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「今日はおもしろいお客がやって来たわね。あの騎士はエーミール・グレーデンでしょう? あの堅物で有名な男が女性連れでこんなところにやってくるなんて。本当に驚きだわ」
鈴を転がすような声で笑う貴族街の聖女を前に、付き人の女性はかぶっていたフードを背中に落とした。
「あの赤毛のご令嬢はどなたでしょうか。あまりお見かけしない方でしたね」
「そうね……。でも、彼女、無知なる者だったわ。託宣は受けてはいないようだけれど、これだけ水鏡が反応するなんて……。ねえ、アルベルト。あなたは彼女が誰だか知っているのではなくて?」
背後の暗がりに声をかけると、奥に置かれたついたての陰から気配なくひとりの男が姿を現した。
「いえ。わたしも存じ上げませんね。立ち居振る舞いはそれなりに教育を受けたご令嬢のようでしたが……。赤毛のご令嬢は男爵家になら何人かいたと記憶しておりますので、そのうちのどなたかではないでしょうか」
この国の貴族は公爵を筆頭に、侯爵、伯爵、子爵、男爵、準男爵、その下に貴族ではないが騎士の地位がある。この国では領地を持つのは子爵位以上と決められていて、男爵位以下はそのほとんどが一代限りで王から賜るものだ。
ディートリヒ王は国へ貢献した者に、わりと気前よく爵位を与えるため、歴史上でいちばん男爵が多い王となっていた。
「そう。アルベルトも知らないなんて、お父様も男爵を増やしすぎなのではないかしら?」
「ディートリヒ王は賢王であらせられます。クリスティーナ様……貴女様こそ、このような場所で呪い師の真似事など、王女としての自覚が足りないのではありませんか?」
「その名はここでは出さないでちょうだい。それに呪いではないわ、宿世の占いよ」
少し煩わしそうに身に着けていたヴェールをはぎ取ると、その下に隠されていたプラチナブロンドの髪がさらりとこぼれた。付き人の女性は何も言わずに、ヴェールを取った占い師、クリスティーナ王女の髪を手櫛で整える。
「ありがとう、ヘッダ」
王女は付き人の女性に微笑むと、その女性、ヘッダにヴェールを手渡した。
「何が宿世の占いですか。ここは導かれた者のみがたどり着く場所……などと、王女として言っていて恥ずかしくはないのですか?」
「あら、この格好もなかなか様になっているでしょう? こういったものは形から入るべきとイジドーラお義母様もおっしゃっているもの。……本当なら市井におりて占いの館を開きたかったのに、アルベルトがどうしてもダメだと言うから、こうして貴族街で店をかまえてあげたのじゃない」
第一王女付きの従者であるアルベルトは、何を言っても響かないクリスティーナに深いため息をついた。
「一国の王女が平民相手に占いなど、お止めするのは当然です。まったく、心配するこちらの身もなってください。貴族相手でも、いつ王女と知れるかと冷や冷やしているというのに……。それに託宣の間から水鏡の一部を持ち出すなど、神殿に知れたら一体どうなることか」
「声だけでわたくしとわかる人間など、貴族にだって数えるほどしかいないじゃない。お父様の許しは得ているし、神殿にだって見つからなければどうということはないわ。だいたい、この水鏡は自らわたくしの手に落ちてきたのよ? それこそ龍の思し召しでしょう?」
細い指先で目の前の丸い水晶をなぞりながら、クリスティーナ王女はくすくすと笑った。
「それに……」
たのしそうに笑っていた王女の菫色の瞳がすっと細められる。
「せっかく高祖伯母様から受け継いだこの力だもの……。ハインリヒの託宣の相手を探すために、使わないなんてどうかしているわ」
「クリスティーナ様……お気持ちはお察しいたしますが、王子殿下のお相手は神殿と王家が手を尽くして探しております。今さら貴族の中から見つかるとは思えません」
「だから市井におりて占いをしたかったのに……」
「なんとおっしゃられましても、わたしの意見は変わりませんよ」
表情を変えず言うアルベルトに、クリスティーナは再びくすくすと笑った。
「ほんと、あなたってつまらない男ね。ねぇ、ヘッダもそう思うでしょう?」
「いえ。わたくしの口からは何とも……」
ヘッダが困ったように返答したところで、入口の扉のドアベルががららんと耳障りな音を立てた。
「あら? 今日は大入りね」
ヘッダは慣れた手つきで王女にヴェールをかぶせて整えると、自らもフードを目深にかぶりなおして入口へと急ぎ向かった。いつものように訪れた貴族を迎え入れる。
「ようこそおいでくださいました、貴族の旦那様」
長身の青年とハニーブロンドの令嬢が目に入る。ヘッダは見知った黒髪の青年貴族の顔を認めると、はっと息をのんだ。目深にかぶったフードの頭をさらにうつむかせ、恐る恐る隣に立つ令嬢へと目を向ける。令嬢は緑の瞳を瞬かせて、物珍しそうにあたりを見回している。
「……占いをご希望されるのは、そちらのお嬢様でよろしいですか?」
平静を装ったつもりのヘッダの声は、思った以上に低く、そして震えていた。許されることなら、今すぐにでもあの忌まわしき令嬢を殺してしまいたい。そんな思いがこみ上げてきて、ヘッダはその血の気の失せた唇をわななかせた。
「……ここは本当に占いの店なのか?」
無表情の青年貴族が声低く問う。令嬢をさりげなく自らの近くに引き寄せたのは、ヘッダの殺気に気づいたからだろう。令嬢は何も疑うことない無垢な瞳で、その腕の中に収まっている。
「ええ、ここは来た者の宿世を占う場所……」
不意に後ろから涼やかな声がかかる。ヴェールで顔を隠したクリスティーナが奥の部屋から姿を現した。ゆったりとした足取りでヘッダをかばうように前に立つ。
その姿を目にした青年貴族がその身をこわばらせるのが見えた。
「ようこそ、導かれし者のみがたどり着く占いの館へ。早速、あなたから占いましょうか? 貴族の旦那様」
ゆっくりとした口調で問う。はっと目を見開いた青年貴族は一度口を開きかけ、そのあとすぐにぐっと唇を引き結んだ。
「……いえ、わたしは遠慮させていただきます」
「あら、そう。まあ、あなたには必要のないことでしょうね」
彼の態度から察するに、自分の正体にはもう気づいているのだろう。そして、王女である自分が、なぜここでこのようなことをしているのかも。
くすくすと笑うクリスティーナを守るようにヘッダが半歩足を踏み出すと、クリスティーナはそれを片手でそっと制した。
「いいのよ、今は控えなさい。……大丈夫、まだ時は満ちてはいないわ。とりあえずあなたは今すぐ店をクローズにしてきて。これ以上、誰も入らぬように」
「……仰せのままに」
控えめに頭を下げて、ヘッダは客人の脇をすり抜けるように入口へと向かった。決して令嬢と目を合わさぬよう不自然なほどに顔をそむけていく。そうでもしないと、自分を抑える自信がヘッダにはなかった。
「では、そちらのお嬢様は奥へどうぞ。ご心配でしょうから、旦那様もご一緒に」
そう告げるとクリスティーナはひとり奥の部屋へと戻り、元いた占いの席へと優雅に腰かけた。しばらくすると青年に大事にエスコートされながら、蜂蜜色の髪をした令嬢が部屋の中にと歩を進めてきた。好奇心に満ちた瞳で部屋の中を見回している。
(――リーゼロッテ・ラウエンシュタイン。彼女こそが……)
その姿は、彼女の母であるマルグリットに瓜二つだ。いや、マルグリットの纏う力にも圧倒されたが、目の前にいる令嬢の清廉な緑の力は、クリスティーナの目にはより眩く映った。
「さあ、こちらにおかけになって?」
テーブルをはさんだ向かいの椅子を勧めると、リーゼロッテは戸惑ったように自分の手を離そうとしない隣の青年、ジークヴァルトの顔を見上げた。ジークヴァルトはクリスティーナの背後の闇に視線を向け、かすかに眉間にしわを寄せている。
(アルベルトの存在にも気づいているようね)
王太子である弟の護衛を務める身だ。そのくらいのことは訳はないのだろう。しかし、アルベルトに殺気がないのを察したのか、ジークヴァルトはリーゼロッテの背をそっと押した。
彼はそのまま部屋の入口へと身を寄せた。アルベルトよりもヘッダの動向の方が気になるのだろう。何しろリーゼロッテに向けられた彼女の殺気は、まぎれもなく本物だったのだから。
リーゼロッテが静かに目の前の椅子にゆっくりと腰を掛ける。王女である自分ですら見とれるほどの美しい立ち居振る舞いだ。
リーゼロッテは大きな緑の瞳を瞬かせ、興味深げにテーブルの中央に乗せられた水晶を覗き込んでいる。つるりとした球面にリーゼロッテの顔が上下逆に映しだされ、リーゼロッテはそれを不思議そうにじっと見つめた。
(水鏡が彼女に反応している……)




