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ふたつ名の令嬢と龍の託宣【なろう版】  作者: 古堂素央
第2章 氷の王子と消えた託宣

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10-4

 異形を(はら)うこともできない力なき者。それが無知なる者だ。そう思って、今までその存在など歯牙(しが)にもかけなかった。


 エラに近づいたのは、利用できると思ったからだ。マテアスやエマニュエルに取り込まれていくリーゼロッテを見ているのは、正直おもしろくなかった。エラをうまく使えば、彼女を通じてリーゼロッテを自分へ引き込めるかもしれない。すべてはジークヴァルトのためだ。


 確かにエラは侍女として有能だと認めよう。自分の立場をわきまえる分別(ふんべつ)を持っているし、他の貴族女性のように自分にしなだれかかって(こび)を売ってくることもない。


 だが、エラは他の使用人たちと何も変わりはしない。使用人などは、使えるか使えないか、ただそれだけが存在価値の有無を分ける。彼女はジークヴァルトの婚約者の侍女であり、エーミールにとってはそれ以上でもそれ以下でもなかった。


 しかし、エラに対して不可思議な感覚を覚えている自分に、エーミールはここのところずっと戸惑っていた。彼女に近づくとなぜだか心が穏やかになる。日々感じる苛立ちも、その時ばかりはすべてが些末(さまつ)なことに感じられた。


 ダーミッシュ伯爵の屋敷で、彼女と接する機会を自ら作りだそうと画策(かくさく)している自分に気づくと、エーミールはなぜそのようなことをするのかと己の行動を(いぶか)しんだ。結局はリーゼロッテを引き込むためだと無理矢理納得していたのだが。


(もしも、それすらも無知なる者の作用だとしたら……)


 彼らの存在は危険かもしれない。毒となるか薬となるか。きちんと見極めなくてはならないだろう。


 真剣な表情でエラの顔を見つめていると、エラが頬を赤らめながらもエーミールを気づかわし気な様子で見上げてきた。エラが差し出したハンカチは、いつの間にか椅子の上に落ちている。エーミールがエラの手を掴んだままでいる理由は、今どこにも存在しなかった。


(一体どうすればいいのだ……!)


 この手を離せば先ほどの吐き気が襲ってくる。一度楽になったこの体に、あの負荷が一度にのしかかってきたら、もう耐えきる自信はない。手を離したが最後、胃の中身をリバースすることは避けられそうになかった。

 しかし、エラの手を握ったままでいることも難しい。彼女は馬車に酔ったと思っているようだが、仮にそうだったとしてもこのように女性の手にすがるなど、何もできない無力な子供のようではないか。


 残された道は、ジークヴァルトに助けを求めるしかない。おそらくリーゼロッテの力が充満しているのは、ジークヴァルトの守りの力が馬車に張り巡らされているからだ。それを解いてもらいさえすれば、リーゼロッテの力は拡散されて、あの耐えがたい重圧からは解放されるはずだ。


(いや、駄目だ。ジークヴァルト様にそのようなことは頼めない)


 願い出ればジークヴァルトは否とは言わないだろう。彼は昔から弱い者にはためらいなくその手を差し伸べる。

 言われずともそうするのが当然というように、多くの者がジークヴァルトの手により救われるのを、エーミールは(かたわ)らでずっとみてきた。エーミールにしてみれば取るに足らないような者に対しても、ジークヴァルトはその立場と力を使うことを惜しむことはない。


 だからこそ、自分が手を差し伸べられる側になることは許されなかった。ジークヴァルトは、逆に近しい人間を甘やかすことはない。それは、その者の力量を認めているからに他ならなかった。

 弱音を吐かない限り、ジークヴァルトは自分の行動に口を出したりしない。まさに上に立つ者の器だと、エーミールは誰よりもジークヴァルトを崇拝(すうはい)していた。


 今のこの状況はすでにジークヴァルトにも知られてしまっているだろう。だが、何も言わないのは自分の力を認めてくれているからだ。そう思うと、エーミールは自ら弱音を吐くなど到底できなかった。


 エーミールは腹を決めて、エラから手を離した。目的地には程なく到着する。それまでは、己の矜持(きょうじ)にかけて耐えて見せよう。


「……ふ……ぐっ!」


 それでも漏れ出る声を、必死に押し殺した。椅子の座面に落ちていたハンカチを思わず握りしめる。小さいがエラの気配がする。ないよりましな程度だが、その感覚はエーミールの唯一の()(どころ)となった。


 何かを言いたげにしていたエラは、背筋を正してそのまま前に向き直った。ジークヴァルトに抱えられて恥ずかしそうにしているリーゼロッテを見て、そっと口元を(ほころ)ばせている。

 彼女がでしゃばりな女でなくてよかった。エーミールのプライドをくみ取って、何も言わずに引いたエラはよくできた侍女だと心から思う。


 気を(まぎ)らわすかのようにエーミールがそんなことを考えていると、前を向いて主人に視線を向けたままのエラが、静かにエーミールの手に自分のそれを重ねてきた。

 椅子に押し付けるように握りこまれた(こぶし)にそっと乗せられただけの手のひらは、一瞬にしてエーミールからすべての不快感を取り去った。


「な……っ!」


 エーミールの動揺をよそに、わずかな揺れに合わせてエラはさりげなく身を寄せる。視線をリーゼロッテから外さないままエラは小声でささやいた。


「エーミール様。お恥ずかしいのですが、わたし、先ほどの揺れのせいでまだ少し怖くて……もうしばらくこうしていていただけると、とても安心できるのですが……」


 エラはそう言いながらスカートのしわを直すふりをして、ふたりの重なった手のひらをそっとスカートの下に隠した。その自然な動きに、向かいに座るリーゼロッテたちは何も気づいていないようだ。


 エラの横顔はいたって冷静で、とても恐怖を引きずっているようには思えない。その様子に、エーミールは一瞬思考が飛んで頭が真っ白になった。

 エーミールのためではない。彼女はあくまで自分のために手を握らせてほしい、そう言っているのだ。それがわかると、じわじわと複雑な感情が()いてきた。


 嬉しいような情けないような、怒りにも羞恥(しゅうち)にも似たよくわからない思いが胸を占拠する。エーミールはエラの横顔を(にら)むように一瞥(いちべつ)した後、視線を窓の外に移して、握りこんでいた己の手のひらを上に返した。

 素早くエラの指をからめとり、握りなおす。一瞬驚いたように小さく身じろいだエラは、すぐに背筋を伸ばして正面に向き直った。


「……ありがとうございます」


 馬車の走る音にかき消されそうな小さな声に、そっぽを向いたままのエーミールは、ほんの少しだけ力を込めてエラの手を握り返した。

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