14-2
そのとき不意にルチアのお腹が、ぎゅうぎゅるぎゅるぅと盛大な音を立てた。先ほどから通りにいい匂いが漂っている。昼時にはまだ時間はあるが、飲食店が仕込みを行っているのだろう。
ルチアは真っ赤になって、慌てて自分の腹を押さえた。しかし、そのタイミングで再び腹の虫が鳴る。狼狽したルチアがその場を逃げ出しそうになったので、カイは咄嗟にその手を掴んだ。
「ねえ、オレってさ、こう見えて結構いいとこの坊ちゃんなんだ」
「え?」
突然のカイの台詞に、ルチアが戸惑ったように返事をした。
「あなたの身なりを見れば……それは、まあわかるけど……」
だからなんだというようにルチアは怪訝な顔をした。
「うん、それでね、オレ、一度でいいからあそこの店に入ってみたくて。でも、オレってば、いいとこの坊ちゃんだからさ、気が弱くてひとりで入るのに勇気がいるんだ。だから、ルチアさえよければ、一緒に入ってくれるとうれしんだけど」
ルチアはポカンと口を開けた。カイが入りたいと言った店は、今まさにいい匂いをさせている食堂だ。それに気づくと、ルチアはますます不審げな顔になった。
「嫌? 君が一緒に入ってくれれば、オレも勇気が湧いて堂々と入っていけそうな気がするんだけどなぁ。うーん、じゃあ、こうしよう。これはオレからルチアに仕事の依頼。ルチアが一緒に店に入ってくれたら、報酬として店のもの何でもご馳走するってのはどう?」
「仕事?」
ルチアはぱっと顔を上げた。
意味もなく施しを受けるのが嫌なのだったら、そういうことにしてしまえばいい。ルチアはしばらくカイの顔をまじまじと見て、何かがおかしいと感じつつも、最終的に空腹には勝てなかったようだ。
「い、いいわ。その仕事、うけてあげる」
「やった! ありがとう、頼りにしてるよ」
カイが琥珀色の瞳を細めて笑うと、ルチアは少し乱暴にカイの手を取った。その手を引いて、くだんの店の扉の前へと連れていく。ルチアはそのままの勢いで店の中へと入っていった。
ごろんという錆びたドアベルの音に、店にいた男が「いらっしゃい」と声をかけた。
「えと、ふたりなんだけど、席は空いてる?」
空いているも何も、店の中にはほかに誰も客はいない。店の男がカイの顔を見て何かを言いかけたとき、カイはしーっと口元に指をあてた。男は眉根を寄せたがそれ以上は何も言わずに、好きな席に座ってくれとルチアに返した。
ルチアは頷くと、カイを一番奥の席に導いていく。気の弱いいいとこの坊ちゃんであるカイを、きちんと世話する気でいるようだ。奥の席を選んだのも、気遣いのひとつらしかった。
向かい合わせに座ると、カイはルチアにこそりと話しかけた。
「ねえ、ここでのおすすめは何か、お店の人に聞いてみてよ。できれば体があったまるやつ」
ルチアは神妙に頷くと、店員に声をかけた。男はカイを不審げに見やりながらも、ルチアの問いに答えていく。こういった下町の店にはメニューはおいていない。訪れる客は文字が読めない者がほとんどだからだ。
「ここはシチューがおいしいそうよ。カイはどっちにする?」
どっちにするとは、ビーフシチューかクリームシチューかということのようだ。カイは少し迷ったそぶりを見せてから「じゃあ、サンドイッチにしようかな?」としれっと言った。自分が店員に聞いた事は何だったのだと、ルチアの顔が再び不信感に染まっていく。
「で、ルチアはどっちするの? とろっとろのビーフシチュー? 野菜たっぷりのクリームシチュー?」
ルチアはごくりとのどを鳴らした後、クリームシチューと小さい声でつぶやいた。
「サンドイッチとクリームシチューね」
そう言って店の男は厨房の方へ戻っていった。作り置きを温めてきたのだろう。ほどなくしてルチアの目の前に真っ白いシチューが運ばれてきた。大きく切られた人参・ジャガイモ・玉ねぎがその白の中から覗いている。鶏肉もゴロゴロ入っているようだ。
「どうぞ、召し上がれ?」
カイが手のひらを見せてそう言うと、ルチアはぎゅっと唇をかんで首を振った。
「あなたより先に食べるなんてできないわ」
「でも、君は完璧に仕事をこなしたよ。その報酬なんだから遠慮しないで?」
カイがそう言うと、ルチアは再びごくりとのどをならして、皿を見つめた。
「ほら、あったかいうちに」
カイが促すと、ルチアは小さく頷いてから、テーブルの上に両肘をついた。その手を組んで食事の前の祈りをささげる。しばらく目を閉じて祈っていたルチアは、次いでそのあかぎれのある小さな手を伸ばしてスプーンを手に取った。ゆっくりとシチューをすくい、その口元に持っていく。
(――アンバランスだ)
カイはゆっくりと食事をすすめるルチアをじっと見つめていた。目の前の少女は身なりと所作がまるでかみ合わない。
お腹が空いているだろうに、そのひとくちは至極上品なものだ。以前にも、似たような状況で似たようなやせぎすの子供を拾ったことがあるカイは、その子供が獣のようにがっついて食べ物を詰め込む姿を、昨日のことのように覚えている。
「あったかい……」
かみしめるようにルチアがつぶやいた。久しぶりのまともな食事なのかもしれない。ルチアはひとくちひとくちを大事に味わうように、ゆっくりとシチューを口に運んだ。
しばらくして運ばれてきたサンドイッチに手を付けることもなく、カイはその様子を黙って眺めていた。ふとそれに気づいたルチアが、居心地悪そうに食べる手を止める。
「ねえ、そんなふうに見てられると食べづらいんだけど。カイ、あなたさっきから何も食べてないじゃない」
「ああ、オレさ、いいとこの坊ちゃんだから小食なんだよね」
そう言いながら付け合わせのポテトを軽くつついた後、すぐにフォークを置いた。
「……あなたって、さっきから嘘ばっかり」
胡乱な視線を向けた後、ルチアは手に持ったスプーンを一度シチューの皿に戻した。
「でも、さっきは助けてくれてありがとう」
ルチアはそのまま深く頭を下げた。茶色の髪がシチューにつかりそうで、カイは咄嗟にその手を伸ばした。
「……――っ!」
驚いたルチアが猫の子が飛び上がるように椅子から立ち上がった。突然の大きな音に、店の男が不審げにこちらを見ている。
「あー、ごめん、ごめん。髪がシチューに入りそうだったからさ」
頭を押さえて固まっているルチアにカイは苦笑する。かつらをかぶっていることに対して、日々気を使っているのだろう。そう思って、それ以上の言及はしないでおいた。
「ねえ、まだ残ってるからちゃんと食べなよ」
「……あなたに言われたくないわ」
不満げにそうに言いながらも、ルチアは素直に席についた。食事を再開すると、その場に再び沈黙がおりる。
ルチアは静かにシチューを食べている。食器を鳴らすこともなく、スープをすするわけでもなく。
(いいとこのお嬢様だったのか? もしくは……)
親との死別で身を落とす子供は少なからずいる。しかしこの国ではそういった子供たちを支援する制度はそれなりにちゃんとしている。地方では領主の意識の高さで差は出てくるが、少なくともここ王都では、教会を頼ればルチアのように薄汚く痩せ細る事態は避けられるはずだ。
しかし、そうしない、いや、そうできない理由があるとすれば、一緒にいる親がお尋ね者か。先ほどの騒ぎでもそのまま自警団に頼れば、目的の場所にだって連れていってもらえただろう。
だが、ルチアはそうしなかった。黙ってカイについていく選択をしたのは彼女の方だ。
「ねえ、あなた、いいとこの坊ちゃんのくせに、なんであんなに強いの?」
不意にルチアがカイに問いかけた。食べる手を休め、長い前髪の隙間からじっとこちらを伺っている。
「ああ、オレね、こう見えて王子様を守る仕事をしているんだ」
「何それ」
ルチアはぷっと吹きだした。
「どうしてそんな嘘つくの? とてもじゃないけど信じられないわ」
「ええー、そこは素直に信じとこうよ」
カイが心外だとばかりに目を見開くと、ルチアはあきれたように肩をすくめた。
「信じられるわけないじゃない。王子様を守るようなすごい人が、こんなとこに来るわけないもの」
「最近お役御免になってね、ここには気晴らしに寄ってみたんだ」
「ほら、やっぱり嘘じゃない」
胡散臭そうにカイを見やると、ルチアは食事を再開した。




