15-2
「リーゼロッテ様、もしよろしければ、その涙の訳をわたしどもに教えていただいてもよろしいですか……?」
マテアスが懐から出したハンカチをリーゼロッテに差し出すと、その横からさっとジークヴァルトがそれを奪っていった。そのままぽいとテーブルの向こうに投げ捨てると、ジークヴァルトは自分のハンカチを取り出して、それをリーゼロッテに握らせる。
「だって、だって……ジークヴァルト様、過保護でいらっしゃるから……あれが浄化だとすると、危ないからやってはダメだとおっしゃるかもしれないでしょう……?」
ぐずぐずと泣き続けながら、リーゼロッテはようやくそう口にした。マテアスがぽかんと口を開けた後、ジークヴァルトの顔をジト目で見やる。ジークヴァルトは眉間にさらに深いしわを寄せた。
小鬼の目をきゅるんとするのは、一日十匹までならやってもいいと許された。人数限定ならばと、リーゼロッテはひとり当たりに割く時間を長くしたのだ。
そうしているうちに、異形たちはそれぞれ違う苦しみを抱えていることが分かってきた。だがその大半は、なぜ自分が苦しいのかすら理解していない者がほとんどだった。一度の触れ合いで満足してはしゃぎまわる異形もいたし、先ほどの天に還った異形のように、幾度かリーゼロッテの元に訪れる者もいた。
浄化にまで至ったのは今日が初めての事だったが、ドロデロの異形たちは、そうなる前はみなちゃんと人として生きていたのだ。そのことを異形自身が思い出すと、少しずつ会話が成り立っていく。
自分の身から溢れる力は、異形たちの苦痛を取り除けるようだった。だから、リーゼロッテは小鬼たちの思いに寄り添い、根気よくその声に耳を傾けた。
そんな日々を繰り返していたある日、リーゼロッテはふと思い出したのだ。王城でハインリヒ王子が、浄化とは異形を正しい方へ導くものだと言っていたことを。
(カイ様はねじふせるとおっしゃっていたけれど……)
ジークヴァルトは「もっと明るい方へ」とそう言っていた。苦しみもがいている異形を前に、リーゼロッテはそれならば自分にもできるかもしれないとそう思った。
王城で、たくさんの異形たちが天に還っていったあの日のことを思い出す。自分は眠りについて夢を見ていただけだったが、みなが天に還っていく感覚は、なんとなくこの身に残っている。
リーゼロッテはジークヴァルトのように、颯爽と異形を祓うことにあこがれていた。だが、多分、自分が求めるものはあれではないのだ。そのことをリーゼロッテは先ほど強く確信した。
「わたくしにできることなど高が知れております……ですが、少しでもあの子たちの苦しみを、取り除いてあげたいのです……」
そう言いながらも嗚咽が止まらない。なぜこんなに涙が止まらないのか、正直自分でも理解できない。リーゼロッテは昔から涙もろい。お前泣けば何でも許してもらえると思ってるだろうというような、女子に嫌われる女子の典型のようで、正直、自分でもどうかと思うのだ。だが、ゆるんだ蛇口のように、今日のリーゼロッテは自分でも涙が止められなかった。
(さっきの異形のこころに感化されているのかも……)
そう冷静に思ってみるものの一向に涙は止まらず、リーゼロッテは手にしたハンカチをぎゅっと握りしめた。
不意に頬に何かを押し付けられた。冷たい感触に驚いて目の前を見やると、ジークヴァルトが無表情で、小瓶を頬に押しあてている。瞬きと共にリーゼロッテの頬に涙が伝うと、その涙は小瓶の中に滑り落ちていった。
「じ、ジークヴァルト様……?」
ぱしぱしと瞬きするたびに、小瓶に涙がたまっていく。八割がた瓶にたまるとジークヴァルトはそれを持ち上げ、周囲できゃっきゃと跳ねまわっていたきゅるるん小鬼に向かって、おもむろに中身の涙を振りかけた。
はしゃぎまわっていた小鬼の数匹が、そのテンションのままふわっと浮き上がり、そのまますうっと溶けていく。異形が消えたその場に、楽し気な小鬼の笑い声だけが残像のように響きわたった。
「……お前、便利だな」
その様子をぽかんと見つめていたリーゼロッテに向かって、ジークヴァルトが半ば呆れたように言った。ひぐっと鼻をすすったのを最後に、リーゼロッテの涙がぴたりと止まる。
(い、言い方ァ……!)
言い返せないままのリーゼロッテからハンカチを取り上げて、ジークヴァルトは代わりに涙の入った小瓶を握らせた。そのまま頬に残る涙を、ハンカチでやさしくぬぐっていく。
「何かあったときのためにそれは持っていろ」
小瓶の中に半分ほど残った涙がちゃぷりと揺れた。透明なはずの涙が、揺らめくたびにほのかに緑を帯びる。不思議に思って小瓶を軽く揺すっていると、目の前にさらに数本の空の小瓶が差し出された。
「泣くたびに溜めておけ」
真顔でそう言われ、リーゼロッテは思わずジークヴァルトの顔を見返した。
「涙など、そうそう出るものではありませんわ」
「……普通ならばな」
普段から泣きすぎている自覚のあるリーゼロッテは、反論する言葉が見つからない。再び出そうになる涙をこらえてぐっと唇を噛むと、ジークヴァルトの指がその唇に触れて「噛むな、傷がつく」ときつく結ばれたその唇をそっと解けさせた。
(また子供扱いだわ)
臆面もなくこんなふうに触れてくるジークヴァルトにも慣れてしまった。いちいち動揺するのも馬鹿らしく感じる今日この頃だ。
頬に添えられた手に顔を上向かせられ、目じりにたまった涙をハンカチで拭われる。思わず「ん」と目を閉じると、不意にぱさりとハンカチがリーゼロッテの手元に落ちてきた。
壁際でガン! と大きな音がする。驚いてそちらを見やると、ジークヴァルトが壁に向かって頭を打ちつけている姿が目に入った。
「じ、ジークヴァルト様!?」
ガン、ガンと、続けざまに壁に頭突きするジークヴァルトを前に呆気にとられていると、動きを止めたジークヴァルトがおもむろに振り返った。
「大丈夫だ、問題ない」
「ご立派です、旦那様……!」
額を赤くして涙目のまま言うジークヴァルトに、感激したように返すマテアス。まったくもって意味が分からない。リーゼロッテは訝し気にこてんと首をかしげた。
(ヴァルト様はやっぱり、自虐趣味がおありなのね……)
このことは胸に秘めておこう。残念な気持ちでそんなことを思っていると、手元にあったハンカチが床に落ちているのに気づく。手にした小瓶をテーブルの上に置いてから、リーゼロッテはそのハンカチを拾い上げた。
「あ……!」
手にしたハンカチは、リーゼロッテが子供の頃にジークフリートに贈ったものだった。見覚えのあるピンクのウサギの刺繍を、リーゼロッテはまじまじと見つめた。
子供が刺したとはいえ、その刺繍の出来はかなり微妙な仕上がりだ。だが、知らぬ間に異形の者たちに邪魔されながら、一年かけて懸命に施したものなのだ。そのことを加味すると、十分な出来と言えるのではないだろうか。
(でも本当にどうしてこれを、ヴァルト様が使っているのかしら……)
このハンカチは当時のリーゼロッテが、初恋の人であるジークフリートを思いながら刺繍を刺して贈ったものだった。それを息子とはいえ簡単に他の人間に渡されては、複雑な心境になってしまう。そんな物思いに耽っていると、ひょいとハンカチが取り上げられた。




