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◇
最近、頭の痛いことが山積みだ。ハインリヒは、猫の殿下を膝にのせて、はぁと小さく息をついた。
ここのところ、王城内で異形がらみの報告は日増しに増えている。その対応に追われつつ、書類仕事から何がしかの式典の出席まで、王太子として日々の公務もこなさなくてはならない。
ディートリヒ王は、ハインリヒにまかせる仕事を年々増やしていた。それは、周りから見れば容赦ないペースだったが、期待されていると思えばできないと弱音を吐くこともできず、ハインリヒはここ数年、公務と自身の託宣の問題にかかりきりの毎日を過ごしていた。
式典などでは、今まではジークヴァルトの威圧があったので大した心配もなかったが、カイが自分の護衛につくようになってから、ハインリヒはまるで心が休まらなかった。カイは常にあの調子なので、女性との距離が近いのだ。
ああ見えてカイはけっこう手が早い。
侯爵家の五男で継ぐ爵位もないため、結婚相手として若い令嬢たちには見向きもされていないのだが、既婚者や未亡人などのご婦人たちから人気が高いのだ。気軽に付き合えるいい遊び相手とみられているらしい。
あの年で先が思いやられるとハインリヒは常々思っていた。
リーゼロッテの件が片付かないことには、ジークヴァルトを自分の護衛に戻せない。龍の託宣のことを知る者は限られているので、現状でカイ以外に自分の護衛をまかせられる適任者はいなかった。
カイはイジドーラ王妃の甥ということもあるが、ハインリヒはカイに対してたしなめることはあっても、あまり強く言うことはできないでいた。
猫の殿下のお腹をもふもふしながら、はあ、とハインリヒは再びため息をついた。癒しの源である殿下と戯れていても、王子の心は思うように晴れそうにない。
「ハインリヒ様?」
その声に、ハインリヒはぱっと顔を上げた。
「アンネマリー」
ハインリヒの顔は、打って変わって明るいものになる。自分が満面の笑みをたたえているという自覚はあったが、それをとめることはできなかった。
ハインリヒが殿下と戯れていると、アンネマリーはときどきこうやって姿を現した。
姉姫のテレーズのことや隣国の話をおもしろおかしく話す彼女は、とても機知に富んでいて、話しているとつい時間を忘れてしまう。ハインリヒはアンネマリーと過ごすこの時間を、最近では心待ちにしている自分に気づいていた。
「お疲れのご様子ですね……きちんとお休みになられていますか?」
のぞき込むように言うアンネマリーの亜麻色の髪が、彼女の肩からさらりとこぼれた。ふわりと甘い香りがする。
こんな時、ハインリヒはどうしようもない焦燥感を覚えた。ふわふわで柔らかそうなその髪に思わず触れてみたくなる。あまつさえ、その髪に顔をうずめて匂いをかぎたいなどと思っている自分をどうしたらいいのだろうか。
ふとした時間に気づけばアンネマリーのことばかりを考えている。彼女のことを考えると、胸がしめつけられるように苦しくなる。苦しいのに、会いたい。そして会ったら会ったで、触れたい衝動を抑えられなくなる。
いまや猫の殿下はハインリヒのバリケードだ。できるだけ平静を装って、ハインリヒは口を開いた。
「問題ないよ。こうして殿下に癒しをもらっているし」
ハインリヒが殿下のお腹をたふたふゆらすと、それに応えるように殿下が「ぶな」と鳴いた。
「リーゼロッテ嬢にはもう会ったのかい?」
「はい、先ほど。久しぶりに顔が見られて安心しましたわ。でも……」
「ああ。彼女の問題はなかなか解決のめどがたたないんだ。心配をかけてすまない」
ハインリヒにそう言われ、アンネマリーは慌てて首を振った。
「そんな、恐れ多いですわ。リーゼロッテも大丈夫と言っておりました。わたくしはリーゼもハインリヒ様も信じております」
そのままふたりはしばらく見つめあっていた。
話をしていても、ふと沈黙が訪れても、この空間は心が安らぎ、とても心地よく感じられた。
――この時間がずっとずっと続いたら……
ハインリヒはそう願わずにはいられなかった。
だが、もう、限界なのかもしれない。あの日の過ちを、二度と繰り返してはならないのだから。
(あと、もう少しだけ――)
ハインリヒは、自分の弱い心に失望しつつ、この束の間のやすらぎを終わらせることはできないでいた。
◇
「最近、ハインリヒはうまくやっているかしら?」
「ハインリヒ様、まじめだから、見てるこっちがもどかしくなりますよ」
イジドーラ王妃に問われたカイは投げやりにそう答え、そんなことより、と不満げな顔を王妃に向けた。
「ハインリヒ様とアンネマリー嬢の時間を合わせるのって、結構大変なんですよ? 衛兵とか人払いも面倒だし、ピッパ様のお相手も務めなきゃならないし」
「あら、それくらいやってあげてもいいじゃない」
「いや、アレを見せつけられたら、やってられなくなりますって」
ハインリヒとアンネマリーは、会っている間、見つめあっていることが多い。多いというか、ほとんどの時間がそうだ。話している時もそうでない時も、お互いの視線が片時もお互いを離さないでいる。
カイにしてみれば、じれったくて仕方がないのだが、ハインリヒの事情がそうさせているのだから如何ともし難い。自分だったらあの生殺しの状態は、絶対に耐えられないだろう。
「ねえ、イジドーラ様。ハインリヒ様がダメだった時、オレがアンネマリー嬢もらってもいい?」
リーゼロッテも可愛いと思うが、どちらかというとからかって遊びたい対象だ。その点、アンネマリーの豊満な体はなかなか魅力的だった。
「あら、ダメよ。ハインリヒがかわいそうじゃない」
「……今の状況も十分カワイソウですよ、イジドーラ様」
カイはあきれたようにイジドーラに返した。




