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ダンは雇われ店主だ。若い時分は金のためなら何でもやる、人様には言えないような後ろ暗い人生を送ってきた。だが、何の因果か、今では平凡な小さな店の店主に納まっている。
へまをやらかして死にかけたとき、自分を拾ってくれたもの好きな男がいた。彼に出会わなかったら、今、自分がこうしてこの狭いカウンターの中で、グラスを磨いていることなどありはしなかっただろう。
不意に扉が開く。客が来るにはまだまだ早い時間だ。最近、貴族街の店に倣ってドアベルをつけるのが流行っているらしいが、狭い厨房に小さなカウンター、客が座るテーブルは三つしかないさびれたこの店に、そんなこじゃれた物は似合わない。
ここで出てくる物は、安い酒とこんがり焼いた肉の塊だけだ。味付けも塩と胡椒で十分だ。うまいものが食いたかったら、大通りの流行りの店に行けばいい。ここは後ろ暗い人生を生きている、そんな奴らがふらりと立ち寄る場所だ。
そんな場末の店に、普段ならやってこないような身なりのいい青年が現れた。少年と言うには隙がなく、男と言うには物足りなさすぎる。そんな微妙な年頃だ。
「これはカイ坊ちゃん、ずいぶんと久しぶりで」
ダンはグラスを磨く手を止めて、その青年、カイを見た。前に会った時は、もっと子供子供していたように思う。時が過ぎるのは早いものだ。そんなふうに思うのは、自分も年を取ったということなのだろう。
「やあ、ダン、久しぶりだね」
そう言って人懐っこそうに浮かべる笑みは、ここ数年で見られるようになったものだ。初めて出会った頃の彼は、にこりともしないクソガキだった。この青年もまた、あの男に魅入られ、救われた者のひとりなのだと改めて思う。
「そろそろ帰ってきてるかと思って寄ってみたんだ。イグナーツ様はいる?」
「いや、生憎とまだもどってきておりやせん。今年の冬の寒さはいつも以上で、どこぞの山奥で氷漬けになってやしないかと、あっしたちも心配していたとこでさぁ」
「はは、イグナーツ様、意外と抜けたところあるからなぁ」
まったく心配している感じがしないところが、またカイらしい。イグナーツを師と仰いだ時点で、ろくな人間にならないのも道理といえるか。良家のボンボンの師となるには、あの男はろくでなしすぎる。
そんなカイの後ろから、子供がひとり顔をのぞかせた。茶色の髪をしたやせぎすの子供だ。長すぎる外套を引きずるように肩にかけ、その胸に大事そうに紙袋を抱えている。
「カイ坊ちゃん、いつから幼女趣味に目覚めたんで?」
「この子はそんなんじゃないよ。ルチアは、オレの運命の女の子」
余計に質が悪いのではと思ったが、いつものおふざけの類だろう。子供の方が心底嫌そうな顔をしている。
「それにしても、あの時を思い出しやすな。妹殿はお元気にしておいでで?」
「ああ、彼女もすっかり独り立ちして、今は別件で仕事してるよ」
「さいですか。あの時もこんなふうに痩せこけたガキ、あ、いや、小さい子供をつれておいででやしたからね。で、カイ坊ちゃん、その運命の幼女をどこで拾って来たんで?」
子供に視線を向けると、カイの後ろに隠れてしまった。まあ、自分のこのなりは、子供の頃の自分が見ても、しょんべんをちびるくらいにはビビると思うが。
「ルチアはこんがり亭のお客だよ。オレはここまで道案内しただけ」
カイは押し出すように子供を前にやる。肩に手を乗せたままなのは、子供がまだ怖がっているせいだろう。
「ほら、ルチア。ここに用があったんでしょ?」
促され子供はおずおずと顔を上げた。茶色の真っ直ぐな髪に隠れて目は見えない。やせぎすの薄汚い子供だ。年は十いくかいかないくらいか。実は少年かとも思ったが、やはり女の子らしい。正直、どう扱っていいのか対処に困るが、とりあえず怖がらせないようにと笑っておいた。
「ルチア、怖くないよ。あれは、こんがり亭のダン。地獄の門番みたいな顔してるけど、あれで精いっぱい笑ってるんだ」
ニコニコしながら出る台詞は、あまりフォローになっていない。肩を押されるルチアは、抵抗するように足に力を入れて、カイに背中を押し付けてくる。
スキンヘッドのダンは、クソ寒い冬でも基本いつでもタンクトップ姿だ。浅黒く日に焼けた顔や体のあちこちに刀傷が走っている上、盛り上がった筋肉がとてもではないが堅気には見えない。こんがり亭などという可愛らしい名前の店の主と言うより、殺し屋と言われた方が納得するような風貌だ。
「んー? ルチア、大事な用事があったんじゃないの?」
カイがルチアを包み込むように後ろから抱きしめて、その頭の上に顎を置いた。はっとしたルチアは、頭を押さえてカイの腕から乱暴に逃れると、胸に抱えていた紙袋をカイに押し付けた。
「荷物持ちはここで終わりよ」
そのままくるりと向き直ると、意を決したようにルチアはダンのいる厨房へと目を向ける。
「あ、あの、ここにゲオって人はいますか? アニサの娘が来たって伝えてほしいんです」
「へ? ゲオ?」
間抜けな声を出したのはカイだ。
「ああ、彼はまだ山から帰ってきていませんぜ」
「いつ頃戻ってきますか? わたし、母さんに言われて来てて」
「今日かもしれやせんし、一週間待っても戻って来ないかもしれやせんね。旦那は毎年、雪解けとともに出て行って、冬になるとふらりと帰ってくるんでさぁ。帰ってこなかった冬は一度もありやせんが、今年は特に遅いかもしれやせんね」
「そんな……」
こわばった声でそう言った後、ルチアはダンに詰め寄った。
「何かあったらここを頼るように母さんに言われてるの! 今、母さん、病院にいて、でもお金がなくて、もう出ていかなきゃならなくて、一度家に戻ったら別の人が住んでて、大家さんにどうせもう戻ってこれないだろうからって言われて、わたし、わたし……っ」
嗚咽をこらえながらルチアは言葉を詰まらせた。ダンは手を止めて黙ってその様子を見つめている。
「どうして教会を頼らないの? 医者にはかかれなくても、母さんだって温かいベッドで眠れるはずだよ?」
そういう制度があると知らない子供がいるかもしれない。カイは静かに問うてみた。しかし、ルチアは動揺したように首を振った。
「教会はだめ! 絶対にだめ!」
「どうして? 温かい食事だってもらえるよ?」
「だめ、だめなの、だって母さんが……!」
「そこまでにしてやってくだせぇ、カイ坊ちゃん」
厨房から出てきたダンが、ルチアの前に片膝をついた。目線を合わせるように屈みこむ。
「よかったら、事情を詳しく話してくだせぇ。なに、あっしは旦那にここをまかされてるんでさぁ。彼を頼ってきた女を放っておいたとあっちゃあ、あとで何を言われるかわかりやせん」
殺し屋の顔でダンはにたりと笑った。もちろん、ルチアを安心させるためだ。ルチアはぎゅっと唇をかむと、ポケットにしまっておいた擦り切れた紙を取り出し、ダンに差し出した。
先ほどカイに見せたものとは別の紙で、それは手紙のようだった。カイは手渡される前にそれをさっと盗み読む。
親愛なる I Geo L様
どうかこの娘が独り立ちできるまでお力をお貸しください。
A. S
女性が書いたような美しい文字だ。そこには教養が伺える。
( I Geo L……イグナーツ・ゲオ・ラウエンシュタインか)
カイは内心呆れかえっていた。ゲオとはイグナーツの託宣名だ。託宣を受けた者は、みな必ずミドルネームを持っている。それは表に出すようなものではないし、まして他人に教えるなど、王家や神殿にとっては禁忌の事だった。
カイですらおいそれと他人の託宣名を口にすることはできない。たとえそれを知っていたとしても。
(そもそも龍に目隠しされるはずなのに)
託宣の存在を知る自分ですら口にできたということは、龍がそれを黙認しているということか。




