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(それにしても、A. S……アニサ Sか)
ルチアの母親が教会を避けているのは間違いなさそうだ。教会をたどれば上には神殿が待っている。ひいては貴族、そして王家にもつながる。
(犯罪者……と言うより、見つかるのを避けているのか?)
だが、誰に?
もしかしたらルチアは、貴族の誰かの落とし胤なのかもしれない。愛人の子供の存在が知れて、本妻に命を狙われるという事案は、過去にいくつも存在する。
それが男児だった場合、跡目争いの種になる。子供の命を守るために、男児を女として育てることもあり得る話なので、カイは先ほどさりげなくルチアに触れて確かめた。
(ルチアは間違いなく女の子みたいだし……)
本妻が嫉妬深く、用心を重ねて生きているのかもしれない。だが、愛人を囲うような貴族の近辺はすでに一通り調査済みだ。
市井に紛れた貴族の血筋をたどるのは容易なことではない。当事者が名乗りを上げないことには、その存在は永遠になかったことになる。
(少し調べる必要があるか)
A. Sというイニシャルの貴族女性かそれに近しい存在。アニサと言う名前はおそらく偽名だろうが、ルチアの生まれた年の近辺でおきた社交界の動向から何かがわかるかもしれない。
ハインリヒの託宣の相手が貴族の中で見つからない今、もはや市井からその存在を見出すしかない。ほんの少しの手がかりでも、ひとつひとつ情報を確かめていくより方法はなかった。
(案外、ルチアに龍のあざがあったりして……なんて、そんな簡単に行くなら苦労はないか)
それでも確かめる価値はある。だが、今ここで彼女を裸にひんむいて、あざの有無を調べるわけにもいかないだろう。ルチアがもう少し年頃の娘だったのなら、カイにもやりようがあるのだが。本人に直接聞いて、いらぬ警戒をされて逃げられるのも避けたいところだ。
(やっぱり彼女がいないと不便だな)
彼女がいれば世話を焼く形で、体の隅々まで確認が取れるのに。だが、彼女は今、別件で任務遂行中だ。
(もう一度、様子を見に行きがてら、ついでに回収しに行くか)
その前にイジドーラにも報告をしなくては。事前に根回しがあった方が、カイとしても動きやすい。
カイがそんな思案を巡らせていると、手紙に目を通したダンが一度立ち上がった。
「カイ坊ちゃんの運命の幼女殿」
「ルチアよっ!」
ルチアが憤慨したようにダンを見上げた。殺し屋フェイスにはもう慣れたようだ。
「失礼、カイ坊ちゃんの運命のルチア殿。しばし待っていておくんなせぇ」
厨房の奥に引っ込んでいくダンの背中に「ただのルチアよ! 変な前置きつけないで!」とルチアが叫んだ。ダンはその言葉に軽く片手をあげると、そのまま奥に姿を消した。しばらくして小さな麻袋を手に戻ってくる。
ダンは手にした麻袋を、ルチアに手渡した。小さいと思っていた袋はルチアの両手にはみ出すくらいの大きさと重量があった。じゃりとした音と感触に、その中に大量の硬貨が入っているだろうことがわかる。ルチアは手のひらの重みに驚いたように目を見開いた後、ダンの顔を勢いよく見上げた。
「旦那に、アニサと言う女性が訪ねてきたら、それを渡すよう言われていやした。だから、それは好きに使ってくだせぇ」
「母さんがここへ来たら?」
ダンは頷くと、盛大ににたりと笑った。くどいようだが、ルチアを安心させるためにだ。
「でも、こんな大金……本当に、本当にもらっても大丈夫なの?」
「もちろんでさぁ。旦那は女運はからきしでも、金だけは有り余るくらい持っている御仁でやす。金品にはまったく頓着しないお方でやすし、安心して受け取ってくだせぇ」
「……もしかして、ゲオって人、わたしのお父さんなの?」
ルチアの言葉に後ろにいたカイが吹きだした。そのまま忍び笑いをこらえるように、口元に手を当てて肩を震わせながら悶絶している。それをちらりと見やったルチアは、すぐに無視するようにダンに視線を戻した。
「いや、それだけはないと思いやすぜ。何しろ旦那は、逃げちまった奥方を十年以上探して回っていやすから。なんでもその奥方は山奥にいるらしいですぜ」
「それじゃあ、ゲオって人は今も奥さんを探しに行ってるの?」
「まあ、そういうことでさぁ」
ルチアは分かったような分からなかったような、そんな微妙な顔をして、再び手の中の麻袋を見つめた。袋の口をそっと開いてみる。隙間から見えた金貨のきらめきに、ルチアは驚いてその麻袋を取り落とした。勢いで跳ね出た幾枚かが、涼やかな音を立てて床の上を転がっていく。
ルチアはそこに銅貨が入っているのだと思っていた。ルチアが日がな一日懸命に働いて、やっと銅貨一枚がもらえるかどうかという毎日だ。それがこの中につまっているのだと思うと、その重みも増すと言うものだ。
だがそこには金貨がつまっていた。金貨は銅貨の百倍の価値がある。ルチアは今までお目にかかったこともなかった金貨が、落とした麻袋の口から散らばっているのを呆然と見つめた。
「こんなもの……意味もなくもらえないわ……」
「大丈夫、大丈夫。イグナーツ様にとってこのくらいのお金は痛くもかゆくもないから。遠慮せずにもらっとけば?」
カイがこぼれた金貨を麻袋に戻して、それを再びルチアの手のひらに乗せた。
「イグナーツ?」
「ああ、ゲオ様ね、ゲオ様。そのゲオ様は、無類の女好きだし、なーんにも遠慮することはないよ」
「ゲオ様は愛妻家じゃないの?」
「愛妻家なら奥さんは逃げていかないんじゃないかな?」
ルチアが訳が分からないといったふうに首をかしげた。
「ねえ、ルチア。ルチアって今いくつ?」
「何よ、急に」
「いや、こーんなに小さいのに、苦労してるんだって思ってさ」
カイが押しつけるようにルシアの頭に手を置くと、ルチアは払いのけるようにその手を持ち上げる。
「失礼ね! わたしはもう十三よ。年が明けたらすぐ十四になるんだから!」
子供扱いが嫌だったのか、ルチアはカイの手をぺいと投げ捨てた。カイはそれをおもしろそうにみやっている。
(十三か……やっぱり思ってたより上だったな)
だがそう言われても目の前のルチアは十歳かそこらにしか見えない。あと一年ちょっとでこの国での成人を迎える年になるとは思えない発育不良ぶりだ。今までの生活のレベルの低さが伺える。
「なんにせよ、そのお金があれば、母さんは病院できちんとした治療を受けられるんじゃない? 母さんは病院に任せて、ルチアはイグナ……ゲオ様が戻ってくるまで、こんがり亭にいればいいよ」
「こんがり亭に?」
「ああ、それがいいでやすな。何、安心してくだせぇ。屋根裏でよければ使っていない部屋がありやすし、あっしには死ぬほど愛する恋人がおりやす。カイ坊ちゃんのルチア殿に、狼藉を働くなんてことは万が一にもありやせんぜ」
「だからわたしはカイのものじゃないってば!」
だんっと足を踏み出してルチアがダンを睨みあげた。
「なぁにぃ。今日は随分と騒がしいのねぇ」




