第18話 龍の烙印
【前回のあらすじ】
カイの潜入捜査のために、グレーデン侯爵家へと向かったリーゼロッテ。そこでグレーデンの女帝ウルリーケと対面します。
一方カイは、アニータの情報を得るためにひとり侯爵夫人カミラの元へ。カイはそこで、アニータが王族の子を宿した事実を知らされます。
屋敷を去る途中の廊下で、突如現れたひとりの女。砕け散った守り石の意味するものは……?
その瞬間、カイに戦慄が走った。
思わず振り返った廊下のはるか先に、前を歩いていたはずのリーゼロッテの姿が目に入る。と同時に、廊下のガラス戸一面が、何の前触れもなく一斉に砕け散った。
ガラスが砕け落ちる音と重なり、リーゼロッテの悲鳴が響く。
「リーゼロッテお嬢様っ!」
飛び出そうとするエラの腕を素早く捉えて、カイはその体を引き戻した。
「エラ嬢はここにいて。大丈夫、リーゼロッテ嬢はオレにまかせて。いい? 命令だよ」
言うなりカイは過ぎてきた廊下に再び足を踏み入れた。吹きすさぶ雪に顔をしかめながら、砕けたガラスを踏むことも厭わず、リーゼロッテへと駆け寄っていく。
(なんでだ? オレはリーゼロッテ嬢の後ろにいたはずなのに)
廊下の反対側の入り口に、カークが立ち往生しているのが目に入る。何か壁のようなものに阻まれて進めないでいるようだ。
リーゼロッテに近づくにつれ、それの残り香が強まっていく。ちっと舌打ちをして、カイは駆け寄る速度をさらに上げた。
「リーゼロッテ嬢、怪我はない?」
そのそばまで来て安堵する。本体はもうこの辺りにはいないようだ。座り込んでいるリーゼロッテの肩に、カイは自身の上着をかけた。
床の上を見ると、リーゼロッテの周囲だけ、ぐるりと円を描いたようにガラスの破片が除けられている。その代わりに灰色の砂のような物が散乱していた。
(あの一瞬で守り石が砕けたのか……?)
リーゼロッテが身に着けていた青い守り石は、ひとつとして原型をとどめていない。どれも小ぶりなものだったが、公爵家が用意した上質な石ばかりだ。あの数があれば、普段リーゼロッテがしているペンダント以上の効果があったことだろう。
「……カイ様」
放心したようにリーゼロッテが見上げてくる。このままでは雪で体温が奪われる。
「非常事態だから見逃して」
そう言って、リーゼロッテをすくい上げるように抱き上げた。突然のことに驚いて、リーゼロッテは思わずカイの首にしがみついた。カイはそのままエラがいる方へ歩き出す。
「ごめん、怖かったよね。でも、もう大丈夫だから。そのままつかまってて」
リーゼロッテは声なくうなずき、縋りつくようにカイの首筋に顔をうずめた。
◇
暖かい一室に通されて、リーゼロッテはようやく人心地ついていた。あれだけの中にいたのに、不思議とリーゼロッテはまったく雪にぬれていない。カイは思いっきり雪まみれになっていたにもかかわらずだ。
グレーデン家もこの事態を前に、さすがに騒然となっているようだ。時折、廊下を人の気配が、行き過ぎては遠ざかっていく。
「リーゼロッテ嬢、怖かったとは思うけど、あの時何があったのかオレに話してくれる?」
カイの言葉に、後ろで控えていたエラが顔をしかめた。
「お言葉ですが、デルプフェルト様。お嬢様はあんなにも恐ろしい目に合われたのです! もう少し気遣いというものを……」
そこまで言って、エラはすとんとカイに倒れ込んだ。その体をひょいと横抱きにすると、カイは脱力したエラの体を一人がけのソファへと座らせる。
「カイ様……!」
また眠り薬を使ったのだろう。わかっていても非難めいた声が出てしまう。
「ごめん。でも、この事態は見過ごせるようなものじゃないんだ。さっきリーゼロッテ嬢が遭遇したのは、恐らく異形の者だから」
その言葉にリーゼロッテはぎゅっと唇とかみしめた。あの女の瞳を思い出して、ぶるりと寒気が背筋を走る。
カイはソファに座るリーゼロッテの前で、目線を合わせるように片膝をついた。
「リーゼロッテ嬢は何を見たの? 見たままでいいから話してほしい」
真剣なまなざしに、リーゼロッテは震えながらもこくりと頷いた。
「わたくし、廊下の中ほどで、庭の雪と、自分が窓に映る姿をながめておりました。……そうしたら、わたくしの後ろに赤いドレスを着た綺麗な女の方が立っているのがガラスに映って……ですが、振り返っても後ろには誰もいなくて、その時、窓が一斉に……」
そこまで言ってリーゼロッテは小さく身震いした。あの瞬間、身に着けていた守り石がすべて砕け散った。それはリーゼロッテを傷つけることはなかったが、髪に耳に首元に、そしてドレスのいたる所に飾られた青の揺らめきは、一瞬にして灰色の残骸になってしまった。
「その女の容姿はどんなだったか覚えている?」
「容姿……」
そう言われてリーゼロッテは、脳裏に残る女を思い浮かべた。
「髪が長くて……赤い口紅と、ここ喉元に真っ赤なブローチが……」
深紅のドレスと、白い首に飾られた、紅玉のような赤い輝きが目に焼きついた。なのに髪の色も瞳の色もぼんやりとして思い出せない。
「首にブローチ?」
カイにそう聞き返されて、リーゼロッテ自身、小首をかしげた。女はオフショルダーのドレスを着ていたように思う。胸元も首筋も、肌が出ていたはずだ。素肌にブローチをつけるなどできはしないだろう。
「チョーカーだったのでしょうか……紅玉のように美しく輝いておりましたから」
「……龍の烙印だ」
「え……?」
カイの押し殺した声に思わず顔を上げると、そこには真剣な目をしたカイがいた。
「その紅のしるしは、龍の烙印――禁忌の異形につけられた罪の証だ」
「罪の証……」
リーゼロッテがオウム返しにすると、カイはその場で静かに立ち上がる。
「この前、公爵家の書庫で話したよね。龍の託宣を阻もうとする者には、龍の鉄槌が降りるって」
「では、あの方は……」
「そう、リーゼロッテ嬢が視たのは恐らく」
青ざめたリーゼロッテにカイは静かにうなずいた。
「――星を堕とす者だ」
あれほど美しく、鮮明な人の形をとる異形は、今までに視たことがなかった。あるとしたら、王城の鎧の大公やジークハルト、それに、泣き虫ジョンとカークくらいだろうか。
だがどれも心やさしい異形たちだ。悪意ある異形は確かにいるが、あれほど美しく禍々しさを放つ者には今まで遭遇したことがない。
そこまで思って、ふと何かが引っかかったような感覚に見舞われ、リーゼロッテはその思考を遮られた。
「紅のしるし……」
いつか、似たようなものを見たことがなかっただろうか? 思い出せそうで思い出せない。そんなもどかしい感じだ。
「わたくし、以前、それをどこかで見たことが……」
独り言のようにつぶやいて視線をさ迷させていると、カイが驚いたように両の二の腕をつかんでその体を揺さぶった。
「見た? 龍の烙印を見たって言うの!? いつ? どこで? どんな時に!?」
矢継ぎ早に問われ、リーゼロッテは狼狽した。いつものカイではない強引さで、答えを迫ってくる。
「ええと、あれは、そう……そうですわ。あの時ジョンが……」
「ジョン? って公爵家の泣き虫ジョン?」
「はい……あの日、大雨の中、ジョンが濡れてしまって……そうしたら立ち上がったジョンの額が赤く光って……」
そうだ。あの時のジョンからも、赤い光が放たれていた。普段は前髪で隠されている、さみし気な瞳が垣間見え、それが今でも忘れられないでいる。
あの日以来、ジョンには会いには行ってない。ジョンは今もあの木の根元でひとり泣いているのだろうか。
「っだぁ!! 何やってんだよ! 公爵家はよぉ!!」
そう言うカイもジョンを視察したばかりだ。そのことを棚に上げて、カイは怒りを隠そうともせず大声で叫んだ。
「か、カイ様!?」
リーゼロッテがおびえたように身を縮こませる。カイは気を回す余裕なく、続けて独り言のように毒づいた。
「ったく、ジークヴァルト様になんて説明すりゃいいんだ? まさかこのタイミングで、しかもグレーデン家だろ? 来るか、普通? ああ、普通じゃないから星に堕ちてんだよな。その上、泣き虫ジョンまで星を堕とす者? あの異形、むかしっから調書に載ってんだよ? 今まで何やってたんだっつう話だよ! ああ、まったくもう、この忙しい時にどいつもこいつもふざけんなっ」
一気にまくしたてると、カイはふうーっと息をついた。
「ごめん。気は済んだから、とりあえずジークヴァルト様を呼ぼうか」
『もう来てるみたいだからいいんじゃない?』
「え?」
いつの間にか隣で浮いていたジークハルトが、あぐらのままのんきに頭の後ろで手を組んでいる。宙を見上げてぽかんとしているリーゼロッテに、カイが訝し気な顔を向けた。
「リーゼロッテ嬢?」
「いえ、ジークハルト様が、ヴァルト様はもうこちらにいらしていると……」




