまま押し黙った。ベッティはこういうリーゼロッテが大嫌いだ。誰からも望まれて何でも持っている、そんな苦労知らずの者が向けてくる無遠慮な哀れみが、ベッティは死ぬほど嫌いだった。
ベッティは母親を亡くした後、人には言えないような悲惨な生活を送っていた。生きるために人殺し以外は何でもやった。あの時カイが現れなかったら、いずれは人を殺めていたかもしれない。
だからこそ思う。今のこの生活は天国のようだ。カイに拾ってもらった命だから、カイにすべてを捧げよう。そう心に決めて、自分が望んでカイの元、諜報員のようなことをしているのだ。
そのために必死に努力をしてきた。カイの役に立つために。それは言い知れないほどのよろこびだった。カイの役に立てる。それだけでベッティはしあわせなのだから。
それを彼らはみな、なんてかわいそうな子だと哀れみの目を向けてくる。さげすまれて罵倒されるよりも、それがたまらなく不愉快だ。人のしあわせを、お前のものさしではかるな。大声でそう叫びたい。
「わたしは今満足してますよぅ。人のために生きるというのは思いのほかしあわせなものなんですぅ」
しかし、リーゼロッテは重要保護対象として扱うようにと、カイから任を受けている。悪態を投げつけたい気持ちをこらえて、ベッティはぽつりとそれだけを口にした。
「わかる……わかるわ、ベッティ!」
おとなしく座っていたリーゼロッテがいきなり振り返り、ベッティの手を両手で握りしめた。
「そうよ、人のために生きる! なんて素敵なことなのかしら……! わたくしもしてもらうばかりじゃだめなのだわ! そうよ、そうなのよ! ねえベッティ!」
予想外の反応にベッティは返答に詰まった。かしずかれることに慣れているお前が何を言うのだとも思ったが、勢いに押されてそんな言葉も出てこない。
「わたくしもどなたかのために尽くしたいわ! アデライーデ様の侍女ならやらせていただけるかしら!? こう見えてわたくしこまごまとしたことは得意なの! ねえ、ベッティもいい考えだと思わない?」
「ええぇ、それは公爵様がお許しにならないんじゃあ」
「いいえ! わたくし、してもらうばかりでずっとずっと心苦しかったの。ベッティに言われて、今、目が覚めたわ。ないものねだりをするばかりではなく、もっと自分で努力をしなくっちゃ! ね、そうでしょ、ベッティ!」
熱く語られたベッティは「えええぇ?」とその身を引いた。カイがリーゼロッテは不思議な令嬢だと言っていたが、不思議というより、これは頭がおかしいと言うべきなのではなかろうか?
「ベッティはきっと今まで、人知れず努力をたくさんしてきたのよね。それなのにそれをひけらかすでもなく、当たり前のようにこなしているわ。わたくし、人としてベッティを尊敬します」
真摯に見つめられて、ベッティはますます混乱してきた。この令嬢は自分相手に何を言っているのだろうか。まったくもって理解ができない。
「だって、さっきの湯あみの時、わたくしすごく気持ちがよかったもの。あれは誰もができることではないわ。ベッティがずっと頑張ってきたからこそなのよね」
それは真実そうなのだが、こんなにもストレートに自分の努力をほめられたことがないベッティは、自分で思う以上に狼狽していた。
うれしいような恥ずかしいような、とにかく居ても立っても居られない。人はそれを、照れくさいと呼んだりもするのだが、今だかつてない感情を前に、ベッティはひたすら困惑した。




