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「よい、顔を上げよ」
ディートリヒ王の重く響く声に、カイは跪いたままの姿勢で顔を上げた。視線の先の玉座には、ひじ掛けに頬杖をついたディートリヒ王がいる。その隣に鎮座する王妃のための座には、今、イジドーラの姿はない。
「文書での報告が叶わなかったため、このように急遽お時間をいただきましたこと、お詫び申し上げます」
「龍とはきまぐれなもの。よい、申してみよ」
人払いがされた静かな空間に、王の重い声が響く。貴族が王と謁見するための場所であるこの玉座の間には、カイとディートリヒ王のふたりきりだ。必要以上に感じる重圧に、カイは己を奮い立たせて口を開いた。
「託宣の書庫にて確認しましたところ、『ルィンの名を受けしこの者、イオを冠する王をただひとり癒す者』との記述がみつかりました。ハインリヒ様の託宣のお相手は、確かに存在するようです」
『イオ』とはハインリヒが受けた託宣名だ。この『イオを冠する王』とは、未来のハインリヒに他ならない。ルインの託宣名を受けたその者こそが、ハインリヒの対の相手ということになる。
「ですが」と続けたカイは、王の視線の圧に耐えきれずに思わず目を伏せてしまう。いつも平然とその隣に立つイジドーラは、やはりすごいとしか言いようがない。
「その託宣を受けた人物が誰なのか、書庫でも知ることは叶いませんでした」
それはまるで龍の意思のように。そう言おうとしてカイは口をつぐんだ。言葉にできないということは、龍が目隠しをしているという証だ。
(龍は明らかに、ハインリヒ様の託宣の相手を隠そうとしている)
ここまでくると、託宣が消えたのは龍の仕業としか思えない。だがどうして? 託宣を違えることはこの国では最大の禁忌だ。そうさせてきたのは、他でもない龍自身だというのに。
(龍はこの国を見限ろうとしているのか……)
さすがにその言葉を口にしようとは思わなかったカイは、無言のままでいる王をゆっくりと見上げた。
「そして今回、新たな託宣がふたつ見つかりました。王家が、そしておそらく、神殿も把握していない託宣だと思われます」
「その内容とは?」
「ひとつは『リシルの名を受けしこの者、異形の者に命奪われし定め』と」
「異形に命奪われし定め、か」
カイは無言で頭を垂れた。龍が落とす託宣にしては物騒すぎる。カイが知る中でも、こんな内容の託宣は今まで他に見たことがない。
「して、もうひとつとは?」
「はい、もうひとつの託宣とは……」
口を開きかけて、カイはぎゅっと眉根をよせた。王の前でする行為ではないが、カイにはそうする以外できなかった。
「目隠しか。言えぬのならば言わずともよい」
「……もう一点だけご報告が。書庫での記録と、王家が把握している託宣の数が、一致しない年が確認できました。八百十三年にひとつと、八百十五年にふたつ、我々が知らない託宣が降りた形跡があります」
今回新たに見つかったふたつの託宣と、ハインリヒと対をなす託宣、それらがその各年に降りたというのなら数が合う。
「ですが、ハインリヒ様のお相手を含めて、どの託宣がいずれの年に降りたのかまでは、調べることは叶いませんでした」
「そうか」
ディートリヒ王は静かに立ち上がる。もう聞くことはないとの意思表示に、カイは開きかけていたその口を閉じた。ルチアの存在を報告しようと思っていたが、まだ確定ではないため、もう少し情報を集めてからでもいいだろう。
「王妃には余から話しておく。王太子にはそなたから報告するがよい」
「ディートリヒ王……! 最後にひとつだけお聞かせください」
そのまま去ろうとする王の背に、思わずカイは言葉を発した。
「……申してみよ」
僅かに振り返り、ディートリヒ王はカイを見下ろした。吸い寄せられるようにカイの視線が、王の金色の瞳に縫いつけられる。
「王は、すべてを知っておられるのではありませんか?」
「なぜそう思う」
「王は、どうしてそう平然としておられるのでしょう。ハインリヒ様のお相手が見つからない現状は、国として最も憂慮すべき事態だというのは、王がいちばん理解しておいででしょうに」
ハインリヒの託宣が守られないということは、この国が破滅を迎えると言うことだ。建国以来、龍の託宣が守られなかったことは一度もない。
神殿をはじめ、この国の成り立ちを知る誰もが、右往左往している前代未聞の事態に、ディートリヒ王だけが悠然とした態度を貫いている。
「……すべては龍の思し召しだ」
静かに言い残すと、ディートリヒ王はマントを翻してカイに背を向けた。息が詰まるような静寂の中、カイは頭を垂れてその背をただ見送った。




